松平忠直にとって、この戦いは死戦と決まっていた。
鉄砲の轟音と、男たちの雄たけびと、血と何かが焦げたような臭いが支配する戦場にあって、忠直は仁王の如き形相を戦場に向けている。まるで、この目に映るすべてに安らぎはなく、叩き潰すべき仇敵だと言わんばかりの怒りがそこにはあふれていた。
今にも刀をもって戦場に駆け出さずにはいられないのだろう。忠直の脚は何度も馬の腹をけり上げようと構えては、静かに下ろすを繰り返していた。
元々、忠直は感情のコントロールが不得手である。家臣たちもその激昂しやすい性格を知っているため、普段から感情が爆発する前に忠直を宥めることが多かった。
しかし、今は誰も忠直の怒りを鎮めようとはしていない。それどころか、本来であれば忠直を宥めるべき周囲のものたちも、鬼気迫る表情を浮かべていた。
――徳川に何度も煮え湯を飲ませた真田を討つのは俺だ。人を見る目のない大御所様に対する意趣返しに真田の首以上のものはない。
そもそも、本来であれば松平忠直率いる越前勢の任されていた場所はもっと後方のはずであった。家康は天王寺口の先鋒は本多忠朝と決めていたため、茶臼山の正面、敵軍への一番槍を狙える位置に布陣しているはずがないのだ。
実は、徳川方の天王寺口の先鋒は当初藤堂高虎の予定であった。しかし、大坂城に至る道中でも豊臣方と交戦し少なくない死傷者を出した高虎は、自軍の現状を鑑みて先鋒を辞退する旨を家康に伝えていた。家康も事情を理解して高虎の辞退を受け入れる。
最終的には天王寺口の先鋒大将にかつての徳川四天王の一人、本多忠勝の二男本多忠朝を、岡山口の先鋒大将に秀忠の娘婿でもある前田利常を充てるという決定を下した。
家格の釣り合いだけで言うのであれば、岡山口の先鋒に加賀一〇〇万石の大大名にして将軍の娘婿である前田勢がつくのなら、天王寺口の先鋒にふさわしいのは越前六七万石の大名にして同じく将軍の娘婿であり、家康の実の孫でもある松平忠直勢である。
家康の決定を不服とした忠直は、すぐさま家臣の本多富正・本多成重の二名を家康の下に遣わし、先鋒を務めたいと願い出たが、それに対する家康の返答は冷ややかなものであった。
『あやつは前年の合戦で真田丸に攻め入り無様に敗退していたなぁ』
本多富正の話では、家康は油虫でも見るかのような視線で二人を見下していたという。
『お主らは
叱責や詰るというよりもただの侮蔑としか言いようのない返答であったが、本多らは何も言い返すことができず、ただそれを忠直に復命することしかできなかった。
家康の返答を聞いた忠直は怒り狂った。元々、家康が父である結城秀康を嫌っており、その息子である自身を嫌っていることは知っている。だが、父の武功に対しては嫌っていながらも評価はしていたにもかかわらず、己に対してはその能力まで偏見をもって不当に低くみられることは耐えられなかった。
しかし、怒り狂ったのは彼だけではない。腰抜け呼ばわりされた家臣たちも怒り心頭に発していたのである。
家臣たちは口々に訴えた。
「もはや、我らを腰抜け等と侮蔑するものたちを黙らせるほどの武功をあげるほかありませぬ。これほどの恥辱を受け、どうして黙っていられましょう」
「このまま臆病者、腰抜けと蔑まれ続けるぐらいであれば、腹を掻っ捌いた方がマシです。どうせ死ぬ覚悟であるのならば、明日の戦で躯を晒し、それをもって越前兵は死をも恐れぬ精強な兵ぞろいであると天下に知らしめてやりましょうぞ」
「事此処に至っては、抜け駆けもやむを得ないことかと」
忠直は家臣たちの進言を受け入れ、抜け駆けを命じた。
「いよいよですな」
重臣、吉田修理好寛の言葉に忠直は頷いた。
「もはや惜しむ命もない。真田めの首までたどり着くだけよ」
越前松平勢は、茶臼山を下った真田隊と交戦していた。
前線では互いに鉄砲隊を配置していたため、発砲によって生じた大量の黒煙が視界を遮っている。ここまで視界が悪ければ、流石に鉄砲による効果は望めない。
鉄砲隊による射撃戦の次は、双方の槍隊の突撃。それが戦の典型的な流れである。
忠直自身も立ったまま湯づけをかっこみ、大将である自らが前線に立つ覚悟を決めていた。
