――日が落ちて、空に星がまたたく頃になってから童子切安綱は寂れた小さな神社の境内より立ち上がった。傍らに置いていた太刀を手にし、大典太もまた腰に差す。
昼と、夕焼けと、夜と。その境界が切り替わる。
童子切が見上げた夜空には月が浮かんでいた。そして、空が黒くひび割れている。
亀裂の走った月面を睨みながらも、どこか頬は緩んでいた。これほどまでに、よもやこれほどまでの危機を前に自らが顕現したのかと武者震いが止まらない。
付喪神。日本妖怪として顕現した今の童子切には、霊力や、魔力といった感覚が研ぎ澄まされている。そこには自らの逸話と、妖怪退治の経歴が少なからず起因していた。
今となっては、かつての主に感謝しかない。――だが、今はもういない。ならば自分がその務めを果たすまでのこと。
童子切安綱は、月を見上げていた。
「――来るなら来やがれ、魑魅魍魎。撫で斬りにしてくれる」
――眠り続けていた二代目賢人バルザイは、不意に目を覚ます。
毛布の上で丸くなって眠っていたロシアンブルーキャットがずり落ちて起きた。
胸の内側で湧き上がる嫌な予感。まるでがん細胞のように増殖する不吉な予感に突き動かされるように外へ飛び出しそうになって、思い直した。
今、またこうして外に黙って出ていってしまったら巴もあこも不安がる。そうしたら、また自分を探しにくるのだろうか。
『にゃ、にゃんだよぅ!? いきなり起きるなよ!』
扉に手をかけて、考える。
家の中の気配を辿れば、巴もあこも就寝しているのか自分の部屋の中で眠っているようだ。
二代目賢人バルザイは足元のロシアンブルーキャットを見つめる。
あの二人を頼めるだろうか。いや、そもそも意思疎通すら出来ないのだから猫に言っても仕方がない話だ。
――自分に残されている時間は、そう長くないことは理解している。
自分の力を使えば、邪神の侵攻を食い止めることはできるかもしれない。だが、そのためには大掛かりな術が必要になる。そして、今の自分は邪神側の存在に近い。術式を転用されて、逆に世界の崩壊を助長することになるかもしれない。もしそうなれば――。
「…………」
なぜ、自分が行動に迷っているのか。それすらわからなかった。今まで、ずっと鍵の鍛造にだけ集中してきた。しかし、もうこれ以上の完成は見込めなかったからこそ、邪神の誘いを受けたというのに。それでもまだ手詰まりだ。
一体自分に何が足りていないのだろう。初代賢人バルザイですら、たどり着けなかった境地があるというのに。
お前にならできると言ってくれた師の信頼に背いている。
求められれば応えるだけの、道具に過ぎなかった自分が。その応えに、どうしてこうも戸惑いと躊躇いを覚えているのだろう。
視線を落とせば、青いシュシュが目に入った。
人間の女の子からの贈り物で――どうして、彼女はこれを自分に渡してきたのだろう。
『青は幸福を呼び込む色。だから、これを君にあげるね』
「…………」
しあわせ、とは。なんだろう。どういったことを示す言葉なのか、実感が湧かなかった。
『――貴方の行く先に、幸あらんことを』
ギリシャという国で出会った、船乗りの一家。彼女たちは、もういない。
自分だけが残された。自分だけが取り残された――。
いつだって、
それは、器物にとってどれだけの苦痛だっただろう。使われもせずに死蔵され、朽ち果てるまでの時を過ごす。己の目的、本懐の一切を成し遂げるべき手も足も無く、誰かの手に渡るまでずっとひとりぼっちで。
ハテグ・クラの麓にある村の鍛冶場で、ずっと鍵を鍛造してきた。
いつか、我が師を迎えに行くために。
いつか、我が師の願いを叶えるためだけに。
