弦巻家のお風呂は、広い。なんというか、超広い。びっくりするくらい広い。リゾートホテルなんか目じゃないくらいに広い。
ここで遊んで時間潰せるんじゃないかというくらい、まぁなんというか広いとしか言いようがない。
シャワーは当然、サウナもあるし、ジャグジーバス。何故か違和感の塊である檜風呂も片隅に用意されていた。
エヌラスが利用するのはシャワーだけで十分間に合う。
広大な風呂場を見ていると、どうにも故郷を彷彿とさせる。そういえば、あの人は風呂だけは好きだったな、と。
風呂入ってくると言ってでかけておきながら一週間戻ってこないとかザラにあった。二度と帰ってくんなと思いながら過ごしていると街をぶっ壊しながら帰ってくる、手土産の現地生物に殺されかけることなんてよくあることだった。
(……風呂だけは、本当に安息の場所だったな)
風呂掃除は毎日欠かさず、水垢一つ残そうものならはっ倒される。風呂場で暴れることだけはしなかったし、魔術も使わなかった。唯一、師匠がまともに見える場所。
そのはずだったのが。
エヌラスに安息の場所はない。そんなものはない。幻想でしかなかった。
腰にタオルを巻いて、天井を仰いでいるエヌラスは綺麗に磨かれた天板にどう掃除してるのか思いを馳せつつ脱衣場から聞こえてくる鼻歌を聞こえないふりをしている。
今更ながら、ダラダラと嫌な汗が吹き出してきていた。
夕飯を食べたまではいい。だが、妙な緊張感が漂っていた。
理由はわかっている。
一緒にお風呂。うん、とても無邪気で悪意ない提案。純真無垢にして天真爛漫な一言。
誰からの? 弦巻こころ以外に誰がいるというのか。
(…………いやぁ、まずいよなぁ……)
仮にも、とはいえ。世話になっているとはいえ。厄介になっているとはいえ!
花咲川女子学園非常勤講師である身分の人間が教え子と一緒にお風呂とか、洒落にならない話。裁判沙汰待ったなし。世間から冷たい目で見られること請け合い。
なにかするわけではないので、別に問題はないとはいっても。
メイドも執事も落ち着きのない様子ではあったが、忠告も一言だけだった。
まかり間違っても間違いを犯さないように、と。俺がそんなやつに見えるか? いやそうとしか見えないけれど。
背後からカラカラと戸を開ける音が聞こえてきた。まぁほら多分お付きの人とか来てくれるだろう、黒服だって常に控えているわけだし。
流石に若い男女を二人きりで風呂場でごゆっくりなんて馬鹿な真似しないよな――そう思いながらエヌラスが首だけで振り返る。
「エヌラス、おまたせ――」
「タオルを巻けぇぇぇぇええええっ!!!!」
「?」
何も見ていない! 俺は何も見ていない! なんかこう、ピンク色のものとかなんも見てません! 見てねぇって言ってんだろ目玉潰されてぇか!!!
咄嗟にエヌラスは脱衣場からタオルを抜き取ってこころの身体に目にも留まらぬ早さで巻きつけた。首を傾げているこころに、エヌラスは死にそうになっている。
「お前は俺を殺しにかかってないか?」
「何の話かしら?」
「……いや、まぁ、俺の考えすぎならいいんだ……」
こころにそんな考えが欠片もあるはずがないのは、目を見れば解る。本当に、心底そんなことなんか考えちゃいない。
周囲を見渡しても、誰もいなかった。
「なぁ、こころ。いつもの黒服さんとか、どうした?」
「夕飯の片付けをしてるわよ?」
「……おまえひとり?」
「そうよ」
――何考えてんだお前らぁあああああっ!!!