忠直の面前には、穂先を正面に向けて整然と並ぶ槍隊。
「我らの道は二つのみ!!臆病者の誹りを生涯浴び続けながら後退するか、武功を手土産に閻魔の庁へ向かうか!!」
忠直は声を張り上げた。
「閻魔庁への旅路、ついてきたいものだけがついてこい!!突撃じゃあ!!」
戦意に満ちた槍隊は、その腹の底から吐き出した雄たけびをもって忠直の意思に応えた。
穂先をそろえながら駆け出した軍勢に、恐れはない。未だに戦場に漂い続ける焦げた臭いのする黒い煙を抜けた穂先が陽に反射して、その戦意を映すかのごとく鋭く煌めいた。
大地をどよもす突進の最中、槍を構えた勇者たちはその目につつじの園と見間違うほどの赤に身を染めた軍勢だけを映していた。
「ゆけぇ!!突けぇ!!」
忠直の号令を受けた槍隊は、こちらと同様に前進してくる赤備えの槍隊めがけてさらに加速する。
敵をその槍で突き殺すか、あるいは槍を上方から振り下ろして兜ごと頭蓋骨を叩き割る。それだけを見据えて男たちは駆けていた。
――見るがいい、大御所様。これこそが我が手勢、その武勇は天下に名を示した真田にも負けはせぬ立派な益荒男どもよ。
忠直は、恐れることなく敵勢に突っ込んでいく手勢の勇猛さに震えた。
これこそが我が軍勢、死をも恐れぬ精強な兵たち。
自分たちは今、その目的も進むべき道もすべてが一致していると忠直は理解した。まさに、この軍勢こそが己を映しているのだと。
先ほどちらりと見た本多勢と小笠原勢の姿を思い出して比較した忠直は蔑むような笑みを浮かべた。
毛利勢に蹴散らされ、短時間で壊走した本多隊と、それを救援しようとしたものの呆気なく倒されて結果的に徳川方の混乱を一層助長させた小笠原勢の情けない姿。自分たちから名誉ある先鋒を奪っておきながらあの醜態。
忠直は家康が自分の代わりにおいた先鋒が短時間で総崩れとなる様を見て溜飲を下げた。そして、彼らの無様な敗走を見ていたからこそ、自分たちの軍勢に対してより一層の自信を抱いた。あの連中に比べて、我が軍勢がいかに戦意に満ち、統制がとれていることかと。
鬨を放ちながら突貫する己の軍勢を見た忠直は、勇猛果敢な軍勢に突っ込まれて動揺し、挙句の果てに赤備えの具足を泥と血で汚しながら壊走して大坂城へと逃げ帰る真田勢を幻視する。
この軍勢であれば負けはしない。この華々しい勝利をもって大御所は私の武勇と己の色眼鏡の存在を認めることだろうと確信した。
しかし、その陶酔に近い自信と己の生命を二の次にするほどの手柄への執着は一瞬で忠直の脳裏から吹き飛ばされることとなる。
前方には自軍の突撃を邪魔する鉄砲隊も、進路を遮る堀も塀もなく、自軍の側面を突くことができる敵もいない。どこからも攻撃を受けるはずがないという確信。それは忠直だけではなく、その配下の兵たちにもあった。
それを油断と言うのはいささか厳しすぎた。その意識の隙をつく攻撃があることを予測できなかったことは無理もない。まさか、敵と槍を突き合わせる前に攻撃を受けることなど彼らは露程も考えなかっただろう。
突如、突撃を敢行した槍隊の最前列で閃光が奔る。さらに続いて、衝撃波と爆発音が松平勢を揺さぶった。続いて視界には大量の黒煙が立ち込めた。閃光は一度ならず、連続してほぼ同時に複数箇所で発生する。そしてその都度、大地は震え、兵たちは耳朶には強烈な音が叩きつけられた。
忠直には自軍に何が起こったのか理解できなかった。彼に理解できたのは、閃光と爆発、衝撃と黒煙。前方で火薬が爆発したという事実だけであった。
次いで、忠直は自軍の先鋒の悲鳴と狂騒した兵たちの叫びを耳にする。しかし、それでもまだ忠直は何が起こったのか把握できなかった。
「ばかな」
訳が分からずにポツリとそう零し、ただ突っ立っていることしか忠直にはできなかった。
自軍の状況を最も広い視野から確認できる大将ですら何が起こっているのか把握できないのだから、兵たちもまた何が起こっているのか把握できるはずがない。
辛うじて最前線で槍を構えていた兵たちは、自分たちの身がどうなったのかを把握することができた。
