無重力体験ツアーの飛行機は、弦巻家パイロットが担当する形でエヌラスを待っていた。本来であれば一ヶ月前から要予約制であり、同時に厳格な書類申請と諸々がある。本来ならば乗客として乗り込むことなど不可能だったが、弦巻家が財力で介入したことで一週間前の申請かつ、案内過程を省略していた。
それでも万が一、命の危機に晒されるということだけは覚悟しておいて欲しいという言葉には苦笑している。なんでも、以前の海外旅行に比べればこの程度どうということはない、と。
他でもないあの時のパイロットが今回もまた助力を申し出たことに面食らいながらも、エヌラスが飛行機に乗り込む。
おおよその出現位置は把握している。あとはその方角へ向けて一直線に飛び立つだけだ。
滑走路に出てから、最後に一度だけパイロットが確認してくる。エヌラスは間髪入れずに答えた。躊躇すれば未練と後悔ばかりが押し寄せてくるから。
加速して、離陸すると体が浮遊感に包まれる。それからしばらく気流の乱れに座席が揺れていた。やがて雲を抜けて、ようやく治まるとエヌラスは窓から外の景色を見下ろす。
一面の大海原。そこにぽつんと浮かぶ島国――自分が今まで滞在していた国が、あぁも小さいとは思いもしなかった。
無重力体験は、わずか三十秒足らずで終わってしまう。何度かそれを繰り返す飛行ルートだが、弦巻家で用意した空路にも限界はある。どれほどの資産があろうとも、無茶が押し通せるレベルが存在した。エヌラスにとっては、それだけで十分過ぎる。
これから自分がやろうとしている、生身で宇宙に殴り込むことに比べたら人類にできる無茶など鼻で笑ってしまう。
『無重力突入まで――』
「……予想より早いな」
パイロットのアナウンスが途切れ、困惑した声がマイク越しに伝わってくる。
エヌラスは、全身の感覚が急激に研ぎ澄まされていくのを感じていた。戦いの前兆、緊迫感にも似た肌のひりつき。自分に向けられる視線や意識に向けて、魔術的な視覚を向けて――。
「パイロット! 今すぐ脱出しろ!」
シートベルトを外し、影から倭刀とレイジング・ブル・マキシカスタムを持ち出すと即座に飛行機を輪切りにした。ずれ落ち、落下していく運転席からパイロットが脱出するのを見てからエヌラスがハンティングホラーの背中に足をかける。
『
進路を阻む眷属だけを切り裂き、打ち抜きながらエヌラスとハンティングホラーは地球から飛び立つ。
「適当言ったが、案外いけるもんだな生身で!」
――初めてこの次元世界へ降り立った時は『
エヌラスが見つめるのは、ただ一点。月の黒点。視覚強化で目を凝らせば、淵に足を掛けて眷属が無数の触手を蠢かせながら身体をよじ登らせている。それも一匹や二匹ではない。巣穴から無尽蔵に湧き出す蟻の様相で次元侵蝕は始まっていた。
「こりゃマジで遊んでる場合じゃなかったなぁ! ハンティングホラー、全速力で突っ込め!」
真正面の眷属を倭刀で真っ二つにして、レイジング・ブルマキシカスタムで撃ち抜き、ハンティングホラーの背中から飛び出した電磁加速蹴撃で蹴り飛ばし、超電磁抜刀術で無数に焼き払い、足を止めることなく全速力でエヌラスは“黒月の母”シュブ=ニグラスの待ち構えている黒点へと突入していく。
暗黒饗宴の賛美歌を、おぞましい声で奏でる眷属達の笑い声を置き去りにして――。
“黒月の母”シュブ=ニグラスの本体がいると思わしき亀裂の中は、覚醒世界からさらに外側の宇宙が広がっていた。だがその総てが暗黒に包まれている。エヌラスは鼻を鳴らすが、無味無臭。だが息苦しさは感じられない。胸に圧迫感を覚えるのは、自分の周囲四方八方が外敵に覆われているからだ。
それでも奇妙なのは、エヌラスに対する敵意がないことだった。ただ遠巻きに観察し、ただ本能の赴くままに口から母を讃える歌だけを口ずさんでいる。子守唄にも似た、ゆったりとしたテンポのフルートを鳴らしているかのような音にエヌラスは顔をしかめた。
不気味で、不愉快で、ひたすらに耳障りで仕方ない。遠慮も躊躇もなく、エヌラスは倭刀を収めて超電磁抜刀術を暗闇に向けて放つ。
光刃が暗黒の只中を奔り、しかし、それは手応えもなく呑まれて消えていく。
――わるいゆめ。
