【完結】冥き宿星に光の道標   作:アメリカ兎

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第百四十幕 夢の中に未知を求めて

「ふむ……」

 ハテグ=クラの麓の村で聞き込み調査をしていた大魔導師は、金の髪を垂らしながら考える素振りを見せた。

 話の時系列を整理する。

 初代賢人バルザイと、その弟子二人。一人はウルタールの教会で身を潜めている。もう一人は審神に連れ去られて行方知れず、と。将軍が指していた鍛冶師とは、その弟子のことだろう。

 それが行方不明。だが、気にかかる。

 その鍛冶師が居なくなったところで誰が得をして、誰が損をするのか。

 将軍が気にかけるほどだ。そうなると、幻夢境に関与することだろう。

 

 村の人間の案内で、その連れ去られた鍛冶師の少年が使っていたという鍛冶場へ案内してもらった。

 村外れにひっそりと立っている木造の小屋。長らく手入れされていないのか、やけに老朽化が目立つ。周囲の青々とした木々に侵食されつつあり、自然へと還ろうとしていた。今となっては村人達も不気味がって近づこうともしない。曰く、彼は四六時中機械のように鉄を打っていたようだ。来る日も来る日も、狂ったようにただ同じ作業を繰り返し続けてきた。誰が何をしても、声をかけても、宴の日も、雨の日も風の日も。審神がハテグ=クラの頂へ姿を現した時も。その師が消えたその時でさえも――。そこで、はてと。大魔導師は違和感を覚えた。

 此処では時間の流れすら曖昧だ。時の流れが狂っている。事象が前後したとして、果たしてそれを正しく記憶できるものはいるだろうか。

 大魔導師は、白スーツのポケットから白手袋を着けて爪先を詰める。そして、金の懐中時計を取り出した。針の動きがメチャクチャな、時計としての体を成していない狂った時間を刻む懐中時計の針が不意にピタリと止まる。

 

「時針・表。分針・表」

 口訣を結び、定められた術式を起動させる。

 寂れた鍛冶場は、まるで埋め尽くすような鍵束の山だった。

 だが、鍵であってもそれは扉を開けるための小さな物ではない。手のひらに納まるようなものではなく、子供の背丈ほどもある大柄で歪んだ三日月状の刃を持つ鍵――偃月刀。これを正しく打つ者をこそ、「賢人バルザイ」と名乗ることを許される。

 数百年の歳月において、数え切れないほどの膨大な知識と魔術による魔刃鍛造を成した。それこそが、初代賢人バルザイ。だからこその、その偃月刀は名を冠しているのだ。

 バルザイの偃月刀。魔術の触媒にして媒介であり媒体とも成る、魔術師の杖であり剣。

 大魔導師とてそれを扱わないわけではないが、無用の長物となった。一時期は世話になったこともあるが、今となっては昔の話だ。

 

「時針・裏。分針・裏」

 懐中時計の針が、逆転する。時を戻すように。それは徐々に加速していき、歯車が回る。その振動で自壊してしまいそうなほどの勢いで。

 黒絹の衣で刀身を覆われた真っ黒な鍵。中にはナイフ程度の物から、天井まで届きそうな巨大な物まで。形も大きく反り返った物から反りの浅いものまで。あらゆる形状の鍵が存在していたが、そのどれもが、まるでミイラのように黒絹の布で覆われていた。

 大魔導師の懐中時計の振動に呼応するかのように、鍵束が震える。その振動によって雪崩のように崩れ落ちてはけたたましい金属音と共に地面に散らばっていった。

 この鍛冶場に足を踏み込んだ瞬間から、違和感を覚えている。ここだけが、やけに時間の流れが早い。それを正しい時間へと修正しているが――当然、此処は地球ではない。地球ではない以上は、地球外生命体。神性生物も数多く存在している。

 その中には、例えば時間旅行者を死ぬまで追跡してくる“猟犬”と呼ばれる生物もいた。だがその性質上、そう形容されているだけであった、実態は犬という形ですらない。大魔導師の魔術に惹かれるようにして、鍛冶場を囲むように現れた“ティンダロスの猟犬”は口腔から針のような舌を出して唾液を垂らし、久々の獲物を前に舌なめずりをしていた。

 

「――“逆算(リバース)”」

 その言葉を合図にして、ティンダロスの猟犬が一斉に大魔導師目掛けて様々な“角度”から襲いかかる。四方八方。三百六十度。靴と地面の隙間からさえ、崩れかけた天井の木目、折り重なった偃月刀の隙間。逃げ場も死角も存在しないほどの密度と物量で。身体を貫かれ、肉を裂かれて骨を砕かれ生きたまま八つ裂きにされて臓腑を引きずり出されて絶命して然るべきであるが、しかし――そもそもにして、この魔術師は人を超越()えている。

