「――そうだな」
短く、息を吐き出すようにエヌラスは疲れたように呟いた。
「そう、だな……ありがとな、リサ」
背中を預けてくる今井リサを、後ろから優しく抱きしめながら――何故か、酷く苦しそうに感謝を呟いている。
「お前には、言葉に出来ないくらいに感謝しているよ。本当に、助けられてばかりだ」
「そんなこと――」
「いいや。否定しないでくれ。そんなことはない、なんて言うな。こうしてるだけで、俺がどれだけ救われているかなんてお前にはわからないだろう」
「――――……」
感謝こそすれど、エヌラスはリサの告白を受け入れてはいなかった。答えは、決まっている。
「ごめんな――俺は、お前の幸せを願う。俺には、もったいない女の子だよ」
「……アタシじゃ、ダメなの?」
「……人間の女の子じゃ、ダメなんだろうな。俺のような化物には」
「化物、だなんて」
どんなに傷ついても、たちまち治ってしまう。今夜だって、死んでいたはずなのに。
ずっと前から、ずっと傷ついてきて、ずっと生き残ってきた。
「死にたくてもな、死なせてくれねぇんだ――俺のもうひとつの心臓が」
左胸の魔術刻印。後ろ足で立つ獅子の紋様は、淡く輝いている。
無限の魔力貯蔵庫。銀鍵守護器官。エヌラスを不死身たらしめている原因。如何なる魔術によってそれを可能としているのかはエヌラス自身でさえ解明できていない。だがこれは、大魔導師が一番最初に与えたものでもある。地獄の一歩目だ。
クァチル・ウタウスの権能によって肉体が滅ばなかったのもこれが起因している。
魔人という超常原理の存在であるというだけではなく――肉体の老化、引いては劣化そのものを食い止めていた。
あらゆる時間。あらゆる世界に所属することのない魔人として、時間から切り離されている。ゆえに滅ばず、だからこそ死なず、此処まで戦い抜いてきた。何処まで行っても、孤独なままで。
頬に手を添えて、指の腹で撫でる。
柔らかくて、温かくて、潤んだ肌は瑞々しい弾力で指を受け入れて、押し返していた。力を込めれば、簡単に壊れてしまうほどに脆い人間の身体を、エヌラスはかつてそうしていたように手にしている。
――初恋も、こんな風に自分の手の中にあった。だから、壊れてしまった。それは自分が生まれ持っていた呪いだ。
「……リサ。俺は、お前だけじゃなくて。他の皆も好きだよ。大好きだ――
本当に大切なものは手に入れてはいけないものだと、理解している。
この手にしたものが壊れてしまうのならば、自分の幸福も、誰かの笑顔も、平和な日常も必要のないものだ。
与えられるのならば、受け取る。壊さないように背負って。
少しだけ息を吸い込んで、エヌラスはリサの目を真っ直ぐに見つめながら声にした。
「だから――、俺は。お前達と一緒にはいられないんだ」
「…………」
「お前だって見ただろう。アレが俺の本性だ。俺の本質は、何もかも台無しにしてしまうような力だ。魔術でどれだけ抑え込んでいても到底隠しきれるものじゃない。それに、俺はこれからあの銀髪の魔術師を殺さなきゃならないんだ――」
「でも、……頑張るから。『Roselia』も、学校も、全部」
「ならそれは、俺じゃない誰かの幸せのために使ってくれ。俺は、いい。俺はもう十分だ。十分すぎるくらい――最初に貰ったから」
「……クッキーくらい、幾らでも作ってあげるから! そんな簡単に、自分の幸せを諦めなくたっていいじゃん! もっと自分を大切にしてよ!」
顔を赤くして涙を浮かべながらリサは、エヌラスの言葉を否定する。
「――同じことを、言う奴がいたよ。俺にとっては、言葉にできないくらい大切なやつが。リサと同じことを言っていた。本当にそっくりだな……」
嗚呼、だからか――だから、どれだけ結界を張っても今井リサだけはすり抜けてきたのか、と。エヌラスは気づいた。
この限りない慈しみと優しさが、置いてきたアイツにそっくりだったから。
「だから答えは同じだ。他人の幸福を踏みにじってきた俺が幸せを手にするには早すぎる」
「……」
「それに、アイツはあれだろ? あこのお気に入りなんだろう? 他人の恋路を邪魔しておきながら、自分の恋を成就させるなんて虫が良すぎる話だ。俺の初恋は、とっくに終わってる。人間の女の子に恋をするのは、ちょっと怖くてな……また奪われそうで、無くしそうで。すっかりトラウマになっちまった」
目尻に涙を浮かべながら自嘲気味に笑ってみせる。
「……るーくん、なんにも悪いことしていないよ? すっごくおとなしくて、いい子だよ? なのになんで?」
「言っただろう? 俺は、俺が馬鹿やって笑い合っていられる馬鹿どもの為に戦ってるって。そんな自分勝手な都合で殺さなきゃならないんだから、言うまでもないだろ」
「……エヌラスさんのことを助けてくれたんじゃないの?」
「そうかもしれないが、それでもだ。最低だろ? だから、こんなやつにお前はこれ以上頑張らなくたっていいんだよ」
「…………」
頬を伝う涙が、痛いほど熱い。息ができなくなるほど、胸が苦しい。心臓が締めつけられるような痛みを訴えてくる。
前が見えない。くしゃくしゃに歪んで、潤んだ目が顔を見せてくれなかった。
きっと、ひどい顔をしている。鼻をすすって、唇を震わせて。
