ライブハウス『Circle』では、相変わらずエヌラスが狂ったように計算を続けている。暇を見つけては一ページ、また一ページと数式を繋げていた。時々ペンの頭でこめかみを叩きながら、何とか捻り出した計算式に斜線を引いて書き直す。
「…………っだぁーあーぁーあー、でっきねぇ……どうなってやがんだ……」
遂に投げ出した。かれこれ二十冊目にしてエヌラスは音を上げる。演算に次ぐ演算、終わらない解を求めて寝る間も惜しんで書き続けていたがとうとう集中力が切れた。ソファーにぐったりと体重を預けていると、頬に冷たい缶ジュースを押しつけられる。
「おつかれさま。どう? 計算の経過は」
「ぶん投げたくて仕方ありません」
「はい、私からの奢りです」
「助かります……」
プルタブを起こして、エヌラスが中身に口を付けてからふと疑問に感じた。こんなにも内臓に染み渡るような喉越し、なんだか懐かしい。あれは、そう……確か修行の一環で極限環境に身体一つで置いてけぼりにされた時のことだ。
時計を確認して。日付を確認して──そこでようやく、身体が時間の感覚を取り戻す。
「……しまった」
「? どうかしました?」
「メシを食べてなかったことを思い出しました、今」
「計算を始めてからの、この二日間?」
「はい」
相槌を打つように空いた腹の虫が鳴いている。
「はぁ……仕方ない。サンドイッチでいいですか?」
「お手数おかけします……」
「気にしないでください。エヌラスさんも大変みたいですし、ええ。女子高生と親睦を深めるのにとても精力的なようで」
「ちょっと待ってくださいまりなさん、なんか怒ってませんか。別に俺はそんなつもり欠片もないんですけど!?」
「本当ですか?」
「ええ」
「つまり異性に興味がないと」
「ありますが!?」
即答だった。間髪入れない返事に、まりなが視線を逸らす。エヌラスも自分の顔を覆う。
「違うんです……別にまりなさんが魅力的でないとか女子高生に劣るとか言っているわけではなくてですね……俺みたいな穀潰しのような人でなしにはとてもつり合わないと言いますか。あー、なんて言えば良いのか……“お姉さん”みたいな……」
「むしろエヌラスさんはお金持ちで、お人好しで、世話好きな方でもないと面倒見てくれないと思いますよ」
「ちょっと俺の心に致命傷負うんでこの話題やめませんか」
「ふふん。いいでしょう、それじゃあ少し待っててくださいね」
もてあそばれている。エヌラスの扱い方に慣れてきたのか、まりなもだいぶフランクに接してきていた。だが何かあるたびにこうしておちょくられている。しかし嫌味ったらしくはない。むしろ軽口を叩き合うくらいが気楽でいい。
ラウンジの掃除を終えてからの休憩時間で進めていた計算も止まってしまう。ここで止めてしまえば、ここまで費やした時間が無駄になる。それこそ無駄な努力というものだ。自分が今やっていることは無駄かもしれないし、役に立つことはないかもしれない。だが──それでもやめるわけにはいかなかった。
「……どんな術式編めばああなんだよ、クソ師匠」
魔道において、他の追随を許さない最強の魔導師を知っている。忘れもしない。何もかもが破天荒で、メチャクチャで支離滅裂で人格がクソどころか鬼畜オブ外道の極みではあるが──魔術と人生の師と仰いでいる。それは、今でも。
“諦めるな”とは一番最初に教えてもらった心構えだ。そうすればお前に不可能はないのだと。
エヌラスは投げ出したボールペンを再び手にして計算を始める。
休憩時間が終わり、表のカフェテリアで接客に勤しんでいると燐子が紗夜と共に来店した。今日は練習ではなく、借りていた物を返しにきただけのようだ。
「あ、あの……エヌラスさん、これ……」
「そういやノート貸してたっけな……解読はできたか?」
燐子が差し出したノートを受け取る。ついでに紗夜にも貸していたが、無言で突き返された。
「……虚数、ということしか……数式で魔術が構成されてるんですか……?」
「それだけ解れば大したもんだ」
「これくらいなら調べると出てきます。まさかこんなので騙せるとでも思っていたんですか」
「いや別に騙そうとしてたわけじゃないんだが……」
「ではどうしてこんなデタラメな数式を書き続けているんですか」
はー、と。エヌラスは肩をすくめる。
「魔術理論ってのはそういうものだからだよ。解析されないようにできてんの、二人に渡したのは暗号だ。それが今回は数式になってるってだけ」
「他にもあるんですか……? その、暗号が……」
「色々ある。それこそ星の数ほど。俺の師匠はこんな計算しなくてもやらかすんだから正真正銘の化物だ」
(何をやらかすんだろう……?)