 パチン――、懐中時計の蓋を閉じた音と共に、静寂が訪れる。

 ただの一匹も牙が届くことはなく、その鋭利な爪が服に触れることすら許されなかった。

 白く凍てついた空間において生存が可能な生物は存在しない。長く放置されて寂れて朽ち果てていた鍛冶場は、正しく時間を揺り戻されていたが、まるで極寒の地に建てられた山小屋のように霜柱が立っていた。だが、その構造を保っていることすら叶わなくなったのか風が吹けば綺羅綺羅とした極小の結晶が流されて消えていく。

 ティンダロスの猟犬は、逃げることも引き返すこともできず、口を開けたまま“時間の角度”もろともに()()していた。吹けば飛ぶ程脆く凍りついた奇妙な氷像が自ら崩れ落ちていくのを、さも当然といった顔で大魔導師は足元の偃月刀を小突く。

 加速させられた時間の中で。狂った時の流れの中であっても形状を保持している偃月刀の完成度に感心しながらも、拾い上げて黒衣の鞘をほどく。

 手にすれば羽のように軽く。だが確かに手には確かな重みを感じる。並の魔術であれば一振りで術式ごと断ち切ることができるであろう業物の偃月刀。だが、それも急激な温度差には耐えきれなかったのか、大魔導師が腹を叩けば錆びて朽ち果てていく。

 自らを包囲していた猟犬の群れには目もくれず、大魔導師は道を引き返した。

 

 ド・マリニーの時計で戻した時間の中に、乱れがあった。それは故意的なものであり、同時に作為的なもの。

 確かに、鍛冶場には誰かがいた。弟子であり、そこに訪れた審神がいた。だが、もう一人の存在があったのだ。時間と空間に干渉することが可能な相手というのは別段珍しい話ではない。大魔導師とてその一人だ。だが、それを可能とする薬物を取り扱うものとなれば限られてくる。

 時間遡行薬と呼ばれる物がある――その調合方法を知っているのは、初代賢人バルザイのみ。

 

 正しく整理するならば。

 登山した弟子と、鍛冶場の弟子がいた。そしてバルザイは、登山した弟子の前で審神に連れ去られた。その光景を目の当たりにし、ウルタールへと生還してから隠居したのが、一人。

 そして、それらとは関与しなかった鍛冶場の弟子がいる。後に、訪れた審神に彼は連れ去られた――ならば、そこにいたもう一人は、何者か?

 答えは単純だ。

 弟子を連れ去るために、初代賢人バルザイは審神と共に幻夢境へと戻ってきた。

 その目的は、鍛冶場にあったおぞましいほどの量に積み上げられた偃月刀にある。

 あれは、鍵だ。魔術師の触媒であり媒介であり媒体であり、杖であり剣でもある。だが、その本質は門を開けるための鍵だ。

 全にして一。一にして全。あらゆる次元、あらゆる世界へと通じる窮極の門。

 即ち――《銀の鍵》だ。

 彼は、それを打ち続けていた。

 門を越えるために。門を開けるために。門を閉ざすために。

 しかし、その鍵が錠前に届くことはなく、未完成のままだ。だからこそ、アレ程の量を積み上げてきたのだ。それこそ、来る日も来る日も。気が遠くなるほどの歳月をたった一人で。

 律儀と言うべきか、従順と言うべきか、それとも機械的と言うべきか。いずれにせよ、彼は師の教えに従って鍵を打ち続けてきた鍛冶師だ。

 

 大魔導師はハテグ=クラ山を登っていた。険しく、荒れた山肌を跳ねるようにして山頂を目指して駆ける。

 山頂に辿り着く頃には天気が荒れ狂い、今にも嵐へ変わりそうだった。山頂からドリームランドを見渡せば、レン高原のストーンヘンジが見えた。麓の村も、ウルタールも。

 セレネル海を挟んだ、レン高原より遥か北方。霧に覆われて視認することは叶わない場所は、大魔導師でさえも未踏の領域だ。

 寂れ、鬱蒼とし、それでもどこか幻想的な異国の風景の中で、綺羅びやかに存在感を放つ都が存在する。セレファイスと呼ばれるドリームランドの中心、交易が盛んに行われる台所だ。まるでそこだけが時間の概念が存在しないかのように、昼夜を問わず夜闇を恐れることなく綺羅びやかで華やかに人々が過ごしている。

