「
家康の本陣にて、家康は怒りを露にしていた。
伝令が告げたのは越前松平の総崩れと、その後備が次々と崩れていく自軍の無様な姿だった。
それだけでも家康にとっては不愉快極まりないことであるが、自軍を総崩れにさせた男と、最初にその餌食になった男がさらに彼の怒りを煽っていた。
「真田は父も子も、厄介でございますなぁ」
地団太を踏む家康を袈裟に身を包んだ坊主が諫めた。
「天海よ、厄介ですむ話ではないぞ。上田に大坂、何度も何度も忌々しい奴らよ」
「しかし、三河守様も逸りすぎましたな」
「あやつには最初から期待してはおらんわ!!」
家康は不愉快さを隠すつもりもないらしく、しかめっ面で爪を噛み始めた。
天海はまた主君のいつもの癖が始まったと心の中で嘆息する。
しかし、天海にも家康の不快さは理解できた。
今眼前の戦場で大暴れしている真田幸村は、前年の戦でも強固な出城を大坂城の南方に築いて徳川方の猛攻を何度も跳ね返し、大きな被害を受けた怨敵である。また、その父親もかつて上田城における二度の合戦で数で圧倒的に勝る徳川の軍勢を僅かな犠牲で退けたという過去がある。
これらの実績から真田こそ徳川の天敵であるという風評が世に蔓延る始末である。当然、天下を取った家康からすれば面白い話ではない。彼の戦略はこれまでに何度も真田によって狂わされてきたのだから。
ただ、自分には全く従わないとはいえ、真田親子の力量については認めていたのだろう。家康にとって真田親子よりも癪に障るのは自軍の醜態だった。
徳川の天下取りを支えた武勇に秀でた将はこのころにはほとんど残っていなかった。家康自身、現状で戦場で頼れる将を挙げろと問われて配下の者の名を挙げることはできないだろうと自覚している。
生き残っている古参なぞ、水野勝成や大久保忠教など家康も正直なところ持て余している三河武士の負の面が強く残るようなものばかりである。
将も世代交代で弱体化しているが、兵たちも弱体化している。生まれたころから徳川という大大名の兵という立場に置かれ、その立場に浮かれた初陣の若年兵が今の徳川の軍勢には少なくないのだ。
「負けるかもしれなんだ関ケ原の方がまだ安心できたわ。勝って当然の戦で、何故こうも兵も将も不安になるやつしかおらんのか。将として信用できるものなど、
「世代も変わりました。大御所様に天下を取らせて、彼らの仕事は終わったのですよ」
「
家康は目を細め、在りし日の徳川軍を支えた将たちを思い出す。まだ自分が天下人などとは程遠い、ただの大名だったころから支えてくれた忠臣や、戦に外交に類まれなる才能を発揮した名将たち。
だが、今の家康の前に彼らの姿はない。彼らの跡目を継いだものたちが豊臣との戦に出ているのだが、先代には遠く及ばぬその力量に、家康は怒りでも悲しみでもなく、寂しさを覚えていた。
「長生きしたからこそ掴めた天下であるとわかっておる。だが、儂に最後まで付き合ってくれるものがおらぬと思うと、虚しい」
「某では不満と?」
「お主は万千代や平八郎とは違うわ。其方が儂の下へ来たのは、あの猿の作る日ノ本を否定せんがため。儂への忠義が全く無かったとは思ってはおらぬが、お主と儂は互いに利害が一致していたのが大きいのもまた事実ではないか」
「手厳しいですな。ですが、死ぬことを惜しまれぬ者ほど世に長く留まるものですぞ」
「天海、お主はそうは言っても長生きにもほどがあるぞ。美濃の斎藤の興亡を知りながら生き延びているものなど、この世にいかほどいようか。まぁ、儂もその死ぬことを惜しまれぬ者であろうから、人のことは言えぬのかもしれぬが」
「外様の大名や豊臣恩顧の将たちにしてみれば、大御所様には早く逝ってほしいでしょうな」
「秀忠もそう思っておるのやもしれぬな。儂が後見しているような現状をよくは思っておらぬと聞く」
家康と天海は軽口を叩きあい笑いあう。
「しかし、戦下手なところがあるが、跡目を秀忠に決めてよかったと思っておる。……秀康に跡目を継がせるべきだったか悩むこともあったが、今ならば秀康にせんでよかったと断言できるぞ。秀康に跡目を継がせていたならばあの阿呆が三代将軍になったかと思うと、背筋が凍るわい」
