迷うことなく、互いの顔面に向けて全力で放った助走をつけての拳は嫌な音を立てて離れた。頬骨を強烈に打ちつけて、だが怯むことなく二人は視線を逸らさずに逆の拳を握りしめている。
再度、繰り返すように今度は逆の頬を同時に殴り抜けていた。
童子切安綱が笑う。痛みよりも先に、嬉しさが込み上げてくる。
――本気で羨ましいと思った。自分の生まれた国を出て、それでも尚、果てなき闘争に身を投じてもまだ尽きることのない戦いが待っているエヌラスを。
「ははは、っはっはっはっはァ!!!」
「なぁにがおかしいテメェ!!」
「いいやぁ、なにも! なにひとつ!」
胸を打つ拳が。脇腹を叩く回し蹴りが。肉を叩き、骨を軋ませるたびに新鮮な痛みが走る。
――本当に羨ましかった。そうでありたかった自分が、そこにいた。戦果を挙げて、共に在った武将と最期まで共にありたかった。戦火を離れ、ただ蔵の肥やしとなって鎮座することは耐え難い苦痛でしかない。己は武器だ。己は刃だ。俺は凶刃に他ならないのだから。
どれほど太刀としての完成度が高かったとしても、最早斬ることは叶わず。ただ国が認めた宝として飾られて――諦めていた。
童子切安綱の拳が烈火に包まれる。エヌラスの右手もまた、同様にクトゥグアの炎熱を纏って。
爆炎に呑まれた二人が飛び出し、睨み合っていた。
「しいて言うなら貴様同様に頭がおかしいんだろうよ! いくぞぉッ!!!」
「馬鹿が、酒でも残ってんのか!」
「貴様に! 言われとうないわぁ!!」
殴り合って。蹴り飛ばして。起き上がって投げ飛ばして。それでもまた立ち向かって。
踏みしめた石畳がめり込む。童子切安綱の胴回し蹴りがエヌラスの顔面を強打した。後退りながらその足を掴まれ、逆に投げ飛ばされる。
――自分を求め、使おうという
己を求める者がいたのなら、それは鬼しかいない。鬼を斬り、鬼に疎まれ、鬼に憎まれ。鬼を恨み、鬼を怨む。鬼火を宿した己がもしも夢から醒めることがあれば、必ずそこには鬼がいる。
ならば務めるべきは、鬼を斬るのみ。その一念を果たせば、再び眠りに就こう。覚めぬ夢の中で思いを馳せる。――世は平穏無事、天下泰平。良き日和である、と。
どれだけ殴っても、どれだけ蹴り飛ばしても、どれほど投げ飛ばそうが、どんなにぶん殴っても蹴っ飛ばしても――童子切安綱は笑っていた。笑みを絶やすことなく、心底嬉しそうに立ち向かってくる。
エヌラスが腕を捕り、そのままへし折ってやろうとするが腕力だけで無理矢理支えて童子切安綱は腕ごと広葉樹に叩きつけて吹っ飛ばした。芝生を転がり、受け身を取って鼻血を拭いながら立ち上がると、肩を回して余裕を見せている。
「どうしたぁ、終いか!」
「ざっけんな馬鹿力がぁッ!」
――御国を守る務めを果たす、護り刀として生涯を閉じることになるだろうとは薄々感じ取っていた。しかし。奇縁に恵まれ、こうして人の身を得て自由を手にしている。ならば、今度は。今度こそは。
今度こそはと――鬼と正々堂々、正面から立ち合いたかった。あやつらの無念を晴らしてやりたかったのだ。他でもない、この手で。
横道はないと断言した、愚直なまでに真っ直ぐな眼をして討たれた鬼どもの無念を。
エヌラスの掌底が童子切安綱の頬を打つ。だが、それを意に介さず真っ直ぐに打ち返して頭を鷲掴みにすると力任せに地面に向けて投げるように叩きつけた。舗装された道が穿たれ、エヌラスの身体が跳ねる。
吐血しながらも足を掴み、そこから全身を使って捻り上げると童子切安綱が膝をついた。
「おぁ!?」
「ってぇな、クソが!」
「させるかぁ!!」
エヌラスが足首を折ろうとする前に、童子切安綱は自分の身体ごと跳ね上げて地面に打ちつける。拘束が緩んだ隙に、顔を蹴りつけて互いに距離をとった。
――だから、嬉しかった。嗚呼、この男だけは、俺の手で斬らねばならぬと思った。
今の世にそぐわぬ、血に塗れ、死臭を纏い、魂までも穢れたこの悪鬼だけは。他でもないこの俺の
なのに。それなのに――知れば知るほどに、分からなくなる。
こんな馬鹿な鬼がいただろうか。これほど無防備で、馬鹿を晒す鬼がいただろうか。こんなにも阿呆面引っ提げて、爆睡こく鬼がいただろうか。
こんなにも。これほどまでに――、
人を愛し。人に愛された鬼を、俺は知らない。
絆されたのではない。同情の余地など露ほどもないのだから。
だが思うのだ。諭されて、成程と合点が言ってしまった。鬼丸の言葉に、納得してしまった。
“――オレは思うんだ。アイツは、人を守るために正道を外れたのではないかと。正しく在るだけでは救えない誰かを救うために、道を外れたのではないか?”
