――夜が来る。
エヌラスは、月を見上げながら街を駆けていた。戦闘服であったサイバネコートは既になく、予備の戦闘服もこれまでの闘いで使い潰してきている。
住宅街、電柱の上を跳ねるように飛び移りながら先を急いでいた。
街を包む瘴気が徐々に濃くなっている。それの基点は、他ならぬ自分が壊した霊脈。街のクレーターだった。地球上で現在、最も魔術的な異変が起きるとすればそこ以外に考えられない。
そしてそれは、他の者も同じだったのだろう。
エヌラスが電柱を足場に乗り継いでいると、自分と同じように電柱の頂点に立っている人影があった。赤い影、揺らめく陽炎は、千年経っても尽きぬ憎悪の炎。
他ならぬ童子切安綱がエヌラスの進路を阻むように立っていた。その腰には、大典太光世を帯びている。
警戒するが、相手は横目で見やるだけでその場から動こうとはしなかった。それが気になって足を止めて振り返る。
「……何してんだ?」
「見ての通り、偵察だが? お前こそ身体は良いのか」
「おかげさまでな。で、俺を見逃すのか」
「馬鹿を言え。今夜限りだ。そういう約束をしてしまったものでな」
「約束? 誰とだよ」
「別に誰でも良かろうよ。こんな俺を放っておけぬ、大馬鹿ものだ」
心当たりが無いわけでもない。だが、エヌラスはそれを敢えて問い詰めはしなかった。
敵意が無いのなら、こちらから仕掛ける理由もない。
「今夜は随分と空気が重い。どう思う、童子切?」
「なに? それをお前が俺に聞くのか? まったく、どういう了見だ……まぁいい。今夜は何かあるだろうな。証拠に、ほれ。あの穴に悪霊どもが集まってきている。それに加えて、月も今夜は何かおかしい気がする」
二人が月を見上げる。
そこには、黒い亀裂の走った月面があった。
それは、感覚的なものであったが――二人は確かに、その亀裂から何かが落ちてくるのを見ていた。黒い破片。ガラスのように尖った物体。あるいは、種のような形をしたもの。
眉を寄せる。
「……おい、エヌラス。お前あれが見えるか?」
「ああ見えてる。何か落ちてきてるな、それも此処めがけて真っ直ぐに」
「弓でもあれば撃ち落とそうものだが、生憎と手ぶらでな」
「だったら俺が代わりにやってやる」
エヌラスが右手に真紅の自動式拳銃を召喚すると、夜空に向けて無造作に発砲する。砲声のような音が夜の街に反響した。
月から落下してくる破片目掛けて一直線に駆け上がる真紅の魔弾が、直撃する。しかし、爆炎に飲み込まれるはずの黒い破片は霧散して、それから何事もなかったかのように落下を続けていた。
「あぁ? なんだ、あれは。当たった素振りひとつ見せんぞ!?」
「こっちの台詞だ! どうなってやがる!」
「お前の持っているそれが役に立たぬだけだろうが! 弓もってこい弓!」
「持ってるわけねぇだろうが馬ぁぁぁ鹿ッ! だったら刀でもぶん投げてろ!」
「得物を投げるとか正気の沙汰とは思えんぞ! さてはお前馬鹿だな!?」
「なんだろうな、テメェに言われるとすっげぇ腹立つわ!」
「いっそ貴様の首を落として投げた方が呪術に使えそうだ!」
「そんなことしてみやがれ! テメェから呪い殺す!」
喧々囂々と、怒鳴り合う二人が見上げている夜空からは黒い破片が日本めがけて落下してきている。すでに雲を越えて、破片は既に地上に衝突しようとしていた。
しかし、地表へ衝突する直前でその黒い破片に向かって無数の偃月刀が投擲されていく。
無数に切り裂かれる破片だったが、勢いが急速に衰えていくものの霧散して躱すだけだった。
二人が立っている電柱とはまた別な電柱に、さらにもうひとり――二代目賢人バルザイが降り立つ。その手には偃月刀が一振り握られていた。
「ちっ。ありゃダメだな。迎撃は出来ぬものとみた」
「ならどうする」
「おい、そこののっぺらぼう! お前結界は得意か!」
「……」
何故か率先して指揮を執ろうとする童子切にエヌラスは少しばかり反抗したくなったが、どのような采配を下すのか様子を見るべく口を閉ざす。
二代目賢人バルザイは、童子切の言葉に頷いた。
「ならば良し。おそらくあれの落下地点はあの大穴だ! あの近隣を結界にて切り離せるか!」
静かに首を縦に振り、手をかざすと無数に偃月刀を鍛造する。投擲された偃月刀は回転しながらクレーターの周辺を囲うように突き立てられた。
剣指を立ててその周囲を結界で閉ざす。
エヌラスだけは黒い破片が落下してくる様子を見守っていた。それは童子切の見立て通りに、クレーターに向かって落下していく。
