遠坂家の開祖、遠坂永人は二百年前、ふらりと立ち寄った爺さんに弟子にされるも、全く目がないと断定されたという悲劇的伝説があるのだよ。
以来その血を継ぐもの皆、いざという時に限て痛恨のうっかりをしてしまう呪い的血筋!!」
時臣のステッキから放たれた炎は、まるで獲物を締め付ける蛇のように龍之介に纏わりついた。
床や天井を焦がすことなく正確にその炎は龍之介だけを狙っていた。
龍之介を焼いている炎はありふれた術式であり、遠坂家秘伝の術でも、習得に長い年月を要するような高度な術でもない。しかし、その術の精確性、効率性は、まともな魔術の薫陶を受けた者であれば感嘆の念を抱かずにはいられないほどに洗練されていた。
そもそも、遠坂時臣は、彼の娘のような稀有な才能に恵まれた魔術師ではない。
二〇世紀の初頭になって現れた
しかし、遠坂時臣は一廉の魔術師となった。
一族が積み重ねた歴史が浅いのであれば、学びを怠らずに成果を積み重ねればいい。
魔術師としての素質に乏しいのであれば、才能溢れる他者に努力で負けることは許されない。
自らが秀でた者ではないことを知るが故に、時臣は己の研鑽には決して妥協することはなかった。
『常に余裕を持って優雅たれ』
ただ、愚直なまでに家訓を体現することと、魔道の道を歩き続けることだけを己に課した男。それが、遠坂時臣という男だ。
そのような男の魔術を評する時、『模範的』という評価以外はありえないだろう。
術式に独自性など欠片もなく、その出力とて人間兵器と称される傑物たちのそれに遠く及ばない。特筆して評価すべき創意工夫などないのだから。
しかし、それは一〇〇点満点のテストで減点するところのない一〇〇点の解答であった。
これこそ、遠坂家五代目継承者たる遠坂時臣という魔術師の真骨頂。
弛まぬ研鑽と繰り返した鍛錬をもって到達した、遠坂時臣の魔術なのだ。
炎に包まれた龍之介は、気管どころか肺まで焼かれ、呼吸すらおぼつかない。両の脚で立ってはいるものの、火を消さんと身体中を掻きむしるその姿は、地獄の業火に焼かれて苦しむ罪人のそれであった。
「終わりだ」
声にならない掠れた悲鳴をあげ、苦しみ悶える龍之介を、時臣は感情を映さぬ翡翠の如き澄んだ瞳で見つめている。当然ながら、そこに憐憫など欠片もない。すぐ隣で伏したままのキャスターに注意を払いつつも、時臣はゴミを屑籠に捨てるような自然な態度で龍之介の命を絶とうとしていた。
サーヴァントを制しつつ、マスターを優先して確実に始末する。
自身がまだサーヴァントを召喚していないという現状を鑑みるに、時臣は最良の判断をしていると言えるだろう。
しかし、時臣はあまりにも基本に忠実すぎた。自身の価値観に重きを置きすぎたとも言える。
それを油断というのは語弊があるかもしれない。時臣は少なくとも、自身の考えうる限りで最良の行動を取った。その行動の結末を知らなければ、何度同じ状況を繰り返しても、同じ行動を取っただろう。
結果として、時臣は彼の意識の埒外からの攻撃を防ぐことができなかった。
鮮血が舞う。
皮膚が貫かれ、血管が破れたことで血液が噴き出したのだ。傷口からあふれた血液は飛沫となって飛び散った。
己の腹に突如奔った激痛の意味も、空間に舞う血飛沫の理由も、時臣は瞬時に理解できた。
時臣の腹部は、目の前で炎に捲かれ断末魔の悲鳴をあげていた青年の腹から勢いよく飛び出した毒々しい色をした蛸のような触手によって貫かれたのである。さらに、その触手には蛸の足に並ぶ吸盤のように、無数の牙が生えそろっていた。女性の腕ほどの太さの触手が時臣の腹部を貫通し、さらに触手に生えた牙は腸を貫通して内部から抉る。
突如激痛に襲われた時臣は、声こそあげなかったが常日頃顔に張り付けている余裕のある表情を保つことはできず、顔を顰めた。
時臣は、自身の失策を理解していた。
元々、時臣には生命を賭した実戦の経験は乏しい。
時計塔では魔術の研鑽の一環として、魔術師同士の決闘を推奨してはいるものの、他者に自身の魔術を晒すリスクのある決闘を軽率に行う魔術師など多くなかった。貴重な触媒や資料の奪い合いとなれば話は別であるが、そのような機会は魔術師であってもそうそう何度もあるものではない。
