──昼休みに入るなり、日菜はこれまで見たことがないほどの速度で教室を飛び出す。
授業中もそわそわとして落ち着かない様子だったが、あの二人に会いたくて仕方ない。知りたくて仕方なかった。
「二人とも、おまたせ──!」
部室の扉を勢いよく開け、中へ入る日菜が目にした光景は乱雑極まりなかった天文部部室ではなく、整頓された部室。ティオとティアが積み上げられた書物を本棚に戻していた。
「あ、ヒナおねーちゃん」
「ヒナおねーさんだ。もう終わったの?」
せっかく集めた資料や付箋も全部片付けられている。だが、二人はあっけらかんとしていた。これまでの苦労が水の泡、しかしそれはどうでもいい。
綺麗に片付けられた部室だが、ホワイトボードだけはそのままにされていた。
「部室片付けてくれてたの?」
「あっちこっち邪魔だったし」
「まとめておいたから大丈夫」
にこにこと笑いながら本棚に図鑑を戻すと、日菜に抱きつく。それからすぐに離れ、ホワイトボードを回転させて何も書かれていない白紙の面にマジックで何かを書き始めた。
「ヒナおねーちゃんは鋭いね」
「うん、すごいよ。何がキッカケで気づいたのかわかんないけど、多分人類で一番最初じゃないのかな?」
「この宇宙はねー、
「ほんのちょっと。ちょびっとだけ。小さな隙間だったから他のはそれに気づかなかったんだ」
「でもボクらは違う」
「ウチらは別」
大きく描いた円。それをこの宇宙と仮定して──ピンを留める。
「膨らまない風船みたいでねー、脆いんだ」
「うん。でも割れないから安心して」
両手を広げて、まるで風船が割れるような仕草してみせた。
「割れないけど、どんどんズレていく」
「そうすると、他のに気づかれちゃう。「あれ? これはなんだろう」って。「なにかがおかしいぞ?」って。みんな好奇心で覗いてくる」
「そうするとねー」
大きく描いた円にバツ印を付けて、他にも同じように円を描く。そして、同様に印を付けた。何度も同じようなものを描いていく。
「こーんな風にー」
「ぜーんぶダメになっちゃうの」
「で、これが全宇宙で起きていること」
「過去形だったかな? 起きていたんだっけ?」
「まー、どっちでもいいよね」
「そうだねー」
何度も何度も同じように円を描いてはバツ印をつけて、ホワイトボードを埋め尽くした。
「でね、ヒナおねーちゃん」
「このズレが大事なの。ほんのちょっと、ほんのちょっぴりでも。でもね、おかしいんだ」
「うん。なんかこのズレっておかしいんだ。それがなかったらボクらは気づかなかった」
「不思議だよねー、ティア」
「そうそう。ズレるはずがないのにねー」
この二人は、何を言っているのだろう。
この二人は、何を考えているのだろう。
この二人は、何を思ってそんなことを言い出しているのか。日菜にはわからなかった。
「──どうして?」
「それがわかんないや」
「それ、どれぐらいの大きさなの?」
「んーとねー。人間一人分、くらいかな」
「だけどウチらはちっちゃいし速いから二人で来ちゃった。
「だから色々と取り込んで、無理矢理」
「でも他のは鈍いから、多分気づいてないよ」
「ボクらは一人」
「ウチらは二人」
右足を見せる。左足を見せる。だが、ティオとティアは日菜にそれ以上のものは見せなかった。
「どういうこと? 二人で一人?」
「「そういうこと」」
流石、勘が鋭い。冴えている日菜の言葉にますます二人は上機嫌になった。
「ボクの右脚と」
「ウチの左脚は、元々ひとつ」
「なんだけど……」
だが、途端に二人の顔色が曇る。
「本当はね──ヒナおねーさん」
「ウチらはここから上、無いんだ」
自分達の右脚と左脚の付け根を指して、ティオとティアは笑っていた。
「やな奴らだよねー、ティオ」
「だから、ウチらは裏切り者。追われてるんだ」
「多分そろそろかな? いい加減気づくはずなんだけど」
二人でピースサインを作り、日菜に見せる。
「猶予は一月」
「アイツらも来ると思うよ?」
「ボクらと同じ方法で」
「でも、通れるのは一度に一人だけ。もしもズレを広げて通ったら──」
「大変なことになるよね。きっと人類なんてメチャクチャになっちゃうよ」
そして、同時にホワイトボードを埋め尽くす印を叩いた。
「
「……あと一ヶ月で地球が壊れちゃう?」
「ううん。アイツらが来るのが残り一月以内。でもボクらが此処で戦ったら一時間足らずで壊れちゃうけどね」
「ティオちゃんとティアちゃんは、何者なの?」
「なんて言おっか、ティア」
「なんて言おっか、ティオ」
二人は顔を見合わせてから、日菜の手を取る。
「でも大丈夫、ヒナおねーちゃん」
「ウチらはヒナおねーさんが気に入ってるからなんにもしないよ」
無邪気な笑顔のはずなのに。無垢な二人のはずなのに、日菜は繋いだ手から伝わってくる体温が恐ろしく冷たく感じられた。人間じゃない──その実感が湧いてくる。しかし恐怖はなかった。むしろ好奇心が勝る。ずっと求めていたオカルトがこんなにも近くにいた。
