――朝、それは誰にとってもいつも通り訪れる日常。
付喪神にとっても。魔術師にとっても。平等に訪れる一日の始まり。
「世話になった」
童子切安綱は、弦巻家の従者に深く頭を下げる。
「お気になさらず。我々は客人に対して当然のことをしていたまでです」
「それでもだ。この恩は忘れん」
「どちらまで行かれるおつもりですか」
「……さぁな」
従者に問われ、自分がどこまで行くのか、童子切安綱は言葉を濁した。ただ、向かう先だけは断言できる。
「いつ戻られますか?」
「さてな。戻れるかどうかなどわからん」
「ご冗談を」
「……折り入って頼みがある」
「はい。何なりとどうぞ」
童子切安綱の腰に帯びた太刀。いずれも国宝級の逸品。失うことも、折れることも憚られる天下の名刀達。それを見せてから、軽く頭を下げた。
「全てが終わったのち、こやつらを元の場所に届けてやってくれ」
「……承りました。確かに。弦巻家にお任せください」
「頼んだぞ。それではな」
背を向けて歩き出そうとして、思い出したように足を止める。
「もし。俺が生きて戻るような時があれば――その時は、また世話になるかもしれん」
「お待ちしております、童子切安綱様」
従者の言葉を聞いて鬼が笑う。
あとは往くのみ。
童子切安綱は振り返ることなく、立ち止まることなく己の足で約束した場所へ向かった。
――昼、それはいつもどおりの日常。
花咲川女子学園でも、羽丘女子学園でも。一昼夜ですっかり元通りとなった校舎に大人たちの疑問は尽きないが、理解できないことは理解しないのが一番。難解不読な問題に取り掛かっていられるほど生活に余裕はない。
とにかく、校舎が無事で、不審者の正体が知ってる顔だった。それに加えて今は安全が確認されている。多分映画の撮影とかだったんだ、ということで半分くらい正気を失いつつも授業開始。
一部の生徒達の顔色は芳しくない。だが話題の中心は霊能学講師のエヌラスについてだった。そうなれば、自然と人が集まるのは香澄や彩、こころといったバンドメンバー達。
居ても居なくても話題に事欠かさない人物像に女子高生の興味は尽きない。
羽丘でも同様に。ただし違いといえば、ほとんど一人に質問が集中していることだが――今井リサは天井を仰ぎつつ、隣の氷川日菜から差し出されるジュースをありがたく受け取る。
「おつかれ、リサちー」
「ありがとぉ~……」
なんで私だけ集中砲火されるんだろう、と疑問をいだきつつ、どうやら巴とあこにも質問が集中している様子。
突然現れた銀髪の少年が宇田川家で世話になっていたことから話題が発展したようだが、出てくる感想が九割「かわいい」なのはどういうことなのだろうか、とリサはジュースを飲みながら視線を戻す。
「……んん?」
その表情が、一気に渋る。ジュースが気に食わないからではない。何か、空がおかしい。
正確に言えば、一箇所だけやたら目立つ場所があった。それには日菜も気づいているようで。
「あれ、なんだろね。まぁエヌラスさんだと思うんだけど」
「あっちの方角ってなにかあったっけ?」
「結界張ってまで公園で寝泊まりしてたのが懐かしいね」
そういえばそんなことあったっけ。今じゃ弦巻家で世話になっているのだから、わらしべ長者も驚きだ。本当に昔のことのように思えてならない。
だがそれ以上に気にかかるのは、あれほど大掛かりな結界だっただろうか?
