――市ヶ谷家では、有咲がげんなりとした表情をしていた。理由は明確、そして明白。飯台を挟んだ向かい側、香澄が頭から煙を出しそうな程悩みに悩んで悩み抜いて泣きついてきている。
「あーりーしゃ~~……! どうしよぉ~~~!!!」
「……、はぁぁぁ…………」
助けてフラストレーション、どこにも行き場がないの。
あんな出来事があったってのに、学校が一日休みと聞いた途端に泊まり込みに来た神経を疑うがそれに救われたのもまた現実なのが悩みのタネ。
「なんつーか、なんでもいいんじゃねーかなあの人なら……」
「えー、でもそれはちょっと……なんていうか、失礼な気がする!」
「……考えてもみりゃ、あの人が好きなものとか全然知らないし」
そういやオムライス好きだったっけ、顔に似合わず。そんなことを有咲が思い出すと、香澄のスマホから着信音。相手を見て驚いているがすかさず通話ボタンを押していた。
「はい、戸山香澄です! エヌラスさん、どうしたんですか?」
「ご本人かよ!?」
「あ、はい! 有咲も一緒です!」
しまった、いつもの癖で。だが、隠したところでどうだというのか。やましいことなど何もない。ため息一つ、労力いっぱい。とりあえず話を横から聞くことにした。
「え? 多分大丈夫だと思います……ねぇ有咲」
「なんだよ」
「エヌラスさん、来ても大丈夫かな?」
「……騒ぎの中心人物がどうやって来るんだよ。うちで騒ぎにならないってなら、別にいいけど」
どうせ無理だろうと思った。
「よっ」
そうだった、この人基本的に常識が通用しない人だった。有咲はちゃぶ台に突っ伏している。
どうやって来たのか。答え――幻術で自分の姿をコーティング、あとは暗殺歩法で音を殺して徒歩。まるで忍者だ。
「魔術って本当に何でもありなんだなー……」
「エヌラスさん、具合はどうですか? すっごいたくさん血が出てましたけど」
「完治」
親指を立ててサムズアップ。たぶん不死身なんだろうなこの人、などと思いつつも有咲はエヌラスの格好を眺める。
頭から足の先まで黒ずくめ。夏が近づくこの時期に黒いロングコートを羽織っていた。そんな格好を見るのもなんだか懐かしく思えてならない。
「暑くないんですか?」
「え? そりゃまぁ、魔術でちょろっと加工してあるし。案外涼しいぞ、ほれ」
「わーい、お借りしまーす! あ、ほんとだ。ちょっと重いけど案外涼しいよ有咲!」
「おめーは本当に遠慮ってもんがねーのか! ……でもまぁちょっとだけ……マジだ」
「欲しくてもあげないからな」
快適さで言えば確かにエアコンに匹敵する。
縁側に腰を降ろしたエヌラスは夜風で涼みながら有咲と香澄に向き合う。
「とりあえず、言っておくことがある。――世話になった」
「え、あ、はい! いえ、こちらこそ!」
「まぁなんつーか、振り回されっぱなしだったけどよ。俺は割と楽しかった」
「そういう大事な話は、みんなが揃ってからの方がいいと思いますけど」
「や、多分無理。童子切の奴がやる気満々だから」
「そりゃ無理だわ……」
だからこそ、言えるうちに言っておきたい。
こういう大事な時に、気の利いた言葉が出てこないのだけは直らないことに苦笑しつつも。
「俺がいなくなっても、お前たちなら大丈夫だ。童子切の奴が守ってくれる。そしたら――俺のこと忘れてもいいからよ、元気でいてくれ」
「そんな……エヌラスさんのこと、絶対忘れません! というかちょっと忘れられそうにないです」
「香澄の言う通り。ちょっと、忘れろってのだけは無理」
「俺ってそんな印象に残るか?」
二人が力強く頷くと、エヌラスは顎に手をやって考え込む素振りをみせる。
「……参考までに、どのへんが?」
『全部(です)!』
「そぉっ、かぁ……全部かぁ……」
「だから絶対! 忘れません! ……多分ですけど」
「いや言い切れよそこは勿体ねぇ」
「いいんだよ。それくらいで。そのくらいの方が俺も気楽だ――忘れないうちに渡しておくぞ」
香澄が受け取ったのは、五人分の楽譜。
そこに唄はないけれども、脳裏によぎるのは春季文化祭のライブ。
飛び入り参加ながら、大盛況で観客を熱狂させたあの曲だった。
「え!? あの、これ!? いいんですか!?」
「いいよ、やるよ。元々俺の持ち唄でもねーしな」
