運命なき浮世に候へば、日ノ本一の兵に   作:後藤陸将

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おかしい……真田丸では一話で甲斐を脱出したのに、前置き長すぎてまだ新府から出てないぞ。


閑話 新府城脱出 甲信二八里 第二夜

 

 

 

 

 

天正一〇年三月三日卯の刻

 

甲斐新府城

 

 

 

 

 

 

 春が近づきつつあるとはいえまだまだ寒さが残る日の出前、城下町に立つ信繁は早朝の肌寒い空気に白い息を混ぜながら、新府城の追手門に設けられた大きな丸馬出を見つめていた。

 この丸馬出の普請には信繁も従事した。大きな古株を引っこ抜き(かいりき)、土中に埋まっていた大岩を取り除き(いわくだき)堅い地盤を掘り下げて(あなをほる)、溝を掘り、土塁を築いた日々が脳裏をよぎる。父、昌幸には作事に従事する人夫の供出を支配地域に通達し、さらにそうして集めた人夫の交通費、食事、宿泊の手配を手伝わされ、ようやく一通りの人夫動員の準備が終わったと思ったら自身も鬼種の血の恩恵である怪力を活かし土木工事に参加させられる始末。

 扱いが秘伝要員と変わらないのではないかと信繁は訝しんだ。

 しかも、表向きは信繁が自発的に御屋形様の苦境を想い、二男坊で初陣も経験していない自分でも御屋形様のためにできることをしたいと普請に志願したことになっている。

 跡継ぎである信幸が人質として甲府を離れるわけにはいかないことや、真田家の新府築城に係る労役負担を信繁の馬力任せに解決したかったという父昌幸の事情は信繁にも理解できる。

 また、昌幸は二男坊の信繁が自発的に普請に参加したことを広めることで御屋形様に真田の貢献と忠誠心を示すと同時に、新府築城に否定的な重臣たちにも面子を保つために普請に最低限の労力を供出せざるを得ないよう誘導したのだ。

 なお、事前の相談は一切なかった。こういう話で通すからよろしくという決定事項が文で渡されただけだった。

 俺はコンピュータ付きブルドーザーじゃねぇんだぞ!!と信繁も叫びたかったが、どうせ誰にも通じないことは分かっていたので我が子を確信犯で振り回している父への恨み言と共に胸の内で叫ぶだけに留めた。そのおかげで築城や作事については当時の武田の最先端の技術を実地で学べたので無駄ではなかったのだが、それにしてももう少し労働環境を配慮してくれてもよかったのではないかと信繁は思うのだ。

 ただ、それらはもはや全て過去の話だ。信繁も汗をかきながら築城の一助を担った新府の城は朝日が昇ると共に火がかけられ、歴史には幻の城として記録されることになるだろう。

 しかし、信繁が生きたかつての時代――いずれ至る平成の世にも、新府城の丸馬出はほぼ原形を留めて残っている。歴史を変えることが許されない身でありながらも、この丸馬出は――かつての歴史よりもより深く大きな堀と高い土塁を備えたこの丸馬出は、自分が生きた証の一つとして後世まで残っていくのかもしれない。

 そんなことを思いながら、信繁はじっと佇んでいた。

「源二郎様!!」

 信繁に従叔父の矢沢頼幸が声をかけた。

「まもなく出立いたします!急ぎこちらへ!」

 信繁は頼幸の呼びかけに応じ、真田の郎党が集まっている場所に足を向けた。

 昨晩、信幸が勝頼に呼び出されて人質を免ずると伝えられたことは、夜のうちに新府に残る真田の郎党たちに周知させられている。

 それを受け、新府城の城下町で人質として過ごしていた真田一族の人々が城下町の一角に集まっていた。

 既に集まった人々は旅支度を整え、いつでも出立できる恰好をしている。

 信繁は、周囲を何となく見やる。

 二か月ほど前には甲府(古府)から韮崎(新府)への移転作業や新府城の普請で人にあふれて賑わっていた城下も、今は閑散としていた。

 甲府(古府)から移り住んだ住人たちは、木曽義昌が裏切り織田が西から攻めてくるという噂が流れた途端、我先にと逃げ出して山野へと行方をくらましたのだ。

 駐屯していた兵たちも例外ではなく、もはや武田家に忠義立てする者はほとんど残っていなかった。

 しかし、韮崎(新府)の住民や武田の兵のように逃げることができた人々はまだマシだった。新府城に人質として集められていた甲斐・信濃の国衆の妻子や老母などは武田を裏切った報復として、見せしめのために処刑される者も少なくなかったからだ。

