……自分で言うのもなんですが、まだプロローグなんですよね、これ。
第四次が本編のはずなんです。
まぁ、それはともかく皆さまありがとうございました。
今後も拙作をよろしくおねがいします。
また、活動報告に本作品に関する報告がありますのでよろしくお願いします。
宗矩がそこに駆けつけた時、既に全てが終わっていた。
「た、但馬守様!!」
倒れ伏した家康のもとに集い右往左往する旗本たちが、宗矩を見て安心したかのような笑みを浮かべる。
「邪魔である」
初めての戦場で、負けるはずがないと驕るだけの愚かな処女兵が大将が斬られた時に冷静な判断を下せるはずがなかった。彼らはどうすればいいのかもわからず、ただ家康のもとで顔を見合わせているだけ。合理主義者の宗矩をして心底苛立たせる無能。
宗矩はその苛立ちを隠しながらも、治療をするわけでもなく混乱してただ家康の周りにいるだけの木偶の坊たちをかき分けて家康の下に駆け寄った。
――出血は酷くない。これならば、あるいは。
御免、と宗矩は一声かけると意識のない家康の着物を脱がせた。
袴の下からは汚物の臭いもするが、宗矩は全く躊躇しない。
顕わになったのは、左肩から右わき腹にかけて走る一筋の赤。
致命傷ではない、と宗矩は安堵する。傷は浅く、止血さえしておけばとりあえず命に別状はないだろう。
宗矩は剣に生きるもの。当然のことながら刀傷など見慣れており、その処置も手慣れたものである。
「た……但馬守、か?」
苦痛に顔を顰めながら家康が瞼を開いた。
「お目覚めになられましたか。しかし、まだ起きてはなりませぬ」
「儂は……」
「刀で左肩から脇腹にかけて斬られておりまする。死に至るほどの傷ではありませぬし、既に処置はいたしました故、ご安心を」
ご安心を、と宗矩は言ったが、少なくとも家康に刻まれた傷は軽い傷でもない。傷口には激痛が走っていることだろう。宗矩は家康に安静にするように伝えると、近くにいた旗本たちに後を託した。
ここまで敵軍が攻め込んできた以上、二度目がないと考えるほどに宗矩は楽観主義者ではない。次の襲撃に備えて宗矩は周囲を警戒する。
そんな中でふと、すぐ近くで旗本たちが集まりざわついているのが目に入った。気になった宗矩は、足軽たちの輪の中に入る。
騒めきの理由はすぐに分かった。足軽の輪の中心でこと切れている一人の男。
宗矩はその男を知っている。
その戦鬼を思わせる覇気と、戦人を酔わせる雄姿を見た。軍を蹴散らす圧倒的な力を、人々を従える英雄の背中を見た。
見間違えるはずがない。
その男こそ、真田左衛門佐幸村。
宗矩が豊臣方の諸将の中で最も危険視していた男の躯がそこにあった。
「た、但馬守様!!」
宗矩の存在に気づいた足軽たちが道を開ける。その道を悠々と進んだ宗矩は、幸村の遺体の前で膝をついた。
大方、幸村を囲うだけだった足軽たちは誰が首を獲るかで揉めていたのだろう。このような勇士の亡骸を前にしての浅ましい行いに、宗矩は憤りを感じていた。
「大御所様に斬りつけたのは、この男か」
宗矩の問いかけに、足軽の一人が答えた。
「はい。この化け物は、圧倒的な力でお味方を蹴散らし、天海殿を短銃で狙い撃ちました。さらにその後は刀を手に大御所様に斬りかかったのでございます。我らも大御所様をお守りするべくこの身を盾として立ち塞がり、幾度も槍を突き立て、刀で斬りつけたのですが、この化け物はそれでも止まらなかったのでございます」
宗矩は黙って幸村の顔を見つめている。
「我らはそれでも諦めずに何度も槍を突き立て、最後には某の一突きで息の根を止めたのでございます」
「待て!!貴様嘘をつくな!!」
「儂が殺したのだ、儂の手柄じゃ!!」
目の前で始まった手柄を求める言い争い。
