なおーん。
「…………」
朝。
湊友希那が家を出て学校に向かおうとした矢先に、野良猫と鉢合わせした。
周囲を見渡す。ちらほらと人影が見えるものの誰もそれに気を取られた様子はない。
塀の上にちょこんと座り込んでこちらを見下ろしている三毛猫。
「……おはよう」
なんとなく、挨拶してみる。
みゃおーう。――言葉が通じているのか、どうなのか。相槌を返された。
「おはよー、友希那。あれ、また野良猫?」
「リサ、おはよう。そうみたいね」
首輪を付けている様子はない。首の下をしきりに後ろ足で掻いている。
「やっぱり最近増えたよねー、野良猫。あちこちで見かけるようになったから友希那も嬉しそうだし? ほらほらー、にゃーん」
「……」
猫の鳴き真似をしながらリサが手を伸ばす。顔を近づけて匂いを嗅ぎはするが、それ以上近づこうとはしなかった。隙を窺って喉を撫でようとするが、さりげなく避けられる。
さすが猫、侮りがたし……!
「リサ。その子嫌がっているみたいよ、やめてあげたら? 遅刻するわよ」
「ちょっとくらい撫でたかったけど、仕方ないかー。じゃーね、猫ちゃん」
なーう。やはり人語を理解しているのでは? 友希那は訝しんだ。
いつもの通学路を幼馴染と肩を並べて歩く。
いつもの毎日。いつもの日常。普段と少し違うのは、あまり見かけない男性が歩いていることくらいか。困ったことに顔を知っている。
スーツ姿の背中にリサが駆け寄り、声を掛けた。仕方ないので付き添う形で歩速を合わせる。
「おはよーございまーす♪」
「んー……? ああ、リサと友希那か。おはよう」
「おはよう……なんだか眠そうね」
「昨日も一晩中猫探してたからな……」
「まだ見つかんないの? 大変だね」
「ほんとにな。日本にいねーんじゃねーのか、あのクソ猫」
ぼやくエヌラスがあくびを噛み殺していた。ビジネスバッグを手にしているところを見るに、今日はハナジョの方で仕事のようだ。
「今日はあっちで先生?」
「できればこっちで先生は遠慮したいが、日菜がなぁ……」
「あー……ヒナがねー……」
目に浮かぶ。第二回をせがむ生徒会長の姿が。だが不思議と霊能学を受講した生徒は授業に真面目に取り組むようになっているとかなんとかかんとか(日菜調べ)。
もしかするとこれは成績アップに繋がるのでは? 授業に対するモチベーションアップにも繋がるのでは? 羽丘の教師達は、まだ様子見ではあるがその効果が持続的なものであるのかどうか気になるらしい。だが実際のところハナジョでその効果は出ている。
「仕方ないわ。猫は気まぐれだもの」
「気まぐれにしたって、どこまで足を伸ばしてるんだかな」
「そのうち帰ってくるんじゃないかしら?」
「随分と猫の肩を持つな、友希那は。なんか思い入れでもあるのか?」
「……昔、猫を飼っていたわ。それだけよ」
素っ気なく言い放つ友希那と、気にした風もなく「ふーん」とだけ興味なさそうな相槌を打つエヌラスを交互に見比べて、間に挟まれたリサは若干の気まずい空気に包まれていた。
(んー、やっぱり、なんかちょっと折り合い悪そうだなぁ。友希那、愛想ない――わけじゃないけど勘違いされやすいから)
音楽以外興味なし。なんなら学校の授業ですら二の次だ。それでも進学や卒業に必要な単位と成績はちゃんと取っている。ただそれすらもどこか億劫そうにしているが。
「エヌラスさんってなにかペットとか飼ってた?」
「いや。そういう経験はないな」
「へーそうなんだ」
「ただ師匠の持って帰ってきた……あー、珍しい生き物の面倒を見ていたことはある。これがまた一癖も二癖もあるようなのばっかでな」
興味を持つリサとは違い、友希那は視線を外して「そう……」とだけ相槌を打つ。
んー、この若干居心地の悪い気まずい空気を誰かなんとかしてくれないかなー? そんなリサの切ない願いが気まぐれに届いたのか、見慣れた五人組が先を歩いているのを発見した。
「モカー、おはよー!」
「お~? リサさん、おはようございます」
『Afterglow』の五人にリサが声を掛けて足早に近づく。
「あ、エヌラスさんだ」
「ちゃんとスーツ着てる……」
「なんか危ない人みたいですなぁ」
「ちょ、ちょっとモカ。聞こえてるって!?」
「いやいいよ、慣れてるし……だから俺もできるだけスーツとか着たくなかったんだが」
