服を脱いで、腰にバスタオルを巻いてエヌラスが浴室の戸を開ける。リサにできるだけ配慮してのことだ。
ノズルからの熱湯を頭から浴びて俯いたまま、動かない。身体に巻いているバスタオルの端を両手で固く握りしめている。
――今更ながら、自分のしていることに対して一気に羞恥心と気恥ずかしさが怒涛のように押し寄せてきていたリサは、半ばパニック状態に陥っていた。
(無理無理無理無理無理! アタシ、何してんの!? なんで一緒にお風呂とか言っちゃったの!? だ、大丈夫だよね! 汗の臭いとか、ちゃんとケアしてあるよね!? でも今日のバイトで油物弄ったしちょっと焦げ臭くなってたりしない!?)
ぐるぐると渦潮に巻き込まれた流木のように思考がまとまらずに散漫な考えに頭が支配されて身動きが取れない。だが、そんなリサをお構いなしにエヌラスは手を伸ばしていた。
掴んだのは、シャワーのホース。その向きを変えて、自分の頭から熱湯を浴びていた。
雨に濡れて冷えた身体にじんわりと熱が染みていく。真っ赤になっていた首元と腹回り、それと顔の血が排水口に流されていた。足元が赤く滲んでいるのを見ていたリサが、恐る恐る首だけで振り返る。
左目を隠すように伸ばしていた前髪をかきあげて、前髪を上げたエヌラスはいつもとはまた違った野性的な魅力があった。サイドも後ろに流し、手ぐしで整える。
思わず見入るほどに、別人のような印象を受けてリサが固まっていた。
「…………なんだ、気になるのか」
「……」
反則級に、顔がいい。普段の態度と風体から近寄りがたい印象だが、一転して無防備な姿を見せるとこんなにも接近を許している。それも、剣呑な雰囲気などではなく面倒見が良い傾向を見せていた。年長者らしい、頼りになる側面を見せられてリサの顔がますます赤くなる。
「ずるい…………」
「なにが……?」
「だ、だって! いつもあんな怖い顔してるのに、なんか優しい感じ見せるとか、ほんと――大人の魅力全開って感じでずるいと思うんですけど!?」
「俺だって好きで怖い顔してるわけじゃねーわ。日がな一日殺し合いやってりゃああもなる」
つまり、今は完全にオフの状態。気を許している証拠だ。それはリサを安心させるためでもあったが、逆効果である。いたいけな乙女にはあまりに刺激が強すぎる。
「普段から、それくらい気を抜いていてくれたらアタシ達からの印象も変わるのになぁー。もったいない」
「……こんなん見せるのお前くらいだよ」
「ん゛ぅっふ!!」
クリティカルヒット。リサがむせた。ちょっと声にならない声が出た。気恥ずかしそうにボソッと呟かれた言葉を聞いてしまったばかりに、エヌラスの顔をまともに見ることができない。
大人って、本当にずるい。心底そう思った。
しかし――改めて。狭い浴室に、男と女が二人きり。黙って耳を傾ければ、床を叩くシャワーの音に、少しだけ血と硝煙の香り。嗅ぎ慣れない匂いに息を吸い込めば、自分の胸の鼓動がやけに鼓膜に響いていた。相手にも聞こえてしまっているのではないかと胸を内側から叩いている。
唾を飲み込む音も、落ち着かない自分の息も、全部聞こえてしまっているのではないかと気が気ではなかった。
こういう時、よく好きで読んでいた恋愛モノだと何をしていただろう――と、リサが思い返してみると大人の階段を一段飛ばしてシンデレラストーリーが脳内で即座に出てくる。頭を振って即時却下、自分には難易度が高すぎた。いや、相手には朝飯前かもしれないが……。
意を決して、リサが振り返る。
「えっと……背中、流そっか?」
「……なら、頼む」
思いの外すんなりと受け入れてくれた。
背中を向けてバスチェアに腰を下ろしたエヌラスに、リサはシャワーを止めてかがみ込む。スポンジタオルに市販のボディシャンプーを泡立てて馴染ませると、背中に当てる。
そのままゆっくりと流し始めるが、否応なしに目につくのは無数の傷跡。その古傷の数々は完全に塞がっているが、中には完全に致命傷と言えるものまであった。背中にまで貫通している刀傷に、袈裟懸けに走る一線。想像するだけで血の気が引くようなものばかり。
自分達と同じように、誰かを守るために身を犠牲にしてきた有無を言わせぬ証拠の数々は、どれだけ洗い流しても消えることがなかった。
指先で、傷のひとつをなぞる。驚いたように身体を跳ねさせたエヌラスが振り返っていた。
「おゎ!? なんだ、いきなり。ビックリさせるな」
「……色んな傷残ってるね」
「……ああ」
「アタシ達を守ってくれる以外に、戦う理由ってあるの?」
「当方の一身上の都合」
まるで用意してあったような業務的な返答に、リサが頬を膨らませる。
「大したことじゃねぇよ。くだらない理由だ」
「教えてくれたりしない? 誰にも言ったりしないから」
「……恥ずかしいからやだ」
「えー。そう言われると気になっちゃうなー? ね~」
指先でいたずらっぽく他の傷跡をなぞると、くすぐったそうにしていた。その反応が面白くて、ついついイタズラしてしまう。すると、顔を近づけてきた。
間近で見ると、赤い瞳は左右で微妙にコントラストが違うことに気づく。しかし、左目を開けているのが少々辛いのかまぶたが少し下がってきていた。リサが手を伸ばして、頬に触れる。
指でまぶたを撫でていく。
左目と、右腕。そして、左胸の銀鍵守護器官の刻印。全身の傷跡と、普通とはかけ離れた人の姿がどれほどの苦境を前にしてきたのか物語っていた。