「まぁいいや。そのノート、魔導書並の効果はあるだろうし……」
眠気のせいか口が滑りやすくなっていたことに気づくが既に遅い。顔に手を当ててため息をついている。
「あー……可能性は無いと思うんだが。魔力を込めたりすると、なんか起きる程度だ」
「その、なにか、とは?」
「物が浮いたりとか、そのくらい。特に危険はないはずだが……仮に、例えばだ。なんか起きそうな場所、違和感を覚えた場所やマジックアイテムの近くでは絶対に開くなよ」
「どうしてですか?」
「魔力に反応して共鳴現象でも起きようものなら人間の手に負えなくなる」
「それでしたら、逆にそういった場所で使用すれば異変探知に役立つのではないですか?」
「なるほどその手があったか──と、言いたいが俺を過労死させたいのか紗夜。あと、そんなことしたら俺以外のも反応するから絶対にやめろ。“寄ってくる”から」
何が起きるのかはエヌラスにも想像できない。確かに異変の探知に役立ちはするがリスクが大きすぎる。それで怪我でもされた日には目も当てられない。
燐子は約束通り、解析してみせた。今度はこちらが約束を守る番だ。しかし目先の問題が片付かない限りはそちらにうつつを抜かすわけにもいかない。
「俺の予想が正しければ、この計算も一週間以内に終わるはずなんだが……」
気乗りしない様子で落胆する姿に二人が首を傾げていた。
「どうか、したんですか……?」
「いや。どうにも、師匠の真似事してるとな。自分の未熟さに嫌気が差す。何やっても追いつく気がしねぇ……それどころか置いていかれてる錯覚すら覚える」
「…………」
その言葉に紗夜は、既視感に襲われる。
何をやっても、一番にはなれないんじゃないのか、と。無駄な労力と時間に、なんで全力を費やしているのだろうとバカバカしく思えてならない。
「なら──」
「だから、やめるわけにはいかねぇな」
なら、やめたらいいのに。そう言おうとした自分の口を遮るようにエヌラスは続けた。
だからこそ、と。我ながら呆れている。自分でも理解しているのだろう、馬鹿なことをしていると。なのに、やめるつもりはないらしい。
「どうしてです?」
「どうしてって、そりゃあ。俺にしかできないからだ」
「貴方より優れた師匠がいるのに、ですか」
「それはそれ、これはこれ。確かに師匠だったら秒で終わる、こんな杜撰な術式」
杜撰な術式と自ら認めて。自分より数段優れた人を追いかけながら、自分と比べながら、圧倒的な力量差を認めた上で。
ノートに落とした目を細めて、まるで遠い景色を眺めるように、遠い故郷に想いを馳せているのか寂しそうな顔をしていた。
「……心が死んだ人には負けたくねぇしな。今までも、これからも。だから絶対に途中で投げたりしない。退屈まみれの生き方なんて、俺は遠慮する」
「エヌラスさんは……お師匠さんのこと、とても尊敬してるんですね……」
「尊敬っつーか畏敬っつーか不敬っつーか。あの人俺のこと見かけた瞬間ぶん殴りにくるからな。愉快犯だ愉快犯、暇潰しで人を半殺しにしてくるようなのが俺の師匠。あと無類の風呂好き」
「…………ふふっ」
「……なにがおかしいんだ、燐子?」
「なんだか、エヌラスさん……お師匠さんのことを話してる時、楽しそうですから……」
楽しい思い出なんか無いはずなのに、燐子の目には話している姿が楽しそうに見えたらしい。紗夜も意外に思っているのか、少しだけ口元を緩めていた。