 ハテグ=クラの山頂で、左手を掲げて口訣を結んだ。

 

 ――ヴーアの無敵の印において、力を与えよ。力を与えよ。力を、与えよ。

 

 剣指を立てて、五芒星を描く。左手と左足の欠けた星を魔術円で囲むと、大魔導師の手が灼熱の炎に包まれた。その炎の中より“鍛造”したのは、瓜二つの偃月刀。

 反りが浅く、柄が異様に長いそれは、薙刀のようでもあった。だが、形状はどうあれコレはバルザイが鍛え上げた偃月刀に他ならない。その製法を正しく理解しているのならば。

 逆手に構えて、山頂に突き立てる。嵐のような天候から一転して、風が止んだ。

 大魔導師は腕を組んで、静かにその場で待つ。

 触媒であり媒介であり媒体であり、杖であり剣でもある鍵。その模倣品を餌にして、大地の神々に連れ去られた賢人を誘き寄せる。

 生きてすらいないだろう。大地の神々に連れ去られて、如何に賢人と称えられた者であろうとも神という存在を目の当たりにして正気でいられるはずがない。狂気に堕ちて、人の形が保てなくなったか、或いは魂を貪り尽くされて傀儡となっているか。

 

「…………――流石に早いな」

 ポツリと呟いた直後、大魔導師はふい、と。顔を上げた。

 その鼻先、数ミリを掠める刃。前髪を何本か切り飛ばしたのは、地面に突き立てたはずの偃月刀であった。

 大魔導師の制御を離れて、突如襲いかかった偃月刀は回転しながら宙で停止する。小刻みに震動したかと思えば、次の瞬間には、人間の腕が生えた。脚が生えて、頭が。まるで偃月刀から生み出されるようにして、しわがれた老人が現れる。

 頭髪は白く褪せて、世捨て人同然の薄汚れた厚手のローブに身を包んでいた。枯れ枝のような脚と腕、深く窪んだ目頭に、だが奥に秘めた眼光だけは狂気に満ちている。

 髭に埋もれた口からは、瘴気を滲ませた言葉だけが呪詛のように吐き出されていた。

 時間を切り裂いて現れた初代賢人バルザイの変わり果てた姿を見て、大魔導師は肩を竦める。

 

「もうろく爺め」

「……――――!」

 目を見開き、触媒とした偃月刀の柄を握りしめた賢人バルザイが、大魔導師の目の前で打ち直した。火の粉を払いながら、瞬く間に鍛造した刃は大きく分厚い鉄板のような偃月刀。その強度も魔術精度も段違いだ。急拵えの模倣とは比較にならない頑強さを放つ偃月刀をかざし、枯れ木のような腕を伸ばすと炎に包まれた。

 二刀流――、だが三刀流。四、五、六。まだ増える。

 

「ぉぉ……! ぉぉぉ――、許せぬ。許せぬ。許せぬ……!!」

「……ふむ」

 宙に浮かぶ賢人バルザイの周囲に浮かぶ偃月刀八本。そして、手にした二刀流。合計十本。その全てが一切の遜色なく同じ強度、同じ精度、同じ骨格。“完璧なる模倣”を成している。

 

「久しぶりだな、バルザイ。私を覚えているか」

「許さぬ、赦さぬ。許さぬとも! 私は未だ届かず、私は未だ至らず、我が身は未だ果てぬ」

「おいクソジジイ。人の話を聞け」

「鍵を、鍵を、鍵を。鍛えねばならぬ。打たねば。幾星霜、幾星霜――邪魔立ては」

 大魔導師は髪をかきあげて、嘆息した。

 このもうろく爺め。舌打ちをひとつ。

 敵意と殺意。瘴気と神気。もはや、賢人の威光はそこにはなく、神気に当てられて狂った賢者だけがそこにはいた。

 怒気を放ち、語気を荒げながら、叫ぶ。地面に届くほど伸びた白髪と、長く垂れた白髭を振り乱しながら、目を見開いて。顔に爪を立てながら喚く。

 

「鍵を、打ち続けろ! 鍛え続けろ! 何をしている! コレではダメだ! この程度ではダメだ! ダメだ、ダメだダメだ――足りぬ! おお……おぉぉ……! やめろ、やめろ! これでは壊れてしまう。これでは、砕けてしまう。滅びてしまう。何が、なんだ、何が足りんというのだ――!!! おお、おおぉ! 我は汝を解放する。この場を安らかに離れ、我が呼び出すまで戻るなかれ! この枯れた身では最早たどり着かぬのか。この命では届かぬというのか。この魂では足りぬというのか! 否、否、否! 我は賢人バルザイ! おお、見よ! 大地の神々よ。審神よ! 見ていろ、見るがいい! 我が秘術、我が魔術、我が秘法、我が魔導! 我が打ち鍛えるは――“魔を断つ剣”なればこそぉっ!!!」