「でも……歌が嫌いだって――」
「違う。歌うのが嫌いなんだ。俺の恋人は、歌うのが好きだったけどな」
「……理由、教えてもらってもいいですか?」
「恥ずかしいってのと、もうひとつ。殺した女を思い出す」
殺した女、という言葉に香澄がドキリとした。だが、それがなんとなく、エヌラス自身の恋人であることは察してしまう。
「……本当に、歌うのが好きだったんだ。それこそ、子守唄からオペラまで。俺がロック好きだからってメタルもロックもやるようになって。それで嬉しそうに笑いやがるんだ。「私の大好きな貴方が好きな歌を唄いたい」なんて言ってよ」
「…………、素敵な人だったんですね」
「ただの、普通の女だったよ。こんな男の何がいいんだか知らねぇが――いつも楽しそうに笑って、嬉しそうに話してくれた」
「でも。エヌラスさんが笑うところ、私達見たことないです」
香澄にそう言われて、エヌラスは申し訳ない気持ちになった。
笑わないんじゃない。
どんな風に笑えばいいか思い出せなくなってしまった。
嬉しいのに。楽しいのに。自然と頬が綻ぶはずの気持ちを、どこかに忘れてきてしまった。――いいや、どこに置いてきて忘れてしまったのかだけは憶えている。
遠い遠い故郷。大事なものも、大事な人も、大事な思い出も。全部全部置いてきた。最初の地獄に置いて忘れてきてしまった。
「そうか? ……そうだったかな。あんまり気にしたことなかった」
「香澄の奴、電話かかってくるまですっげぇ頭悩ませて湯気出てたし」
「お湯沸きそうだな」
「だぁって~……エヌラスさん、何をしたら喜んでくれるか全然……、――――」
何かを言いかけて、みるみる紅潮していく香澄が言葉を飲み込んでしまう。
どうしたのかとエヌラスと有咲が顔を見合わせる。
「……えっと、あの……一緒に寝たりしたら喜んでくれます?」
「何故にホワイ、どうしたらそうなる。いやそりゃ俺も男だから喜ぶっちゃ喜ぶけど……なんで?」
「童子切さんがそうしたら喜ぶって言ってたので!」
「あの野郎ぜってぇぶっ飛ばす」
「だ、だってこころちゃんとも一緒に寝てたりしてるって!」
「俺意識不明の重体だった時な!?」
いや直近でも同衾したりしてるけれども誓って何もしてません。なんというか、調子が狂う。
「もっと他の方法にしてくれ。そんなんされたら身が持たないっての」
「エヌラスさん、何かしたいことないですか?」
「……ちなみに香澄的にやりたいことは」
「ライブしたいです!」
「おめーはそれしかねーのか!?」
「あと、みんなでお出かけしたり、美味しいもの食べに行ったり! エヌラスさんはそういうの無いんですか?」
「……」
エヌラスは自分の胸に手を当てて考える。
自分のやりたいことを考えて――それでも、真っ先に思い描いたのは
例えば。そう、例えば……なんだろう。
「……エヌラスさん?」
「――――悪い、香澄。全然思い浮かばねぇや。俺はただ、本当に。お前たちが笑っていてくれればそれでいい。俺はやらなきゃならないことで手一杯だからよ。誰かに手を引いてもらわないと動けそうにねぇんだ」
「……戦うのって、そんなに大事なことなんですか」
「正直なことを言うとな。戦うの、好きじゃねぇんだ。痛ぇし、つらいし、下手すりゃ動けなくなるくらいキツイし。ぶっ倒れるたびに起き上がらなくていいんじゃねぇかなって思うさ」
それでも。
だがそれでも、自分が奪ってきた命の数に比べれば。
眠っている暇などないと、身体を叩き起こしてしまう。
「でもこんなん、他の誰にもやらせるわけにはいかねぇし。自分でやると決めたことだ。結局それで身動き取れなくなってんだから世話ねえわ。って、なんか悪い……こんなこと言いたかったわけじゃないんだけどな」
重ねて、エヌラスは「悪い」とだけ頭を下げた。
つくづく本当に、自分も不器用だなと我ながら困り果てる。
「夜も遅いし、あんま夜更かしするなよ。華の高校生って言っても不健康な生活は大人になってから響くんだからな」
「エヌラスさんに言われてもなぁ……」
「はいはい、反面教師で悪かったな。それじゃあまたな」
コートを翻して、二人の見てる前で姿が夜の闇に溶けるように消えていった。それから少しだけ遅れて、木の葉の揺れる音が聞こえてくる。