ある兵は爆発の衝撃で足を失い、ある兵は飛んできた金属片に身体を引き裂かれて大量の血を流した。またある兵は飛んできた小さな何かに目を穿たれ、ある兵はすさまじい爆音によって鼓膜が破れていた。
聴覚や視覚を失った兵が戦場において平静を保っていられるだろうか。ましてや、原因不明の攻撃によって死傷者も多数出ている状態では、五体満足な兵でも未知の攻撃への恐怖からパニックになっても不思議ではない。
「何が起こったというのだ!?」
「まさか……いや、しかし、そんなはずがない。だが、それ以外には……」
何かを察したのか、突然ブツブツと呟きだした吉田好寛に、忠直は縋るように尋ねた。
「修理!!教えてくれ、何が起こったのだ、あの爆発はなんだ!?大筒か!?」
「いえ、大筒ではあのような爆発は起こりませぬ。大筒はあくまで鉄砲と基本は同じですから、鉛玉しかとばせませぬ」
「では、あれは何なのだ」
吉田はわずかに言い淀み、絞り出すような声で忠直に答えた。
「恐らく、あれは埋火ではないかと……。木でできた容器に火薬と鉄の欠片を入れ、その上竹筒と火のついた線香や火縄をおいて地面に埋めるのです。地面に埋まった埋火を兵が踏み抜いた瞬間、火は火薬に引火し、爆発します。某も直接見たことはございませぬが、かつて太閤殿下の紀州討伐の際に雑賀や根来の連中が使ったと聞いております」
埋火とは、端的に言えば戦国時代の地雷である。信管がないため線香や火縄で代用しているが、それらの火種はあまり長くは持続しない。
「そのようなものが戦に使われた話を聞いたことがないぞ!!」
「無理もありませぬ。そもそも、戦の前に戦場にしかけなければ意味のない罠の類にございまするゆえ。それに加えて、火縄や線香は何日も持つわけではありませぬ。いつどこで合戦の火蓋が切られるのか正確に理解した上でその前日の夜に仕掛けることが埋火を使う前提になりましょう」
「まさか、真田はこの場所で、今儂が突撃を行うことを読んでいたというのか!?そんなこと、あり得るはずがなかろう!!」
忠直は信じられない事態に直面し、譫言のように「ありえん」と言い続けた。吉田が言った通り、この惨状が埋火によって引き起こされたものだとしたら、敵は火縄の持続時間まで考慮した上で埋火を事前に設置したこととなる。
この爆発が一つや二つであれば、当てずっぽうに時間差で埋めていたなどの可能性が考えられるだろう。しかし、実際には多数の埋火がほぼ同時に爆発していた。
このことが示すのは、今、この場所で自分たちが突撃することまですべて予測されていたという事実だ。自分たちがずっと真田の手のひらの内で踊らされていたなどとは到底忠直には信じられないことであった。
忠直が現実逃避をしている一方で、予期せぬ攻撃によって越前松平勢の兵たちは恐慌状態に陥っていた。さらに、本来であればその恐慌状態を抑える立場にある指揮官たちも自分たちの身に何が起こったのかわからず、その驚愕から抜け出すことができずに反応が出遅れた。
兵のパニックと指揮官の反応の遅れ、加えて忠直の茫然自失。それがもたらしたのは全軍の恐慌状態だった。
もはや、越前松平勢は先ほどまでの勇猛果敢な将が率いる一五〇〇〇の精強な兵を擁した精鋭部隊ではなかった。
そこにいたのは、判断力を失ったただの一五〇〇〇の人の集まりだった。
そして、その隙を彼らの目の前にいる真田勢が見逃すはずがない。
「敵勢は崩れた!!かかれぇ!!」
赤一色に染まった真田勢が突撃を敢行する。
まるで、それは鉄砲水のようだった。赤の流れが勢いよく松平勢にぶつかるも、松平勢はそれに耐えられなかった。
先陣は勢いよく雪崩れ込む敵勢を阻む堤防の役割を果たせず、ほとんど耐えることなく決壊した。先陣に立っていた兵士たちは槍や刀を捨て、我先にと真田勢に背を向けて逃げ出した。
結果、逃げ出した先陣と真田勢が入り乱れて後方へと乱入し、後方にいた兵士たちは大混乱に陥った。
前方から敵といっしょに味方が突っ込んでくるのだ。後方の兵士も敵に対抗するために武器を構えたが、死に物狂いで突入してきた先陣の兵士たちに巻き込まれて彼らも満足に槍を振るえず、真田勢の勢いに呑まれたのである。