直後、何者かの声が響いた。それは優しい声色で、慈愛に満ちた聖母の如く清らかな音色で。
――こわいゆめ。
誰か、であることなど最早問い詰めるまでもなく。その声の主こそが“黒月の母”シュブ=ニグラス張本人。雑踏の如き眷属たちの賛美歌は静まり返っている。
――すべては、そう。悪い夢。怖い夢。
――かわいそうに。なんて、かわいそうな人。
――安心して。私は貴方を傷つけないわ。
「……だからどうした。俺はテメェを殺しに来たんだ」
――大丈夫。こわくないわ。何も、こわくないわ。
――安心して。悪い夢。そう、総ては悪い夢。
――
――だから、安心して眠りなさい。
――貴方が望むもの、貴方が願うもの、貴方の欲しい物。
――全部、ぜんぶ。望むまま、願うまま、欲するもの全部。
――この“母”が与えます。
「……クトゥグア! 神獣形態!」
エヌラスは、右手の魔術刻印を起動。炎の中から自動式拳銃を取り出すと、暗黒に向けて発砲する。灼熱の魔弾より、炎の獅子が駆け出した。
神格のエネルギー体によって照らされても、ただ暗闇だけが広がっている。音もなく、クトゥグアは暗闇の中を突き進んでいき、やがて見えなくなった。
自分が今、どこにいるのかすら。平衡感覚を失い始めた頃、エヌラスは違和感に気づく。
「……?」
自分の足に、何か硬い感触があった。確かめるように靴底で叩くと、コツコツと音が鳴る。
「――ハンティングホラー! おい! どこ行った!」
自分の“影”に呼びかけてみるが、どこからも反応がなかった。
――おそれないで。
――こわがらないで? 貴方を傷つけるものなんて、何もないのだから。
エヌラスが総毛立つ。悪寒が止まらなかった。
これまで敵対してきた邪神達は、いずれも敵意と殺意があった。だがこのシュブ=ニグラスからはそれが何一つ感じられない。それでも腸の煮えくり返るような怒りだけは鎮まらず、立て続けに暗闇に向けて発砲する。だがやはりそこに手応えはない。
ならば、とエヌラスが
(俺の感覚が正しければ――!)
此処に突入した時、確かにハンティングホラーに乗っていた。ならば愛犬は何か反応を示すはずだ。エヌラスのその期待は、“カキン”と、硬い地面の感触によって打ち砕かれる。
「なっ――、いや待て。おかしいだろうが! テメェどこにいやがる!」
ただ暗闇ばかりが広がっている。それでも、足場の確かな感触。
振り返れば、道が閉ざされていた。暗闇の中にただ一人で放り捨てられた状態に、エヌラスはしかし神経を研ぎ澄ませる。
落ち着いて魔力を集中させれば、確かに無数の眷属達の気配だけはあった。しかし、クトゥグアも超電磁抜刀術もただ空を切るばかり。ハンティングホラーも何処かへと消えてしまった。
――大丈夫。
――だいじょうぶよ。
――貴方のことは、知っています。
――嗚呼、なんて……かわいそうに。
「うるせぇ……うるせぇ、黙りやがれ! テメェら邪神に情けをかけられる覚えはねぇ! 憎まれもするし恨まれもするが、同情の余地なんかねぇだろうが!!!」
――かわいそうな人。
――貴方には、戦う道しか許されていなかったなんて。なんて、かわいそうに。
――大丈夫、安心して。
――私が、愛します。私が、貴方に与えます。私は、貴方を愛しています。
「ふざ、けんな……! 誰がテメェなんぞに! 邪神は皆殺しだ、眷属だろうがなんだろうが例外なく! その邪神に愛されてたまるか!」
堪らず、エヌラスが暗闇の中を駆け出す。先の見えない道筋に、だが足を止めることなく。
「ッ――! “
紫電を纏い、加速する。しかし何処までも続く暗闇の中は、一寸の光もなく。
無音かつ、広大な闇の中でエヌラスは途方に暮れそうになる。だが他に何か手立てがあるはずだと思考を張り巡らせた。
何気なく倭刀を足元に突き立てて、駆け出してみる。少なくともこの空間が眷属達によって構成されているのであれば何かしらの手応えがあるはずだ。まったくの空振りに終わってしまったが。
どこからともなく声が届く。まるで耳元で囁かれているかのような優しい声で。それは頭蓋の中から聞こえてきているかのように、エヌラスの思考を鈍らせ、五感を狂わせた。
――こわがらないで、うけいれて?