 そこで、初めて賢人バルザイが大魔導師へ視線を向けた。偃月刀の切っ先を突きつけながら、唾を飛ばしながら怒号を飛ばす。その剣気と瘴気と剣風だけで雲が裂かれ、嵐が断ち切られた。

 

「人類は、貴様などに負けはせんッ!!!」

「勝てる人間がいるなら連れてこい。相手をしてやる。なに、()()()だ。クソジジイ」

 バルザイの魔力に呼応して偃月刀が飛び交う。陣形を組みながら、刃を重ね合わせて翼のようにしながら大魔導師へ向けて斬りかかる。

 魔力を集中させて、黄金の十字架を手にして偃月刀を防ぐ。しかし、その手応えに眉を動かすとその場から横に飛び退いた。

 打ち合った、その刹那。触れた魔力が断ち切られる感触を感じ取って回避に移ったが、まるで空を舞う怪鳥のように軽やかな動きで賢人バルザイが迫る。

 偃月刀から放たれる鋭い風圧の刃が頬を掠めた。どこ吹く風と涼しい顔で捌いていた大魔導師だったが、ハテグ=クラの山頂より打ち上げられて全身を使った振り下ろしには防御魔術を展開する。黄金色の魔術円は、しかし賢人バルザイの渾身の一撃によって粉砕された。

 その衝撃によって、暗く淀んだセレネル海へと吹き飛ばされていく。海面に直撃するかに思われたが、空中で身体を回転させると海面に“着地”した。

 

 あろうことか、流氷の上に立っている。だが、大魔導師の足元以外。沿岸部にもそのような氷は存在しない。

 ――()()()()()()()()()()()()()

 頬に走る違和感と、じわりと熱くなる掌に視線を向ける。

 大魔導師の掌には血が滲み、皮膚が裂けていた。頬を拭えば、手の甲がわずかに赤く汚れる。

 

「血を流したのはいつ以来だったか」

「――逃さんッ!!!」

「やかましい」

 無造作に足を踏み鳴らし、流氷から氷柱を蹴り飛ばす。正面から断ち切りながら真っ直ぐ大魔導師目掛けて十連の斬撃を放つ賢人バルザイの剣技の冴えは凄まじく、足場にしていた氷の断面が遅れて割れる。しかし、それを今度は避けてみせる大魔導師は素手で刃を払い除けていた。

 両手に握りしめていた偃月刀に炎が灯る。大きく振りかぶり、遠投。

 

 攻刃結界の展開速度に、大魔導師の反応が遅れた。

 まるで意思を持つかのように十本の偃月刀が迫る。氷の上に突き立つと、賢人バルザイの魔術によって陣を結ぶ。

 陽炎のように空気が揺らめいた次の瞬間、大魔導師が膨大な熱量の焔の円柱に包まれた。

 

「死すらも死せる、永劫の時の中で眠れ――!」

 神性の炎に包まれては如何なる邪悪も悪意も存在することは叶わず、焼滅するしかない。

 ――しかし。その紅蓮の中、青く燃え盛る焔の中で人影が揺らめいていた。

 パチン、と。指を鳴らされる。ただそれだけで焔がかき消えた。

 眼孔から目が飛び出すほど、賢人バルザイは驚愕に震えていた。

 確かに、魔術は発動している、その術式も間違いない。止めた覚えもない。だが、攻刃結界による焼滅術式が中断させられていた。まるで“停止”させられているかのように。

 

「温い。精々が数万℃といったところか。嗚呼、自分でもわからんがな? “その程度”かと思ってしまうのだ」

「ぬ、ぅ――!!」

 スーツの煤を払い落としながら、大魔導師は淡々とした動きで左手をゆらりと前へ突き出す。

 ――黄金の弓。その弦を右手で掴むと、黄金の矢がつがえられる。

 

「私を焼き滅ぼすというのなら“無限熱量”でも持ってこい」

 超密度の術式によって編まれる魔術が、大魔導師の手より放たれた。だが、賢人バルザイの反応速度はそれより速い。自分の身体を貫かれるよりも先に偃月刀を手にして切り払った。