また、時臣が想定していた自身が戦うであろう相手は、同じ魔術師、あるいはその使い魔であった。使い魔の一種といえど、格が違うサーヴァントを相手にすることはほとんど想定してはいなかった。
敵の行動を自身の常識に当てはめて予想することしかできなかったことが、時臣の失敗であった。
ついさきほども、自身の一撃によって昏倒したサーヴァントへの警戒を解いてはいなかった。しかし、魔術師でもない、魔術回路をたまたま持っていただけの一般人に対して時臣はサーヴァントや正規のマスターに向けるだけの警戒をしていたかと問われれば、否である。魔術回路を持つだけの人間が脅威になることなど、ありえないと高を括っていた。
また、理性の期待できないバーサーカーのサーヴァントは別として、狂化スキルを持たないクラスのサーヴァントがこの状況で自身のマスター諸共に敵を攻撃するという発想が時臣にはなかった。
サーヴァントがマスターを裏切ることは過去の聖杯戦争でも前例がなかったわけではない。サーヴァントの裏切りを防止するという側面が令呪にもあるのだから。しかし、裏切りはある程度状況が整った状態で、裏切る相手との交渉の余地がある状況下で行われるものだ。
召喚された直後に、サーヴァントが自身を現世に留める楔であり魔力供給源たるマスターを殺害すれば、サーヴァントはそう時間をおかずに現界し続けるだけの魔力を失い、脱落することとなる。聖杯を求めて召喚に応じたサーヴァントがそのような自殺行為をするはずがないという先入観が時臣にはあった。
しかし、ここにはあの魔術回路を持っているだけの一般人とは比べ物にならないほどにマスターとしての素養を持った少女――凛がいた。
キャスターからしてみれば、自身のマスターを始末した後に凛を洗脳して傀儡とし、マスターに仕立て上げるのは造作もないことだろう。
召喚したばかりでろくにコミュニケーションもとっていないマスターを切り捨てることなど、正当な英雄を除けば特に躊躇するものではない。一般人をマスターとし続けるよりも、魔力供給に優れて操りやすい幼子に鞍替えした方が遥かに利がある。その可能性を、時臣は完全に失念していた。
だからこそ、この状況でキャスターがマスター諸共に時臣の命を狙ってくるという行動に対処しきれなかった。キャスターは、自身のマスターの血肉を媒介として、あの怪物を召喚したのだ。当然、炎に包まれながら体内を食い破られたキャスターのマスターは絶命している。
しかし、その体内を食い破って現れた異形の触手は時臣の腹部を貫通。腹腔内からの大量出血を引き起こした。腸が体内から飛び出していないのが、不幸中の幸いといったところだろう。
さらに、心臓を狙った二本目の触手が迫るが、時臣は自身の腹を貫いた触手もろともに焼き払って対処する。腹部に風穴を開けられているにも関わらず、その技巧にはいささかの曇りはない。時臣の炎は触手と傷口のみを焼くことでダメージを最小にとどめていた。
魔術師は魔術刻印によって生かされるため、腹部に風穴があいたところで常人のようにすぐさま病院に搬送しなければ生命にかかわるということはない。
とはいえ、時臣にも痛覚は存在するし、戦闘中に己の感覚を麻痺させるような迂闊な真似はしない。常人よりは死ににくいというだけで味わう苦痛は常人と大差がないのだ。激痛に襲われながらも普段と全く変わらない精度で魔術を行使する時臣の精神力はとても強靭であったと言えるだろう。
「思いあがりも甚だしい……」
よろよろと立ち上がったキャスター。その顔に浮かぶ怒りは、現代の魔術師に意表を突かれたことへの屈辱によるものか、はたまた味あわされた苦痛への反発か。
「愚かにも我が崇高なる願いを妨げ、聖杯を狙うことだけでも許しがたい」
キャスターの握る魔術書に灯る光が強さを増していく。
「誅を下す?悪徳の権化たるヒトが、傲慢にも正義の裁きを騙ると!!」
キャスターの周囲から次々と異形の怪物が姿を現す。さきほど時臣が砕いたはずの異形の残骸からも、無数の怪物が再生した。