――きっと、多分。これ以上無いほどに、残酷なほど優しく。
その恋は、叶わなかった。
「好きに、なっちゃったのアタシだけどさ――こんな事なら、好きになんかさせないでよ」
それがどれだけ自分勝手なことかも、わかっている。
恋を奪うつもりなど、なかったこともわかっている。
成すべきことのために我を貫いている姿を気にかけてしまったのは自分だ。
何もかもがおかしくなってしまったと言うのなら、最初に声を掛けたあの時からおかしくなってしまった。この地球で発生しているオカルト事件の数々など些細なほどに。
この恋は、おかしな話だったのだ。
「……ごめんな、リサ」
「ううん、アタシの方こそ――ごめんね」
エヌラスの右眼を塞ぐように指で隠しながら、リサは顔を近づけてくる。鼻先が触れて、ほんの僅かに躊躇してから――唇が触れた。
溶けるように熱くて、優しいキスからゆっくりと顔を離してから、リサは笑って誤魔化す。その頬が濡れているのは、シャワーを浴びていたからなのか。それとも堪えきれない涙のせいか。
「んっ――……あ、はは……ごめん。自分でも、ビックリで……」
「……、湯冷めする前に上がるか。正直、起きているのが辛くてしょうがない」
なんせこの直近で死にかけたのが一度や二度ではない。回復よりも致命傷が上回っている。
猫の顔を撫で回すようにリサの顔をくしゃくしゃと手で触れてから、何もなかったようにエヌラスは浴室から出た。
左目と、右腕の感覚が異様なまでに鈍い。だが、触れた唇だけは、やけに熱く残っていた。
エヌラスは自分の身体が鉛のように重くなる感覚を覚えながらも何とか意識を保つ。銀鍵守護器官が身体機能を正常に戻そうと懸命に稼働していることを確認した。
自分の首が繋がっているかどうかを確かめるように手で触れる。大典太光世の神業によって半ばほどまで断たれた首は、しっかりと繋がっている。思い返すだけでも背筋が凍る思いだ。下手をしたらあのまま即死していたのだから。真っ向から打ち合いを挑めば命はなかっただろう。
そんな天下五剣が、残るところ三
敵に回したくはないが、こちらと敵対している以上は仕方ない。
リビングの灯りを点けないまま、エヌラスは銀鍵守護器官の魔力燃焼効率を向上させるために錠剤を取り出した。残り少ないカプセル錠剤も、大魔導師の倉庫からちょろまかしてきたものだ。
粉末状の霊薬を固めた代物だが、本来は人体に用いるものではない。なにせ“魔術燃料”だ。ガソリンやニトロと変わらない。
数えるほどしか残っていないそれを、エヌラスは全部口の中に放り込んだ。噛み砕いてから、水道水で胃の中に流し込む。薬剤特有の鼻につく香りに顔をしかめてから、コップ一杯の水を飲み干した。
ぐらり、と。視界が揺らぐ。
意識も身体も、そろそろ限界が近い。熟睡どころか爆睡待ったなし。
(……魔人化二回に、即死が一回。致命傷が数しれず……、何日で完治すっかな)
少なくとも、一日二日。最低でも四十八時間。などと考えている間にも頭がうつらうつらと揺れて壁に頭をぶつけた。痛し。
このまま床に倒れて眠ってしまおうかと考えていると、脱衣室からは洗濯機の回る音が聞こえてきた。ゆっくりと開けられた扉からは、リサが顔を覗かせている。
おずおずと出てくると、そこには新品の男物のシャツ一枚を着て立っていた。いわゆる彼シャツ状態。ちょっとしたミニスカートくらいにはなっているが、落ち着かないのか裾を手で下げている。女所帯ならまだしも、二人きりでは羞恥心が勝るのだろう。
「……ベッドは、リサが使ってくれ」
「エヌラスさんは?」
「ソファーか……床で、いい……」
「だいじょぶ? なんか、ものすっごく眠そうだけど……」
「気を抜いたら死ぬほど寝る…………」
そう言っている間にも、エヌラスは倒れそうなほど身体をふらつかせている。
「じゃあ、ちゃんとベッドで寝なきゃ。身体痛めるよ?」
「……全身超いてぇ……」
「…………」
あ、これは重症なんだな。リサは判断能力が限りなく死んでいるエヌラスの返答に察した。声を掛ける前にふらついた足取りで自分の部屋に入る姿の後を追う。
「ね、本当に大丈夫なの……?」
「……少なくとも、一日は無防備になる……鍵、テーブルの上に置くから持ってけ……」
「え?」
「……ねる、むり……めし……――――」
そのままベッドに倒れ込むと、本当に死んだように眠り始めた。不安になったリサが念の為脈を確認したりすると、ちゃんと生きているらしい。
いつになく、無防備な姿を見せているエヌラスはうつ伏せになったまま動かない。
(んー……どうしよ……)
ピクリとも動かない姿を見ていると不安になってくる。枕に頭を預けることもなく、空いた枕を引き寄せてリサはエヌラスに背中を向けてベッドに入った。風邪を引かないようにちゃんとシーツを掛けてから、もう一度だけ寝顔を覗き込む。
子供のような寝顔にかかる髪を手で梳いていく。
何をしても、今なら起きないのだろうと、頬に顔を近づける。
「……おやすみなさい」
あまりに気恥ずかしくて、耳元で囁くだけに留めてリサもまた眠りに就いた。
この人のためになら、自分がどれだけがんばれたのだろう、と思いながら。