家康は不甲斐ない自軍の中でも、己の孫を酷評する。
「冬の戦で散々に真田にやられている様を見てどうして先陣など任せられるか」
「ですが大御所様。あそこまで言わなくてもよかったのでは?あれほど貶されれば、意固地になるのも無理からぬことでしょう」
「それで抜け駆けを企んであの様というのを見ると、余計なことをしたとは思わんでもない。ただ、冬の戦で真田に散々にやられておきながら汚名を挽回してどうする。汚名は返上するものよ」
戦場でのことで謗られた武士が名誉を回復するためには、戦場で武功をあげる以外の方法はない。具体的には、最初に敵陣に突っ込みその勇猛果敢さを示すことのできる一番槍か、名のある将の首をあげることである。家康に貶された忠直は、どこにいるかわからないしそもそも獲れる可能性も高くはない兜首よりも、確実に武功となる一番槍を狙った。
しかし、一番槍を狙い個々が勝手に戦端を開けば軍は統制を欠くことになり、それは時として敗北にもつながりかねない。だからこそ、家康は最初から先鋒を担当する武将を割り当て、抜け駆けをして一番槍を狙うものが出ないように取り計らっていた。
戦場において一番槍を横取りすることとなる抜け駆けは、軍律で厳しく罰することになると家康も口すっぱく諸将に言い聞かせている。それにも関わらず、忠直の軍律違反に対する認識は甘いものであった。
それは、かつて同じように抜け駆けをしていながらも罰せられることのなかった前例があったからである。
かつて、関ケ原の戦いにおいて先代の井伊家当主であり徳川四天王の一人であった井伊直政は、娘婿であった家康の四男と共に東軍の先鋒を任じられていた福島正則を差し置いて西軍に一番槍をしかけた。初陣の娘婿のために偵察をしていたところ、その最中偶然に敵と交戦したという体であったが、抜け駆けであったことは疑う余地がなかった。
そして、戦後の論功行賞で家康はこの抜け駆けに関して直政を咎めることはせず、その武勇を称えたという。
この前例に則るのであれば、この戦いで抜け駆けをしたとしても、戦功さえあげれば罰よりも賞の方が上回るため問題ないという打算が忠直やその家臣団にはあったのだ。
しかし、戦功をあげることしか頭にない家臣たちと、家康を見返すこと以外最初から眼中にない忠直には気づくことができなかった。
直政の抜け駆けは、これから忠直がしようとしている己の武功だけのための抜け駆けとは、まったく異なる理由から行われていたからこそ家康が咎めなかったということを。
関ケ原の合戦はまさに天下分け目の合戦であった。ただ、この戦いは石田三成率いる西軍を打倒するための戦いではあるが、徳川にとってはそれ以上に徳川の天下を作り出すための合戦であった。
この戦いによって家康が最も果たしたかった目標は徳川の天下を築くことである。石田三成らを討って豊臣の力を徳川に比べて相対的に弱体化させることも目標ではあったが、それは徳川の天下が築かれてこそ意味のあるものだった。
そして、徳川の天下を築くためには、西軍との闘いにおいて徳川の武を示す必要があった。徳川の武を示して西軍を打倒し、それで初めて徳川は天下への足掛かりをつかむことができるのである。
ところが、関ケ原の戦いの前哨戦ともいえる西軍の岐阜城攻めでは、福島正則ら豊臣恩顧の大名が手柄をあげていた。そして、関ケ原の合戦の先鋒もまた、福島正則が指名されていた。
徳川軍は、主力である家康本隊は関東方面から転進するのに時間がかかっており、秀忠率いる別動隊の行軍も予定から遅れていたためこれまでに戦功をあげることができていなかった。結果、徳川の主力が到着するまでの間豊臣恩顧の諸将が西軍との最前線を支えるかたちとなっていた。関ケ原の合戦における布陣も、先鋒や次鋒の大半は豊臣恩顧の諸将で、徳川の軍勢は井伊直政らの少数の例外を除き、多くが後方に陣を敷いていた。