それに我慢ならなくなった宗矩は、険しい表情を浮かべながら一喝した。
「喧しい」
宗矩の一喝で足軽たちは口を噤んだ。
「貴様らは大御所様を守れなんだ時点で手柄も何もない。これほどの忠勇の士の前でそのような卑しい振舞をすることは許さぬ」
宗矩の静な怒りを感じた足軽たちはたじろいだ。そして、一人、また一人と宗矩を恐れるかのように距離を取る。
「よくぞ、この身体で……」
幸村の身体にはいくつもの銃創や刀傷が刻まれている。致命傷になってもおかしくない傷も少なくない。しかし、それでも動き続けたこの男の執念。死の間際まで家康を狙うことを諦めなかったその闘志は宗矩をして眩しく映った。
あと一歩、幸村が踏み出してその刀を振るっていたならば家康も助からなかっただろう。あるいは、一歩、まるで
宗矩が討った木村重成も、毛利勝永も勇者と呼ばれるに相応しい男だった。そして、幸村もまたその勇者たちが命をかけるに値する偉業を成し遂げた英傑であった。
一体、何がここまでにこの男を動かしたのだろうか。豊臣家への忠義か、はたまた流罪となり故郷を離れて無念の死を遂げた父親の敵討ちか。
幸村がその最期に抱いた志も、この男を動かし続けた想いも宗矩にはわからない。ただ、一つだけわかることは幸村が抱いていたその想いは、一人の男をして英雄たらしむだけの執念を伴っていたということだけだ。
もしも、会う機会があったならば一度は問いかけてみたいものだと宗矩は思う。無論、死者と話をする機会など己が生きている内には決して訪れないと理解はしていたが。
「これほどの見事な戦い、散り様は書物の中にもそうはあるまい。あるいは、九朗判官義経や楠公にも勝るやもしれぬ。其方はまさに、日ノ本一の兵よ」
宗矩は、幸村の遺骸を辱めることなきように伝え、混乱した戦局を立て直すべく戦場へと戻っていった。
――幸村が戦死した後のことを語ろう。
幸村の戦死の知らせが大坂城にいた秀頼のもとへ飛び込んできたのは、幸村の死から
城内は、幸村が家康と刺し違えたという知らせに沸いた。これまで牢人であった幸村の活躍を快く思っていなかった秀頼譜代の将たちも、幸村の最期に大いに感服した。
この知らせに勇気づけられた秀頼は、暗殺や大坂城への放火を恐れて出馬を思いとどまるように進言する臣下を振り切ってついに桜門から出撃することを決意する。
一方の徳川方であるが、天王寺口では家康が討ち取られたという情報が流れたことで混乱が加速し、もはや軍として動いている隊はなかった。岡山口でも、二代将軍秀忠の本陣に対して大野治房隊が三度突撃を敢行。一時は秀忠自身も豊臣方の兵に対して槍をもって立ち向かわねばならないほどに状況は逼迫していた。
かつて、織田信長の死によって瓦解した滝川一益の軍勢のように、徳川勢もまた士気の崩壊という事態に追い込まれていたのである。
ところが、戦局は次第に豊臣方の不利へと傾いていく。
きっかけは、大坂城の出火であった。
下手人は不明であるが、突如大坂城の天守に火の手があがり、瞬く間に炎上した。
幸村は城内の裏切り者によって自らの計画が狂うことがないように手をうってはいた。大坂冬の陣では城内に暗殺者を放ち伊東長実を事故に見せかけて殺害し、独自に保有する間者を駆使して歴史には残らなかった内通者をも内密に始末していた。
しかし、内通者はそれこそ城内に無数にいた。織田有楽斎など始末すれば味方への影響も大きい人物もいたこともあり、全ての内通者を始末できたわけではなかった。史実よりは情報の漏洩は少ないといった程度だろう。
さらに、悪いことは重なった。大坂城から煙が上がったのは、秀頼が桜門から出馬した直後のことだ。前線にいた兵たちは、秀頼が掲げた太閤秀吉の馬印、千成瓢箪の向こうに炎上する大坂城を見たのである。