「烏滸がましい……その思い上がりの対価を、苦痛と嘆きをもって支払いなさい!!」
四方八方から殺到する怪物の触手。その威力は先ほど時臣が身をもって味わったばかりだ。時臣は防御陣を展開し、自身を刺し貫かんとする触手の群れを迎え撃つ。
「遠坂の魔術師を侮るな!!」
触手の狙いは、自身だけではないことなど時臣も察していた。凛とその友人を狙わんとする触手にも対応し、同時に無数の防御陣を一瞬の内に連続して展開する。
防御陣に触れた触手は瞬く間に燃え上がり、焼けた筋肉の収縮によって茹蛸のように足を丸めて崩れ落ちていく。時臣の展開した防御陣は触手の侵入を一切許さなかった。
しかし、時臣の表情は険しいままだ。その顔には脂汗が滲み、苦痛に耐えるかのように眉間に皺が寄っている。
「ほらほら、雛鳥たちから目を離してはいけませんよ」
さらに、触手の密度が高くなる。もはや、触手の槍衾が四方八方から迫ってきている状況だ。攻撃してきた相手にカウンターを浴びせて焼き尽くす攻性防御の性質を有する防御陣は、休まる暇もなく防御陣に触れた触手を焼き続けている。
触手一本の力は大したことはなくとも、こうも無数の触手が途切れることなく全面から攻め寄せてくれば、それに対処する時臣も相応の魔力の消耗を余儀なくされる。
見誤っていた。
時臣は自身の過ちを認めざるを得なかった。
マスターを失ったサーヴァントはそう長く現界し続けることはできない。宝具を使って魔力を消耗すれば、さらに消滅までの時間は短くなるはずだった。時臣には、この怪物の攻勢を耐えきることができれば先に魔力を使い果たして消滅するのはキャスターであると予想していた。それが、時臣の勝算であった。
しかし、キャスターのサーヴァントには全く消滅する気配がない。あれだけの数の使い魔を召喚し、使役していてなおキャスターの魔力には余裕がある。
時臣にもこの召喚術の絡繰は予想がついていた。
代行者や封印指定執行者に程遠い時臣の体術でも対抗できる程度の戦闘技術しかキャスターは有していない。また、攻撃は召喚した怪物による襲撃の一辺倒。未だマスターではない時臣はキャスターのステータスを読み取ることはできないが、十中八九、戦闘は宝具に依存するタイプのサーヴァントだと判断していた。
先ほどから禍々しい光を発し続けているキャスターの持つ本。それが、あのキャスターの宝具なのだ。おそらくは、あの本自体があの異形の怪物を異界より召喚しており、召喚に際して必要となる魔力もあの本が都合している。キャスターはただ、スイッチのオン/オフと標的の設定をしているに過ぎない。
現界を続ける魔力消費以外には特に消耗のないキャスターと、重傷を負いながらも攻性防御を全面に展開し続けている時臣。先に力尽きる可能性が高いのは、現状では時臣だった。
召喚された直後でマスターからの魔力供給に不安があるキャスター相手であれば、勝算はあると判断したのは早計だったと言わざるを得ない。昏倒させた際に、すぐにこの家を脱出して綺礼の援軍を乞うべきだった。
現状、時臣はこの防御陣を展開するだけで手一杯だ。サーヴァントを葬るだけの火力を、この防御陣を展開したまま相手に察知される前に発動するだけの余力は残っていなかった。
時臣に現状を打破する一手がない以上、外からの援軍に期待するほかない。キャスターの召喚自体は教会にいる監督役の璃正神父も把握しているはず。キャスターの召喚を璃正から知らされた綺礼がアサシンを差し向けて、異変を察知する可能性はある。
いつ来るかも分からない援軍を待ち続ける。
それまでは、一歩も下がらずに娘たちを守り抜いてみせよう。
そう、時臣が覚悟した時だった。
「――素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ」
彼の背後から、たどたどしくも、揺るぎない決意を感じさせる声がしたのは。
次話で、幸村召喚まで書きます。
お待たせして申し訳ありませんでした。
次話の投稿は、明日同時刻を予定しております。