――湊友希那は猫の夢を見る。
変わらず、そこは影絵に沈む街で猫がありふれていた。絵本のように浮き彫りとなった世界に唯一人、客人として訪れる。
街を歩けば、猫が気ままに過ごしていた。
ここを訪れた理由は、言うまでもない。邪神という脅威を目の当たりにして、それが自分達のすぐ身近に迫っていた事を将軍猫に報告しようと思ってのことだ。
いつもの枯れた噴水広場、無人のオープンカフェテリアに向かう。
いつもであれば、そこの一席で将軍猫は身体を休めている。だが、今日は少しだけ様子が違った。そこにいたのは、いつもとは違う猫。
三毛猫が身体を横にして伸びをしていた。
「あにゃ? いらっしゃい。よくもまぁ飽きもせずに来るもんだ」
「……こんばんは」
「はいこんばんは。とはいえこっちじゃ時間の流れもなにもかも“あべこべ”で、挨拶なんてどれでも一緒だけどね」
すっかり人語を話す猫にも慣れてしまった。驚きもせずに友希那は寝そべっている三毛猫のテーブルに着く。ちょこんと目の前で座り込んで顔を洗い始めた三毛猫が大あくびをしていた。
「将軍はいないのかしら……?」
「ん~? 今日はちょっとお出かけ中。何もなければすぐ戻ってくると思うけどね」
「そう……こっちで、何か変わったことはないかしら?」
「さぁー? 気ままに過ごしている猫に聞かれましても。お客さんがよく訪ねてくるくらいで」
通りを歩く猫が一匹、友希那に気づく。振り返ってひと鳴きすると、群れが現れて早足で駆け寄ってきた。まだ年若い猫たちは友希那に好奇心満々で近づく。あっという間に猫に囲まれて膝の上に座られて身動きが取れなくなってしまった。
「あーあ、地球の人間が珍しいからってみんなでそんな風に集まって」
「この……ドリームランド、には人間はいないのかしら」
「いるよー。ウルタールは猫の街だから、人間が極端に少ないってだけで」
「此処に住んでいる人達を見たことがないわ」
「そりゃそうだよ。みんな“夢見る人”だから。夢を見なければ、あとは覚めるだけ。人が見る夢は必ずしも良きに計らうとは限らない。中には悪夢に囚われて醒めない人間だっている」
「……」
悪夢。それで済むのなら、どれだけ良かっただろう。紛れもなく目の前の現実で起きた出来事だったのだから。
「もしかして、アレかい? 地球の邪神のことで将軍に相談?」
「ええ……」
「なら大丈夫。将軍が我らの王に謁見を求めて外出してるから。なにかしら対策を講じてるはず」
友希那が猫のように目を丸くして驚いていた。
既に対策に動いていることに驚きを隠せなかった。流石は地球を人知れず守ってきた猫の長というだけある。――何処かの魔術師も見習ってほしいものだ。
「その、王様っていうのも猫ちゃんなのかしら?」
「うんや? 人間だよ。魔術師」
「…………」
「あんまいい顔しないねー。まぁまぁそこはおいといて」
前足で荷物をずらすような仕草を見せて、三毛猫は頭を垂れる。
「我らの王は、善き人だ。人類を邪神の脅威より守り続けてきている。この数百年、人類が魔術を必要としなくなったのはかの王の功績あってこそ」
人類より魔術という叡智を放棄することで邪神の関心を剥離させた。それにより、自らが地球最後にして最高峰の魔術師として君臨している。そして、今はこのドリームランド――幻夢境にて邪神より身を隠し続けている。
かの王は、とある邪神に目をつけられている。
無貌なる漆黒。千なる異形。這い寄る混沌――ナイアルラトホテップ。
性質上、何処にでも現れる混沌の使者だが、唯一恐れる存在が猫たちが敬う王だ。
その名を語ることは許されず、不可侵領域とされてきた。だからこそ、真名を口にすることは憚られる。
彼の地、イレク=ヴァドの蛋白色の玉座に座すことからイレク=ヴァド王と呼ばれていた。窮地を救ったこともある、と自慢げに猫が鼻を鳴らす。
このウルタールが邪神の脅威に晒されていないのも、その寵愛を受けているからこそ。
そして、地球が邪神の脅威に晒されていないのも――最早、過去の話だ。晒されていなかったのも、イレク=ヴァド王の故郷を守るために猫たちが邪神の眷属と戦ってきたから。
「……そうだったのね」
「そうだったのです、にゃふんっ」
胸を自慢気に反らす三毛猫のフサフサの胸毛が気になって友希那が手を差し出して撫でる。
「そんなわけで、将軍が吉報を持って帰ってくるのを寝て待つばかり。にゃふー」