陽光に煌めく黄金の千成瓢箪は、敵味方問わず太閤秀吉の存在を見せつけてきた象徴である。戦場において、おそらく最も目立つ馬印であっただろう。しかし、太閤秀吉のもう一つの象徴とも言える大坂城の炎上する姿は、千成瓢箪以上の衝撃を諸将に与えた。
勇ましく出撃したはずの秀頼は、落城した城から脱出したものだと誤解されたのである。本来、士気を高めるはずの総大将秀頼の出馬は、彼らの期待したとおりの戦果を挙げることはできなかった。それどころか豊臣方は秀頼の出撃か脱出かわからない行動に狼狽し、徳川方は炎上する大坂城を見て士気を高める始末。
さらに、徳川勢は裏崩れに巻き込まれなかった部隊の掩護や、家康は無事という情報が伝わったことにより混乱から立ち直りつつあった。
天王寺口では後詰の徳川義直、徳川頼宣が率いる無傷の軍勢が参戦。毛利隊と真田隊の残党を吸収し、家康本陣と乱戦を繰り広げていた後藤隊を側面から攻撃した。又兵衛も奮戦するが、激戦で後藤隊は疲弊しきっており、また倍以上の数の差は如何ともしがたかった。
後藤隊は大阪城の炎上を機に次第に戦線を維持できなくなっていく。緒戦で大混乱をきたした部隊が立て直しに成功し、後藤隊に三方からの集中攻撃を加えたことが最後の一押しとなった。
又兵衛は戦線の維持は不可能と判断し、遊軍として動いていた長曽我部隊の援護を受けながら未だ火の手の及んでいなかった城内の山里丸へと退却した。
明石全登率いる挟撃部隊も、移動中に水野勝成隊と交戦。戦局は明石隊の優位に傾いていたものの、戦闘を察知して駆けつけた伊達政宗隊に水野勝成隊諸共に激しい銃撃を浴びせられ、大損害を被った。明石隊は壊滅し、明石全登の行方も知れない。
岡山口でも、豊臣方は劣勢を強いられた。一時は大野治房は秀忠本陣にまで迫っていたが、細川、井伊、藤堂勢の加勢もあって秀忠本陣はギリギリのところで踏みとどまることに成功。その後、徳川勢は大野治房隊の三倍以上の兵数を持って反撃に転じる。
出馬した秀頼率いる後詰が大野治房隊に加勢したことで岡山口ではどうにか五分の戦況で持ちこたえていたものの、その後天王寺口の明石隊の壊滅と後藤隊、長曽我部隊の撤退の報を受けたことでこれ以上の攻勢を断念。大野治房を殿に、秀頼は城内へと撤退する。
裸城となった大坂城に撤退したところで、もはや豊臣家に逆転の目は残されてはいない。
秀頼やその生母淀殿、大野治長らは城内で焼け残った籾蔵に立て籠もり最後の時を迎えた。
しかし、真田隊に味わわされた屈辱を晴らすために秀頼の首を執拗に狙う越前松平勢が秀頼が自害する前に首を刎ねるために秀頼の立て籠もる蔵へと押し掛ける。
後藤又兵衛は主君が自害する時を稼ぐため、残された一〇〇の手勢をもってこれを迎え撃つ。一〇〇〇を超える松平勢の猛攻を又兵衛は一刻に亘って跳ね返し続け、最期は秀頼が自害し、炎に包まれた蔵の前で全身を無数の銃弾で貫かれて死亡。又兵衛の死にざまは古の忠臣、武蔵坊弁慶の立往生にも例えられる見事なものだったという。
秀頼と淀殿は、大野治長に介錯され自害。大野治長や大蔵卿局らおよそ四〇名がその死に殉じ、ここに豊臣家は滅亡した。
戦後の論功行賞では、家康本陣が晒した醜態もあったため部隊の裏崩れに対する処罰は一切なかった。ただ、豊臣家を滅ぼして得られたものも少なかったため、褒美をもらった大名は僅かであり、最大の褒美でも伊達政宗の子に与えられた一〇万石の領地である。
しかし、この戦いに参加した大名の中で唯一忠直だけは減封処分が下されている。抜け駆けとその後の醜態、秀頼の自刃を望む秀忠の意に背き、秀頼を討ち取ることを強行したことがその理由とされているが、実際には忠直の醜態によって命の危機に瀕した家康の怒りが向けられたための処置だった。
