一歩。また一歩と、二代目賢人バルザイは倒れているエヌラスへと近づいていく。
霞む視界に何度もまばたきを繰り返し、平衡感覚が狂った千鳥足で何度も足を止めながら。
前を向く。前に向かって進む。あの敵を倒さなければ、この世界に明日はない。
――あの敵が、どれほど人間に馴染もうと。親しまれたとしても、今宵。
「…………」
潮風を吸い込む肺が痛む。それでも、目いっぱいに息を吸い込んで歯を食いしばりながら歩を進める。
あと、もう少し。もう一歩。ようやく自分の間合いに届くか否か、という距離にまで接近して――エヌラスの左腕が、不意に動いた。その手には、レイジング・ブルマキシカスタム。吸血鬼狩りのために改造を重ねた拳銃は、最早人間が扱える代物ではない。
その照星が、ピタリと自分の額に狙いを定めているのがわかった瞬間、二代目賢人バルザイは偃月刀を振るいながら跳び下がっていた。
銃弾を切り払う偃月刀が衝撃で手からこぼれ落ちる。自分の手に剣を握るだけの力が残されていないことを悔やんでも仕方がない。新たに鍛造した偃月刀を構える二代目賢人バルザイの前で、エヌラスがゆっくりと息を吐き出しながら身体を起こしていた。
明らかに、瀕死の重傷だ。にも関わらず、焼け焦げた服の下から覗く左胸の魔力の心臓が煌々と輝いている。全身の魔術回路を通して肉体を再生させているのが傍目からでもわかった。それは血管をむき出しにしているも同然で、弱点を晒している。それほどまでに、今のエヌラスは自分の肉体を再生することに魔力を割いていた。
左胸から、胸板、鎖骨、首筋を辿って、顎下から頬を抜けて左目の周囲にも魔術回路が集中している。同じように、右腕も。だが、そちらのほうが酷い有様だ。
血管と神経と骨格と、生身の肉体と見分けがつかないほどに魔術回路が張り巡らされている。
果たして。この男をそれほどまでの窮地に追い込んだ敵は、なんだったのだろうか。
二代目賢人バルザイは、頬を撫でる潮風の湿っぽさを鬱陶しそうに手の甲で拭った。
「――――」
固く閉じられた左目に、焦げた右手。辛うじて動く左手には、拳銃。蒸気にも似た白い吐息が潮風に流されて消えていく。
夜の海は、不気味なほど静けさを保っていた。緩やかな波の音、穏やかな冷えた潮風、むせ返るような磯の香り。二人の間に走る緊張感は、それだけで息を詰まらせるほどに。
咄嗟に自己防衛本能で撃鉄を起こしてしまったが、エヌラスは自分が戦える状態ではないことを理解していた。それでも、あのまま寝ていたら心臓に偃月刀を突き立てられていただろう。
自分でも鼻で笑ってしまうほどに、体の芯まで闘争本能に侵されている。
いっそ、何もかも手放して楽になってしまいたい――そう思うたびに。そう考えるたびに、脳裏にはこの手で奪ってきた笑顔がチラつく。
どうしても、取り返したいものがある。取り戻したい平和な日々がある。だから、まだ。
「――――どうして」
それは、これまで沈黙を続けてきた相手から投げられる初めての疑問だった。
「どうして……、どうして――おまえは、死なないんだ」
「……」
どうしてかと問われて、エヌラスは何がおかしいのか笑ってしまった。
――紗夜の怒る顔が目に浮かぶ。
「生憎と、生まれてこの方死んだことがねぇからな。死んで楽になろうとも思っちゃいない」
「……大勢、犠牲にしてでも?」
「お前一人殺すのに、この街消し飛ばして釣り合いが取れるならそうしたさ。そうした結果――どうにもならなかった。まったく、自分の未熟さに腹が立つ」
偃月刀を握る手に力がこもる。それは、刀身に帯びる熱量を膨れ上がらせた。揺らめく背後にエヌラスが冷や汗をかく。
手にした二刀流、攻防一体にして変幻自在の多闘流。魔刃鍛造の一点においては他の追随を許さない。それこそ、大魔導師にも並ぶ勢いだ。
自分が持つ呪術兵装の中から、残っている物を思い出す。しかし、その中において偃月刀に見合う呪術兵装は無かった。その大半は、既にガラクタ同然。
――刹那。脳裏に浮かぶ、一振りの刀。
二代目賢人バルザイが偃月刀を構えて駆け出す。エヌラスは左手に持ったレイジング・ブルマキシカスタムを立て続けに発砲して迎撃するが、難なく切り払われていた。
装填数五発。全弾が空になり、エヌラスは排莢する暇もなく口に銃身を咥えて倭刀を手元に手繰り寄せる。だが、器用貧乏な調整を施している倭刀では二代目賢人バルザイの偃月刀を捌くのが精一杯だ。まともに防御しようものなら刀身は真っ二つに折れてしまう。
