『Roselia』がスタジオ練習を終えて、休憩していたラウンジの扉をノックして入ってきたのはまりなだった。手にはチラシを持っている。『Galaxy』で開催されるライブイベントの詳細が追って決まった事の報告だ。来店しているということもあって、直接連絡に来たようだ。もちろん他の参戦バンドには電話で通達している。
ソファーに座ってリサのクッキーを黙々と食べている姿は、まるで小動物。リスかゴールデンハムスター。頭を撫でられても特に嫌がる様子もなく、可愛がられていた。
「合同ライブイベントの名称は『Galaxy Circuit!!』に決まったみたい。うちも合同って形になるから、名前も入れたいってことで。投票があるって言っても緊張しないで。普段通りの演奏で舞台を盛り上げれば良し」
「だってさ。るーくん、わかった?」
「…………?」
クッキーを食べるのに夢中でまりなの話を聞き逃していたようだ。あこの問いかけに首を傾げている。
「甘いの好きなのかな……」
「リサのクッキーは美味しいもの。仕方ないわ」
「えーっとね。あこ達以外のバンドが集まって、バーンッ! って演奏して盛り上げる感じ!」
「…………」
「その説明で理解できるのかなぁ……」
しばし、クッキーをかじりながら動きが止まっていた。それから間を置いて、頷く。
あ、理解できたんだ今ので……。その居合わせていた全員が声にはしなかったものの、同じことを考える。
「おねえちゃんのバンド『Afterglow』も出るから、当然来てくれるよね?」
「…………」
「やー、チケット無いから無理じゃないかな?」
「あ。そっか。えっとー」
それも説明してあげたところ、すんなりと理解してくれたらしく頷いていた。だが、チケットも無料ではない。出すものを出してもらわないと、当然ながら入手は叶わない。かといって自分達のお財布から出すのも限りある。
その様子を見ていたまりなが少し困ったように笑っていた。
「よーし。それじゃ、今回は私の方でその子の分をなんとか用意してみるよ」
「え、いいんですか!? でもそんな、悪いですって」
「気にしない気にしない。こういう時はエヌラスさんに立て替えてもらうから」
(エヌラスさん、かわいそう……)
残念なことに同情するのは燐子だけである。あこは素直に頭を下げて感謝していた。クッキーを食べようとしていたるーの手をとって、上下にぶんぶんと勢いよく振っている。
「やったーっ! ありがとうございます、まりなさん! るーくん、あこ達のライブ楽しみにしててね!」
「…………」
「あこの右手に封印されし邪神の力がなんかこう、スバーンッ!って感じで盛り上げるから!」
「……――」
不意に、両手であこの右手を掴む。
「ひゃぁ!? る、るーくん?」
「…………」
むにむに。ツボを押すように何度も手の甲と掌をひっくり返し、なんの変哲もない手を不思議そうに見つめていた。
「え、ええと……るーくん? 本当に、封印されてるわけじゃないから……ね? あこちゃん、困ってるよ……?」
「…………」
燐子に言われて、おとなしく手を離すとあこの顔は赤くなっている。
「……るー、くん? もしかして、男の子?」
「? はい。そうみたいですが……」
「女の子だと思ってた……」
「驚くほど無口ですが、とても良い子ですよ」
紗夜の言葉に、まりなが頷いた。それから目線の高さを合わせて、自己紹介。
名前を聞いても答えない。家を聞いても答えない。両親のことを尋ねても無回答。コレには困ったまりなも愛想笑い。
「こういう時に限ってエヌラスさんはどうして来てくれないのかなー。さっきも電話があって「少し遅れます」とだけ。オーナーも人が良すぎるんだから」
元々それほどシフトは入れていなかっただけに期待値は低かったものの、それでも限度というものがある。これでは突然解雇を言い渡されても仕方がないが。
『Roselia』も練習が終わった以上は長居するわけにもいかず、友希那達は荷物をまとめて店を後にしようとしていた。
「それじゃ、まりなさん。お疲れさまです」
「ええ。またいつでも来てちょうだいね! るーくんも。見学なら歓迎するから」
「…………」
やや、間を置いてから――るーは頷いた。小さく手を振って、まりなにお別れの挨拶をする。あこに手を引かれて『CiRCLE』を後にしていた。
「……あれくらい可愛げがあればなー」
どこぞの誰かさんもあれぐらい素直ならまだ許せるというのに、なんというかいい年して開き直るものだからなんというか、頼りないというか情けない。いや別に全然まったく好意とかそういうのはないんですけど? ――まりなは誰に言い訳するでもなく、一人で頷いていた。
ただ。あの危うさがどうしてか、気にかかる。
茜色の夕日に街が染められる時刻になって、『Afterglow』のメンバーが『CiRCLE』へと来店した。予定していた時間まで、皆で集まって勉強会をしていたらしく、楽器だけでなく鞄も持ち合わせている。店内に入るなり、ロビーを見渡していた。
「こんにちは」
「あら。『Afterglow』のみんな、こんにちは」
「はい。……あの、エヌラスさんは? 表のカフェにもいませんでしたけど」
「エヌラスさんねー、なんか今日は少し遅れるって電話があって。まだ来てないのよ」
「……そうなんですか」
「ごめんね。代わりに謝っておくから」
「い、いえそんな! まりなさんが謝るようなことじゃないですし……気にしてませんから」
蘭が軽く頭を下げる姿に慌てている。
「でもー、約束したのに女の子待たせるってダメだと思うんだけどなー」
「そうかもしんないけど、エヌラス先生も忙しいみたいだし。なにか急用とか出来たのかもしれないよ?」
「んー、つぐが言うならそうかもしんないけどー……なんか怪しいことしてたりして」