だから、それが心底。本気で羨ましいと思ったんだ。
そうまでして守るべきものを得た男が。
そこまでしなくてはならない戦いに身を置くことを許された鬼が。
傷だらけになって、死の淵を彷徨い、それでもまだ終わることない戦に命を燃やすことができる魔術師が。
互いの顔を殴り抜けて、よろけた拍子に手を伸ばす。奇しくも、倒れそうになるお互いの手を取り合って、倒れそうになる身体が踏みとどまった。
顔は腫れ、額は割れ、青痣を作りながら。肩で息を整えながら鼻血で真っ赤になった顔を見て拳を作る。
掴んだ手を離さず身体を引き寄せながら同時に顔面を殴り、頭を引いて――頭蓋が割れる音を聞いた。よろけ、倒れそうになる相手の前髪を掴んで踏み留まり、再び頬を殴り抜ける拳から、更に裏拳で鼻っ柱を殴り合う。
――なぜそれが、俺ではなかったのだろう。なぜ俺が、そうなれなかったのだろう。
鬼を斬り、鬼の血を吸い、鬼を斬る宿業を背負った、妖刀にも似たこの俺が。天下の国宝の筆頭格に成り上がってしまったのだろう。
斬って、斬って。斬って斬って斬って、その果てに折れて、命を華と散らすのではなく。
なぜ俺は、今日まで生き延びてしまったんだろう。
強くあることが、孤独で在らねばならぬというのなら。
俺は道に咲く花を手折ることのない、弱さでいい。
息を切らし、肩で呼吸を整えながら童子切安綱とエヌラスは睨み合っていた。血と汗を流し、膝に手をついて鼻の中で凝り固まった血を押し出し、深く息を吸う。
こんな馬鹿に、付き合う理由はないはずだ。こんな喧嘩に、付き合う暇などないはずだ。
それなのにエヌラスは、童子切安綱から逃げなかった。ただ単に、間が悪かっただけだと言い張って。それだけが、童子切安綱には分からなかった。
ただの馬鹿だと思っていたが、腑に落ちない。
「……エヌラス、貴様どうして逃げなかった」
「……はぁ? なんだ、いきなり……」
「貴様、こんな馬鹿な喧嘩に付き合っている暇などないはずだろう。こんなことしてるほど余裕があるのか」
「……っせぇな、馬鹿が。こちとらいつでも一杯一杯だっつうの。明日の飯すらままならねぇ馬鹿にそんな難しい話すんじゃねぇよ!」
顎を伝う汗を拭いながら、エヌラスが大きく息を吸い込んで咳き込む。折れている肋骨が肺に支障をきたしている。
「テメェから逃げる理由が思い浮かばねぇだけだ! 文句あっか!」
「……はは、はっはっは! いや、なんだ、すまんな、ははははは!」
呆気にとられた童子切安綱が、間を置いてから、膝を叩いて笑い飛ばしていた。エヌラスはなぜか、それが酷く自分のことを馬鹿にされている気がして仏頂面になっている。
「……いつまで笑ってんだこの馬鹿が」
「いや、いやぁ……くく、あっはっはっはっは! 嗚呼全く、本当に度し難い!」
目尻に涙が浮かぶほど腹を抱えて笑っていた童子切安綱が髪をかき上げた。
――本当に、羨ましいと思った。
心底、羨ましいと思ってしまった。そんな風に――この馬鹿を駆り立てる思いが。
羽丘女子学園での授業が終わり、放課後を迎えた。だが、リサは自分の席からぼんやりと外を眺めている。
どうしよう、と悩んでいた。クラスメイト達は足早に学校を後にしている。それもそうだ、当然の話だ。あんな事件が起きたのだから。
「リサ?」
「……ねぇ、友希那。あれ見える?」
「? どれかしら」
「あの、ドーム状の膜みたいなの。駅の方なんだけど」