 無造作に触れた、攻刃結界を維持していたはずの偃月刀が砕け散る。まるでガラス細工のように呆気なく。

 再び指を鳴らす。それが合図であるかのように、全ての偃月刀が砕け散った。

 

「どうした? 貴様が鍛え上げた自慢の“鍵”はこの程度の強度か、賢人バルザイ?」

「――な、ァめるなぁああ!! なめるなよ、怪物め! 我が魔術、我が秘術、我が秘奥! その程度で!」

 激昂する賢人バルザイを前にして、大魔導師はどこか哀れんだような視線を向ける。

 その程度。嗚呼、確かに、この程度でしかない。

 火の粉が舞う。空を覆うほどの魔刃鍛造。その全てが、バルザイの偃月刀。

 

「死すらも死せる、か。生憎とこの俺にとって――ただ一度の生涯において、死を超越できん存在など興味すら失せたよ」

 その全てが、打ち砕かれる。音を立てて瓦解していく。

 何が起きているのか。何が起こっているのか。一体、何が自分の身に起きているのか。賢人バルザイの叡智を持ってしても、それは理解しがたい超常災害だった。

 吐き出す吐息が冷たい。いや、熱い。肌の奥に突き刺さるような痛み。全身を針に刺されているかのような感覚。痛みすら感じない。身体が動いているのかも危うい。それでも目だけで空を見上げた。

 ――空が、割れていた。正確には、砕けていた。空気が凍りついている。呼吸するだけで人を死に至らしめる絶対零度。氷の牢獄だ。

 攻刃結界が停止したのは、燃やせるだけの空気が存在しなかったから。熱量が発生するよりも先に、全てが死に至っていた。

 

「ああ、だからな。()()()()()()()()()()()()()のだ。この俺の、冗談半分程度で死ぬようならばその程度。神すら死せるこのご時世だ、死んで結構」

 ただ、歩くだけで空気が砕けていく。おぞましい音を立てながら、大魔導師は身動きのとれない賢人バルザイへと歩み寄る。恐ろしくのんびりとした歩調で。――この時、賢人バルザイは気づいていなかったがすでに両足は凍死し、両手の指先は壊死して痛覚すら死んでいた。

 狂気が。

 狂気の怪物が。

 倫理の破綻した生命が。

 ――おぞましく、神々しく、黄金の輝きを放ちながら、死神が歩み寄ってくる。

 

「貴様の秘術も、貴様の魔術も、貴様の魔導も“既知”の範疇だ。退屈なものだぞ? どこまでやっても計算の範囲内というのはな」

「――――……あ――あなた、は……!」

「狂気に呑まれた賢人など、見るに耐えん。愚かに死ね」

 大魔導師が賢人バルザイの目と鼻の先で指を構えて、鳴らした。

 そして、目の前でガラガラと音を立てて崩れ落ちていく姿を見届けてから背を向けてウルタールへ歩き出す。

 セレネル海の上を歩きながら、大魔導師は退屈そうに首を鳴らしていた。

 空気が凍りつくほどの極低温の中、呼吸一つせずに。

 

「退屈しのぎにもならん」

 流氷が溶けて消えていく。その上に乗っていた人の形をした肉片を求めて凶暴な海動物達が群がるものの、氷に感染して凍死していった。

 

 

 

 かくして、一連の調査を終えた大魔導師が見たものは。

 ウルタールの噴水広場で猫まみれになってリラックスしている湊友希那の姿だった。

 はて、気の所為でなければ夕方辺りにも見たような光景。

 

「おい将軍。例の事件調査を終えたが、貴様よくもまぁ人のことを使い走りにしてくれたな。たかがあの程度の事件で。いい度胸だ。思う存分モフる」

「ほっほっほ、お疲れさまです。いやしかし、そこは、ん゛な゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛!!」

「…………」

 将軍猫の嫌がる断末魔を聞きながらも、友希那は夢の中で心地よい眠気に誘われて目蓋を閉じていく。

 意識が落ちるその前に、せめて、目の前のにゃーんちゃんの匂いだけでも胸いっぱいに――!

 

 

 

「…………――――」

 鼓膜を叩く目覚まし時計のアラーム音。しばし、呆然と天井を見つめる。

 驚くほど目覚めがいい。手元にあるはずの猫の温もりも、埋もれていたはずの猫の柔らかさもなくなっていたのはとても口惜しいけれども。

 なぜか、物凄く調子が良かった。

 今日も一日、頑張ろう――。

 友希那はそう意気込み、目覚まし時計を止めてベッドから降り立った。


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