「童子切。あれが何が分かるか?」
「さぁ。皆目検討もつかんよ。だが、古来より妖怪とは人間の恐怖を喰らうものだ。人の恐怖とは、それ即ち夜の闇だ。どれほど夜を照らそうと、どれほど宵闇を照らし出そうとも夜の恐怖は覆すことはできんものだ――あれが妖怪だとするのなら、人が恐れるものを形作るだろうな」
「例えば」
「自分で考える頭がないのかお前は?」
「うっせぇわ馬鹿が! 日本妖怪のことなんざ欠片も知るかボケがぁ!!!」
「ああそうだった。すまんな、見当違いの期待を寄せて」
「こいつぜってぇ後でぶん殴る……」
「しかし、さてな――何が出ようとも俺が斬るだけの話よ! お前らの出る幕ではないわ!」
そして、クレーターへと落下した黒い破片は霧となって広がる。だが二代目賢人バルザイの結界に阻まれていた。
その勢いが完全に消えて、暗雲が結界の中に立ち込めていく。
二代目賢人バルザイは結界の中で蠢く黒い破片の気配が弱まるのを感じていたが、何か奇妙な感触を覚えた。
まるで手応えというものがない。言ってしまえば、存在そのものが“あやふや”なのだ。それこそ霧を掴むような、夢と現実の境界が曖昧な存在。
まだ完全に実体を得ていないからこそ、他の形を借りることで存在を確固たるものとする。
成程、それで付喪神――あるいは、土地に沿った怪異の形を得ているのか、と。二代目賢人バルザイは他人事のように分析していた。
結界の中で蠢いていた霧は、やがて空に向かって逃げ出そうと意思を持って動き出す。しかし、それに先んじて結界で包囲を完成させた。
「……んで?」
「む?」
「こっからどうするつもりだ。あの黒い霧」
「さてなぁ。射抜いても斬っても効果がないともなれば――焼き払うほかなかろうよ!」
言うやいなや、童子切安綱は電柱から跳ねて行ってしまった。エヌラスと二代目賢人バルザイは睨み合い――やがて、仕方ない、といった様子でその後を追う。
二人の眼下では、野良猫達が集まって駆け出していた。
童子切が地面に降り立ち、駆け出す。
その脚力たるや、騎馬にも劣らないほどの凄まじい速度であった。何事かと人々が逃げ惑う姿に目もくれず、一目散に結界へ向けて駆け出している。
重機を足場にしながら飛び越えて、結界が目前まで迫った瞬間に黒い霧は一点に凝縮していく。密度を高めて一点突破を試みようとしたのか、鋭利な形へ変化すると壁面へ激しく体当たりを繰り返していた。だが、それも敵わないと見るや形を更に変化させる。
単調な攻撃では歯が立たないと見たのか、膨張を繰り返していくと二代目賢人バルザイの結界にヒビが入り始めた。
しかし、既に童子切はその目前にまで辿り着き、拳に炎を乗せて引き絞っている。
「往生しやがれぇ!!」
あろうことか。
童子切の拳は、力任せに二代目賢人バルザイの結界を打ち破った。そして内部に侵入させた拳から激しく発火すると黒霧を蒸発させていく。だが、今度はその威力に耐えきれずに結界を内部から崩壊させた。
口腔から火の粉を吐き出しながら童子切安綱は鼻で笑う。
「はっ。何するものぞ――おぉ!?」
黒い霧が焼き尽くされたかと思いきや、それは地中の霊脈に潜り込んで難を逃れていた。足元から鋭利な黒い影が飛び出してくる。咄嗟に大典太を引き抜いて凌ぐと、後ろへ飛び下がった。
刹那の攻防から火花と共に童子切が黒い破片を睨む。
黒雲が膨れ上がり、その中からギョロリとした大きな目玉が童子切を見下ろす。節足動物のように足が突き出したかと思うと、霧が膨れ上がる。徐々にその輪郭がはっきりとしてきた。
巨大な、あまりに巨大なその姿を見上げているうちに蜘蛛のような足を地面に突き立てる。まるで牛のような頭部に、大きく生えた牙が生えている。だが、童子切の顔を見るなりその場を離れて川辺に向かって飛び去っていく。
全身を黒い体毛に覆われた、牛の頭を持つ巨大な妖怪。
牛頭鬼か――いや、人型ではなかった。むしろあれは、蜘蛛のような姿をしている。ならば土蜘蛛か? だとしても違和感を覚える。双方の特徴を併せ持つ妖怪を、童子切は知っていた。
かつての主が退治したこともある。よもや千年来の再会となろうとは思いもよらなかった。思わず破顔してしまう。
「なるほど、水辺を求めたか。水の気の妖怪と言えば――まぁあやつしかおらんわな。上等!」
住宅地との境、大橋から川に向かって黒い巨影は飛び込んだ。
まるで川の流れに身を隠すようにして。