「ヒナにはあれ見えてるんだ」
「リサちーも?」
「……――――」
不意に脳裏をよぎるのは、雨の夜。あの時は恐怖でいっぱいだった。だからよく覚えていなかったが、もしかしたら。
そわつくリサを見て、それから日菜も少しだけ険しい表情を見せる。
「……兼定さんと戦った場所も、公園だったんだよね。エヌラスさん」
「――じゃあもしかして、童子切さんと?」
「そうじゃないかな。あの二人、絶対衝突するってわかってたし」
童子切は、それこそ幾度となく口にしていた。
「でもね、あたし思うんだ。童子切さんって、自分に言い聞かせてたんじゃないかな」
「え?」
「ほら、イヴちゃんじゃないけど――“武士に二言はない”って。なのにあんなに繰り返し言ってたのって、本当は迷ってたんじゃない?」
斬りかかろうと思えば、いつだって問答無用でやれたはずだ。“あの”童子切安綱が、どうして今日まで引き伸ばしてきたのか。
本質を自分でも理解していたからこそ、迷っていた。そうでもなければ、弦巻家を巻き込んででも切り結んでいたはずだ。
「千聖ちゃんでも説得できなかったから流石にこれ以上はね? だってあたし達普通の女子高生だし」
「や、ヒナが普通ってのはちょっと違う気がする……」
「えー? でもエヌラスさんに比べたら全然普通だと思うけど」
「あの人引き合いに出したら全人類そうでしょ……」
時計を見て、それからドーム状の結界を見て、リサはジュースを飲み干す。
「……、きっと大丈夫だよね」
「だといいけど……」
一撃だった。
不調だったとはいえ、一撃で沈めたあの付喪神が敵になった。……なった、というのは語弊がある。最初から、敵同士だったのだ。ただ一度もお互いを味方と認めていない。
――エヌラスは足取り重く、童子切安綱の待つ森林公園へ向かっていた。
話し合いの結果、人払いの結界と周辺の被害を考慮したものを用意している。そのためにバルザイの偃月刀まで貸し出したのだ。あの男であれば正しく使いこなしてくれるだろうと信じて。
弦巻家で用意したというロングコートにサイバネ技術を流用して手を加えたものは、驚くほど自分の身体に馴染んでいる。魔術師という形から入れば、黒ローブが台頭するが魔術学院の正装だからだろう。だが生憎とエヌラスは主流から外れている。
それでも黒という色は、落ち着く。馴染み深い。血の汚れが目立たない。闇夜に紛れることができる。孤独である事ができる、唯一の色だ。別にファッションセンスがどうのこうのではない。断じて違うと言い切りたい。
ニトクリスの鏡で光学迷彩のように自分の姿を隠しながら歩く。時折見かける巡回中の野良猫が顔をあげては何事もなかったかのようにすぐに伏せている。猫は霊感が強い生き物だ。魔術で姿を隠していても、その気配までは消せない。
街の工事もほとんどが終わっている。弦巻家には本当に頭が上がらない思いだ。ガス爆発やら道路改装、また、或いは開発計画の一環と。様々な理由で工事に着手していた。その金額は……確かにちょっと言えない額だが。
不意に、街の張り紙を見た。――行方不明者の捜索願。特徴と、いつからいなくなったのか。最後に見た時間帯と詳細が書かれている。顔写真は、おそらく友達と撮影したものだろうか。
そこには、満面の笑顔が浮かんでいた。名前も知らない誰かだが、二度と帰ってこないことだけは理解している。烈光の邪神、クァチル・ウタウスとの戦闘に巻き込まれた被害者だ。
こんな風に別れを告げることができたのなら、きっと楽だろうなとエヌラスは他人事のように思う。それがどれだけ自己満足なのかは頭で理解していても。
……足が重い、気も重い。晴れ渡る青空だけが人の気も知らずに高い。
まばゆい太陽と、浮かぶ月。その表面に走る亀裂がどれほど保つのかはわからないが、将軍の言葉を信じるしかない。
エヌラスは公園に足を踏み入れる。すんなりと結界の中に入り込めたのは、最初から此処に入れる相手を指定していたからだ。合鍵に近い。
結界の中心、そこに偃月刀を突き立てて“楔”としている。そこから星を描くように、五層の防御結界。生半可な戦闘では外に被害が及ぶことはない。さらに位相差結界。時間軸を“ズラした”ことで本来の公園に被害が出ないようにしてある。これらの結界構造も、バルザイの偃月刀が魔術の媒介として優れているからだ。
一度は失った術式をこうして復元できるようになれたのは、不幸中の幸いと言っていい。