何も言わずに目を見つめていると、観念したように息を吐き出す。だが、エヌラスは口を開かずにリサの手からタオルを奪うと回れ右。自分で身体を洗い始めた。手持ち無沙汰になって、ついつい髪を弄り始める。
(ちょっとくらいは、話してくれてもいいと思うんだけどなぁ……)
「……友達」
「……え?」
「友達のためだ。馬鹿みたいに笑い合っていられる馬鹿どものために、戦ってる」
「――――友達いるんだ」
「リーサー? お前は俺をどういう目で見てるんだー? さすがに傷つくぞ」
「あはは、ごめんってば。アタシの知ってるエヌラスさんって、なんかちょっと近寄りがたいっていうか。普通と違うからさ、ちゃんとアタシたちみたいに日常送ってる姿って想像つかなくって」
俄然興味が湧いてくるリサだが、話を打ち切るようにエヌラスが向き直った。
改めてまじまじと身体を見つめると、傷跡でカモフラージュされた筋骨の逞しさに目を奪われる。肩や腕だけでなく、腹筋も。引き締めた腰回りについ視線を見やると、バスタオルが目に入った。
――そのまま、無意識のうちに視線を落としていく。
顔に火が点いたような熱さをそこで自覚した。一瞬で茹でダコになったリサが沈黙する。それに追い打ちをかけるようにして、エヌラスが細い肩に手を伸ばした。
「ひゃ……!?」
「回れ右」
「……う、うん」
言われるがまま、背中を見せる。すると、バスタオルに手をかけられた。
「えっ、あの!? ちょ、なに……!?」
「背中流すから、バスタオルが邪魔なんだ」
「あ、アタシは大丈夫だから! うん、全然平気だし!」
「いいから」
「…………、」
少しだけぶっきらぼうに言われて、リサは髪を前に流してからバスタオルを胸の前で抱きしめる。露わになる白い肌に、エヌラスは慣れた手付きで背中を流し始めた。
まるで幼子にしてやるような、優しい触れ方には心地よさを覚える。だが、同時に違和感も。女性の扱い方が手慣れているとしか思えない。女子校に乗り込んで平然と(?)生活していた辺り、元々モテていたのだろうことはリサでも想像がつく。
「洗い方、優しくてちょっと意外かも」
「……妹の身体、こんな風に洗ってやってたからな。よくせがまれて」
「仲良しだったんだ」
「ああ。人が風呂に入っている時に突然来るのも毎度だった」
「アタシは一人っ子だから、そういうのちょっと羨ましいな。やっぱり、その妹さんもエヌラスさんにそっくりだったの?」
「んー、どうだろうな。似てるかどうかは、ちょっと微妙なとこだ。でも――俺にとって、唯一の家族だったのは確かだよ。たった一人の、兄妹だったからな……」
だった、という過去形に、リサはしんみりとした空気を察した。
「えっとー……ごめんね」
「いや、いい。気にしないでくれ。もうずっと前のことなのに、忘れることができない思い出ってのはあるもんだな」
「それだけ今のエヌラスさんに大事な思い出ってことなんじゃない?」
「……そう、だな。でもな、ひとつだけ思い出せないことがあるんだ。絶対に忘れちゃいけないことだったはずなのに、ふと気づいたら、覚えていなくてな」
顔も名前も忘れてしまったが、笑顔だけは微かに覚えている。それは、最初の奇跡だったはずなのに。なぜかそこだけが霞んでしまっていた。それほどまでに長く戦いに費やしすぎた、というのもある。戦火の中で、燃え尽きてしまった写真のように。
落ち込むエヌラスに向けて、リサが背中を預けてきた。肩越しに見上げて、微笑む。
「いつか――思い出せるといいね。きっと、ちゃんと思い出せるよ。そんなに大切な思い出なら」
「……そうだな。だから、いつの日かまた会えるまで俺は此処で倒れるわけにはいかない」
「…………」
いつの日か。その、いつの日かが来たら、自分達の前からいなくなってしまうのだろう。
運命の人を探し出すために、エヌラスはいつか日本を出ていってしまう。
ずっとは、傍にいてくれない。
この日本にいる間も、ずっと戦ってきた。
一日でも長くいて欲しいと願ってしまうのは、ワガママだろうか。
「――アタシ、じゃ……ダメかな?」
「……リサ?」
「わかってるよ? アタシじゃ、その大切な人達の代わりになんてなれないって。でも……代わりじゃなくても、楽しい思い出くらいなら、アタシも作れる……と、思う」
だから、と。
自分でも戸惑うくらいに、引き留めようとする意思と言葉が出てきてしまう。
「だから――アタシじゃ、ずっと此処に居てくれる理由になれないかな……?」
「…………」
それは、今井リサなりの精一杯の告白だった。
「あんな風に、痛くて、辛くて、苦しい思いばかりなんかしないでさ。もっと、楽しい思い出沢山作ろうよ。楽しいのも、嬉しいのも、両手からこぼれ落ちるくらい。抱えきれないくらい一杯。アタシだけじゃなくて、皆と一緒に作っていこうよ」
きっとそれは、みんなが考えていることだ。
美味しいものを食べて、色んな場所に行って、笑って過ごせる日々が一日でも多くこの人に訪れますように。誰もが当たり前のように得られる日々の幸福を願わずにはいられない。
今は難しいかもしれないけれど。だけど、いつか。遠くない日にでも。
少し前みたいに、ちょっと騒がしい日々に戻れる。そこに、この人がいてくれたら心強い。そう思うのだ。
今日みたいなことがあっても、大丈夫。何度でも支えてやればいい。一人じゃできなくても、みんなと一緒なら。
青薔薇の一輪として、不可能にめげたりなんかしない――。