 真田の一族は、勝頼からその忠節を認められ、人質を免ぜられて本拠地へ帰還する許可をもらえただけ幸運であったといえるだろう。とはいえ、真田家が保有していたただ一頭のみの馬を新府を脱出する勝頼夫人のための夫馬として供出させられ、この場に集まった二〇人は老いも若きも全員徒歩での逃避行を余儀なくされていた。

 なお、鬼種の血ゆずりの怪力を有する信繁は急遽馬を取り上げられたあおりを受けて、馬が背負うはずだった荷物全てを背負子で運ぶこととなった。尾瀬の歩荷でもこんなに背負わねぇぞという量の荷物を背負った信繁の姿はかなり遠くから見ても分かるくらいに目立つ。当然、道中で野伏や織田軍と戦闘となった時には主戦力として期待されているため、約一三貫(五〇kg)の鎧具足を身に着けたうえでの荷物持ちである。

 信繁は兄も自分の扱いが大分荒いと思うものの、今この状況では仕方のないことであることも理解していた。

 自分たちが生きて真田の領地にたどり着くという史実を知っているからこそ信繁は比較的冷静に事態を受け入れられているだけで、そのような未来を知る由もない兄や郎党が生き残るためになりふり構わず必死になるのは無理もないことだとも思っていた。

「源二郎」

 信繁が達観したような気持ちでいると、後ろめたいことでもあるのか歯切れの悪い調子で信幸が声をかけてきた。

 昨晩、勝頼から人質を免ずると伝えられてから、脱出の準備のために駆けずり回って一睡もしていなかったからだろうか。あるいは、女子供を含めた一族を率いて野盗や織田軍が闊歩する敵地をつっきることに対することへの重圧からか、その顔色はお世辞にもいいとは言えない。

「まもなく出立する。準備はよいな?」

「問題ありません。いつでも出られます」

 信繁の返事に、信幸は小さくうなずいた。

「ところで兄上、出立の支度で慌ただしくて今まで聞きそびれていましたが」

「む……?」

「何故、小県の真田の郷ではなく、上州の岩櫃城に向かわれるのですか?」

 信繁は率直に尋ねた。

 かつて学んだ歴史でも真田の一族は複数の資料から推察するに、武田の滅亡間際に新府城で人質を免ぜられ、真田の勢力圏へと退去することとなったようである。

 しかしながら、その行き先は真田の郷だったり岩櫃城だったりと資料によってまちまちで、現代でも専門家の意見が分かれている。

 生前の知識からそのことについて把握していた信繁は、せっかくなので岩櫃城に向かうことになった経緯を直接信幸に聞いておこうと思い立ったのだ。

「お前は、真田の郷に向かうべきだと考えているのか?」

 質問に対して質問で返してきた信幸に対して信繁は、首を左右に振った。

「いいえ。兄上が岩櫃に行くと決めたなら、それに従うだけです。ですが、真田の郷ではなく岩櫃を選んだ理由は知っておきたいと思っています」

 信繁はさらに続けた。

「岩櫃への道は、真田の郷に向かう道よりも長く、険しいものになります。疲れがたまり、足腰の痛みに耐えている時に、何故もっと楽な真田の郷への道を選ばなかったのかと不満を持つ者もでるやもしれませぬ。その時に兄上のお考えを説明し、納得させる役割が某にもあります」

「……そうだな」

 信幸は信繁の返答に静かに頷くと、少しだけ逡巡した後に信繁と向き合った。

「まず、父上は真田の郷ではなく、御屋形様をお迎えするため岩櫃城に向かっている。御屋形様が岩殿へ向かわれたことを知らぬ以上、おそらく兵も米も金銀も、岩櫃での籠城に備えて既に集め始めているはずだ。真田の郷にはもう織田に対抗するだけの兵も物資も残っていない」

「もしも織田が真田の郷に攻め寄せてくれば、岩櫃からの援軍が駆け付けるまで持たぬと?」

「織田の動きはこちらの想像以上に早かった。織田が兵をあげてからわずかひと月で武田のお家は滅びの淵に立たされたのだぞ。その勢いのまま信濃に攻め寄せれば、いつ小県にもその手が伸びるか分からぬ。真田の郷には兵もいなければ、要害堅固な城もない。あの高遠城ですら一日も持たなかったのだ。真田の郷についてすぐに織田の襲撃を受けたら、一族郎党全滅も覚悟せねばなるまいて」

