イレク=ヴァド王の口腔より、冷気が吐き出される。それは外気との極端な温度差によって。
王宮より飛び出し、尖塔の頂点に降り立ちながらステッキを回し、空を叩くことで自らの身体を滞空させる。眼下に広がる光景は、まるで氷の茨道。氷柱を生やした大蛇でものたうち回ったかのように凍りついていた。その絶対零度の氷獄で、将軍猫達は身を寄せ合って魔術から身を守っている。意図して大魔導師が外しているというのもあるが、それでも冷気ばかりは防ぎようがない。
凍結魔術は得手としているところだが、それもまだ一側面に過ぎなかった。大魔導師の修めた魔道の片鱗は、この程度では済まない。
あらゆる時間と空間を自在に移動できる“鍵”を手にしているイレク=ヴァド王ですら背筋が凍る思いで魔術の範囲から逃れるので精一杯だった。邪神より逃れる時とはまた違った、明確な死の気配が後ろより迫る恐怖は、身の毛がよだつ。実感があるだけに、尚更恐ろしい。
靴を鳴らしながら、大魔導師は鼻で笑いながらイレク=ヴァド王を見上げていた。
魔術の触媒を通さずにこれだけの大魔術を無詠唱で行う黄金の怪物こそは、世界の脅威に他ならないだろう。
だがしかし、その脅威を前にして尚も正しく気を保つイレク=ヴァド王こそはまさに善王にほかならぬ守護者であった。
靴の爪先で床を叩き、音を立てて大魔導師が跳ねる。空を蹴り、素手でイレク=ヴァド王へ接近戦を仕掛けた。
突き出される拳に向けてステッキを短く突き出す。拳を防いで手首をひねることで簡素な魔術で大魔導師を弾き飛ばした。
その表面を無数に走る術式記号――光弾が迫る。単純な魔術ではあるが、牽制には十分。
数十発の無属性魔弾を、大魔導師は指を鳴らしただけで崩壊させた。時間稼ぎにも足止めにもならない。
ステッキを振り上げ、打ち下ろす。不可視の刃が袈裟懸けに切り裂こうというのを、指で止めるなり親指ひとつで折った。効力を失い、霧散する魔力を手繰り寄せることで大魔導師を拘束する。
「――“奔れ”! ハスターの魔爪よ!」
瘴気の風が無数の鉤爪を立てて四方八方より大魔導師に迫った。だが、拘束術式を力任せに解呪すると蹴りだけで文字通り一蹴してみせる。冷え切った空気が寒波となってイレク=ヴァドを白く灼き尽くしていく。
刺すような肺の痛み、極度の冷気にイレク=ヴァド王がステッキを基点にクトゥグアを発現させた。次の瞬間、無数の氷柱が眼前まで迫っていたのを溶かし尽くす。
とん、と。まるで最初からそこに足場でもあるかのように、大魔導師が空中で静止した。
「どうした? まだこちらはウォーミングアップが済んでいないぞ」
「……“
短く呟くと、イレク=ヴァド王の周囲を無数の紙片が埋め尽くす。
そして、その手には一冊の魔道書を携えていた。
「ならばこれより、少々強めに行くぞ!」
「ああ構わんよ、参れ」
魔道書による、魔道装衣の発動。魔術師としての本領を発揮する、剣であり盾であり、矛にも勝る形態――“
羽音を短く鳴らし、大魔導師の前からイレク=ヴァド王の姿がかき消えた。一寸、眉をひそめて即座に飛び退く。
銀閃が前髪を掠めていた。その刃の軌跡が鏡のように風景を映し出している。そこに流れる時間すらも断ち切り、時差による斬撃を可能とする神剣「バルザイの偃月刀」の能力を使いこなしている姿に、僅かにだが頬を歪めていた。
本来であるならば、防御など不可能に等しいそれを――
