――宇田川家。
「んー……、ん~……」
ベッドの心地よさから抜け出せず、毛布にくるまってまどろむ至福のひととき。ましてや、春うららかな穏やかな暖気と朝日。まだ少しだけ肌寒さを覚えるが、それがますます巴をベッドに縛りつけていた。
起きなきゃ。だけどこの布団の温もりに抗えない。あと五分だけ――、そうしたら起きよう。
そう決めて一度だけスマフォのアラームを確認する。きっかり残り時間五分。
……五分経過。アラーム始動、停止。二度寝敢行! 今日だけ! 今日だけだから!
「はー……」
ぼす、と。枕に頭を埋めて巴は再びまどろみの中に沈んでいく。その時、扉がノックされた。恐らく母親に起こすように言われて、あこでも来たのだろう。朝から元気ハツラツで機械的なアラームよりもよっぽど効果がある。
少しだけイタズラをしてやろうと思い、狸寝入り。起こしに来たあこを驚かせてやろう。
やがて部屋に入ってくる気配が近づいてきて、自分の身体を軽くゆすってきた。まだ眠ったふりをしていた巴だったが、少しだけ違和感を覚えつつも、一気に毛布をひっくり返して相手を捕まえる。
「そいやぁーっ!!」
「うひゃー!! お姉ちゃんに捕まったー!」
――なんて、想像していた反応は全く返ってこなかった。
「……そ、そいやー?」
恐る恐る、自分が掴まえたてるてる坊主と化した相手の顔を拝見するべく頭からかぶせた毛布を振り払うと、そこには相変わらずの無表情でるーが硬直している。
感情の読み取れない顔をしているのも変わらず、自分にかぶせられた毛布の手触りを確認していた。
「あー……ごめんな、るー。てっきり、あこが起こしに来てくれたかと思って」
「……」
怒ってるのか、それとも呆れてるのか。巴の言葉が聞こえていないのか、何枚か重ねていた毛布の中から薄手のシーツを手にして――思い切り振りかぶると巴を覆い隠した。
「わぁあっ!? な、なに!? どうした!」
真っ白に塞がれる視界、それからやがて自分に向かって何か大きな物が抱きついてきたのがわかる。すぐにシーツを引き剥がすと、お返し、とでも言わんばかりに腰にしがみついていた。
じっと見上げてくる目と視線が合う。表情は全く変わらない無愛想極まりないが、どこか愛嬌が感じられる。無口なネコ。そんな言葉が巴の脳裏をよぎった。
パタパタと階段から足音が近づいてきている。それこそ、あこの足音だった。
「おねーちゃーん、朝ごはんできてるよー!」
「あれ、珍しい。あこが先に起きて支度してるなんて……もしかして」
自分にしがみついていたるーが、すぐに離れる。
先に起きていて。それから、二人を起こしに来てくれた。そう考えるのが自然だ。
「るー、朝早いんだな……アタシもすぐ支度しないと。着替えるから外で待っててくれるか?」
小さく頷いて、素直に部屋から出ていくとあことすれ違う形で階段を降りていく。
「あ、お姉ちゃん起きてた! ふふーん、今日はあこの方が早起きだもんね!」
「おはよう、あこ。まー、アタシもさっき起きたばかりだからなー。るーに起こされたのか?」
「えっ、なんでわかったの!?」
「なんとなく。どんな風に起こされたんだ?」
ふと好奇心で尋ねてみた。巴は身体を軽くゆすられたが、それであこがあっさり起きるとは考えにくい。
「んーとね。ベッドから落とされたの」
「……アタシの時とは随分と対応が違うな」
「でもね、るー君って意外と力持ちなんだ! ベッドから落ちたあこの事受け止めてくれたの! すごいよね! やっぱり男の子って感じ!」
「はは、あこは軽いからなー。さて、アタシもすぐ着替えるから先にご飯食べてていいぞ」
「はーい!」
朝から元気ハツラツなあこの快活な声に、巴はパジャマのボタンに手を掛ける。
ぱたん、と扉を閉められてから――不意に、昨晩のことを思い出していた。
「……あれ。アタシ昨日の夜、部屋の鍵閉めたよな……? 気の所為かな……?」