「あなたはもっと粗暴な方かと思っていましたが、意外と義理堅いんですね」
「負けず嫌いなだけだ。だけど二人と話してたら少し気楽になった、ありがとよ」
「……それと、努力家なのが一番驚きです」
「俺に才能と呼べるものは何一つねぇよ。“やる”と決めた時の自分を裏切ったら負けだろ? 誰かに負けるとかじゃなくて」
「────、ええ……本当に。そうですね……」
もしかしたら、この人は自分と同じなのかもしれない。思わず目を背けてしまう紗夜は、いたたまれない気持ちになった。
魔術という常識外れな学問分野において、才能がどれほど重視されるのか。なのに、何一つ才能がないと胸を張った。それでも続けてきたのは、那由多の果てに師と仰ぐ人の背中があるから。
追いつかないと知りながら、追いつけないと知りながらも──負けるわけにはいかないと追い求める。それはどれほどの苦行なんだろうか。そしてこの人は、そんな辛さをおくびにも出さない。寝不足気味なのか少し顔色が悪そうにも見えた。
「ところで、今日は二人だけか? 練習するならスタジオ空いてるが」
「あ、いえ……私達はノートを返しにきただけで……」
「今日のところはこれで。お邪魔しました、失礼します」
「ああ。またのご来店をお待ちしております」
会釈して立ち去る二人を見送り、エヌラスは腕を組んだ。まさか師匠の話をすることになるとは思ってもみなかったが、心なしか気が楽になった。
「…………もうちょい、頑張ってみるか」
一週間と言わず、もう少し詰めてみよう。それでも、最短で三日は掛かる計算だが。
(今に見てろよクソガキ共め……)
臓腑を焦がす黒い感情を昂ぶらせながらエヌラスは残りの時間、接客に勤しんでいた。
──その日の夜。
日菜は帰宅するなり、部屋に閉じこもる。ノートを広げて、数式の解読を進めてから二人に頼まれていた星の座標を計算していた。地球から、正確には日本からその星までの位置を。
三日後にどの位置にどの星がくるのかを書き記していく。
コンコン、と。部屋の扉が二回ノックされる。
「日菜。ちょっといいかしら?」
「おねーちゃん? どうしたの」
「……昨日のノートだけれど、しばらく預かっててほしいってことで返されたわ。魔術に興味があるならまた貴方に貸しておくけれど……」
「う~ん、今はいいや。ちょっと他のことで忙しいから」
「そう。今度は何を始めたの?」
「今度はね──」
口にしようとして、日菜はティオとティアの言葉を思い出す。
血の連なる人でも口外してはならない、と。
紗夜が首を傾げている。
たとえ血縁者であっても、口を閉ざさなければならない。
「またなにか変なこと企んでないでしょうね?」
「してないよ。ちょっと“計算”してるだけだから」
「ならいいのだけれど。あまり遅くまで起きていないように」
「うん、ありがと」
気遣ってくれることに感謝しながら、日菜は扉を閉める。
背中を預けて、廊下に立っているであろう紗夜に胸中で静かに謝罪した。
本当は大好きなおねーちゃんにも話したい。だけどこれは、神様との取引。
自分にしか出来ないことだから。自分にしかやれないことだから。
だから、全部上手くいったらまた一緒に夜空の星を見上げよう。
一番星を探して。星座を探して。寒さを紛らわせながら、また──手を繋ごう。
それまで少しだけの辛抱だ。きっとあの二人もおねーちゃんを気に入ってくれる。
日菜は部屋の鍵を閉めて、勉強机に向かって座るとノートにペンを走らせた。