「……二人は、何者なの?」
「なんて言おうか?」
「正直に言っちゃおっか」
「ヒナおねーちゃん──
「うん。
躊躇のない言葉に、今度は二人が驚いている。
「──ボクらはね、“悪い神様”なんだ」
「神様に良いも悪いもないんだけど、とびっきり悪い神様のことをなんていうか知ってる? ヒナおねーさん」
「なんて言うの?」
「“邪神”って言うんだ」
琥珀色の双眸が一瞬だけ金色の光を灯した。怖気が走るほどの神々しさに凍りつく。精神の支柱が崩れていく感覚に、しかし繋いだ手を握り返してくる二人によって現実感を取り戻した。
ホワイトボードをひっくり返して、ティオとティアが日菜の描いた星図を指し示す。
「ヒナおねーちゃんに、協力してほしいんだ」
「人間の手を借りないとできないことだから」
「だから、お願い。アイツらが来る前に手を貸して」
「人類なんてどーでもいいけど」
「ヒナおねーちゃんならきっとできるよ」
「あたし、何をしたらいいの?」
星図を指で叩いて、線を辿っていく。
「簡単簡単。ちょっと星の位置を教えてくれればそれだけでいいから」
「あとはボクらで“ちょちょいと”やっちゃうから」
「星の、位置? 座標ってこと? でもどうするつもり?」
「他の奴らの邪魔をする」
「んー、多分追ってくるのって……あの“おっかない”のと“つまんない”のだよね。あともうひとりいるんだけど……アイツ、なんだっけ?」
「何なんだろうね、アイツ。“わかんない”のがいるけど、いいんじゃない?」
どうやら、二人以外に三体の仲間が一月以内に来るらしい。だが、来れるのは一人ずつ──。それも人間の姿で。人間のサイズで。人間と同じ言葉と声を使って。
日菜は少しだけ考え込む。二人に協力するのは決まっていた。
「ねぇ。他のが来るのに条件とかある?」
「んー、とね。ちょっと関係あるのは……コレかな?」
「月?」
「コレ、満ち欠けするでしょ? これが大きい時が、多分一番引っ張られてズレる。三ヶ月前もそうだったもんね」
(……三ヶ月も前から? なのに一人も来なかった? 二人の言う、そのズレに仲間が気づかなかったにしても……なんでだろう。来れなかった理由でもあるのかな)
話をまとめると──満月になれば、二人の仲間が来るかもしれない。裏切り者を追って。地球にいることに気づいた邪神が、ティオとティアがやったように仲間を取り込んでやってくる。
そして。邪神同士が争えば、一時間足らずで宇宙が崩壊する。
それを先延ばしにするために協力してほしい、と。ティオとティアは取引を持ちかけてきた。
「うん、わかった。次の満月まで確か一週間もないし……それまでにできるだけやってみるね」
「大丈夫。そう多くないから、ここからここまでだし」
「ヒナおねーさんなら、きっと三日もかかんないよ」
昼休み終了のチャイムが鳴り響く。すっかり話し込んでしまってお昼を食べそびれたどころか二人のお昼も持ってくるのを忘れてしまっていた。午後の授業もまだ残っている。
「ごめんね、あたし行かなきゃ。授業終わったらまた来るね!」
「じゃあ、ヒナおねーちゃん。約束しよ」
「三日後の夜。また此処で会おうね! あ、そうだそれと──」
二人の指が、少しだけ腰をかがめた日菜の唇に添えられた。
「絶対に、ボクらのことは他の人に言っちゃダメだからね」
「血の連なる人でもダメだからね?」
「どうして?」
「“風”は怖いよ。なんでも運んじゃうから。なんでも届けちゃうから、大っ嫌い」
「だから、絶対に他言しないで」
「……もし、話したらどうなっちゃう?」
「んー? 最悪この島国沈むんじゃない? “のろま”に気づかれたら、だけど」
「……のろま?」
おっかないの、つまんないの、わかんないの──それ以外に、もう一人。仲間がいるようだが、それを計算に入れれば三ヶ月で三人、数が合う。
「あ、そーだ。ねぇ、ヒナおねーさん」
「なに、ティオちゃん?」
「「──“ズレてる”って、言われたことない?」」
部室を出ようとしていた日菜の背中に投げられた言葉は、足を止めるのに十分過ぎた。しかし、振り返った部室には、もう二人の姿はない。
天文部部室は密室だ。窓も施錠されている。唯一の出入り口である扉には、自分が立っていた。なのに二人は、どうやって消えたのだろう。
悪い神様。邪神。それと同じ場所にいて、同じ言葉を交わして、手を繋いで、抱き合ったりもして……氷川日菜は、自分の両手を見下ろす。
本当に、自分が掴んだのは人の手だったのか。
足の付け根から上は──本来、どうなっているのだろう。
自分の両頬を叩いて、日菜は気合を“るんっ”と入れ直す。
(猶予は三日! 楽しくなりそう♪)
教室に軽やかな足取りで戻ると、遅刻だったわけだがそんなことで天才少女はめげない。
今まで生きてきた中で、こんなにも心が躍るイベントは体験したことがなかった。