狼男達の騒動はネットでも話題に挙がっていたが、それを真に受ける人間は多くなかった。というのも、あくまで書き込みだけで確認されていたからだ。写真や映像を偶然にも撮っていた人間はいなかったし、そう都合よく映像に残るものでもない。しかし、女子高生達の間ではその怪事件はあっという間に広まっていた。
特に、羽丘女子学園では朝から話題をかっさらっている。
霊能学講師兼オカルトハンター兼ライブハウススタッフという奇妙奇天烈極まりない職業の成人男性について、あれやこれやと憶測が飛び交い――再燃する今井リサへの疑惑。
自分だけが被害をかぶるのはいい加減うんざりとしたのか、ここぞとばかりに青葉モカへ飛び火する。
「最初に出会ったのは夜の公園でー。ベンチに座って黄昏れてた人にリサさんが声を掛けたら行き倒れてて、パンとクッキーで餌付けしたのが始まりでしたねー」
「あー……そうだね。なんかそれが遠い昔のように感じるけど、まだ一月も経ってないんだよね……あの人と出会ってから一日の密度がホントもーやばくて」
「毎日が新鮮で飽きないですねー」
ポツポツと在りし日の出来事を呟く。しかし、それくらいのものだ。普段は花咲川女子学園の方で出没している事が多い。それにライブハウス『CiRCLE』でもまるで珍獣見物ツアーさながらの様相。エヌラス目当てで表のカフェに足を運ぶ人達は多かった。
左目の刀傷さえ気にしなければ、ちょっと人相の悪い面白いお兄さん、という外見なのもあるのだろう。
芸能人さながら、包囲されていたリサとモカのところへ日菜と麻弥も混ざってきた。
地方の遠征ロケの際に、白鷺千聖が誘拐未遂に遭遇。これを人知れず解決に導いた、という出来事も語られて騒然となった。それをまったく知らされていなかったつぐみも愕然としている。
「あの時は大変だったねー、麻弥ちゃん」
「そうですね。本当に一時期はどうなることかと思いましたよ。でも千聖さんも無事で、こうしてジブン達が学園生活送れてるのもエヌラスさんのおかげですね」
「そうそう。あと兼定さん」
「兼定さん……あ。あの髪の長い人?」
商店街で話したことを思い出して、蘭が口に出すと、日菜が頷いた。だが、それきり兼定の話題には触れようとしない。麻弥も詳細は知らないのか首を傾げていた。
「そういえば、以前戻ってきてからどうしたんでしょうね? ハナジョの方で姿を見せたとか聞きましたけど」
「さー? あたしはよく知らないけど」
「うーん……ちょっと気になりますね。機会があればエヌラスさんに聞いてみます」
朝のホームルームが始まるまでの間、生徒達の間ではそんな話題一色だった。
昨日の校門前で起きた不可解な現象について、教師達はその騒動を野良犬が入りこんできたものとして処理することに職員会議で決定していた。どこからどう見ても、怪事件の一種だったのだが、職務の範疇を越えている。度が過ぎる問題は、自分たちで処理できる範囲内に収めておきたいのが大人の処世術だ。
その肝心の張本人は花咲川女子学園にも姿を見せていないらしい。しかし、うっかりひまりが口を滑らせた。
――バンドのサポートをしてくれる、と。それには巴も蘭も顔を覆った。なんでそう、火に油を注ぐような発言をここ一番でやらかしてくれるのか。
盛り上がる教室に担任が入ってくるなり静かにするように注意を促す。
それからは、いつも通りの日常がただ緩やかに過ぎていく。何事もなかったかのように。
嵐の前の静けさ。驚くくらい、何も起きない穏やかな日々に、人々の好奇心も徐々に薄れていった。
――エヌラスは、ライブハウス合同イベントの打ち合わせに顔を出している。とはいえ、特に自分が何かするわけでもなく、あくまでもイベントスタッフとして参加する以上は情報が早い方がいい。特にガールズバンドと接触する機会の多い人物だけに、ちらほらと名前と顔も知られていた。なんでも『Roselia』を代表に、パスパレにも明るいということで。まだまだ新米アイドルユニットとして活動中とはいえ、芸能関係にも幅を利かせる事ができるスタッフというのは重宝される。それと同じくらい、不穏な噂も流れているようだが根も葉もない話だ。
