羽丘女子学園、天文部部室に駆け込んだ紗夜と日菜。扉を閉めて、サイバネコートを羽織ったままの紗夜が強く襟元を握る。外からの戦闘によって起こる衝撃で窓ガラスが激しく揺れていた。それを割れないようにと広げていた星図を手にして日菜がテープで窓に留める。
部室の灯りを点けようかとも思ったが、自分達の居場所を知らせるようなものだ。しかし邪神はただの人間に興味を示さない。杞憂だとして、灯りをいれた。
部室の中は小奇麗にまとめられ、ホワイトボードには日菜が描いた星図が残っていた。
「あの二人は、日本の頭上にある星を自分達で結んで陣を描くなんて言ってた。多分、それが一番距離が近くて手っ取り早かったからだと思う」
紗夜の疑問に答えるように、日菜は星図を指示棒で指し示す。
「惑星規模の魔術に神気を加える。それで地球を破壊するだけの質量を落とす?」
「う~ん、神様のことはよくわからないけど。多分、普通の星じゃないんだと思う。そうなると魔術で……もしかすると、此処じゃない宇宙から星を呼び出す、とか?」
「あの子供達なら可能なんでしょうね。なら可能性はあるわ」
「さっきの銃撃でこの陣も壊れてるはずだから、こっちは後回し。あたしが気になるのは、こっちの問題」
『演算ノート』と書かれた、紗夜の手にある一冊を日菜は注目する。
エヌラスが狂ったように続けていた計算式。その法則性を自分なりに解釈して書いてみたが、それが正解なのかどうかはわからない。しかし確かにあの時、日菜の描いた魔術は起動した。
「そもそもこれがどういったものを計算するものなのか全く解らないままだわ」
「うん。だけど、これがもし、あの二人を倒すための手がかりになるなら」
腰に手を当てて、紗夜は視線を逸らす。本当に、出来るだろうか?
一度見たものは覚える。天才肌の日菜にはきっとできるはずだ。なら自分は? 此処にいる自分には、何ができるのだろう。
取り急ぎ、ホワイトボードに描いた星図を消してペンを手にした日菜を見ながら氷川紗夜は考える。今、ここで自分がやるべきこと。妹のためにできること。あの人のためにしてやれること。
「おねーちゃん、ノート貸して!」
「日菜。私が今、あなたの為にしてやれることはない?」
「…………うん! それじゃあ、手を繋いでてもらえない、かな……?」
「ええ。わかったわ」
繋いだ手の温もりが、こんなにも心強い。小さく握り返した指の柔らかさが、温かさが心の緊張を解してくれる。ほだされていく恐怖心に日菜はペンを執った。
負けるものかと一心に計算に集中する。
外からは暴風と衝撃がまだ吹き荒れていた。台風でも起きているのかと思わせるほどの揺れに、紗夜は手を強く握る。
怖くないと言えば、嘘になる。だけど──妹を失うのは、もっと怖い。
二挺拳銃から吐き出される魔弾のことごとくを、ティオとティアは難なく避ける。銀の脚で捌きながら、同時に自分達の間合いにまで一瞬で詰めていた。空になった弾倉へ弾を装填している暇も与えずに迫る息の合ったコンビネーション。上下から、左右それぞれ別方向から。光速の回し蹴りと飛び蹴りをエヌラスは展開していた防御陣で防ぐ。
肘と腕で凌いだ一手、再装填を済ませた二挺を突きつける。だが二人の姿はそこになかった。
真紅の自動式拳銃が劫火のごとく燃える。
魔弾を受け止めた地面が穿たれ、ガラス状のクレーターが無数にできていた。
「あっははは! 当たらないからってそんな威力に任せたって意味ないよ!」
「無駄弾撃たないって言ってなかったっけー?」
「うるっせぇクソガキ共が!!」
魔力の残滓をさらに収束させて小爆発を起こす。だが、その衝撃を逆に利用して飛び下がる二人が空中を蹴って接近する。
そこへ白銀の回転式拳銃を撃つ。目と鼻の先に突きつけられた銃口からティオが身を屈めた、マズルフラッシュから必中の魔弾が放たれた直後、ティアが弾丸を粉砕する。親の仇のように、見たくもないといった様子で。
左腕を蹴り上げられて銃口がそれる。しかしエヌラスがそれでも引き金を引いた。白銀の回転式拳銃が刻まれた魔術刻印の輝きを増して暴風を吐き出す。だが魔弾が二人に届くことはなく、夜空へ飲み込まれて消えた。
「「そぉーれっ!」」
腹部を強打する蹴撃に、防御陣を打ち貫かれたのか骨が折れる音を聞いてエヌラスが吐血する。ティオの回し蹴りとティアのサマーソルトが同時に襲いかかり、再展開する間もなく羽丘女子学園へ蹴り飛ばされた。
校舎の壁を壊し、教室の中で机と椅子を巻き込みながらようやく止まる。全身を襲う衝撃に、床に滴る自らの血。身体中が軋む。それでも叩き起こした。弱音を吐いている余裕も暇もない。
両手の二挺拳銃が胎動する。制御を離れた魔弾が再起動し、校庭に立っていた二人が異変を感じ取っていた。
熱風が吹き荒ぶ、熱を帯びた砂塵が自然の暴力となって二人に襲いかかるが、それを苦もなく一蹴する。互いに背中を合わせて脚を一振りするだけで熱がかき消された。
その程度、たったこの程度で止められると思っていたら大間違いだ──静寂に包まれる。
一瞬の凪に、二人が夜空を見上げた。
吹き荒れる上昇気流、そこから、天に打ち上げられた極風の魔弾。魔力を伴った自然災害。
“空が墜ちてくる”感覚に、二人が笑みを浮かべた。悪魔のような笑顔だった。