「――“永劫”とは。流れる時が止まらぬ事を言う。その時間の檻の中でなら、確かにお前のそれは神ですら屠ることが出来る時の歯車だろう。だが生憎と私はそういった手合が得意でな?」
「ちッ……!!」
「なに、少しばかりの小細工だよイレク=ヴァド王。――嗚呼、それともマスター・オブ・ネクロノミコンと呼んでほしいか?」
魔術的な強化を受けて得る視覚情報からは、大魔導師の中で蠢く無数の気配に怖気が走った。それを目の当たりにして発狂せずにはいられないだろう。だが、精神防御を幾重にも重ねていたイレク=ヴァド王はこみ上げてくる吐き気を押さえることに成功していた。
それは、死者の冒涜に他ならない。自らの肉体を魂の檻として、束縛していた。動く死体も同然の大魔導師にイレク=ヴァド王は憤慨した。
「――貴様の死霊秘術は間違えている! 死なねばならない、消えなければならない貴様は、自らの存在を維持するために死者の魂を糧としている! その為に死霊秘術を持ち出すか、外道が!」
「この俺にしてみれば、自ら死を実践しないネクロマンサーなど二流もいいところだ。理解の本質とは経験に他ならないのだからな。死んでからが一流の一歩目だろう」
「ああ、なら貴様は超一流の腐れド外道だ! 大魔導師!」
「褒めるな、照れるぞ。殺されたいか?」
だが、死者の魂だけでこうも規格外の魔術を行使できるのか――甚だ疑問ではあるが、現に今。神を裁く神剣ですら通用しない。……否、それは違う。これは確かに、神を殺す刃だ。だが、大魔導師の纏う死者の魂は全て人間のものだ。
怨嗟の声は、人間の本質的な欲求を訴えている――“生きたい”“死にたくない”と。
それは、イレク=ヴァド王ですら怒りで我を忘れそうなほどの無数の声だった。
老若男女問わず。幼子より老骨まで。
「死者をそれ以上、穢すなッ!! これ以上の生命の冒涜は、私が断罪する!」
「――――貴様は今。死者を愚弄したな。生命の冒涜と吐き捨てたな、王よ」
大魔導師の声より、感情の一切が失せる。もとより希薄な声であったが、一層。耳ではなく、魂に、心に直接殺意を突き立てるような静かな声で。
「それこそが間違いだ。それが何よりも、俺と貴様らの違いだ。所詮は貴様も魔術学院の老人共と何一つ変わらない。つまらん価値感だな。生者と死者の区別なく、なぜ救わない? 嗚呼、だから貴様は己の行いをこそ真理であり絶対であると勘違いをするのだ」
目の高さまで指を持ち上げて、スナップ。
――パチン。
甲高い音を鳴らして、そして……。
「よろしい。ならば教授しよう――これより地獄を始める」
大魔導師の肉体より、檻に囚われていた死霊達が解放される。だがそれは、イレク=ヴァド王の勘違いだった。逆だ。前提を履き違えた。生者の傲慢に他ならないのは自分の方だったとそこで理解する。
この怪物は、自らの肉体と精神と魂と魔力を“制限”するために死者の霊による拘束術式を形成していた。
怨恨の声が木霊する。王宮はもはや、冥界と化していた。
「魔術の基礎理論とは即ち、陣地作成にある。己の魔術行使に最も最適な陣を描き、その中核に自らを据えることで魔術師は自らの力を高めることが出来る。初級中の初級の講座だ。ならば、陣地とは――それは即ち、領地に他ならない。領地とは、領土であり、王に座すものであれば統治して然るべき国土である」
緩やかに、手を天にかざす。
それは、傲岸不遜なる鬨の声。
大魔導師が行う陣地作成――死者の王による
「諸君。これより報復を開始する。死者より生者へ、生命の叛逆を敢行する」