「怪しいこと?」
「例えば……」
モカが話をする前に、『CiRCLE』の前がにわかに騒がしくなった。何事かとひまりが振り返れば、扉を開けてシャツを着崩して汗だらけのエヌラスが膝に手を当てて息を整えている。今しがた寝起きといった様子で。
珍しく、大きなバッグを抱えている。
「あ、あぶねぇ……! ギリギリ間に合っ、てねぇなこれ……!」
「エヌラスさん、こんにちは……」
「おう、こんにちは……! あー、はは。まりなさんも遅れてすいません」
「まったくです。お昼に連絡があったとはいえ、急に遅れるなんて。何があったんですか」
「ちょーっとした急用ができまして。色々と手続きに時間を取られましてね? いや大したことじゃないんですが」
「…………」
眉を吊り上げるまりなから逃げるように視線を逸らして、急いでスタッフルームに向かってエヌラスが小走りで去っていく。
「はぁ。本当にあの人ときたら。あんな調子で大丈夫なのかな……それはともかく、みんなはスタジオ練習頑張って。ライブイベントの詳細は終わってから伝えるね」
「はい。ありがとうございます……じゃあ、いこっか」
「そういえば、巴ちゃん。今日、あこちゃんが男の子連れてきたみたいだけど」
「もしかして、るーのことですか?」
「そう。その子。今、お家で面倒見てるんでしょ? 大変じゃない?」
「まさか、全然。うちの両親も「弟ができたー」なんてのんきに喜んでましたし、家事も手伝ってくれてるし。すっごく良い子で逆に助かってるくらいです」
「ならよかった。次のライブイベント、あの子の分のチケットも用意してあげるって約束したから、今度来た時に渡しておくわね」
「え、ホントですか? でもそんな、チケット代もタダじゃありませんし」
「エヌラスさんが立て替えてくれるから」
当人に話は通していないが、多分大丈夫だろう。ダメでも押し通す。
「もしかしたらうちの新しい常連さんになるかもしれないし。そこはそれ。気にしないでいいからねー」
「ありがとうございます! よし、そうと決まれば次のライブに向けての練習、ガッツリやるかぁ!」
「巴のやる気が上がったところで、えい、えい、おーっ!」
「……いや、やんないから。恥ずかしいし、お店の中だし」
「えぇーっ!! そんなぁ~……」
笑い合いながら、『Afterglow』がスタジオへ向かっていく。その背中に向けてまりなは手を振っていた。
いつも通りの彼女たちを見て安心感を覚えながらも、スタッフルームに逃げたエヌラスへ連絡事項を伝えるためにその場を他のスタッフに任せる。
だが、向かった先にその姿はなく、代わりにオーナーと何か話をしているのが聞こえてきた。おそらくここ最近の欠勤やシフトの急な変更に対する注意だろうかと思っていたが、聞き耳を立てている限りそうではないようだ。
――次のイベントを切っ掛けに、『CiRCLE』でのアルバイトを辞めようと思っています。
「…………」
その言葉は、エヌラス自身の口から出てきたものだった。オーナーも引き留めるつもりだったのか、理由を尋ねている。しかし、その理由までは明かしてくれなかった。それでもせめて何か一言くらいは明かしてくれ、と食い下がるオーナーに向けてエヌラスは。
――“本業”が忙しく、ライブハウスの方に顔を出せるか厳しくなってきたためです。
既に兼業での非常勤講師は退職の手続きを済ませていた。そのせいで今日は少し遅れていたらしい。元々成績に響かない課外授業の一環で行われていたものだけに、教師達もそれほど深く引き留めようとはしなかった。
しばし、無言が続く。
オーナーの口からは、ただ承諾の一言。エヌラスも感謝していた。
差し支えがなければ、本業を教えてはくれないか、という気を紛らわせるような言葉に、まりなはまさかオカルトハンターとは答えないだろう、と思っていた。
――そうですね……まぁ。端的に言ってしまえば、人殺しです。
「――――」
『CiRCLE』オーナーは、言葉を失うまりなと全く同じ反応を見せていた。
失礼します、と会釈して部屋から出たエヌラスが廊下で立ち止まっていたまりなと鉢合わせるが、小さく頭を下げて横を通り過ぎる。
――きっと、最初から。
この人には何処にも居場所はなかった。ただ狭くて、息苦しいばかりで。真綿を敷き詰められたような生活を強いられていたのだと。
廊下を歩いて、何も言わずに去ろうとする姿を追って、手を掴む。
「……なにか?」
「本当に、辞めちゃうんですか?」
「ええ、まぁ。本当は、居心地が良かったからもう少し続けてもよかったんですけど。そうも言っていられなくて」
「…………理由は教えてくれないんでしょ?」
「言って聞かせるようなものでもありませんし、俺が決めたことなので。今まで迷惑かけて、すいません」
「だからといって辞められても、変わりませんよ」
「ええ、でしょうね。だから――あいつ等のこと、よろしくお願いします」
それが、誰のことを指しているのか。まりなにはよく分かる。
ガールズバンドの皆のことだ。
「あの子達には、知らせてあるの?」
「言ったらどうせ引き止めるでしょうから、何も言ってませんよ」
「ちゃんと自分の口から言ってあげてください」
「泣かれても困りますし。どうせ泣かれるなら、俺の見ていないところのほうが良い」
「じゃあ――」
「泣かせたくてバイトやめるわけじゃないので勘弁です」
本当に、まったく。可愛げのない言葉にまりなは呆れていた。
「わかりました。その代わり、イベントの準備はきびきび働いてもらいますからね」
「任しといてくださいよ。何なら今日の後片付けくらい全部やってやりますわ、ははは」
まさか本当に全部任されるとはエヌラスも予想外だったが、言ってしまった手前断るわけにはいかなくなってしまう。口は災いの元。