だけど、どうしてそれが自分に与えられた役割なのか。まだわからないままだった。
童子切安綱が言っていた言葉の意味が、わからない。
空っぽの俺が打つ偃月刀には、意味がないと。中身が無いと。この偃月刀は、我が師バルザイが神の摂理に挑まんとする為に叡智の限りを尽くした鍵であるというのに。そこに籠められた魔術の理論は凡人には理解するなど以ての外。
――だが、今の俺に何ができるだろう。俺の在り方を全て否定された後で、何が残るのだろう。
何もない。なにも、ない。空っぽなままで、俺は終わるのだろうか。
俺に、何が残せるのだろう。
わからない。わからないけれど、自分が成すべきことは、わかっている。
二代目賢人バルザイは扉に手をかけて、静かに開けた。階段を上り、眠っている巴とあこの部屋に通じる廊下を音もなく歩く。
扉の前に手をかざして、粗末な魔術で内鍵を開ける。なんの防御もされていない地球では、なんとも楽なものだ。鍵などあってないようなもの。
布団をかぶり、静かに眠っている巴の枕元に二代目賢人バルザイはかがみこんだ。
手を伸ばしてそっと、髪を撫でる。
自分がされて、嬉しかった。不快な気持ちはなかった。
だから、巴もきっと嫌いではないと思って頭を撫でる。
「…………」
よく笑って、よく泣いて、よく怒って。巴は見ていて飽きない。あこも同様に。
家族というものは、わからない。師は魔術を教えるばかりで、そういう接し方をされたことはなかった。
寝顔の口元が緩んでいる。なんとも無防備なものだ。
どうして、自分のことであんなにも一喜一憂していたのだろう。
声を聞かせただけで、あんなにも心から嬉しそうにしていた。
「……――ともえ、いってくる」
小さく呟いて、二代目賢人バルザイは立ち上がる。音もなく部屋を出てから、鍵を閉めた。
その向かい側にある、あこの部屋。扉に手をかけようとして、鍵を外そうとして、躊躇した。
なんて、声をかけよう。あの子には、なんて言おうか。
考えて。悩んで。ためらって――そんな自分に、戸惑っている。
どうして宇田川あこのこととなると、こんなにも自分がかき乱されるのか。
――この感情を、人はなんて呼ぶのだろう。
そうして悩んで立ち止まっている時間が惜しくなってきて、二代目賢人バルザイはあこの部屋の前から立ち去った。
宇田川家を後にして、最後に一度だけ振り返る。
短い間だったけれども、お世話になった場所だ。
……また、あんな風に邪神の手によって跡形もなく吹き飛ばされてしまうのかと思うと、胸が苦しくなる。
二代目賢人バルザイは、月を見上げた。
「………………」
この宇宙に、最後の邪神が侵略しようとしてきている。
“黒い月”――天体規模の邪神。
あの魔術師と、付喪神と、共同戦線を張ればどうにかなるかもしれないが――。
まずは、その前に自分が人類の為に討たれなければならない。
人類に無害であろうとしても、自らも邪神の一柱に変わりはないのだから。
だから、此処までだ。
甘い夢を見るのは、今夜で終いにしてしまおう。
――これ以上長居すれば、自分が自分でなくなってしまいそうになる。
――エヌラスは、身体の不調を確かめる。
傍らに寄り添う今井リサは、頭を擦り寄せてきていた。
夜空を見上げれば、月が浮かんでいる。だが、その表面に亀裂が走っていることに気づいているのは魔力に通じているものだけだ。
あの小さな魔術師も知っているだろう。おそらくは、童子切安綱も。
何が起きるのか想像もつかない。邪神の起こす災害はどれもが果てしなくろくでもない騒ぎだ。
そんな馬鹿騒ぎは、もう沢山だ。十分すぎるほど、彼女たちの暮らしと平和を壊した。