足を止める。
童子切安綱が立っていた。腕を組み、威風堂々と。
閉じていた目を開き、鼻を鳴らして笑みを浮かべている。
「おう、来たか。調子はどうだ」
「上々。悪いところと言ったら、俺の頭くらいのもんだ」
「そうか」
構えを解き、童子切安綱が太刀に手をかけた。
もはや問答はこれ以上無用、残るは立ち合いで語るべく――しかし、エヌラスの前で童子切安綱は予想外の行動に出た。
下げ緒を解く。腰に帯びていた太刀をぶら下げて、静かに呟いた。
「……すまんなぁ、みな。これは俺のわがままだ。通させてもらうぞ」
それは誰に向けた言葉なのか。だが、たしかに声が聞こえてくる。
――致し方ありませんなぁ。数珠丸恒次の嬉しそうな声が。
――拙者は従うのみ。大典太光世のどこか呆れながらも、はにかんだ声が。
――鬼丸国綱の笑う声が、たしかに。
天下五剣の皆が、笑って応えたのだ。
四本の太刀を腰から外し、静かに地に下ろす。
エヌラスは困惑した。一体何のつもりなのかと。童子切安綱の考えが、この正念場でわからなくなった。だがそんなことはお構いなしに、今度は赤い軽具足の篭手の口を解き始めている。
「――エヌラス。なにも背負うな」
「なに……?」
「なにも、気負うな」
左手の篭手を落とし、今度は右手の篭手を外す。
「これは、ただ俺のわがままだ。俺がやりたいことだ。天下五剣筆頭としてではなく、付喪神総大将としてではなく。俺が、ただ俺の望むままに臨む
両手の篭手を外してから、童子切安綱は指の骨を鳴らした。袖を払い、着物をはだけさせる。
「お互い、重荷を背負い過ぎている。そんなものに押し潰されては本末転倒だ。だから背負った荷物も、抱えた責務も全て降ろして臨め。俺はそうする。これは、この国の明日を左右するものでもなければ、人類のためではない。ただ俺のわがままなのだから――」
髪をかき上げれば、黒い髪が朱を帯びていく。燻る炎を灯して、晴天の下に紅蓮の鬼が居た。
固く拳を握り、力こぶを盛り上がらせて突きつける。
「ただの、喧嘩だ。ただの殴り合いだ。ただ殴って、蹴って、ぶちかまして。どちらが最後まで立っていられるかという、馬鹿の喧嘩だ! 我慢比べだ!」
「……、そうかよ。ならそうさせてもらうわ」
エヌラスもまた同じく。童子切の前でサイバネコートを脱ぎ捨てる。
「だけどな、ひとつだけ訂正させろ」
「なんだ」
「俺は、背負った荷物も、抱えた荷物も多すぎてな。コイツを手放して、どっかに降ろしたらもう二度と背負い込めねぇ気がするんだ。どっかに忘れてきたものがあるんじゃねぇかと不安になる」
記憶を失って、取り戻して。それから自分が真っ先に思い出したのは、焦燥感だった。大切なものを何か取りこぼしてしまったのではないかと。だからずっと駆け抜けてきた。立ち止まって、甘い夢の中に溺れるよりも先に。
「――ならそれは、俺のせいにすればいい。そんなもの俺に責任を取らせればいい。お前のせいで忘れ物をしたと殴りに来い」
「……童子切」
「案ずるな。俺は此処にいる。この国にいる。此処以外に、俺の居場所などない。だからエヌラス――」
息を吸い込み、童子切安綱は笑った。
「そのついでにでも構わん。またいつか、此処に来い。彼女達のために」
「……ばかやろう。何も気負わず、背負うなってテメェで言ったくせに背負い込んでんじゃねぇよ。よけいな荷物ばっか増やしやがって」
つい、頬が緩みそうになる。
それでも、うまく笑えそうになかった。
信じてもらえそうにないかもしれないが、それでも――エヌラスは童子切安綱のその言葉を聞いて心底嬉しく思う。
黒のインナーも脱ぎ捨てて、エヌラスは傷跡だらけの肉体を白日の下に晒す。
「俺を斬るんじゃなかったのか?」
「ああそのつもりだ。今でもそれは変わらん」
「だったらどうしてだ」
「そんなもの、今日明日の話でなくていいと気づいた。俺は千年前の因縁ですら待った男だぞ? それに比べれば、嗚呼そんなもの。その程度の話だ!」
骨を軋ませ、筋肉という筋肉を唸らせて。
童子切安綱は破顔していた。
「天下五剣筆頭、付喪神総大将あらため――今の俺は、ただの童子切安綱として挑ませてもらう」
「ああ、来いよ。テメェの馬鹿に付き合ってやる」
二人が同時に駆け出す。
言葉よりも先に、拳が出ていた。
互いの顔に突き刺さる鉄拳が、開戦の狼煙を上げる。