エヌラスは表情はそのままに、胸中で絶叫する。
「……なんで?」
「? お願いしたからよ?」
「そのー………いいの?」
「ふたりきりは嫌だったかしら」
「そういうわけじゃないんだ。あー……」
どう説明したらいいものか。とにかく、こころ自身が望んで二人きりの状況を作ってくれた。それをこちらが拒否して機嫌を損ねるわけにもいかない。
甘んじてこの状態を受け入れるしかなかった。
しかし――、知っての通り。エヌラスはこころが苦手だ。色々と。
深く息を吸って、それからゆっくりと吐き出す。気持ちを切り替えて、改めて振り向いた。
身体にタオルを巻いて、いつもと変わらない笑顔を見せている。
「いつも一人で風呂に入ってるのか?」
「いつもはメイドさんとよ。身体を洗ってもらったり髪を洗ってくれたりしてくれるの」
そりゃそうか。
「……俺に洗えと?」
「洗ってくれるのね!」
おーっと、俺は自分から地雷を踏み抜いたぞ畜生? こちらが止めるまでもなくこころはそそくさと並ぶシャワーの前に腰を下ろしている。
シャンプーとボディシャンプーのボトルを手にして今か今かと待ちかねていた。
もう止めるだけ無駄だろう。
エヌラスはこころの後ろにバスチェアを置いて、腰を下ろす。
「髪、洗ってやるから動くなよ」
「ええ。楽しみだわ」
上機嫌なこころの髪を、まずはシャワーで軽く濡らして汚れを落とす。それからシャンプーを適量手にして、泡立てる。
そのまま指で髪を梳くようになじませていく。
「ん……」
何度か繰り返し、頭頂部から撫でるようにこころの髪を洗い始める。頭皮を指の腹で揉むようにして、髪と根本を傷めないようにしていく。マッサージでもされているような心地よさに、こころがまぶたを閉じた。
「エヌラスの洗い方、とっても優しくて気持ちいいわ……♪」
「そりゃどうも」
「すごく手慣れててメイドさんより上手ね」
「ああ」
片手に乗せたこころの髪を、裏側から毛先に向けて撫でていく。泡立った髪がまるで生きているかのように手のひらの上で滑る。
「……――」
――兄様、今日も髪を洗ってくれないかしら?
――私、兄様に洗ってもらうのが大好きよ。
――とっても優しくて、とっても気持ちよくて、とっても嬉しいの。満たされる気持ちになれて私は心の底から幸せだわ。
「…………」
「エヌラス?」
「妹がな。毎日のようにせがんできたんだ。一緒に風呂に入る度に、髪を洗ってくれって。身体を洗ってくれって。毎日のように」
「そうだったのね。だからこんなに上手なのね、すごいわ」
「ああ。お前みたいに、心底嬉しそうに笑って俺に身体を委ねてくれて。俺もアイツのことが好きでこうして髪を洗ったりしてやったんだよ。懐かしいな……本当に」
遠い昔の話だ。気が遠くなるほどの、昔話についつい手が止まってしまう。
こころが首だけで振り向くと、少しだけ顔色を曇らせていた。
「どうした?」
「エヌラス、なんだか辛そうな顔をしてるわよ?」
「……そうだな。まぁ、昔の話だ。気にすんな」
「エヌラスの妹なら、きっととってもステキな子ね。会ってみたいわ」
「俺もだよ。ほれ、流すぞー。ちゃんと目を閉じておけ」
「はーい」
シャワーで泡を流して、トリートメントで保湿も忘れない。ちゃんと髪も拭いておく。
スポンジを手に取ってボディシャンプーを泡立てておいた。
「背中洗うぞ。タオル取ってくれるか?」
「ええ。これでいいかしら?」
「前の方は自分でできるだろ」
「?」
「…………マジで言ってんのか」
やれと言われたらそりゃあやるが。
髪をタオルでまとめて上げて邪魔にならないようにすると、首から肩、背中に掛けて肌を傷つけないように撫でていく。しかし、こころがくすぐったそうに身体を動かすものだから中々思うようにいかない。
「ほら、こころ。動くな」
「だってくすぐったいんだもの!」
「あーもう」
エヌラスが肩に手を置いて、無理矢理身体を固定させると背中を洗っていく。