自分の風体に対する悪評は聞き慣れているらしいが、それでもいざ言われると気になるらしい。
「エヌラスさん、髪が短かったらもうちょっと印象変わると思う!」
「そうか? んー……つぐみが言うなら前髪切るか……」
「前髪上げてみたらサッパリして見えるらしいけれど」
「ほう。――こんな感じか?」
エヌラスが前髪を不意にかき上げる。その仕草がどこか大人の色気を匂わせて、ひまりが言葉に詰まった。赤い瞳の流し目と巴の目が合う。思わず顔が熱くなるのがわかった。
髪の癖もあるのだろうが、何より目を引くのが左目の刀傷。しかしそれ以上にどこか浮世離れたした雰囲気に蘭も目を惹かれる。
「……やっぱやめとく」
「えー? どうしてですか」
「なんか急に恥ずかしくなってきた」
「照れ顔も罪作りですなぁ~、ねぇ蘭ー」
「……な、なんでそこであたしに振るの。別に悪くないんじゃない。顔はいいんだし」
「ほほー、ほほぉ~、ほぉほぉ~?」
「なに……。フクロウみたいになってるんだけど、モカ」
「エヌラスさんのこと、蘭がカッコいいってー」
「バッ――そ、そういうこと言ってるわけじゃなくて……!」
モカにからかわれて、赤面しながら顔を背けた。それを覗き込もうとして、鞄を顔に押し当てられる。その様子を眺めていた友希那がため息をつく。
「……美竹さん達も、ライブハウス合同イベントに参加するの?」
「え? ええ、まぁ……『Roselia』も当然参加しますよね」
「当たり前じゃない」
「……当たり前のこと聞いて、悪いんですか」
素っ気ない態度に、思わず喧嘩腰で聞き返す。その独特のピリついた空気に、つぐみとひまりがやってしまった、とでも言いたげな顔をしていた。リサとモカが顔を見合わせて、静かに頷く。
「悪いなんて一言も言ってないわ。余裕があるみたいと思っただけで」
友希那に悪気は一切ない。それは、普段どおりである蘭達のことを評価しただけだが、どうにもそれを悪く受け止められたようだ。訂正する気がないのが険悪なムードに拍車をかける。
「これでもあたし達だって本気でやってます」
「私も音楽には常に全力で臨んでるわ」
「湊さんと違って忙しいんです」
「……私も暇なわけじゃないのだけれど」
「音楽に没頭できる時間を確保するのだって精一杯やっていますけれど」
「それはこちらも同じよ」
止めようにもここまでお互いに火が点いてしまうと一歩も引かない。なんとかなだめようにも、ライブを前にしているだけあって友希那も少しピリピリしていた。
「おい」
だが、突然浴びせかけられた冷水のような声に二人が視線を動かす。
エヌラスの顔から、穏やかさが消えていた。喉元に刃物を突きつけられている錯覚に陥るほど、背筋が凍るような心地で蘭も友希那も押し黙っている。
「喧嘩すんなら、ライブでやれ」
目が座っている。人相の悪さが際立つ。恐らく寝不足で苛立っているのだろう。
それなら確かに納得がいく。音楽のことは、音楽で決着をつける。理に適っている。道理だ。筋も通っているし、二人もそれに異論はない。その気はなかったとはいえ――。
「あー……そういえば投票もやるんだっけ?」
「確かそんなことが書いてあったよね! それにほら、まりなさんも言ってたし!」
「じゃあ当日、その投票が多かった方の勝ちってことで! 喧嘩はそれまでお預け! ね、蘭!」
「……つぐが言うなら」
「友希那もそれでいい?」
「当然よ。負けるわけにはいかないわ」
刹那の沈黙。それから互いに無言で歩き始める。
なんとか一段落ついたところで、ひまり達が胸を撫で下ろした。
危なかった……、いやちょっと手遅れだったけど。それ以上に核爆弾級の危険人物の堪忍袋の尾が切れる前に止めることができて本当によかった。恐る恐るエヌラスの顔を盗み見る。
欠伸をしていたが、背後からの気配に振り向くと身体を軽く慣らしていた。
「?」
「んじゃまた後でな」
言い捨てるなり、突然走り始める。生徒達で狭くなっている歩道ではなく、ガードレールの上を綱渡りで全力疾走するように凄まじい勢いで走り去っていった。それを見ていた生徒達が指を差しながら驚いている。
「あー! もー、エヌラスさんってばあたしの顔を見るなり全力で逃げなくてもいいじゃーん! こういう時の逃げ足は猫みたいに早いんだからー!」