――貴方を傷つけたりしないから。
――私だけが、貴方を愛せるの。
「黙りやがれぇ――!!!」
咄嗟に耳元を振り払い、倭刀を振り上げる。それでも声は止まらない。
そして、歌が聞こえた。暗黒の中に響き渡る母を讃える賛美歌。眠り続ける主へ捧ぐフルートの音色。
不意に感じた気配に、エヌラスは即座に倭刀を向けて――躊躇した。
「エヌラス、私ね――」
流れるような黄金の髪。長く伸ばした髪は毛先が緩くウェーブがかかり、腰の半ばほどまで届いていた。
瞳の色は、髪と同じく金色で。大きく丸い目を、優しく細めながら。
その口から、言の葉を紡ぐ。
いつか聞いた、同じ言葉を。
「私ね――貴方の笑顔が見たいな」
「――――――――」
“そんなはずがない”と、思った。
そんなことはありえないと、思った。
そんなことが起きるはずがない、そうと理解していても、心は容易く理解を拒む。
此処が何処で、いったいいつ、何時、何処で、何をしていたのかすら証明する手立てはなく。
「……? どうしたの、エヌラス?」
「な、……んで――おまえ、がいるんだ?」
「なんでって? んー、おかえりなさい? 何処に行ってたの、エヌラス?」
「ど、何処ってそりゃ――いや待て、そもそも此処は」
“そんなはずがない”と、思った。
そんなことはありえないと、思った。
そんなことが起きるはずがない、そうと理解していても、心は容易く理解を拒む。
ますますエヌラスは困惑した。
最初の一歩、総ての始まり、原初の基点に戻ったことに対して、思考が凍りつく。
そして――目の前の、人間の女の子に向けて刃を振り下ろすことだけは出来なかった。
「あっ」
唐突に何かを思いついたのか、軽く手を叩いて笑っている。
「パン食べたくなってきちゃった」
「…………、本当に、お前ってやつは……、そんなはず、ねぇだろうが――!」
「? あ、ご飯の気分?」
「そうじゃ――!」
首を傾げて微笑む彼女の名前を覚えている。忘れるはずがない。
犯罪国家と呼ばれる故郷の九龍アマルガムにおいて、彼女に勝る笑顔の華を見たことがない。
周囲を見渡してみれば、確かにそこは故郷の犯罪国家の町並みだった。雑多な町並み、道行く暴走車両が追突してはマフィアやら強盗やら警察やらの罵詈雑言と銃声と悲鳴と交通事故。
「ちょっと黙ってろ外野ぁ!!!」
エヌラスは再びクトゥグアを街中に向けてぶっ放した。炎上する車両から這い出した警察官と巻き込まれそうな覆面マフィアが慌ただしく逃げ惑い、余波でビルが倒壊して瓦礫と破片と土埃が舞う。街に漂う瘴気も、どこかくぐもった空気も、何もかもが全部、懐かしい。
「わー、だいばくはつ。それでエヌラス」
「……なんだよ」
覗き込むようにして、彼女が満面の笑みを見せてくる。真っ白なワンピースに、ケープを羽織っているがゆるい胸元からは谷間が見え隠れしていた。
「パン、食べに行こ?」
「…………“マリー”、本当にお前なのか?」
「? 私以外の私っているの? そっくりさんでも見た? あ、ドッペルゲンガーとかいるらしいんだけど、見たことないんだぁ。エヌラスは見たことある?」
「…………」
「でもエヌラスが二人もいたらちょっと大変かなぁ」