「……いいえ。見えないわね」
「そっ、かぁ……」
結界が見えている人間は、自分と日菜だけ。どうしてなんだろうと考える。
日菜はともかく、どうしてアタシなんだろうと思う。――リサは考えて、外に視線を向けていた。その黄昏る横顔を見ていた友希那もまた、外に視線を向ける。
「……単なる独り言よ」
「え? あ、うん……」
「将軍が言うには、しばらくオバケとか引き受けてくれるらしいわ。だから安全よ」
「…………」
「私は別にあの人のことなんてどうとも思っていないけれど――貴方が後悔しないようにしたらいいと思うわ」
「……ありがと、友希那」
「ただの独り言よ。気にしないで」
席を立ち、教室を急いで出ていこうとして日菜にぶつかった。
「いったた……あ、ヒナ! ちょっと一緒に来てくれる!?」
「オッケー♪」
慌ただしく学校を後にして、リサと日菜の二人はできるだけ急いで駅に向かう。そのまま構内の階段を駆け上がり、西口から外へ出る。そこで一旦休憩。
きっと、また戦ってるんだろうと思うと足が止まらなかった。
「リサちー、早く」
「はぁ、はぁ……いや、ちょっと待って。すぅー、はぁー……よし、行こ!」
呼吸を整え、一秒。深呼吸をしてから再び走り出す。
場所はなんとなくわかる。本当の事を言うと、怖いけれど。
――結界の前に立って、中から響いてくるくぐもった衝突音に身をすくめる。防音効果もあるのだろうか。そうでもなければ、こんな風に誰も気に留めないなんてことはあり得ない。
まじまじと観察していた日菜が手を伸ばし、指先が触れた瞬間、静電気でも起きたかのように指が弾かれた。
「わっ。ビックリしたぁ……」
「大丈夫?」
「うん。ちょっと“パリッ”てしただけだから」
おそらく、誰も入れないようにしてある。
日菜は好奇心が“るんっ”と刺激されているのか、スマホで撮影して画面と比べたり、カバンの中からシャーペンを取り出して結界に入れないかと試しているがどれも全部ダメ。弾かれたり無反応だったりと全滅していた。だが、リサはなぜかその結界を見ても不思議と恐怖は湧かなかった。
「……」
恐る恐る手を伸ばしてみる――リサの手は、弾かれることなく結界の表面に触れている。それには日菜も驚いていた。
さらにぐっと力を入れると、まるでゼラチンの壁のように指先が沈む。そこで手を引っ込めた。
怖い。ここまで来たけれど足がすくんでしまう。
きっとこの先で、童子切安綱とエヌラスの二人が戦っている。それを理解しているからこそ、あの付喪神の強さを目の当たりにしたからこそ、怖くて堪らない。
「……えいっ」
そんなリサの背中を、日菜が笑顔で押した。咄嗟に両手で結界の壁に手をつくと、驚いた顔で振り返る。
「な、なにすんのっ?」
「えー、だってアタシはここまでみたいだし? ここから先はリサちーしか通れないんじゃしょうがないじゃん。ほらほら、急いで。あ、カバン持ってよっか?」
「……、うん。すぐ戻ってくるから!」
「気をつけてねー」
ニコニコ笑顔で送り出されて、リサは意を決して結界の中に向けて駆け出した。
自分の見ている目の前で風景に沈んでいく友達の姿は見てて面白かったが、それでも日菜はなんとなく自分の胸が沈んでいる心地に手を当てる。
「……ほんとズルいなぁ、エヌラスさんって」