――あー、そういうことね。リサは一人で納得していた。そりゃ全力で逃げるわ。
「おー。横断歩道飛び越えてるー、すごーい」
「あはは……ほんと、漫画みたいな運動神経してるな……」
巴が走り去るエヌラスの背中を見送ってから、聞こうとしていたことを思い出した。
(あの子のこと、聞くのすっかり忘れてたな……なんか知ってたらいいんだけど)
押し付けるような形になってしまうかもしれないが、昨日の子を預けようかと考えている。その話をしたら、ひまりが「見てみたい!」と乗り気だった。
蘭はやはり警察に預けるべきだと言っていたし、至極まっとうだと思う。つぐみも同じ。
モカは「そのまま弟にしちゃえばー?」と冗談か本気かわからないことを言っていた。
あこが何かと気にかけて、朝は起こしに行ったり(先に起きてたけれど)朝食で箸の使い方を教えてたり(すぐ覚えたけど)と、何かと世話を焼いていた。まぁ、多少空回りもしていたけれどその程度でめげるようなあこではない。
色白で、どこか神秘的な雰囲気の美少年。中性的な風貌からどこかいいところの生まれなのかもしれない。それならそれで、弦巻家で捜索してくれないかとも思う。
ただ、あこが連れてきた以上。警察ならまだしも他の家に預けることに巴はどこか無責任な感覚を覚えて引け目を感じていた。一度家の敷居を跨がせた以上は、家で面倒を見てあげるべきだ。
「巴? どうしたの、考え事?」
「あー、まぁちょっとな。来る時に話してた子のこと考えてたんだ」
今頃は親が仕事の前に警察に届け出を出していることだろう。
きっと、すぐに引き取ってくれる相手が出てくるはずだ――犬猫と違って、言葉の通じる人間が面倒を見てくれているはずなんだから。
「いい子にしてるだろうけど……やっぱりちょっと不安でさ」
「でも、おとなしくていい子なんでしょ? きっと大丈夫だよ」
「んー? なになに、何の話ー?」
「あー、えっと――」
トラブルに発展しないといいが――淡い期待を抱いて、先程からこちらの話題を気にしている日菜とリサにも巴は事情を説明した。
――ちりん、ちりん。
首輪の鈴を鳴らしながら、その猫は駆け回っていた。
逃げるように、自分を付け狙う相手の気配から隠れるようにして。
だが追ってくる。どこまでも追いかけてくる。何処に逃げても、何処まで逃げても追いかけてくる。敵対するものを絶対に逃さないという明白な敵意と殺意をもって、奴等は追ってきていた。
食屍鬼。屍を食らう者。本来なら地球で姿を見せるはずのない存在。
人知れず、猫たちは人類を守護してきた。目に見えない、存在するはずがない存在と。
本来の次元とは異なる場所で、猫たちは邪神の脅威と戦ってきていた。
かの御仁との約定を守るために。かの御仁が戻られるまで。あの街の猫たちは、人間の為に戦っている。
いつかは自分もその跡継ぎとなる。いつかは自分も、老齢の将軍猫に代わって猫たちを率いて戦う時がくる。
電柱の影から、黒い爪が飛び出してくる。跳ねて避ける。壁を蹴って、塀の上から民家の庭を駆け抜けて走る。走る――この四肢が動く限り走り続ける。
――俺だって、やれる。“若いから”とかいう理由で、除け者にされるのは御免だ。
俺だって、やれる。一匹だけでも頑張れる。やれ縄張りだ、やれ棲み分けだとか、そういう煩わしい制約がなんの役に立つのか。使えるものは、使うべきだ。
抜け道でもなんでも。
猫が民家から飛び出し、足を止める。自分の周囲から不穏な気配が遠ざかるのを感じ取り、警戒しながらも早足で街を走った。
鈴を鳴らして、飼い猫が走る。
このことを知らせなければ――邪神同士の争いを、一刻も早く。
「…………」
黒い人影が、壁と地面の隙間から猫を睨んでいた。一人、二人、三人――……無数に並ぶ赤い双眸は、しかし人に気づかれることはない。
このまま追跡するのは、まずい。人目につくと、こちらが不利になる。ならば確実に。
闇に紛れる手段はある。人に紛れる手段もある。
我々に与えられた黒い仏の加護とは、仮面に他ならない。それが例え欠片、砂粒ほどの気まぐれによるものであっても命を捧ぐに値する。
“人間の仮面”を付けて、彼らは雑踏に紛れ込む。
全てはナイアルラトホテップ様の為に――いあ・いあ。
我ら《悪心・影》なる邪教集団はそのために存在するのだ。