「つかぬことを聞きますがどういう意味で?」
「……聞きたい?」
「顔を赤らめんな恥じらうなモジモジするなちょっと上目遣いで俺を見るんじゃねぇ言わなくていいッ!!!」
ワンピースの裾を翻しながら、マリーが笑う。
「うん、だから私は、貴方だけでいいの。こんなにか弱い女の子を愛してくれる素敵な人なんだから――」
「――――」
空いた口を塞ごうとして、自分の口が知らず知らずの間に持ち上がりそうになって。
エヌラスは思わず自分の口を押さえた。
込み上げてくる吐き気と、拭いきれない違和感と、それでも拒絶できない現実と。自分の目の前にいる彼女と、自分のいる場所の不確かさに確証が持てずに頭を振る。
自分の頬を抓れば確かに痛い。それを見て、マリーが手を伸ばしてくる。
「えいえい」
むにむに。頬を引っ張っているようだが、まったく痛くない。むしろくすぐったい。
「痛い?」
「……柔らかくてすげぇいい匂いがするから俺以外にぜってぇやんなよ?」
こんな頭の中身がマシュマロ詰め込んだ脳みそで出来ている人間なんて、他に知らない。
「……あ」
「今度は何だ」
「刀と銃、危ないからしまってね? お店の人びっくりしちゃうから」
「……“ハンティングホラー”」
つい、癖で。エヌラスは自分の影の中に武器を落とす。するとそれは、いつものようにするりと音もなく飲み込まれて消えていく。いつの間に戻ってきたのか、と眉を寄せて――それでもマリーの笑顔で疑問が晴れた。
「ねぇ、エヌラス。今日はどうして戻ってきたの?」
「どうしてって、そりゃ――いや俺もわからん。なんか気づいたら
「そうなんだ。街の中で“ぬぼ~っ”て顔で立ってたからどうしたのかなって思って」
「……俺そんな間の抜けた顔してた? なにその擬音、初めて聞いたわ」
「私も初めて言ったけど?」
「こんにゃろ」
エヌラスがマリーの頭を乱暴に撫で回す。「ぅあ~」と間延びした悲鳴(?)を挙げながらも撫で回されて髪が跳ねていた。それをショーウインドウに映る自分の顔とにらめっこしながら直す姿から視線を外して街の中へ向ける。
場所は、わかる。そして時間も、大時計塔の針を見ればわかる。だが、何故自分が此処にいるのかだけが分からなかった。
シュブ=ニグラスの言葉を思い出そうとして――エヌラスは、その声も内容も忘れてしまっていたことに気づく。
「――マリー、俺は」
「ん? どうしたの?」
「……いや、ちょっと。行かなきゃならないとこがあって」
「そうなの? さっき戻ってきたばかりなのに?」
「だから俺もなんで戻ってきたのかわからなくてだな……とにかく俺は――」
――エヌラスは、
――帰ってくる場所は此処だった。そのはずだ。目指した場所も、此処のはずだ。
それなのに、何処へ向かおうとしていたのかすら、わからなくなってしまった。
立ち止まり、そのまま立ち尽くしてしまったエヌラスの頭に手を伸ばして、マリーが撫でる。
あくまでも優しく、ほほえんで。
「パン屋さんに寄ってからでもいい? お腹空いちゃった」
「…………、そうだな。それからでも、多分……遅くはないな」
――こうしてまた、彼女と共に歩くために自分は戦ってきたはずだ。
この世界で。