足元に群がる若い猫たちからは羨望の眼差し。自分もとねだるように鳴いては前足でアピールしてくる。無料で入り浸れる屋外猫カフェ。これほど至福の一時もない。しかも猫の方から寄ってくるだけでなく意思の疎通も可能ともなれば脱出不可避。永住したいくらいである。
友希那は、このウルタール以外にドリームランドがどういった地形になっているのかまでは興味がなかった。そもそも自分が立ち入る許可を得ているのも此処だけだ。
ふと、脳裏を掠める人影に不安を覚えて周囲を見渡す。その姿が見えないことに安心していると三毛猫も同じことを考えているのかしっぽをゆっくりと左右に振っていた。
「ああ、あの黄金の怪物のこと?」
「ええ……来ていないのね」
「んー、ちょっと前に来て――」
――ちょっと温泉探してくる。
「――って、どっか行った」
「…………」
あまりの脈絡の無さと自由ぶりに目眩を覚える。そもそも仕事はどうした。
「随分と……その……自由なのね?」
「今に始まったことじゃないしにゃー」
ピクリ、とヒゲを揺らして三毛猫があらぬ方角に視線を向ける。足元の猫たちも一斉に同じ方角を振り向いたと思った次の瞬間には逃げるように走り去っていった。
――それから一瞬遅れて、ウルタールからでも見えるほどの大魔術の応酬が始まる。
「向こうは……まずい。将軍がいる方角だ!」
「それは、大丈夫なの?」
「さっきも言ったけど――将軍は今、イレク=ヴァド王と対策会議のはず! どこの命知らずの馬鹿なんだ、よりにもよって我らの王に魔術で挑むなんて! こうしてはいられない、助けに行かなくては! 召集ッ!! お客人は此処で待っていてくれ! 危険だと思ったらすぐに覚醒世界に帰るように!」
三毛猫がテーブルから飛び降りると、号令を聞いた軍属の猫たちが数匹集まった。そしてそれらを率いて何か指示を出しながら駆け出していく。
ぽつんと取り残された友希那の足元に、一匹の子猫が座り込んでいた。何が起きているかわからず、ただ自分だけが取り残されて不安そうにキョロキョロと周囲を見渡している。手を差し伸べると、匂いを嗅いでから身体を擦り寄せてきた。
子猫を抱いて、指先でなだめるように顎を撫でるとゴロゴロと喉を鳴らす。茶色い毛並みの人懐こい猫は、何故か幼馴染を彷彿とさせる雰囲気があった。
「――大丈夫よ」
きっと、大丈夫だと。それは、自分に言い聞かせるように。
イレク=ヴァド。
その地は、ガラスの断崖の上にそびえ立つ無数の尖塔と神殿が形成されていた。城壁に守られ、王宮にはただ一人の王が静かに佇んでいる。その眼前、謁見の間には隻眼の老猫。ウルタールを治める将軍猫が座り込んでいた。
互いに旧知の仲。今回の訪問は、地球の邪神災害についての報告とその対策。
「――以上が、我々が知る限りの出来事になります」
「…………由々しき事態だな」
重苦しく、その紳士は額に手を当てたまま首を左右に振った。中年男性はきちっとした紳士服に身を包み、手元にはステッキが置かれている。どこにでもいるようなサラリーマンのようだが、それは彼が地球におけるかつての暮らしを忘れないためでもあった。こうして馴染みある衣装に袖を通しているだけで人間らしさを捨てずにいられる。
「邪神の介入のみならず、顕現か……確かに以前より、何かか起きていることは耳にしていたがよもや
「もはや人類の存続は薄氷を踏む思いです。我らに出来ることがあれば、どうぞお申し付けください。イレク=ヴァド王」
「…………」
沈痛な面持ちで、しばし考え込む。
そも、何が起きているのか。それを完全に把握するまでに至ってはいなかった。
ある魔術師が地球に来訪して将軍猫達に助力を求めた、という。そしてそれからというもの世界各地で怪異が再興した。それらは邪神の眷属の名残のようなものであり、それほどの脅威ではなかったことからイレク=ヴァド王も静観するようにと指示してある。
だが、邪神そのものの来訪と顕現ともなれば話はまた別だ。
地球は、人類が想定する遥か以前より邪神の脅威に晒され続けてきた。それを、神秘と魔術の放棄という形で脅威を排除したはずだった。みだりに呼び起こすことのないように。
それでも、星辰によってその拘束が緩まる時がある。その時は、多少なりとも“ずれ込む”時があるだろうが、しかし。これは明らかな異常だ。
確認されただけで、都合三度。
凶星の双子・ティマイオス、クリティアス。
水神・ダゴン。
そして、烈光の灰燼・クァチル・ウタウス。