珠のような肌。浴場の湯気に当てられて火照り、艶のある傷一つ無いこころの素肌を洗い流していくと、こころが顔を赤くしていた。
「なに照れてんだ」
「……なんでかしら? なんだかドキドキが止まらないの」
「……あとは自分でできるか?」
「ありがとう、エヌラス。次はあたしの番ね!」
「いや、俺はいいよ。自分で出来るから」
「そんなこと言わずに、いいじゃない。お礼にあたしが洗ってあげるわ」
本当に人の話聞かないなお前。してあげたいと言って聞かないこころに任せることにした。
――お互いに身体を洗って、それから湯船に浸かってエヌラスは深く息を吐き出す。
広い風呂場のスペースを持て余しているが。それでも何故かこころはぴったりとくっついてきて離れない。
「……」
「……♪」
「――なぁ、こころ? これだけ広いのに、なんで俺にくっついてくるんだ?」
「ダメだったかしら」
「そうは言っていないが」
天井を見上げながら、自分に背中を預けてくるこころの頭を撫でる。視線を下ろせば、そこには無邪気な瞳でこちらを見つめてくる顔があった。
姿勢を変えて抱きついてくると頭を擦り寄せてくる。
「ん~……♪」
「こころ、くすぐったい」
「エヌラスにこうしているとすごく気持ちいいんだもの」
「……俺も心地良いけどよ。あんまり長く浸かっているとのぼせるぞ」
「それは大変だわ。早くお風呂から出ないと」
「ちょっと待てこの体勢でいきなり動くな――」
抱きついていたこころが身体を起こして湯舟から出ようとすると、お湯を吸って重くなっていたタオルがはだけかけていた。エヌラスが即座に手で押さえ、間一髪でこころに押さえさせる。
「だから言っただろうが……見えたらどうすんだ」
「エヌラスになら見られても困らないわよ?」
「俺が。困る」
「どうして?」
「あのな、こころ。いいかよく聞け? そういうのは好きな人とか」
「あたしはエヌラスが大好きよ?」
「………………」
俺はどうしたらいいんだ。思わず顔を手で覆う。
「でも、変なの。どうしちゃったのかしら」
「どうかしたのか?」
「美咲達のことを考えるとワクワクしたり、ドキドキしたり、キラキラした気持ちになるのに。エヌラスのことを考えている時はドキドキが止まらないの。なんでなのかしら?」
「――あー……それは、多分」
同性に対する好きと異性へ向けた好意はまた別なものだ。しかし、それをまともに説明したところで理解してくれるとは思い難い。それに、それを受け止めるわけにもいかない。
「風呂入ってたからじゃないか? ほら、のぼせるから早く風呂出て、あったかくして寝るぞ。明日もあるんだから」
「それもそうね!」
脱衣場へ向けて急ぐこころの背中を見送ってから、エヌラスはその後に続く。
……あれ? ここ脱衣場は男女別だったっけ? そんなことを不意に考えた。
戸を開けて、それから濡れたままのこころが立っていたので目眩を覚える。
「……すぅ――」
「?」
息を吸い込み、エヌラスはこころの耳を塞いだ。
これには堪らず、ギブアップ。獅子吼の如く、怒号が廊下に響き渡る。その声量たるや凄まじいもので、弦巻邸中で聞こえたという。
「あーもーテメェ等いい加減にしろよお前ら本当によぉ! ふざけんなよ! しまいにはブチ切れんぞ! ここ消し飛ばすのに秒もかかんねぇぞ! 俺をいじめて楽しいか!? なぁおい! 人をここまで追い込んでおいてなにがお望みだおぉん!? 地球ぶっ壊してやろうか!?」
「いけませんお客様! あーいけません! お客様、それ以上はお屋敷が! お客様お止めください! どうか! どうかそれ以上は! お客様ぁぁぁ!」
「HAHAHAHAHA! テメェ等止められるものなら止めてみやがれぇえええ!!」
暴走するエヌラスを引き留めようと弦巻家の執事が総出でしがみつくが、それをものともせず廊下を爆走している姿はさながら機関車のようだ。とても瀕死の病み上がりとは思えないほどのパワフルな走りに、メイドとこころは感心している。
「執事のみんなととっても仲良しね!」