だからもう、これで終わりにすべきだ。そうなれば、自分が此処にいる理由がなくなる。そうしたら、また次の死地へ赴くだけだ。
リサの身体を抱き寄せる。
「ん……あはは、なんか…恥ずかしいね、これ」
「あったかくて俺は好きだけどな」
「アタシもすごく落ち着く」
「んー……ぐりぐり……」
「くすぐったいってばー」
大型犬のように頭を押しつけてくるエヌラスに、リサが笑っていた。頭を撫でて、顔に触れて。そのまま頬に、軽く唇を押しつける。すると、今度はやり返された。
短く。それから、少しだけ離して短く、長く――顔に熱を帯びてきた頃に、エヌラスがリサの唇から離す。
腰に回した手を緩めると、リサが首に手を回してきた。
「……お風呂は?」
「――あとでいい。これから多分、ひっでぇ怪我してくるから」
「……アタシのこと一人にするの?」
「そう言われると朝まで抱きたくなるから勘弁してくれ」
「抱――」
「ちゃんと帰ってくるから、お留守番だ。できるよな」
唇に指を当てるエヌラスに、少しだけ時間を置いてからリサが頷く。その頭を優しく撫でてから、顎を持ち上げた。
自分にできる精一杯。相手を想えばこその、精一杯。
唇を塞ぎ、そのまま舌で触れる。驚いたように一瞬だけ身体をすくめてから、リサもおずおずと舌を伸ばしてきた。
舌先が触れ合って驚いたのか、すぐに引っこめる。だが、ゆっくりと自分からも舌を出して先端を舐めてきた。少しずつ、慣れるまでの間は舌を触れ合わせるようにしていく。
だが、リサの手が胸に当てられて顔を離した。
「んっ……、ぁ。ちょ、ちょっと……待って……?」
「んむ。どうした?」
「――息、続かなくって……はぁ……、はぁ……ん。すー、はー……よしっ」
大きく深呼吸を挟んでから、再び唇を小さく突き出す。その意気込みやよし。
エヌラスが、リサの頬を捕まえる。
「……ぇ」
呆気に取られた隙に、再度唇を塞ぐ。今度は逃げられないようにしっかりと顔を固定されている。そのまま舌を絡められて、逃げ場のないリサは口内をなぶられるように舌で蹂躙された。
顔を離す頃には、すっかり息も乱れて舌先には唾液の糸が引いている。それを指先で拭ってからエヌラスはすっかり腰の砕けたリサを抱きしめた。
「んじゃ、行ってきます。戸締まりはしっかりな。俺以外の誰が来ても、絶対に扉を開けるなよ」
有無を言わさず、その場にリサを置いてエヌラスはマンションを後にする。
――惚けた顔をしていたリサが、徐々に現実感を取り戻していくと、ソファーに置かれていたクッションを何度も叩き始めた。
ずるい。大人ってずるい。本当にずるい、心底ずるい。あんなの反則だ、卑怯だ。いたいけな乙女にしていいようなことじゃない。なのに、最後はお預けだなんてあんまりだ。
(あんなのされたら、期待しちゃうじゃんっ! 普通するじゃん、無理だってーもー!)
なんだか自分の純情をもてあそばれているような気がして、リサは頬を膨らませる。
唇に触れると、まだ熱く湿っていた。口の中も、まだ舌が入ってきた感触が残っている。
一気に全身が燃えるような感覚を覚えて、リサは火照る身体を冷まそうと飲み物を含んだ。そして、すぐに寝てしまおうと考えていた。
外に出てから、エヌラスは月を睨みあげる。
月の侵略は、あれからも少しずつ侵攻してきているようだ。眠っている間に猶予もなくなってきていた。
これは本当に、寝ている暇もない瀬戸際だ。
それでも、自分のやるべきことは変わらない。今も、昔も。あの時からずっと。
「――邪神は皆殺しだ。眷属だろうが、例外はない」
それがたとえ、懇意にされている相手であろうとも。