死者の総軍が吼える。
その只中にあって、その死者の大国で生者とはイレク=ヴァド王ただ一人であった。
精神防護壁が剥離しそうなほどの無数の殺意、敵意、怒り、憎しみ。羨望の眼差しが、眼球の無い髑髏の双眸より向けられる。神などよりよっぽど恐ろしい、人の怨恨。
もはや、イレク=ヴァドは異界と化していた。
甘く見ていた――自分が甘かった。この怪物が行う陣地作成、結界とは異界の形成に等しい。そこに囚われては如何に“鍵”が手にあるとはいえ脱出が困難となる。
死にたくない。生きたいという生命の根源に至る本能的な欲求が、奪われた者達の遺恨がこれほどまでに凄まじいとは思いも寄らなかった。
ただ胸中で一言、謝罪の言葉を重ねる。すまなかった、と。
「生きたいと願う死者達を、尚も戦場に駆り立てるか! 死して、尚も戦えと!」
「それを愚弄したのは貴様だ。生きている人間のみを救うと断じた。なぜ死者を救おうとしない? 命ある限り生きて、命を落とせばそこで終わりだと? ――いいや、否だ。断じてな。肉体が朽ち果てた程度で終わりになどさせんよ。真に救われるべきは、その魂なのだから」
「そのためならば、己はどのような外道も行うと!?」
「俺は王だ。一国を担うのならばその責務と命を背負う事に他ならない。犯罪国家九龍アマルガム国民、老若男女ひとり残らずこの俺の“所有物”であり“財産”だ。俺の許可なく死ぬことは許さん。俺の許可なく朽ちることは、俺が許さん。生きて当然、死んでしまえば俺の力だ。貴様はその俺の財産を侮辱した」
「……ならば私は、地球の人類の為に此処より引き下がるわけにはいかないな」
「イレク=ヴァド王。だが貴様は、その人類に対して何をした? 何を施した。貴様は、自らの財産を放棄した。堕落させた。甘い夢を見せるだけで、愛おしむばかりで何一つ育みはしなかった。人類の衰退は貴様の責任だよ。にも関わらず、己が行いを正しいとでも? 神秘を秘匿し、魔術を放棄し、邪神に対抗する力を奪い去り、母親の胎内のごとく揺り籠で甘い夢を見せるか」
「その一切に、非があるとでも!?」
「邪神と何一つ変わらん蛮行だ。恥を知れ。なぜ気づかない――それは貴様の宿敵と同じことだ」
イレク=ヴァド王の精神防護壁を容易くかいくぐり、その一言は魂を穿った。
酸素を失ったように声を詰まらせて、瞳孔が揺れる。
「そんな――はず、は…………!」
「いいや、同じだ。かの白痴の神の望みを満たす宿敵ナイアルラトホテップとな。甘い夢を見せるのだろう。世界が平和でありますように、と。無知蒙昧、愚の骨頂――痛みの伴わぬ夢も理想も叶うものか! 己の思想を貫き通すのであれば、他者の夢と理想を奪うことに他ならない! だから奪うのだ。覇を唱えるのだとも! それが俺の“覇道構造”だ! 例え神であろうと、奪わせるものか! いいや、神であろうとも奪ってみせるとも!」
魔術学院を追放処分に至った論文は、それだ。
神への挑戦。否、自らの昇華。倫理も道徳も、論理も理論も神への冒涜的行為に他ならない禁忌の論文――覇道構造。
天に示すは、己が手で神を創り出す奇跡。果たして、それは完成に至ったのか――。
「この俺の行いは、他でもないこの俺が正しいと断ずる。神であろうと否定させるものか。それでは何のために死んだのかわからんからな、こいつらは」
「…………、――なるほど確かに。貴様は王だ。正しく、死者を統べる王だ。だが私は! それでも、今を生きる人類の為に“魔を断つ剣を執る”ッ!