幸村に斬りつけられた徳川家康は、宗矩の適切な処置のおかげもあってか一命をとりとめた。
豊臣家の滅亡を見届けた家康は豊臣家の残党狩りを配下の将たちに命じると京の二条城へと引き上げて傷の療養に努めた。しかし、大坂城の落城から一月あまり経過し、幸村から受けた傷が治り始めていたころから、家康は首筋の張りや開口障害に悩まされるようになる。
さらに、家康は体のしびれや痛みを訴えるようになる。しびれや痛みはやがて全身に及び、痙攣により身体の筋肉が硬直して弓なりになるなど、病状は悪化の一途を辿った。
病状は深刻にも関わらず、意識だけはしっかりしていたこともあり、家康はこのころ見舞いに訪れた秀忠に対して後の禁中並公家諸法度、武家諸法度、一国一城令等の政策を実施するように助言している。
痙攣と痛みに苦しむ日々を送る家康は、この症状を幸村の呪いかと恐れた。周囲の人々も家康を襲ったこの恐ろしい病を幸村の呪いであると信じ、秀忠は全国の寺社に対して家康を蝕む幸村の呪いを解くように祈祷を命ずるほどであった。
しかし、祈祷の効果もなく家康の病状は悪化するばかり。ついに家康は呼吸困難に陥り、あまりの苦痛からもう腹を切って死にたいと訴えるほどであったという。
家康危篤の報を受けて駆け付けた秀忠に対し、家康は遺命として次のことを命じたと伝わっている。
一つは、真田によって苦渋を味わったことは事実であるが、その恨みを幸村の兄信之に向けてはならないということ。ただし、特別扱いをするということではなく、他の大名と同等に扱うようにすること。真田を追い詰めることは危険であると家康は訴えたのである。
そして、もう一つは豊臣家の残党狩りについてである。牢人の増加は治安の悪化を招くため、早急に取り除くこと。また、秀頼の遺児国松や、その最期が知れない大野治房、長曽我部盛親、明石全登は必ず始末することで豊臣の全てを消し去るように命じた。
最期に、今後何かあれば伊達政宗と藤堂高虎、真田信之を頼みにすることを伝えた。親藩でも譜代でもない、外様大名を頼みにせよという家康の言葉に秀忠は内心驚いたが、それを受け入れた。
家康は、その後病床に伊達政宗、藤堂高虎、細川忠興、黒田長政を招き、秀忠のことをくれぐれもよろしく頼むように伝えたという。
また、祐筆に命じ、真田信之に対しても書状を送っている。その書状には、家康は信之の忠義を全く疑っていないこと、秀忠にもいざという時には信之を頼りとし、決して幸村や昌幸の遺恨を引きずることのないように言い聞かせたと記されている。
大坂城の落城から二月あまり経ったころ、家康は病床から起き上がることのないまま二条城で永遠の眠りについた。最期まで痙攣と激痛に苦しめられ呻き続けるというあまりに恐ろしい死にざまについては日本中に知れ渡り、豊臣のたたり、幸村のたたりと人々の間で実しやかに噂されることとなる。
因みに、家康の奥医師が残した記録等から現在では家康の死因は破傷風によるものであり、幸村の呪いではないことが証明されている。
秀忠は家康の葬儀を盛大に執り行い、遺言に従って東照宮に葬った。
秀忠も、家康の死にざまや世間に流布する祟りの噂を受けて幸村を恐れたのだろうか。大坂の陣の犠牲者を追悼するという名目で幸村が最期を迎えた地に好白寺を建立し犠牲者を弔うように命じたと伝わっている。
家康の死後、家康の遺命を忠実に守り大名の統制と治安の安定に努めた二代将軍秀忠により、戦国の気風は静かに、萎えていったかに見えた。
豊臣家の残党狩りはその後十年以上も続き、累計で数千の首が京に晒されたとも伝わる。しかし、その首の中には幕府が最も警戒する秀頼の遺児国松や、大野治房、長曽我部盛親、明石全登のものはなかった。