 信幸の口調はとても堅い。

「俺の役割は、この新府にいる郎党を守り、真田の家を守ることだ。確かに、ばば様や女子供の足を考えれば、岩櫃への道は辛く険しいものとなり、長い道中では野盗に襲われる危険性も高くなる。だが、織田の軍勢とは違い、険しい道と野盗程度ならば俺たちの手で打ち払うこともできる。だから、多少時間と手間がかかろうと安全な場所へ向かうことを優先すべきだと俺は判断した」

「道中、織田軍と鉢合わせる危険性はありませぬか」

「可能性はあるだろう。しかし、木曽が織田に寝返り、既に高遠城も落ちている。信濃から甲斐に至る進軍路の安全が確保されている以上、信濃に残る武田の勢力圏の制圧よりも、織田は甲斐へ速やかに入り、御屋形様の御首級を挙げる方に注力すると俺は考えている。もちろん、道中の警戒は怠るつもりはない。織田の軍勢との交戦は可能な限り回避する。だが、どうしても交戦が避けられないときは」

「それ以上は言わないでください、兄上」

 もしもの時は、信繁に殿を任せ、皆を逃がす。

 信幸がそれを口にする前、信繁はそれを遮るように声を発した。

「それは、私が願い出なければならないのです」

 もしも信幸が抱いていた危惧が現実となった場合、信幸が信繁に殿を命じるということは、武勇に秀で、跡継ぎの座を脅かしかねない弟を敢えて囮にして自分だけ生き延びようとしたという評価に繋がってしまう可能性もある。

 そうなれば、信幸は真田の跡継ぎとしての資質を疑われかねない。それは、真田全体にとって有益ではないし、何よりもそれを命じることは信幸の心に澱を積もらせてしまうだろう。

 信繁は、常に他者を慮る一方で自分を律し、誰よりも自分自身に厳しく、そして責任感の強い兄が好きだった。歴史上の人物としての真田信之ではなく、兄である源三郎信幸を誰よりも尊敬していた。

 そんな兄には決して心に暗い澱を残すようなことを口にさせたくなかったのだ。

「お前は強いな、源二郎」

 信幸は困ったような笑みを浮かべ、ぽつりとこぼした。

「俺には、真田の郷で織田の軍勢相手に立ち回って、父上が岩櫃から援軍を連れてくるまで皆を守ろうとなど考えられん。だから、皆にはより険しい道を歩くことを強いることしかできなかった。……父上であれば、織田の軍勢を翻弄して真田の力を示し、名を馳せてから織田に下るなり、上杉や北条と手を結ぶなり、あるいは俺程度では到底思いつかぬ策を以て一族郎党をまとめて窮地を救えるかもしれん。しかし、俺はそんな真似は到底できぬ。博打は打てぬし、起死回生の一手などというものも浮かばん。俺にできるのは最善でなくとも間違いのない選択をするということくらいだ。凡庸な男なのだ、俺は」

「ですが、兄上は間違えません」

 信繁は兄も自分の扱いが大分荒いと思うものの、今この状況では仕方のないことであることも理解していた。

「間違えない。面子や意地ではなく、間違っていない方を選ぶ。それは、簡単なことではないでしょう。少なくとも、誰もができるわけではない。真田のことを第一に考えて最良の判断をし続ける兄上だからこそ、私も、郎党の皆も次期棟梁として認めているのです」

「お前は俺を買い被りすぎだ」

 信幸は照れ隠しなのか、頭を軽く搔きながら続けた。

「頼むぞ。荷運びも戦いも、お前に頼るところが大きい。……まさか、我が家に一頭しかおらぬ馬を強引に召し上げられるとは思わなんだ」

「やむを得ますまい。お方様(北条夫人)を乗せるためだと言われれば、断れませぬ」

 信幸は他の者から見えないように小さくため息を吐いた。

「東国に覇を唱えた武田のお家が、馬一頭を用立てることができずに我らから徴発するほどに困窮するとは……ここまで追い詰められているとまでは思いもしなかった」

 信繁はこの後、武田家に――いや、勝頼に待ち受ける過酷な運命を知っている。

 新府城を焼き払い、千に満たない軍勢を率いて捲土重来を期して郡内の小山田信茂が有する岩殿城へと向かう勝頼一行だったが、軍勢からは脱走兵が相次ぎ、途中で立ち寄った村でも武田家に手を貸すことで織田軍から罰を課されるのではないかと恐れた領民たちが家に火をかけて逃散する姿を目の当たりにする。