イレク=ヴァド王の手に握られていた歪な鍵が、空間の扉を開く。そこから漏れ出す光はプリズムのように七色に輝き、その光を浴びた死者達は瞬く間に蒸発していく。
思う。願うのは、事切れた骸達の王座に君臨する獣。
こうも思うのだ。それは、どれだけ己の行いが報われない行為であるのだろうかと。
ならば、この男は墓に住み、死者たちの静寂と共に死してなお生きている。死に寄り添う形で救済の道を選んだのではないだろうかとも。それは、生が死と隣り合わせであることと何一つ変わらない。
しかし、それを正しいと思ってはならない。なぜならそれは、生きとし生けるもの全てへの叛逆だ。報復であり、復讐の物語だ。死を想う、それは決して間違っていない。だが、決して生きた者が寄り添ってはならないのだ。
「……――その“権能”を持ち出すか、イレク=ヴァド王」
「然り、然り然り然り! この異界、この地獄は此処で終わらせる! この死者達は安らかに眠るべきだ! 未来永劫、過去永劫! 貴様に代わり、冥福を祈らせてもらう!」
「で、あるならば――こちらも使わせてもらうぞ」
「我が運命は辿れない、例え御身が神であろうとも――!」
其れは、イレク=ヴァド王の手にある小さな宝石が放つ輝きだった。極彩色の極光を放つは、異奇妙な形の宝石――輝くトラペゾヘドロン。
正真正銘、神々の用いるアーティファクト。世界に二つと存在しない禁忌。その内部に渦巻く膨大な量の魔力は、もはや計測不可能だ。宇宙を内包する“鍵”として、イレク=ヴァド王が肌身離さず守っている。唯一、邪神を封神する手段として。
纏う魔道書を書き記し、遺した一人のアラブ人を想う。
原初の人。ただ一人、邪神の脅威に気づき、そして歴史より消えた偉大なる魔道の先人を。
「“此処に――アブドゥル=アルハザードの原稿を代筆する”!」
その名を口にする。そして、イレク=ヴァド王の手の中にある宝石が呼応して光を増幅させていき、形を変えていく。
それは、鍵だった。鍵であり、刃を持っていた。剣のようであったが、杖のようでもある。珍妙で奇怪な形をした“鍵”だった。
溢れ出す光と闇。空間を存在ごと断ち切りながら、その莫大な魔力を制御することに意識を集中させていた。
これに触れれば最後、宇宙より存在を追放処分される。未来永劫、過去永劫。永遠に。それは生者も死者も変わらず、等しく平等に、理不尽なほど。
窮極必滅呪術兵装――“輝くトラペゾヘドロン”の開放に、しかし大魔導師は手をかざしていた。
「
「―――――」
その手が掴むのは、闇。光すら飲み込む、闇の塊。極光の正反対の性質を持つ、暗黒。
「――“
そして、闇が生まれた。光を生み出すことのない暗黒から、殻を破るように極光が溢れる。
その手には、神々の至宝であるはずの“輝くトラペゾヘドロン”が握られていた。
「馬鹿な! 同一宇宙に存在するはずがない! 何故貴様の手にそれがある!」
「別に驚くことではないだろう? この俺は魔道の一点にのみおいて、神をも凌駕する。お前が持つそれが本物であるならば、限りなく本物と同一である贋作にして窮極必滅呪術兵装だとも。試してみるか? 死者の国より生まれ出づる禁忌と、神々の至宝である禁忌の衝突を」
「――――“銀の鍵”の再現など、出来るはずがない」
「不可能だと断ずるのなら、それは貴様の限界だろうな?」
極限まで高まる魔力同士の衝突。触れてすらいない、それどころか動かしてすらいないというのに抜身の刀身より放たれる禁忌の宝石の光はせめぎ合っていた。
この刃同士が触れれば、幻夢境など容易く崩壊する。そして術者である二人のどちらかが宇宙より永久に追放処分されるだろう。
互いに鍵を向けたまま、静止した時間が永遠に等しく流れるかと思っていた矢先――。
「いけません、イレク=ヴァド王よ! 大魔導師、どうか互いに矛をお収めくださいませ! その秘術の衝突は如何に双王と言えど無事では済みません!」
横槍で飛んできた将軍猫の怒号によって、集中が削がれた。
「今ウルタールには覚醒世界より客人が来訪しておられます! もしこの戦闘の余波に巻き込まれたとあっては、永久に戻ることは叶わぬでしょう!」
「――地球から、客人が…………これは、驚いたな……」
「私は続けてもかまわんぞ?」
大魔導師を一瞥して、イレク=ヴァド王は深々と嘆息。
術式を逆算して宝石を戻し、手中に収める。膨大な魔力と集中力を犠牲に、一人の客人の安全を優先した。
それを見た大魔導師も落胆した様子で鍵を収める。そして、指を鳴らして短く口訣を結んで形成していた異界を解除した。
絶対零度の王宮も同時に解除して、冷気が風と共に消え去る。
玉座の間へ降り立ったイレク=ヴァド王の肩を軽く叩いて、大魔導師は肩を回していた。
「どこへ行くつもりだ!」
「もう忘れたのか? 此処には風呂を借りに来ただけだ。隠居が長引いて物忘れがひどくなったなイレク=ヴァド王よ――それとも、王になる前の名前で呼んでやろうか」
はっはっは、と笑いながら大魔導師が後手を振って玉座の間を後にする。
――こちらは生きた心地がしなかったというのに、他人事のようによくも笑っていられるものだ。