パジャマ姿のこころが笑顔のままに駆け寄ってくるなり、ベッドに登ってくる。そのまま手を伸ばしてエヌラスの額に当てた。熱を測っているようだが、平熱にまで下がった体温に頷いている。
そのままベッドに腰を下ろしてじっと顔を見つめていた。
「エヌラス、ずっと眠ったままだったのよ。とっても心配してたんだから。あたしだけじゃなくて美咲に花音にはぐみに薫に……」
(……俺、どれぐらい寝てたんだ?)
部屋の中を見渡しても、時計はあるがカレンダーが見当たらない。
「毎晩様子を見に来てもずーっと寝てて、まるで絵本のお姫様みたいだったわ」
(もうちょっと他に無いのか……)
お姫様、なんてそれこそお前のために用意されたような言葉だろうに。せいぜいが眠れる獅子くらいだろう。しかし、自分のような危険人物を邸宅に招き入れて良かったのか。
てっきり政府機関に送り込まれるものだと気を張っていたが。
「お医者さんに連れて行こうかと思ったのだけど、怪我もすっかり治ってるみたいだし。とっても治りが早くて安心したわ」
(というか俺はどれくらい寝ていたんだ)
「……?」
一言も喋られないエヌラスに小首をかしげて顔を近づけてくる。灯りも点けない部屋は暗く、室内を照らすのは窓から差し込む月の光だけだった。
薄暗い部屋の中でこころの顔が鼻先が触れそうなほど迫る。大きな黄色い瞳。人を疑うことを知らないような、一点の曇りもない月のような目に吸い込まれそうになるが、すぐに離れた。
「エヌラス、どこか痛いのかしら。なんだか元気がないみたいだけど」
(……)
怪我は治っている。魔術回路の不調で左眼と右腕が稼働しないだけで。
どこも痛くない。怪我をしていないのだから、どこも――万全のはずだ。
元気がないのも起きたばかりだからだ。きっと、そうに違いない。
自分はどこもおかしくないのだと、首を横に振るが、こころはエヌラスの頬に手を添えて捕まえた。そのまま目を見つめる。
「う~ん、わからないわ。エヌラスの身体はどこも傷だらけなんだもの。痛い場所、わかる?」
(…………)
どこも痛くない。
なにも痛くない。
どこも辛くない。
なにも辛くない。
そんなはずはない、とでも言いたげにこころは目を見てずっと言葉を待っていた。しかし、声が出ないことに気がついたのか今にも泣きそうな顔をみせる。
「怒ってる?」
首を、横に振った。
怒ってなんかいない。ただ、無事でいたことに安心した。いつものお前でいてくれた。
たった、それだけのことなのに――。
胸が、痛い。心が苦しくなる。息が詰まりそうなほど。
「なにか怖い夢でも見たの?」
首を横に振る。
夢――、なにか。とても大切な人の夢を見た気がする。だが、誰だっただろう。夢は夢でしかない。起きれば現実にかき消されてしまうほど、切なく脆い儚さの朧影。
今度はこころが首を傾げていた。自分の頬に指を当てながら。
「だけど、なんだかエヌラス……とってもつらそうにしてるわ」
つらくなんかない。
かなしくなんかない。
俺は、大丈夫だ。
どんなに壊れようと。どんなに砕けようと、戦い続けることができる。
それだけで十分だ。それさえできれば、俺は――痛くも辛くも悲しくも、なんともない。
不意に、こころが手を伸ばすとエヌラスの頭を撫で始める。まるで子供でもあやすように。
「大丈夫よ。誰もエヌラスをいじめたりなんかしないわ。だから、安心して」
「…………」
なにか、言おうとして。その言葉を否定したくて、拒絶したくて堪らなかった。
弦巻こころの純粋な優しさから、逃げ出したくて堪らない。だが、その温もりに身体が動かなくて――痛くないはずの傷口が痛む。
「痛い思いも、つらい思いもしなくていいのよ。だって、エヌラスはなにも悪くないもの」
そんなはずはない。そんなはずがない。諸悪の根源は他ならない自分だ。
平和な地球を壊したのも。平穏であったはずの日々を壊したのも。危険に巻き込んだのも、この宇宙に邪神を招き入れたのも、何もかも、全部――!