最前線が決壊した後は、まるでドミノ倒しのように連鎖して混乱が松平軍全体に広がっていく。その混乱は、忠直がいる本陣にもすぐに波及した。
「殿!!お味方総崩れです!!すぐそばまで真田勢が迫っておりまする」
「ふざけるな!!認めぬ……儂は認めぬぞ!!」
前線の状況を伝えにきた伝令に対して忠直は声を荒げた。
自分が武功を立て、大御所に認めさせる絶好の機会でありながら配下の軍勢のこの体たらく。これでは武功など望むべくもない。
さらに、抜け駆けを企てていながら全軍総崩れとなれば、これは大失態である。戦下手、無能の烙印を押されることも免れないだろう。
「ここは危のうござる、今すぐに下がりましょう」
「そんなことができるか、この腑抜けどもがぁ!!儂が出る!!馬を用意せい!!」
老臣の進言を一顧だにせず、忠直は槍をもって立ち上がった。しかし、前に出ようとする忠直を老臣たちは必死に諫める。
「お待ちくだされ。すぐそばまで真田の軍勢が迫っているのです。御身にもしものことがあれば」
「貴様こそ目の前が見えておらぬのか!!すぐそこに敵がおるのだ!!これを討たずして何が武士か、何が親藩越前松平か!!」
「者ども、殿を止めい!!」
もはや言葉では止められないと悟った吉田修理の命令で周囲のものが忠直を取り押さえる。
「修理、貴様!!」
「我らは殿の家臣でもありますが、越前松平の家臣なのです!!越前松平のため、殿には生きてこの雪辱を晴らす機会をこの修理が必ず用意します!!ですから今は何卒」
「雪辱を晴らす機会だと!?今目の前にそれがあるではないか!!」
兵たちに半ば引き摺られるような形で後退する忠直。そして、本陣から後退する最中に彼は見た。
まるで地獄の炎を思わせる赤に染まった津波が忠直の本陣があった場所を蹂躙する。その赤備えの軍団の中でひときわ目立つ兜を被る男が、馬を走らせながら忠直に視線を向けていたのだ。
鹿の角を左右にあしらい、その間には陽の光を浴びて煌めく六文銭。この男こそ眼前の軍団を率いる総大将にして徳川方の怨敵、真田左衛門佐幸村である。
幸村に視線を向けられたことに気づいた忠直は、大将首である己を狙っているのかと身構える。
しかし、幸村はすぐに視線を忠直からそらし、まるで何事もなかったかのように忠直の眼前を素通りしていった。
「真田ァァ!!儂の首など取るに足らぬと申すかぁ!!」
忠直は激怒した。
幸村は確かに自分の姿を確認した。自分が誰であるか知っていながらも首を獲ろうともせず、ただ松平勢を突破することを優先したのだ。
散々に己の軍勢を打ち砕いた男が、己に何の価値も認めていない。それは家康から認めてもらえないことにコンプレックスを抱いていた忠直の逆鱗に触れるものだった。
「儂と戦え!!儂の首を獲ってみよ!!我こそは越前松平の大将ぞ!!」
喉が裂けるほどに声を張り上げる忠直だったが、幸村もその配下の軍勢も彼の叫びにまったく耳を貸すことをしない。
幸村どころか、その配下の雑兵すら己の首を手柄だと思っていないことを理解した忠直は、怒り心頭に発した。
「離せ!!このような屈辱を受けたまま生きていられるか!!」
鬼のような形相で吠える忠直。しかし、周囲のものたちに四肢を押さえられた忠直には吠えることしかできなかった。
「こちらを見よ、真田左衛門佐ェ!!」
恐慌状態となった松平勢は、加えて毛利勢によって壊走した敗残兵の逃亡にも巻き込まれた挙句、側面から毛利・後藤隊の襲撃を受けたことで完全に軍としての体裁を失っていた。
周囲で何が起きているのかも理解できず右往左往するか、本多や小笠原の敗残兵に流されて逃亡するしかない一五〇〇〇の人の集まりなど、もはや真田勢の脅威ではない。
真田勢は一五〇〇〇の軍勢の中央を突撃し、僅かな軍勢でこれを突破した。
後世の資料によれば、真田勢の損害は僅か一〇〇名程度だったという。
また、松平忠直には幸村が手柄に値せず捨て置いたという風聞が流れた。
この逸話にちなみ、誰が言ったか『越前の捨て首』。
大坂の陣の後の忠直には乱行が目立ったこともあり、明治時代以降には徳川と戦った幸村がヒーローとして持ち上げられる一方で忠直はヒーローに惨めに敗北する愚将というイメージが定着することになる。