「おほほ、そうですねこころ様。さぁ、もう夜も遅くなります。お部屋へお戻りになられて本日はご就寝なさりましょう」
「あたし、エヌラスと一緒に寝たいわ。ダメかしら?」
「こころ様。あの方は執事と戯れるのに夢中な様子。ささ、今のうちでございますよ」
「エヌラスー」
「あぁ!? なんだこころちょっと待ってろこいつらぶん投げるわ、邪魔だテメェ等ぁああああどぉりゃあああああ!!!」
『うわぁああああああああっ!?』
窓を開けて執事をちぎっては投げちぎっては投げ、全員を中庭に叩き出したエヌラスが膝に手をついて息を切らしている。
「ぜー、はー……ぜー、はぁー……あースッキリした。それで、なんか用か?」
「ええ! 今日も一緒に寝ましょう!」
「ダメ。今日は自分の部屋で寝てくれ」
「それならあたしの部屋で寝ればいいじゃない」
「俺は自分の寝室で寝る」
「……一緒に寝てくれないの?」
明確に真正面から断られて、流石にこころが残念そうな顔を見せていた。
「俺も身体が動かせるようになったからな。家に帰るし、これ以上世話になるわけにもいかない。依頼も片付けないといけないし、忙しいんだ」
「…………」
「だから。お前が寝るまでは、一緒にいてやる。それでいいか?」
「――! ええ、それだけでも嬉しいわ! エヌラスはやっぱり優しいわね」
「そんな泣きそうな顔をしておいてよく言うよ……」
パジャマ姿のこころと手を繋ぐと、すぐに寝室まで案内される。静けさを取り戻した廊下に、髪と服の乱れた執事達が息を切らしながら戻ってきた。
「お疲れさまです、皆様」
「は、はい……本当に、あの人は何なんだ……!」
こころの部屋は、様々な物が所狭しと溢れている。それはこれまでの思い出が詰まった品々。部屋の中はおもちゃ箱のように賑やかなものだった。
ベッドの上にも大きなぬいぐるみが座り込んでいる。早速腰を下ろしたこころが満面の笑顔で両手を伸ばしていた。
「エヌラス、はいっ♪」
「はい、ってお前な……」
「~~♪」
パタパタと笑顔で足を振りながら待ち構えているこころに、エヌラスは一度頭を掻いてから身体を屈めて頭を寄せる。
「ほら、ぎゅーってしてやるから」
「ぎゅ~っ!」
首に手を回して強く抱きついてきた。身体を支えながら横になると、深く息を吸い込んで嬉しそうな顔を見せてくる。背中を優しく叩いて、頭を撫でると目を細めて擦り寄せてきた。
「……あったかくって、やさしくて。もっとお話、したいのに眠くなってきちゃったわ」
「こころ。眠いなら寝たほうがいいぞ? 無理して起きても身体に悪いからな」
「…………エヌラス……手」
「ん?」
すぐに眠気に襲われて、段々と声がか細くなっていく。抱きしめてきていた力も弱くなってくると、エヌラスはこころの拘束からやんわりと離れる。それでもなにか、寂しさを紛らわせるように手を伸ばしてくるこころの手を握る。
小さくて、温かい。白く細い指が掴んで離そうとしなかった。うつらうつらと微睡むこころに添い寝しながら、エヌラスは寝顔をジッと見つめる。
「……」
「おやすみ」
「……ん……――すぅ……すぅ……」
寝息を立て始めるこころの寝付きの良さに感心しながら、すっかり大人しく眠ったことを確認して静かに離れようとするエヌラスだが、手を握るこころが離してくれない。
それでも無理に剥がそうとすると眉を寄せて小さく唸った。
仕方ないのでもうしばらく横になる。添い寝する形で自然と離してくれるのを待とうとしたのだが、考えが甘かった。
一度は離れようとしていたというのに、みすみす自分から抱き枕役を買って出た形になる。
もそもそと身体を擦り寄せてくる。無防備にして無警戒、自覚のない豊満なスタイルを押しつけてくるものだからエヌラスとしては堪ったものではない。なんか柔らかいのがよく当たってるんですけれども、本当に勘弁してもらえないでしょうか。
結局、エヌラスは朝まで一睡もできなかったし、こころが解放してくれなかったので昼までふて寝することにした。