――授業を受けていた花咲川女子学園の生徒達は、最初その異音に気づかなかった。だが、それが自分たちの勘違いではないことに確信を得たのは、ガラスの割れる音が聞こえたからだ。
1階の渡り廊下から、窓ガラスを突き破ってエヌラスが中庭を転がる。即座に受け身を取り、迫る玉藻御前の貫手を内から外へ捌いて顔にカウンターの拳を突き刺す。
出鼻をくじかれた相手の手を取り、持ち上げる。その脇に手刀を打ち込み、腕を交差させる形で動きを制限してから発剄。
地を鳴らした“打開”を叩き込まれた玉藻御前が咳き込む。くの字に折れた身体から、頭目掛けて至近距離から後ろ回し蹴りで側頭部を蹴り飛ばすと激しく回転して地面に倒れ込んだ。しかし、流石は大妖怪を自負する女傑だけはある。
エヌラスは舌打ちした。手応えこそあるが、それでも致命傷には至らないことが分かる。軽身功でこちらの発剄を上手く流されていた。見た目こそ派手に吹っ飛んでいるが、わずかに急所をずらされている。
付け加えれば、今はドラッグシガーと黄金の蜂蜜酒をぶち込んで無理矢理身体を動かしているような状態だ。短期決戦が望ましいが、それも難しいだろう。かといって童子切安綱の援護を願ったところで諸共に叩き切られそうなので断固拒否。
さらに。
ハンティングホラーも今頃はブサメンキモ妖怪(鵺)とじゃれ合っているので普段から使っている武器の大半が使用不能となっている。倭刀はどっかに落とした。おのれ玉藻御前。
花咲川女子学園でクトゥグアとイタクァをぶっ放そうものなら損害賠償青天井。全額弦巻家に建て替えてもらうしかないが俺は地球でも借金まみれになるのか? ――エヌラスはぐるぐると思考の濁流に流されながらも、対敵の徒手空拳を凌いでいた。半ば反射的に防御しているだけに脳のリソースが余っているのが原因でもある。
裏を返せば、それだけ余裕があるということでもあった。
玉藻御前のスカジャンの裾を掴み、力任せに舗装された地面に叩きつける。エヌラスの視界に、一瞬だけ映ったのは廊下からこちらの様子を窺う教師の顔。騒ぎになるのは秒読みだが、これが中々どうして上手くいかない。
仰向けに倒れたままの体勢から、玉藻御前が器用なことにも長い足を首に回す。手首を掴まれてそのまま腕ひしぎ十字固めで肘を折ろうとしてくるが、エヌラスはそれを逆に利用した。
玉藻御前をそのまま持ち上げて、中庭にそびえ立つ樹木めがけて相手を振り回す。再び頭部を強烈に叩きつけられて緩んだ拘束から、手首を翻して胸ぐらを掴むとレンガの角に向けて振り下ろした。
軽身功で逃れた玉藻御前がかぶりを振る。眉目秀麗、端麗な顔立ちを怒りに歪めていた。全身を覆う妖気が陽炎のように揺れている。
「武術かと思えば、力任せにわらわを振り回すとはな」
「故郷のサイバネマフィアに比べりゃ羽のように軽い女だ」
「此処まで来ると薄ら気味悪いわ、化け物め」
「妖怪に言われちゃおしめぇだよ、
首の骨を慣らしながら、再度互いに構え直す。
そこへ、無遠慮に歩み寄ってくる教師がひとり。ただの喧嘩だと思っているのだろうが、生憎と殺気立った空気を読み取れるほど感覚が鋭いわけではないようだ。
「お、おいキミ達! 勝手に敷地に入ってきたら……エヌラス先生?」
「はっはっは。ほあたぁっ!」
「あふんっ」
顎を撫でる手刀であえなく教師が撃沈、その場に膝から崩れ落ちる。
しかし、玉藻御前はその隙を見逃さずに音もなくエヌラスの死角。閉じられた左目側に回り込んで接近していた。
上段のフェイント、下段からかちあげる掌底。さらに追い打ちと言わんばかりに蹴り上げる。気絶させた教師に気を取られていたエヌラスの防御が遅れ、蹴撃を顔で受け止める形となって二階の窓ガラスを突き破って校舎に転がり込んだ。