左腕だけで自在に扱えるように鍛えている手前、二刀流だけならばまだ凌ぎきれる。しかし、魔刃鍛造の遠隔操作も含まれれば防御の手が足りない。
少なくとも十数本同時に偃月刀を鍛造する魔術の腕は、日々の研鑽の賜物。ただの一度も止めることなく続けてきた魔術の詠唱速度は時間差が存在しない。
投擲される偃月刀を捌き切れず、身体を掠めていく。その内の一本が弾ききれずに身体に突き刺さった。手を緩めた瞬間に、雪崩込むように偃月刀が迫る。辛うじて急所を避けるようにして身体で受けるが、それでも出血は免れられない。
左足と、右太もも。右肩と、脇腹に細身の偃月刀が突き立てられている。
たたらを踏み、なんとか踏み止まるがそれでも負傷が重なっていた。再生が追いつかない。そうなれば、自然と銀鍵守護器官による魔力燃焼も引き上げられる。宿主であるエヌラスの生存を第一に稼働している手前、そこに当人の意思は含まれない。
再生能力に割かれるはずの魔力を無理やり攻撃に回して再生速度を犠牲に、迫る二代目賢人バルザイの偃月刀を折れた倭刀で凌ぐ。
首に向けて振るわれた偃月刀を、身体に突き立っている刃で受け止める。傷口が広がり、ますます溢れ出た血が砂浜を赤く染め上げた。
息を切らしながら、二代目賢人バルザイが偃月刀を持ち直して踏み込む。だが、その小柄な身体を即席の電磁加速蹴撃によって押し退けた。再び距離を離し、お互いに受け身を取り損ねて砂浜に倒れ込む。
――最早、その戦いは泥沼化していた。
腕を組みながら見守っていた童子切安綱は呆れたため息を吐く。
追いついた頃には、既に二人とも満身創痍状態だった。それでもまだ決着は着いていない。
漁夫の利を狙っていっそこの場で二人を切り捨てることなど容易なことだ。しかし、一度口にした言葉を覆すわけにはいかない。
夜が明けるまで、あの二人に手出しはしない。但し、この国に刃を向けない限りの話だ。
「……あんな調子では夜が明けてしまうな」
まるで亀のような足取りで、重そうに足を引きずりながら一歩一歩ゆっくりと近づいていく。
深く息を吸い込み、痛みを堪えて二人が得物を構え直して再び刃を振るう。それでも、童子切安綱の目にはまるで止まっているように見えるほど鈍かった。
子供のチャンバラでもまだ勢いがある。
エヌラスはまだ片腕と片眼が使えないのか、動きがぎこちない。
二代目賢人バルザイもまだ闘志が衰えていないのか、がむしゃらに偃月刀を振るい、魔刃鍛造を行いながら多重投擲でエヌラスの逃げ場を奪いながら迫っている。
その場に腰を下ろした童子切安綱が背後の気配に振り向けば、そこには猫がいた。
「なんだ、畜生風情が」
『まだ決着着いてないのか?』
「見ての有様よ。泥沼も良いとこだ。仕切り直した方がまだ早かろうよ」
だが今夜を逃せば、両者共に斬って捨てる腹づもりだ。
――エヌラスは、身体の不調が二代目賢人バルザイの偃月刀にこそあると感じていた。
あれは、“鍵”として完成しつつある。いや、もはやそのものと言ってもいい。しかし、それと同位存在である銀鍵守護器官はまだ胸中で脈打っている。
まだ生きろと言っている。死ぬことを許さない心の臓が、身体に熱い血を送り出していた。だが、塞がるはずの傷口は治らず、真新しいまま血を撒き散らしている。
見れば、魔術回路が切断されていた。切断された回路が通電するはずもなく、末端からその機能が壊死していく。無限の魔力貯蔵庫といえども、その機能を活かすためには魔術回路が必要不可欠、その機能不全に陥ればエヌラス自身の命に関わる。
かつて、これほどまでに自分を窮地に追い込んだ相手など数えるほどしかいなかった。
(嗚呼、くそったれめ……)
――こんなことなら、一人くらい手を出しておくべきだった、などと不埒な考えが脳裏をよぎってしまい、自嘲した笑みを浮かべてしまう。途方に暮れるような、諦観を含んだ笑いに、しかしエヌラスは左手で、二代目賢人バルザイ渾身の一撃である偃月刀を後ろへ飛び下がりながら弾いていた。その手から衝撃で倭刀を取りこぼす。
砂浜に足をついて、それから膝がガクンと、自分の意識とは裏腹に崩折れた。その隙に、二代目賢人バルザイが全身を振りかぶって偃月刀を投擲する。
それは、激しく回転しながらエヌラスの左胸――銀鍵守護器官と生身の心臓を掠めて突き立つ。
背中にまで達した刃の勢いに押され、ゆっくりと仰向けに倒れたエヌラスは星空の下でひどい睡魔に襲われた。四肢を投げ出してもう二度と立ち上がることすら許さない心地よい重力に全てを委ねてしまいたくなるほどに。