何も知らないからそう言える。何も解らないからそんな言葉を投げられる。
知ってしまえばそんな言葉も言えなくなる。言ってしまえば、自分を遠ざける。
疎まれて嫌われて蔑まれて遠ざけて当然だ。
俺が死んでしまえば、全部それで終わる話なのに。
まだ、終わるわけにはいかないと心のどこかで泣き叫ぶ自分がいた。
これまでずっと、様々な世界を渡ってきた。犠牲にしてきた人がいる。救えなかった人がいる。助けられなかった人がいる。見捨ててきた人がいる。それでも、それでもと自分に言い聞かせてきた。好意を寄せてきた人がいる。それを全て、全て踏みにじってきた自分がいる。
何もかもを投げ出して、遠い世界で安息の地を求めてしまう自分がいた。何も知らず、何もしないまま、ただ平穏なままの日々を。
戦いを辞めてしまえば、全てが無駄になる。
これまでずっと犠牲にしてきた人の死が。かけがえのない日常が。踏みにじってきた世界の平和を、血と汗と涙と、犠牲にされてきた人の怒りと悲しみと憎しみと――その全てを、無下にする訳にはいかない。
自分を受け入れてくれた人々の優しさも、温かさも、全部。
どこも痛くないのに。何も辛くないのに。傷まない傷口の痛みに、涙がこみあげてくる。
頭を撫でていたこころが手を離し、身を乗り出して優しく抱きしめた。
心臓の鼓動が重なる。
「……ん~♪ やっぱり、とっても不思議だわ。あたし、美咲も花音もはぐみも薫も、ハロハピのみんなが大好きよ。それだけじゃないわ、ポピパもアフロもパスパレも、ロゼリアも全部! だってみんなとっても素敵でドキドキするんだもの。でも、エヌラスと触れ合っている時のドキドキはちょっと違うの。何でかしら?」
――きっと、この子は。弦巻こころは、ただの一度も悪意というものに触れた事がない。
そんなものが存在するとは露ほども考えていない。
世界は優しさと温かさと笑顔が溢れている。綿菓子のように甘く柔らかい日々に包まれて育ったのだろう。
いつだって世界は、悪意と邪気と瘴気と狂気に彩られて壊れかけているのに。
そんな自分とは正反対で真逆の存在には、既視感を覚える。
――犯罪による利益と犯罪者によって構築される故郷で出会った、初めてで最期の恋。
一辺の光も差さない地下で、その人は一輪の花のように咲いていた。奇跡のような、笑顔で。
とても似ている。だから、苦手だった。
エヌラスにとって弦巻こころは、天敵に他ならない。
決して消せない過去の傷を想起させる。
「……エヌラス? どうして泣いているの?」
自分でも、わからない。なんでこんなにも、涙が溢れてくるのかが。
痛くも、辛くもないのに。悲しいことなんてなにもないはずなのに。
――そんなはずがない。そんなはずはいのだ。
ずっと、目を背けてきた。目を逸らして自分に言い聞かせてきた。
感情を律して、心を押し殺して駆け抜けてきたのだから。
俺が悪いんだ。何もかも、全部。他の誰も悪くない。何も悪くない。お前たちに、何一つ非はない。全てが俺の咎。俺の罪。償うこともできない大罪人。
――いつか、きっと。笑顔があふれる優しい世界が見れるのなら、それは自分が死んだ後だと分かっていても。理想のハッピーエンドというものを見てみたい。
それが、自分の命ひとつで叶えられるのならば安いものだ。
どうして、泣いているのだろう。それがわからない。エヌラスにも、こころにも。
困っていたこころが誰かを呼ぼうとして、不意に抱きしめられた。
右腕が動かないから、左腕だけで。肩に頭を預けて、自分の涙を見せないように。何度も優しく背中を叩かれて――こころは、エヌラスが言おうとしたことがわかった。
“大丈夫だ”と“お前が泣くことはない”と、そう言おうとしている。
「……エヌラスの声が聞けないのは残念だわ。とっても素敵な歌声だったのに」
(……歌は、嫌いだ。歌うのは苦手だ)
「ねぇ。またいつか歌ってくれるかしら……」
(……嫌だと言っても聞かないくせに)
「あたし……エヌラスの歌は、すっごく好きよ――――」
「……?」
段々と声がか細くなるこころにエヌラスが顔を見ると、静かに寝息を立てていた。
穏やかな顔でとても幸せそうにしている。
(……おやすみ、こころ。いい夢を見れるといいな)
「ん……♪ すぅ――」
何度か優しく頭を撫でてやると、小さく吐息をこぼす。起こさないようにゆっくりと身体を横にして、エヌラスは天井を見つめながら涙の跡を拭う。
――お前たちの笑顔のためなら、望んで痛い思いも辛い思いも飲み込もう。
抱きしめた温もりが手放せなくて、そのまま目を閉じると間もなくエヌラスも眠りに落ちた。