――もうひとり。旧き友である賢人バルザイ、その弟子……もとい、息子というべき付喪神。名を継ぎ、鍵の完成を望む二代目賢人。あれは、邪神の末席に君臨しておきながら人類の脅威にもなり得るが、人類の守護者にもなり得る。
そして最後に、目下イレク=ヴァド王が最も警戒しているのは“黒い月”の存在。さすがの邪神も難産なようだ。宇宙の均衡が乱れつつある現在も侵攻しようとしているようだが阻まれている。
もうしばらく時間がかかるだろう。それでも、一月持つかどうかだが。
「人類は、以前のように持ち直せるでしょうか」
「可能だとも。私は、人類の恒久的な平和を望む。終わらぬ平穏を願う。そのためならばどれほどの時間を費やそうとも構わない。必ず、必ずだ。だが今は……」
だが、今は。それが難しい。再び邪神の目を地球から逸らすためには原因を取り除かなくてはならない。その後で、自らの手で再び隠さなければ人類は百年と保たないだろう。その間に急速な魔術の発展が望めたとしてもだ。
「……こうなってしまった元凶に心当たりは?」
「まぁ、あの魔術師でしょうなぁ……」
「……そうか。何者なのだね?」
「当人は、大魔導師の一番弟子と――」
その言葉に、イレク=ヴァド王は絶句している。
「ですが、肝心の大魔導師は弟子を取った覚えなどない、と一点張りでして……」
「……そうか。彼は、まだ囚われの身か」
次元神の箱庭。全盛の揺り籠。何度滅びを迎えても変わらぬ結末を繰り返す流転世界。だが今回は少々イレギュラーなようだ。何か決定的な要因が取り除かれた、と見るべきだろう。しかし、あの神がそのような事を自発的に行うとは考えられない。
最早誰もその真名を知らない。忘れ去られたその名を口にしてはならない。
故に、大魔導師と名を馳せている。地上最強の魔術師として。規格外の怪物として。
だが、その魔術は邪神にすら通用する。論外にして人外の理論構築による外道の術はあらゆる生命を冒涜する。死霊秘術――“ネクロノミコン”だ。
そんな男に弟子がいるとは聞いたことがない。記憶にないのならば仕方のない話だが、興味が惹かれる。
「どんな人物なのだね」
「……その、非常に答えにくいのですが……」
「かまわない。どんな些細な情報でも良い」
「一言で言ってしまえばダメ人間ですな」
「…………それは。その……なんというか、気の毒だな……」
イレク=ヴァド王もドン引きだった。猫にそこまで言わせるとはどれだけ人としてダメなのか。
そんなやつに命運左右されて大丈夫か人類。一抹の不安を抱えながら、すぐに思考を切り替えることにした。悩んでいても仕方がない。
此処より離れれば、たちまち宿敵ナイアルラトホテップに“観測”されてしまうだろう。あれは千にも勝る化身を同時に顕現させることができる。どこにその影が潜んでいるか定かではない。今回も高みの見物だろう。直接的に破滅させるよりも搦め手揉み手、策を弄して人類を滅亡に導くことに愉悦しているトリックスターだ。
――不意に、将軍猫がヒゲを揺らす。そして、イレク=ヴァド王も同時に王宮の入り口に視線を向けた。
ドアが蝶番を破壊されてそのまま蹴り壊される。吹き飛ぶ扉に向けてステッキをかざすと、空中で静止した。それを左右にどかして静かに下ろすと、身を屈めて警戒していた将軍猫が毛を逆立てる。
「何奴! 至高の夢見る人、我らが王と慕うイレク=ヴァド王の御前であるぞ!」
コツ、コツ、と。
その男は、靴を鳴らして現れた。まるで散歩でもするかのような軽い足取りで。
将軍猫も顔を見て驚いている。
イレク=ヴァド王も、驚愕していた。
まるで空気が凍りつくような。雪山から吹き下ろす風のように、肺を刺すような冷気を覚える。無論そんなものは錯覚だが、この男を前にすると生きた心地すら忘れてしまう。魔術に精通していればしているほどに、痛感する。
「――貴方は」
「……大魔導師……、此処に何の用だ」
苦虫を噛み潰した苦い顔で、イレク=ヴァド王は一度の狼藉を働いた相手に問いかけた。
それに、まるで当然といった顔で小首を傾げている。
「ドリームランド、温泉巡りぶらり旅の道中だ。途中、邪神に絡まれてな。風呂道具一式が台無しになった。――風呂を借りてもいいか? イレク=ヴァド王よ」
言葉では冗談のようだが、この男は本気だった。絶対の殺意と敵意を持って、敬意を払いながらも一分の隙も見せていない。
呆れながら、イレク=ヴァド王は額に手を当てて首を振った。
「……好きに使ってくれ」
「そうか、助かる」
今日は星の位置が悪い、厄日だ。