極小の積乱雲からの下降気流、局所的な異常気象。ダウンバーストが羽丘女子学園に叩きつけられる。プレス機のような圧倒的質量を持って、空から押し潰さんとする目に見えない暴風を、しかしティオとティアは銀の脚を鳴らして足を高く振り上げると
空間を走る紫電は無数に描かれる術式。狂気じみた密度で展開され、押し寄せる雨粒と気流が逆転した。時間を巻き戻すかのような怪現象が、そこで起きている。
落ちるはずの雨粒も気流も停滞し、空で衝突していた。そのまま押し返された気圧が爆ぜる。夜空を走るこの世ならざる電撃がエヌラスの魔弾による術式を崩壊させた。
「あーぁ、この程度か」
「その程度しか出来ないなら死んでいいよ、おにーさん」
二人が同時に着地して、初速からトップスピードで学園を蹴り貫く。立ち上がろうとしていたエヌラスの胸板を蹴り壊しながら、地面に蹴り落とした。脚にまとわりつく不快感に、ティアが眉を寄せる。
「ねー、ティオ。なんか違和感ない?」
「そうだね。なんかくぐもった感触」
「あー、そっか。防げないからって帯電して反発させてるんだ」
「ちょっとは効果あるんじゃない? どーだっていいけど」
防御陣が間に合わないことを身をもって痛感したのだろう。だが、それがどうだというのか。防御に攻撃に自己再生と魔力をあちこちに散らしてはどれも効果が十分発揮されないというのに。そんなことは初歩中の初歩だ。
「おにーちゃーん、やる気あるー?」
「ないならこのまま殺すけど、あっても殺しちゃうけどいいよねー?」
二人が空中から呼びかけるが、エヌラスからの返事はない。
ただ、笑っていた。悪魔のような笑顔で。
──計算を続けていた手が止まる。日菜は、目を見開いて硬直していた。
計算に次ぐ計算、演算に次ぐ演算、終わらない方程式の連続に、理解の限界を迎える。
「日菜、どうしたの?」
「……わかんない」
それは、狂気を目の当たりにしたような震えた声だった。握った手が、寒さを訴えるようにかじかんでいる。
理解が、及ばない。魔術理論を抜きにしても、この計算に。数式に、演算に意味が見出だせなかった。
これが邪神を倒す手がかりになるというのなら──前提が破綻している。
「ねぇ、おねーちゃん……数学って、問題があるよね。公式を当てはめて、解を求める。たったひとつしかない答えに辿り着くために計算するんだよ、ね……?」
「……ええ。それが、どうしたの?」
「じゃあさ──例えばだけど。点「T」があるとして、ここから、ここまでの距離を移動するとしたら、速度と時間が必要でしょ?」
「それがどうしたの?」
「……
移動距離も。辿り着くまでの時間も。それどころか速度でさえも、あの二人には意味をなさないはずだ。なのに、こんな計算をする意味が解らない──日菜はそう言っている。だが、紗夜は何か腑に落ちなかった。
それなら、何故こんなにも計算する必要があるのか。何を求めていたのか。
「……過程がどうあれ、逆に考えて。既に答えが出ているのだとしたら?」
「じゃあ、ここまで全部逆算してるってこと?」
「…………とても正気とは思えないけれど」
無数にある可能性の全てを、ただ一点に収束させる。そして、その逆に。
辿り着くであろう可能性の全てを計算する。並列処理で、並行の可能性を考慮して、万が一の事態も全て計算して──果てしない、果てしない計算の数に正気を疑う。だがそういうものだ。
魔術とは、そもそも正気では成し得ない外道外法の知識の集大成。理解できないのが常であり、それを記したものこそを「魔導書」と呼ぶ。エヌラスはそれを書いている途中だ。その暗号が数式であり、それを偶然にも紐解いてしまったのが氷川日菜。
わからなくて当然だ。理解が及ばなくて当然だ。
見ている世界も。生きてきた場所も。何もかもが違う。
驚きで固まっていた日菜の表情が徐々に笑みに変わっていく。目が輝いていた。
「おねーちゃん、魔術って面白いね!」
「そう?」
「全然わかんないけど、うん。断然面白い! 物理法則とか相対性原理とか距離減衰も計算に入れたり入れなかったりして色々やってみる!」
不安を吹き飛ばす笑顔で、日菜は紗夜を照らす。
「ダメなおねーちゃんね、私は……」
「どうして?」
「あなたの手を握って、祈ることしかできないなんて」
「ううん、そんなことない。おねーちゃんが手を握っていてくれるだけでるんっ♪てきてる。おねーちゃんから、ちゃんと勇気貰ってるよ。だから、そんなこと弱音を言わずに、あたしのそばにいてほしい……なんて、わがまま言っちゃダメかな?」
「そうね。あなたが私を置いていったりしないなら、考えておくわ」
「……おねーちゃんの、いじわる」
「日菜こそ。ほら、いいから続き」
「うん!」
再びペンを走らせる。生き生きとした表情の横顔を見て、つい頬が綻んでしまう。
「……ねぇ、おねーちゃん」
「なぁに、日菜?」
「あたしエヌラスさんに弟子入りしてもいい?」
「本人に聞いて」
「えー、だって絶対にダメって言うもん。あたしのこと嫌いみたいだし」
「それはあなたが考えなしに突撃するからでしょ。ちゃんと距離感を見極めて、不用意に抱きつかないの」
「だってすぐ逃げるし、掴まえとかないと!」
「そういうところよ、日菜」
異性として見ているのではなく、犬かなにかと勘違いしているのではないだろうか──そんな一抹の不安が脳裏をよぎった。