ガールズバンド時代、と称されるだけあってエヌラスを除いて九割女性。一割は自分と数えるほどしかいない男性。
特に口を挟むわけでも、意見を出すわけでもなく当日のイベントスタッフ達との顔合わせとおいう色合いが強い。
「……対バン方式?」
簡単に言ってしまえば、総当たり戦。参戦するバンドが多ければ多いほどその演目も増えるわけで。現状のままであればそこまで長くはならないと見られていた。開催もまだ先の話だ。
エヌラスとしてはそれで助かるのだが、あまり先延ばしにされても困るのも事実。しかし、ライブハウス『Galaxy』の試みに意見を挟むつもりもなかった。多少の誤差は予想の範疇内。
まりなが『CiRCLE』代表として出席している傍ら、エヌラスは店内を見て回る。商店街の片隅にあるビルの中に、そのライブハウスはあった。
対抗バンド方式による総当たり戦。優劣を競うというよりは、演奏技術の切磋琢磨を主体としたものだ。どれだけ観客の心を震わせることができるか、というもの。技術だけではなく、その瞬間における熱量の大きさ。もちろんどんな楽曲でも自由だ。
エヌラスは「ねこあつめのお兄さん」だの「野良猫のボス」だの「猫と和解した不審者」だのと散々な言われようだった。なんか不名誉なアダ名が増えていることに疑問を抱きながらも、全部否定しきれないことが悔しい。
打ち合わせ開始から数時間後、気づけば昼を回っている。そこで今回は一区切りとしたのか、関係者各位がぞろぞろと会議室から出てきた。まりなも身体を大きく伸ばしている。
「おつかれさまです、まりなさん」
「ん~~! はぁ。お疲れ様、エヌラスさんの方はどう?」
「へ、俺? まあなんか散々周囲から弄り倒されてました。猫の話題と他のライブハウスがどんな感じなのか聞いてたくらいで」
「…………」
「仕事はしてましたよ?」
「じゃないと困るんだけどねー……」
とはいえ、当日。スタッフ同士の衝突でイベントが滞るような心配はなさそうだ。こういう時無駄に社交性の高い人材は助かる。特に変な意味で有名なスタッフは共通の話題に事欠かさない上に顔も広い。日本は狭い国だ。
「ま、いっかぁ。こっちもいい感じに話もまとまったし」
「こういうのって普通決めてから開催するものなんじゃ」
「色々あるの。色々。ほら、今あちこちでおかしな事件増えてるし?」
「ソッスネー」
エヌラスはまりなから顔を逸らした。すいません、そのおかしな事件におもっくそ首突っ込んでる張本人でごめんなさい。
「その、おかしな事件についてもちょっと聞き込みしてました」
「収穫の方は?」
「ぼちぼち、といった感じ」
「ふーん。詳しいことはお昼食べながらにしよっか」
「りょーかい。どこ行きます?」
――刀剣盗難事件から、日本各地で“おかしな出来事”というのは跡を絶たない。
例えば、七不思議。例えば、学校の怪談。都市伝説と様々な形ではあるが、どれもこれも古くから日本で広まっているオカルトだ。
「で。専門家の見解は?」
「専門家って、俺ですか」
「他に誰がいるの。そんなオカルトハンターなんて怪しげな仕事してるの」
「んー。珍妙奇天烈奇々怪々生き様珍道中快進撃な頭がちょっとアレな暇な人?」
「……私の目の前にいない?」
「気のせいかと。すいませーん、注文いいですかー」
『Galaxy』が入っているビルの中にある飲食店フロア、そこのファミレスで手軽に済ませようと考えていた二人。しかし、まりなの目の前に運ばれてくるのはパーティーサイズのサイドセット。当人も普通に丼だのパスタだの定食だのと片っ端から注文している。
「なんか私の目の前で一種の怪事件が起きているような気が……」
「人一倍大食いなだけです。もぐもぐ。しかし、日本の食文化って不思議っすねー。もぐふご。いや大抵美味しいからいいんですけどね。もぐむしゃ」