教室の壁に身体を受け止められ、エヌラスは頭を振って髪に混じったガラス片を落とす。教室から何事かと顔を覗かせた生徒達に、教室へ戻るよう言った直後――窓に迫る黒い影。玉藻御前が軽々と跳躍して目の前に立ちはだかった。
「くそったれ。無一文で修繕費用なんて一銭も出さねぇくせに好き放題やりやがる」
「貴様こそ、その身なりでどこから金を出すつもりだ?」
「馬鹿抜かしやがれ! 財布なんて持ち歩いた試しがねぇ! 俺に金の話すんな!」
上半身は指先まで余すところなく包帯まみれ。黒のジーンズに黒のブーツと、黒尽くめのポケットを叩いてもシガレットケースくらいのものしか無い。
廊下に顔を出して覗き出した生徒達に引っ込むように声をかけるものの、注意を逸らして戦えるような相手ではない。掌打と蹴撃を数発喰らったエヌラスが廊下を横滑りに飛ぶが、即座に受け身を取る。
そこで、再び割れるような頭痛と酩酊感に襲われて膝をついた。
――どうして、あのまま弦巻家で寝ていられなかったのだろう。
そんな考えが頭をよぎる。玉藻御前の狐火と、交えて放たれる発剄を受け流しながら反撃の機会を窺う。
練気功で内功を整えつつ、エヌラスは螳螂拳を捌き、緩まぬ攻め手を耐えていた。
童子切安綱を信頼していなかったわけではない。
あの男の実力を認めていないわけではない、決して。
ならばどうして、あの時。跳ね起きるようにして街へ駆けつけたのだろう。
――脳裏に浮かぶのは、共に戦地を駆け抜けた付喪神。
あの男のように、また勝手に死なれると思ったからか。それとも。
整息。呼気を整えてから、エヌラスが踏み込んだ。玉藻御前の貫手が顔を掠める。
――それとも。
全てを忘れてしまったことがある。記憶を失ったことがある。それでも、あの光景だけは脳裏に焼き付いて離れないままだった。
だから、決めた。あの時から決めたことだ。
自分の大切なものは、他の誰にも譲らない。自分の手で、自分の命を懸けて守ろうと。
震脚が校舎を揺らす。地響きにも似た爆発音と共にエヌラスが丹田に込めた内功を玉藻御前に叩き込んだ。
なんのことはない崩拳。だが、打ち込まれた右拳に火が灯ると異変に気づく。だがすでに遅い。
魔道発剄とはそもそも、超至近距離で魔術を叩き込むことにある。おおよそあらゆる魔術師が接近を許さぬ距離において魔術を行使することによって防御を許さない必殺の一撃を打ち込むことで対敵を沈黙させる。尤も、それを
氣と同時にクトゥグアの爆炎に呑まれた玉藻御前が吹き飛び、廊下を転がる。咳き込み、吐血しながら胸を押さえて立ち上がった。ここにきて、ようやくダメージを食らった様子を見せてエヌラスは鼻で笑う。
どうやら無敵というわけではないらしい。顔の血を拭い、構え直す。
羽織っていたスカジャンを脱ぎ捨てて玉藻御前が首の骨を鳴らした。
「――図に乗るなよ、馬鹿が」
「調子のんなよ、大妖怪。こちとらようやくエンジン入り始めたばっかなんだからよ」
互いに構え直して、静かに時が流れる。それは一分、いや十秒にも満たない時間だったが、しかし――エヌラスは不意に自分の残された右眼に違和感を覚えた。
顔を掠めた一撃から垂れてくる血がまつげに触れて、反射的にまぶたが動く。その刹那を目敏く見逃さない玉藻御前が狐火を両手に携えて跳ねるように廊下を駆けた。エヌラスはわずかに塞がった視界の中で姿を捉えていたが、それでも相手との速度差は埋まらない。
今度こそ、左側面に回り込まれての鉄山靠をまともに受けてエヌラスが教室の壁を粉砕しながら机を巻き込み、椅子に身体を受け止められて床を転がった。
突如として巻き込まれた不運なクラスは――二年A組。
「くそったれ、人のこと景気よくぶち転がしやがって……! あの野郎ぜってぇボッコボコに凹ましてやる……!」
歯を食いしばりながら額の血を拭い取るが、玉藻御前はすでに震脚から次の手を打っている。床で転がっている暇などない。エヌラスは即座に起き上がり、一瞬だけ周囲を確認する。