そして、彼らの首が見つかることもなく二〇年余りの歳月が過ぎた。このころには大坂城落城直後の虐殺と見間違うかの如き大坂での苛烈な残党狩りもあって、幕府も世間も国松らは大坂の陣の際に死んだかその後にどこかで野垂れ死にしているものだと思うようになっていた。
しかし、そんな中で幕府を揺さぶる急報が九州より発せられた。
それは、島原藩及び唐津藩の領民が苛烈な年貢の取り立てとキリスト教の弾圧に対して一揆を起こし、島原半島を制圧したとの知らせだった。しかも、その一揆勢の副将として、大坂の陣の後に行方が知れずにいた明石全登の名が挙げられていた。
事態を重く見た幕府は即座に討伐軍を派遣するが、戦国の世を生き残った明石全登の智謀と一揆勢の首魁である天草四郎の存在によって高められた士気に苦戦。討伐軍の大将である板倉重昌が討ち取られるという失態を晒すこととなる。
大坂の陣のころから、将兵の戦闘経験の少なさによる軍の弱体化は問題視されていたが、このころにはその問題がさらに顕在化していた。明石全登ら大坂五人衆の存在を殊更に危険視していた幕府は、今度こそ確実に明石全登を討ち取るために総勢一五万の軍勢を動員。
かつて西国無双として名を馳せた立花宗茂を特例として総大将に任じ、一揆勢の根絶と明石全登及び天草四郎の首を獲ることを厳命した。
その後、原城に立て籠もった一揆勢は三か月に及ぶ籠城戦の末に幕府軍に八〇〇〇の死傷者を出す被害を与えるも壊滅。城に立て籠もっていた一揆勢約四〇〇〇〇は一人の例外もなく殺害され、天草四郎と明石全登も城から脱出しようとしたところを捕えられた後に京都三条河原まで護送された上で斬首となった。
これを機に再度豊臣家の残党狩りが厳しくなるが、それでも長曽我部盛親ら残りの主要な残党は発見できなかった。
長曽我部盛親の名が歴史の表舞台へと再び登場するのは、島原の乱と名付けられた一揆が鎮圧されてから一三年ほど後のことである。
江戸幕府三代将軍徳川家光が亡くなり、その後を御年一一歳の四代将軍家綱が継いだ直後。江戸にその名を知られた軍学者、由井正雪らが幕府に不満を持つ牢人たちを束ね、江戸城を襲撃するという前代未聞の事件が起きた。
由井正雪――そのかつての名を国松。秀頼の遺児にして、豊臣家の血統を継ぐ最後の男である。大坂城落城の際、国松は長曽我部盛親に連れられて江戸へと脱出していた。幕府もまさかそのお膝元である江戸に国松と盛親が潜伏し、堂々と軍学を教えていたとは夢にも思っていなかったことだろう。尤も、島原の乱の翌年には長曽我部盛親は病で息を引き取っていたのであるが。
由井正雪を首魁とする牢人衆らは、幕府の体制を盤石なものとするために事あるごとに大名を改易、減封することで統制を図る徳川家への不満を募らせていた。大名家のお取り潰しや縮小によって職を失ったものや、関ケ原や大坂の陣以後牢人となったものも未だ少なくなかったこの時代。
幕府への不満を持ち、武力によってこれを解消しようと考えるものもまた、事欠かなかったのである。
由井正雪の号令のもと、京都と江戸で同日に牢人衆は決起。江戸に残った長曽我部盛親の子盛恒と孫の盛胤は正雪の門弟や職を失った武士四〇〇〇を束ねて江戸城を襲撃。煙硝蔵を爆破することに成功する。
正雪自身も大坂に赴き、自らの血筋を明かし徳川に対する決起を呼び掛けた。それに応えておよそ三〇〇〇の牢人が彼の下にはせ参じた。
しかし、計画が上手くいったのはここまでだった。江戸城を襲撃した盛恒らは内通者の手で煙硝蔵を爆破させ、その隙に城内へと突入しようと試みた。しかし、江戸城は築城の名手と呼ばれた藤堂高虎が縄張を手掛け、全国の大名の手で築城された日本最大の巨城である。さらに、家康の死後二代将軍秀忠と三代将軍家光の手により改修が施され、当初の予定を超える規模にまで拡大している。その防御力は、かつて二〇万の軍勢を跳ね除けた豊臣家の大坂城をも凌駕する日本史上最強の城である。