 そして、苦難を重ねながら岩殿城へ向かう勝頼一行だったが、その岩殿城からは土壇場になって受け入れを拒絶され、行き場を失った勝頼一行は天目山に向かい、そこで滝川一益の軍勢に追い詰められた末に全滅という最期を迎えることとなる。

 勝頼は自害したのか、最期まで戦った末に討ち取られたのかは諸説あるところだが、どちらにせよ史実通りであれば家臣にも領民にも天にも見放された哀れな最期を迎えたことだけは間違いがない。

「足軽にも、住人にも、荷物を運ぶ小者にも、誰の目にも明らかになった、ということでしょう」

 何が、とは信繁は口にしなかった。主家の――武田家の滅びが誰の目にも明らかになったなどと堂々と口にすることは、いくら事実とはいえ亡き信玄公に対して今でも並々ならぬ敬意を抱く父昌幸の心を思うと憚られたのである。

 信幸もそれが分かっているからこそ、信繁に対して聞き返すことなく頭をあげ、視線を新府城に向けた。

「夢の跡だな……」

 誰の、とは信幸も口にしなかった。

 信繁は、兄の語り口調がどこかで聞いたことのあるようなないような、そんな違和感を感じて内心で首をひねった。

 そんな弟の様子に気付くこともなく、信幸は出立を待つ真田の郎党たちの方へ顔を向け、大きく声を張り上げた。

「これより出立する!!先に言っておくが、ここからはいつ何どき敵に襲われるか分からぬ道行きとなる故、気を緩めるな!! よいな!?」

 応!!!と郎党たちから威勢のいい声が返ってきたことに満足そうに頷いた兄は、今度は弟の方に向き直ってその耳元に向けて囁くように言った。

「全ては、真田のためじゃ。一人でも多くの郎党が真田の地を踏めるならば、手段は択ばぬ。俺に遠慮するな」

 その言葉の意味が分からないほど信繁は察しが悪くはない。

 人質として甲府にて住まう必要のあった兄の信幸と違い、信繁は長篠の戦いの後、父昌幸が真田家の家督を継いでからは真田の本領に移り、そこで過ごした。

 信繁としては、甲府にいるよりも真田の郷の方が蛋白質を摂取するのに適しており、より強靭な肉体を育むことができるのではないかという計算があったからだ。

 そして、畑を荒らしたり領民に危害を加える危険のあった熊や猪、鹿に雀蜂と多種多様な獲物を狩り、積極的に蛋白質を摂取することで鬼種の血と相まって強靭な肉体と人間離れした膂力を手に入れた信繁は、そのうちその武力を期待されて野盗の殲滅や真田領に隣接する村々との小競り合いにも駆り出されるようになった。

 また、溜池や農業用水路の掘削、新田の開発等にも膂力を活かして大いに貢献した信繁は、真田の郷では頼りになる存在として次期真田家当主である信幸以上の支持を集めていた。

 元々、長篠の戦いで戦死した真田家の先代当主であり昌幸の兄であった真田信綱が武田家中でも随一の剛勇の将として名を馳せていたこともあり、その家臣団も信綱を彷彿、あるいは上回る武勇を期待される信繁に対し非常に好意的であった。

 暗に、次期頭首には際立った武の才を持つ信繁をとの声すらあるほどだ。

 そんな中で、真田一族の小県郡へ向けた逃避行の最中に信繁が大きな働きを果たせば、次期当主に信繁をという声が更に大きくなり、兄である信幸の立場は苦しいものになるだろう。

 この逃避行では、信幸が中心となって戦局を切り開き、次期当主として相応しい姿を見せなければならない。そのためにも、ここで必要以上に活躍してしまってはまずいのではないかという考えは、信繁の頭の片隅にあった。

 だが、信幸はそのような信繁の懸念を一蹴するかのように不敵な笑みを浮かべて言った。

「侮るな。お前がどれだけの活躍をしようが、俺はお前以上に真田の当主に相応しいということを証明し続けるまでのこと。お前が手を抜かなければ当主になれないと怖気づく俺ではないぞ」

 そう言うと、信幸は踵を返すようにして出立する一族の先頭に立ち、号令をかけた。

 その様子を後ろから見ていた信繁は思わず口元がほころぶのを感じた。

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