もしもこのまま福島正則が一番槍の戦功を手に入れることとなれば、関ケ原の合戦の勝利の立役者は豊臣恩顧の武将ということとなり、戦後も徳川は彼らに配慮することを強いられる。そうなれば、徳川への忠誠心よりも秀頼に対する忠誠心が勝るであろう豊臣恩顧の武将たちは、徳川の天下にとって非常に目障りなものとなることは確実だった。
だからこそ、徳川にとっては一番槍という武功が必要だった。関ケ原の合戦は徳川の武功によるものであると世に知らしめなければならなかったからである。
戦後処理やその後の徳川の政権運営まで見据え、徳川の武功の必要性を理解していた井伊直政にとっては、徳川が武を示して勝てればそれでよかった。仮に直政が軍律に背いたことで罰せられようとも、抜け駆けによって徳川が関ケ原の合戦の火ぶたを切ったことを世に知らしめることができれば、徳川にとってはそれが最良の結果となることを彼は理解していた。
直政は己の武功をあげるためではなく、徳川の天下のために抜け駆けを敢行したのである。
家康は直政がどうして抜け駆けをしなければならなかったかを理解していた。そして、直政が家康と同じ視点をもって関ケ原の合戦に臨んでいたことを理解していたからこそ、家康もこれを罰することはなかった。戦後の論功行賞では、大胆にも敵中を中央突破した島津勢に立ち塞がった結果大けがを負った直政に対し、家康は抜け駆けのことを罰するどころか自身で調合した薬を与えて労ったという。
家康がかつて武田勝頼率いる軍勢と遠江で戦った際、家康の家臣の大須賀弥吉という男の抜け駆けに激怒し、重臣らのとりなしも一顧だにせず弥吉に切腹を申しつけたことを忠直は知らない。
そして、徳川家のためではなく、ただ自分勝手さから武功を欲した愚か者の抜け駆けを罰しないほど家康が身内に甘い男ではないということも知らないのだろう。
一番槍欲しさに前田利常軍に対して自分たちは家康から天王寺表の先陣を拝命したと虚偽の伝令を出したうえで前田軍の軍列を強引に断ち切る形で前進し、天王寺口に布陣したことは既に家康の耳にも入っていた。
しかし、家康はいつ戦闘が始まってもおかしくない状況で忠直ら越前松平勢を動かせば全軍に混乱を招きかねないという理由から、ひとまず忠直らの独断専行を放置せざるをえなかったのである。
「儂も甘かったのかもしれぬ。ヤツも、適当な理由をつけてそのうち取り潰すか」
「……この戦が、日ノ本最後の戦となりましょう。戦下手でも政が無難であれば問題がないのでは?先ほどの三河守殿の使いへの言伝もそうですが、また反発を招きかねませぬぞ」
天海の言葉に家康は渋い顔をした。些か私情が出すぎていたことを家康自身も理解していたため、天海に積極的に反論できなかったためである。
しかし、戦場に似合わない緊張感のない軽口の叩きあいはそう長くは続かなかった。
そして、それは家康の目の前で起こる。
酒井家次ら小大名が集まる五三〇〇余りの隊を蹴散らした毛利勝永隊と後藤基次隊が家康本陣と衝突する。
総崩れとなった先鋒の敗走兵が雪崩れ込むという混乱に巻き込まれつつも辛うじて最初の攻勢を持ちこたえたあたり、流石に家康の本陣であった。
しかし、鬼気迫る毛利・後藤隊の猛攻に押されて総崩れにならないように持ちこたえることが精いっぱいだった家康の本陣に対し、さらに越前勢の中央から飛び出した赤備えの軍勢が襲撃をかけた。二方面からの猛攻によって瞬く間に先鋒は蹴散らされ、家康本陣はまるで鉾で突かれた砂山のように崩れ去っていく。
そして、息を切らせながら家康の本陣に転がり込んできた伝令が火急の事態が起こっていることを家康に告げた。
「本多
「お味方総崩れ。六文銭の旗を掲げた軍勢が目前まで迫っております」
「大御所様、ここは危のうございます!!すぐにここから離れましょう!!」
家康は想定だにしていなかった事態を目の前にし、唖然とした。
このころに生き残ってる譜代って三河武士の負の面をこじらせたヤツがほとんどなんですよね……
端的に言ってしまえば、声がでかい老害がたくさん。