「食べるか話すかどっちかにしません?」
カレーライスを平らげて、コップの水を飲み干すと注ぎ足してエヌラスは一度テーブルの上のプレートを端に寄せた。次の注文が来るまでの間、口元を拭いて待つ。
「軽く十人前近く食べてません……?」
「気の所為かと。で、話を戻しますと――」
「お待たせしました。煮込みハンバーグでーす。空いているお皿下げちゃいますね」
「あ、はい。お願いします。おー美味そう」
「…………」
なんというか、食べるのが楽しそうな姿を見ていると小さな悩みなんかどうでもよくなってきてしまう。ナイフとフォークで綺麗に小分けにして、一口サイズにすると口に運ぶ。
「んー、肉。実に肉感たっぷり。おたえ絶対気に入るだろうな」
「あ、ポピパのギターの子? そっかー、あの子ハンバーグ好きなんだ。でも、私がいるのに他の子の話をするなんて隅に置けませんねーエヌラスさんも」
ちょっとからかってみようかといたずらっぽく言ってみるが、エヌラスはそれに何か問題でもあるのか、と眉を寄せていた。
「顔が広いのも大変なもんで」
「仲良くするのも程々にしてくださいね」
「――まりなさんとも?」
「へぅ――?」
思わず変な裏声が出てしまう。器用にも、崩れやすい煮込みハンバーグを綺麗に切り分けてフォークで刺すと一口サイズの肉片をまりなへ差し出していた。
「美味いですけど、一口どうです?」
「え、あー……私は遠慮しておこうかな」
「さいで。機会があればどうぞ。オススメするんで」
「……女たらし」
「なにか?」
「なんでもありませんっ。もぐもぐ」
少しだけ頬をむくれさせながら、まりなは自分が注文していたパスタを口に運ぶ。
「で、さっきのおかしな事件についてですけど。この近くだとちょっとした幽霊騒ぎくらいみたいで特に注意するほどでもないかと」
「“口裂け女”とかは?」
「名前からしてもう察せる正体」
軒並み、怪異というのは深夜に現れる。月が出てから騒ぎ始める以上、対策は容易だ。暗くなる前に帰る、これに尽きる。そして、その頻度も夕方から深夜までがピーク。夜明け前には影も形も残らない。証言もいくつか集めていた以上、確実だろう。
ちょっとした怪談話に花を咲かせつつ、エヌラスは彩りが欲しくてシーザーサラダを追加で頼んだ。
「どれだけ食べるんですか」
「食わなきゃやってらんないんで。ここのは奢ります――まりなさん、デザート食います?」
「太っ腹。奢りなら頼んじゃおうかなー♪」
「なんて現金な!」
――野良猫達の協力もあって、この周囲一帯はそれほど脅威となる怪事件は起きていない。だがそれはあくまでも猫達の手でも解決できるほどのものでしかないということの裏付けだ。
それ以上は自分の出番だ。
まるで最初からこの星が邪神の巣窟でもあったかのような錯覚を覚えるのは、不意に顔を覗かせる不穏な気配のせいだ。それは、まるで霞のように存在感が薄く。しかし確実に居るという感覚。その気配は、日に日に強くなっていた。
地球各地で起きている行方不明事件も、それが関与しているのだろう。だが、行動パターンが全く予想できない。それだけに、明日にもこの日本に来るのではないかとエヌラスは気を揉んでいた。
もしそうなれば、こうしてメニュー表に目を通して何を注文するか笑顔で選んでいる月島まりなとの関係も終わってしまいそうな気がする。気さくな友達という感覚で話せているだけに、やはり名残惜しさを覚えてしまう。だが、いずれは。いつかは、そうなるのだ。
心の傷跡は、浅い方が良いだろう。だからこうして、他愛ない話題に花を咲かせている。
――女は甘いものは別腹という。それはまりなも例外ではなく、三つあるケーキのうち、全種類追加していた。エヌラスはそれにパフェも追加して食べていたが。
後に「胃袋銀河系おばけ」という話題が人知れず広まったのは別な話。そのことをエヌラスは知る由もない……。