廊下で騒いでいたのが幸いしてか、生徒達は窓際に退避していた。そのおかげで巻き込まれた生徒がいないことを目視して、エヌラスは追撃してくる玉藻御前の腕を絡め取って床に叩きつける。そのついでと言わんばかりに頭を足蹴にして軽身功。床に二度、強烈に叩きつけておいた。
宙返りからの着地、一寸だけ呼気を整える。
「え、エヌラスさん大丈夫なんですか!?」
「大丈夫なわけあるかぁ! クソほど全身いてぇわ!!!! 今からちょっとばかり暴れるから廊下に避難してろ!」
「ちょ……暴れるって……」
「幸いそこら中に武器があるからな。サイバネマフィア仕込みのラフスタイルを教えてやる」
武器? そう言われて、美咲が眉を寄せた。何せ、あるのはありふれた机と椅子。それくらいのものだ。それを武器にしたって、どう扱うのかちょっと興味を惹かれつつも、普段とは打って変わって好戦的なエヌラスの言葉に従った。
怒髪天を衝くとはこのことか――玉藻御前の金の髪が揺れている。口腔より青い狐火を漏らしながら、怒りを露わにしていた。
「こ、の……わらわの美貌を足蹴にするとは不敬千万! 八つ裂きでは足りんぞ!」
「はっ。馬鹿言いやがれ、八つ裂き程度で死なねぇよ!」
エヌラスが蹴り上げたのは――誰かの椅子。背もたれを掴んで、そのまま足で相手を押さえ込む。そして、それをそのまま全身を使って自動車のハンドルのように横に切る。当然相手はこれを耐えようとするが、即座に力を緩めた。そして次の瞬間には、相手が力を抜いた隙を見計らって足払いを仕掛けながら逆に勢いよく切った。
その場で横に回転する玉藻御前の頭を、エヌラスが蹴り上げる。椅子の足を持って、全身で振りかぶるとそのまま倒れ込んだ相手に叩き込んで粉砕した。誰の椅子だかわからないけれども。
倒れ込んだ相手の頭をサッカーボールキックで蹴飛ばすと、机を巻き込んで吹き飛んでいく。
エヌラスは曲がった椅子の足を短くねじ切って何度か重さを確かめ、振りかぶった。
絶剣無式・八獄――“刃無鋒・偃月”による気刃斬りが玉藻御前を袈裟斬りにする。
――気が遠くなるほどの長い旅路の中で出会った、異郷の剣士を思い出す。名を関した技は、その内功に衝撃を受けたからだ。木の枝ひとつで倭刀を叩き折る剣士が何処にいる。だからこそ技を盗むことにした。
結局、どこまで行っても、どこまで極めても。
何処に行っても。
自分が極めた技なんてものは、何もなかった。
膝から崩れ落ちそうになる玉藻御前に接近し、エヌラスはそのまま黒板に釘付けにする形で通背拳を打ち込む。校舎に響く衝撃に、更に震脚。一寸の発剄から崩拳を立て続けに打ち込み、追撃。
わずかに身体から引いた拳の指を立てる。肺の空気を吐き出した玉藻御前の無防備な死に体に容赦のない全力の寸勁が叩き込まれたことで黒板がひび割れ、それどころか隣の教室まで吹き飛んでいった。
廊下に避難してたものの、やはり心配なのか覗き見ていた香澄と美咲、有咲の目からは二発までしか見えていなかっただろう。視線に気づいたエヌラスが血の滲んだ手を振りながら説明した。
「今のは“通背拳”“崩拳”“寸勁”による三段撃ちだ。“絶招・崩し連牙”って技名だが名付けたのは俺じゃないからな。……本調子じゃないのに魔道発剄なんかやるもんじゃねぇな」
接続したばかりの魔術回路を庇いながら魔道発剄の連弾は、肉体に対する負荷が大きい。骨にヒビでも入ったのか、痺れを訴えていた。それも徐々に回復していくが、いつもより傷の治りが遅いことにエヌラスが舌打ちする。
身体の内側からのヒリつくような痛みも、回路のショートが原因だ。
自分の身体が壊れるか、学園が壊れるのが先か。そんな洒落にならないことを考えながら肩を大きく回す。
――そういえばハンティングホラーはどこまで行ったのだろうか?