その城に大手門から攻めかかった牢人衆は僅か四〇〇〇。幕府方も混乱から死傷者を多数出し、その中には時の老中阿部重次も含まれていた。それでも牢人衆は江戸城の本丸に突入することは愚か、大手三の門を突破することすらできずに壊滅する。
この江戸城襲撃の日には偶然幸村の兄信之が江戸城に登城する予定となっており、信之自身も僅かな配下の軍勢と共に牢人衆と戦っていたと江戸幕府の公式歴史書に残っている。
なお、盛胤は大手門を攻撃する際、銃弾に心臓を貫かれ即死。盛恒はどうにか撤退することに成功するも、その後幕府の手の者に発見され市中引き回しの後に斬首刑に処される。この時の盛恒からの取り調べによると、大野治房は大坂の陣の一〇年後に病没しており、その子孫は身分を隠して下総の国の百姓をしていると供述している。
後日、この供述に基づいて治房の遺児の捜索が行われ、治房の子孫が見つかる。男児は処刑されたものの、女児については付近の尼寺に入ることで処刑を免れたそうだ。
一方、大坂で蜂起した正雪は軍勢を引き連れて京へと向かう。途中軍勢は合流する牢人によって膨れ上がり、一時は五〇〇〇にまで至った。しかし、時の大坂城代内藤信照の軍勢による襲撃を受け、烏合の衆であった牢人衆は壊滅。正雪は京都まで逃亡し再起を図るが、幕府の執拗な追撃を受けた末に豊國社にて自刃。
ここに由井正雪の野望は潰え、豊臣家の残党は壊滅した。
大坂城の落城からおよそ四〇年。ここについに大坂の陣の全てが終わったのであった。
運命なき浮世に候へば、日ノ本一の兵に
慶長二〇年五月七日
徳川の大軍勢を多くの犠牲を払って突破した幸村は、満身創痍となりながらも家康に一太刀浴びせ、力尽きました。
幸村が最期を迎えたと伝わっている地には、大坂の陣で犠牲となった将兵たちを祀る好白寺(※)があります。
しかし、幸村を顕彰する思想は幕府に危険視されていたために、人々は幸村を表立って慰霊することはできませんでした。
この地に幸村の慰霊碑が地元の人々の寄付によって建立されたのは、徳川幕府が滅び、明治時代になってからのことでした。
幸村の故郷、長野県上田市。
幸村の兄信之とその子孫は、幸村の死後から徳川幕府崩壊までのおよそ二五〇年間の間代々この地の領主を勤めました。
圧倒的劣勢を覆し徳川に一矢報いた幸村は明治時代に入り、軍神としてこの地に建立された奉国神社(※)に祀られます。
奉国神社(※)には、今日も幸村を偲び多くの人が参拝に訪れています。
その命が尽きる最期の瞬間まで己の信念を貫き、不可能と思われた大軍勢の突破を成し遂げた真田幸村の生き方は、私たち日本人の心を惹きつけてやみません。
語り 得河碇智アナウンサー
「好白寺」
大坂鉄道城南線「西矢田」(※)下車 徒歩12分
「奉国神社」
信濃鉄道「上田」(※)からバス「奉国神社」(※)下車 徒歩5分
※架空の地名、機関名です。
長かった……とりあえずこれでプロローグは終わりです。
ちなみに豊臣残党の史実以上の大暴れのモデルはジオン残党でした。本当はもっと大暴れさせたかったんですが、流石に人理案件になるので自重。
次回から第四次聖杯戦争まで時間が飛ぶ予定です。
なお、投稿を初めてから今日までは毎日一話一九〇一に投稿を続けてきましたが、本日の序章最終話の投稿をもってストックが尽きましたので、しばらくは更新はありません。
またある程度書き溜めたら放出していく予定なので、第四次聖杯戦争編までお待ちください。