遠くに気配が消えてから、香澄が突っ伏した。
「ありしゃ~~……」
「あーもー、なんだよっ」
「どうしたらいいかなぁ」
「…………はぁ~」
エヌラスが抱えている悩みや問題は、自分たちではどうしようもない。解決手段が無いことに薄々気づいていた有咲は投げやり気味に答えた。
「もう童子切さんに頼めばいいじゃねーか」
「それかも!」
「はぁ?」
「だって、私達よりもエヌラスさん話してくれるかもしんないし!」
「……いや。いやいや、いやいやいや! おま、ちょっ、本気か!? マジで言ってんのか香澄!? だってあの人エヌラスさんのことぶった斬るって堂々宣言してたじゃねぇか!」
「だからきっと、音楽じゃなくて、なんかこう、ぶつかりあってこそ分かり合う感じで!」
「……ぜってぇ無理だと思う」
あの二人、絶対に仲良くならないと思う。水と油どころか、龍と虎。
拳を交わしたからといって腹を割って話せる仲にはならないとだけは断言できる。
最後に立っていられるのがどちらか片方になるまで戦うことをやめないだろうことは、有咲だって理解していた。それは香澄も予測しているだろう、だが。
「でも! やれるだけやってみようよ!」
「……」
「童子切さんに頼んでみる!」
「で、どうやって?」
「…………スマホとか持ってないかな~」
「持ってないと思う」
「だよねぇ。なんとか連絡取れたり」
弦巻家で厄介になっているのは知っているが、スマホをそもそも使わないと思う。
「学校終わってから会いに行けばいいじゃねーか。こっちが焦っても仕方ないんだから。もういーだろ、あの人のことは。また明日みんなと相談すれば」
「うんっ、そーする!」
残された時間、限られた時間の中でどれだけの思い出を残せるかはわからない。
それでも香澄はエヌラスから渡された楽譜を大事にファイルへ綴じ込んだ。
――刻一刻と迫る別れの時は待ってくれないのだから、立ち止まっていられない。
「エヌラス、貴様どこに行っていた?」
「別にどこ行ってたっていーじゃねーか、逃げも隠れもしねーしできねーだろお前相手じゃ」
「ほざけ。貴様が居ない間、誰がコレの相手をさせられると思っている」
「そんなん俺の仕事じゃねーし俺の預かり知ったところじゃねーわバーカッ! こころ、今戻った」
「エヌラス、おかえりなさい。童子切ったらエヌラスがいなくて拗ねてたんだから」
「拗ねとらん。勝手なことを言うな」
弦巻家の邸宅に戻ってきたエヌラスを迎えたのは、いつも通り元気なこころと何故か疲れた顔をしている童子切だった。黒服や執事達が控えているが、いざ童子切が暴れようものなら手が付けられないことになるのは誰もが理解している。
顔を合わせるなり火花を散らす二人に内心どっと冷や汗が吹き出すものの、エヌラスにしがみついているこころが良い具合に毒を抜いてくれるのか、ギリギリの煽りだけでせめぎ合っていた。
「――まぁいい。貴様に聞きたいことがある」
「なんだよ?」
「酒は呑めるか」
「馬鹿ほど呑めるが、なんだ」
「なら呑むぞ」
「なにが楽しくてテメェと呑まなきゃならねぇんだ」
「うるせぇ呑め」
「アルハラって言葉知らねぇのかテメェは」
「知らん、呑むぞ」
「離しやがれこの馬鹿力ぁぁぁぁ!!!」
執事達が見ている前で、エヌラスが首根っこを捕まれて引きずられていく。抵抗しようにも下手に暴れて壊すわけにもいかない。
「エヌラス、お酒って美味しいのかしら?」
「人によるし物にもよるが個人的にはオススメしない」
「童子切は?」
「酒は百薬の長であると同時に百毒の長でもある。程々に嗜め」
「こころは未成年だからダメだぞ」
「別にいいだろう。俺の時代では寛容だったぞ」
「おめーの時代じゃねーんだよ現代は」
「はんっ、それを言ったら貴様の居場所でもないだろう」
「よーしテメェ喧嘩売ってんだな?」
「遺言はそれだけか貴様?」
三秒目を離せばこの通りの喧嘩腰。見ているこっちの胃が痛くなる一心で黒服達も事の経緯を見守っていた。
「どうせ最後だ。お互い、悔いの残らんことくらいしておきたいだろう」
「そんでテメェは酒が呑みてぇって話かよ。しゃーねぇ、たまには俺も呑むか」
浴びるように呑みたい時だって大人にはある。無いのに越したことは無いのだが。