――水の中を走っているような感覚に、つい息を止めてしまう。だが、肌を撫でる生ぬるい風で呼吸ができることがわかった。藻掻くように前へ向けて足を進めて、どれくらいの距離を歩くように走っただろう。
急に息苦しさと狭苦しさから開放されたリサは勢い余って前のめりに転ぶ。そこが芝生の上だったから良かったものの、石畳だったら膝くらい擦りむいたかもしれない。
「いったぁ~……」
顔を上げて、制服の汚れを払い落として――ズドン、と。まるで大砲のような音に身体を強張らせる。森林公園の中を熱風が吹き抜けていく。その中に、鼻を鳴らせばどこか不快な鉄臭さが混じっていた。それが何を意味しているのかなんてわかっている。
見たくないし、聞きたくない。覚えたくもない。怖いものには蓋をして、静かに過ぎ去ってくれるのを待てばいい。
咆哮が聞こえる。あの人の声で。
笑い声が聞こえる。あの付喪神の声で。
行ったところで何ができるだろう。なんにも出来ない、無力で、普通の女子高生が。
だけど、それでも――足が前に向かって進む。
後悔を過去に置き去って、それに足を引っ張られてしまうのはもうたくさんだから。
時折揺れる地面に足をとられながらも、木に寄りかかってリサは結界の中心へ辿り着いた。
そこでは、エヌラスと童子切安綱が血みどろになりながらも殴り合いを続けていた。人の身体からあんなにも血が出るのは初めて見る。揃って半裸で殴り合い、蹴飛ばして、地面を転がって泥に塗れながらも。
倒れても立ち上がり、取っ組み合って――歯を食いしばって、それでもまだ真正面から喧嘩を続けていた。血眼になって、体中アザだらけになっているのに。
「……――、っ」
声が出ない。
あんなに頑張っているあの人に、声も届けられない。
殴られて血を吐きながら殴り返して。蹴られても蹴り返して、子供の喧嘩じみた応酬だけど。
お互いに本気で立ち向かっている。逃げもしない、引きもしない。譲り合うこともしないで。
「――リサ?」
エヌラスが、不意に人影に気を取られた刹那。
童子切安綱の拳が頬を強烈に打ち抜く。勢いのままに地面を転がり、ベンチを巻き込んで粉砕してようやく止まった。地に伏せて、立ち上がろうとするエヌラスの口から血が吐き出される。肩に刺さった破片を抜き取って投げ捨てた。
相手も気づいたのか、リサの顔を見て、それからすぐに視線を外す。まともに立っているのがやっとなのか、ふらつきながらもやはり笑っていた。
「すまんが、今回ばかりは止めてくれるなよ」
「……ったく、本当に……」
ふらつき、立ち上がるのがやっとの思いでエヌラスが起き上がる。大股で歩み寄る童子切安綱の拳を防ぐことも避けることもせず、顔で受けていた。だが、その足が踏みとどまっている。
「――ぉ?」
「……童子切。テメェから逃げる理由は考えてねぇけどよ。一個思い出したことがある」
銀鍵守護器官の回転数が引き上げられていく。それはエヌラスの感情と共に。
骨は折れ、内蔵は傷つき、身体が悲鳴を挙げている。だが、この胸の内より湧き上がる激情が全てをねじ伏せていく。
童子切安綱の拳を掴み、引き剥がす。
「そういやぁテメェ――リサとモカを怖い目に遭わせたっけなぁ……!!!」
鬼がいた。
怒りに燃える、鬼がいた。
折れた指を治し、それでもまだ治まらぬ腹の虫を拳に込めて握りしめる。熱を放ち、童子切安綱を殴り飛ばすとエヌラスは一度だけリサに視線を向けた。
――本当に、つくづく自分は詰めの甘い男だと思いながら歩み出す。