遅れて、エヌラスと二代目賢人バルザイが童子切に追いついた。
「おい、さっきの黒い霧はどうなった」
「川に逃げ込んだ」
「はー、まったくマジかよ。あれでしっかり仕留めてりゃ面倒事にならなかったってのに」
「そんなこと俺とてわかっとるわ馬鹿めが! だがあれは俺に任せろ。なに、ちぃっとばかし馴染みのある相手だからな」
「正気か。それで周囲に被害出すなよ」
「お前が言えた口か!」
怒鳴りながら童子切が川辺へと消え去った黒い巨影を追って走り始める。行ったり来たりと忙しい男だ。
半ば呆れているエヌラスの足元に、野良猫達が集まる。その筆頭は、若いロシアンブルーキャット。そのすぐ傍にはエキゾチックショートヘアが座り込んでいた。
『おい魔術師! 困ったことになったぞ!』
「うぉ、猫が喋った……」
『うおぉいっ!? そこでにゃんで驚くんだよぅ!!』
まさか猫の方から言語チャンネルを合わせられるとは露ほども思っていなかっただけにエヌラスは面食らっている。しかし、猫達は火急の用向きらしく焦っていた。
『あの黒い月は、邪神だ! あれがこの宇宙に侵略なんてことになったらそれこそ未知数の邪神災害が起こるぞ! なんとかして食い止めてくれ!』
「なんとかって言われてもなぁ……」
『さっきの落下物にしたってそうだ! あれは邪神の欠片だぞ! どこに落ちた、この近くのはずだけど……』
「さっき童子切が焼き払おうとして失敗した挙げ句川に逃げ込んで追っかけていった」
『情報量!!』
猫の頭には少々荷が重かったのか、唸っている。
だが、そこでエキゾチックショートヘアが一歩前に出てエヌラスを見上げた。
『邪神の正体は既に判明している。だが、その性質は大いに異なるものと我々は見ている。世界中の怪事件もそれに類するものとして考えるのが妥当だろう。あれは、人の恐怖――無いものを作り上げる。日本に落下した以上、妖怪の形を得て活動を始めるはず』
「だから童子切が向かっていったんだが……」
エヌラスが盗み見るのは、騒ぎの中、ただひとりどこ吹く風と他人事のように立ち尽くしている二代目賢人バルザイ。
「……で。こいつは結局のところ、邪神にカウントしていいんだな?」
その一言には、ロシアンブルーも言いにくそうにしていた。
確かに。たしかにそのとおりではあるが――この数日間、一緒に行動していてわかるのは、二代目賢人バルザイは人類に敵対していないということだ。だが、それはあくまでも行動の結果であり、この先かならずしもそうであるとは限らない。
彼に近しい人間が、敵意を持っていないからこそ。敵対する理由がないからこそ、手を出さなかった。だが、今一度邪神が彼に接近してその助力を乞われればわからない。
良くも悪くも、素直で純粋。どんな色にでも染まる。
だからといって、結論を急ぐことはないはずだ。
『そ、そうかもしんないけど――まさか今夜で決着つけるつもりか、魔術師』
「邪神を二匹も同時に相手するのなんざごめんだ。ただでさえクソガキ一号二号であんなに手こずってたってのに。だったら今のうちに芽を摘んでおくべきだ」
『どうしてそう視野が狭いんだ。もしかしたら味方してくれるかもしれないだろ!? なぁ!』
「――俺も昔はそうだった。相手が邪神だから、という理由だけでこうも邪険にはしなかった。だが結局は、全員が全員どうあろうと人類の敵だった。最後は全部奪っていきやがる」
『おまえ……』
「邪神は皆殺しだ。人類の味方だろうが、敵だろうが、なんだろうが例外なく! 俺は地球の人間のために邪神狩りをしてるわけじゃねぇんだ!」
『お前も黙ってないでなんか言えよぅ! このままじゃ殺し合うしかないんだぞ、わかってるのか!? にゃー、おいー!』
ぺしぺしと前足で叩いてくるロシアンブルーを見下ろし、二代目賢人バルザイはエヌラスをじっと見つめている。
――敵対する理由なんて、ない。だから、別段どうしようというつもりはなかった。
だが。
敵対しない理由も、そこにはなかった。
だから、刃を鍛える。これまで無数に、無限に、無尽蔵に繰り返してきた魔刃鍛造を今夜も。
もしかしたら、この闘いを経てまた一歩、完成に近づくことができるかもしれない。
もしかしたら、この闘いで完成するかもしれない。
もしかすれば――この男との戦いで、師の悲願を成就することが叶うかもしれない。
託された思いがある、だからこそ二代目賢人バルザイは逃げも隠れもせずに、その殺意と敵意を受けて立った。