──大魔導師の作り上げた結界は、外界と隔離された空間。この中であればどれほどの被害が出ようと、結界を解除されれば元通りになる。ただし、死者は蘇らない。
失われた命も、奪われた時間も戻らない。時は止まらない。ただ進むことしかできない無情で、残酷なたったひとつの真実。
剣戟。甲高い音を鳴らして、太刀と黄金の十字架が火花を散らす。
童子切安綱が押し切り、力尽くで術式を裁断する。大魔導師は手元で破砕し、光となって砕け散った十字架を見て、即座に思考を切り替えた。逆の腕で振るわれるバルザイの偃月刀の刀身を掴み取り、白刃取りで受け止める。
刹那、違和感を覚えて回避に転じた。距離を取り、自分の手を見れば一文字の傷が走っている。じわりと浮かぶ赤い線を見て、軽く手を振り払った。
「そうこなくては、こちらも面白みがない」
「片腕と言わず両手で来い、大魔導師。生半端なまま斬られては悔いが残るだろう」
「さて、どうだろうな……私としては片手でも構わないところだが、それでは貴様の腹の虫が治まらんだろうしな。いいだろう」
そこで初めて大魔導師がポケットに入れていた左手を構える。手首を慣らしながら、白い髪を逆立たせる童子切安綱へ視線を見やって。
「凡百の魔術師にとって、四肢とは。“端末”である。魔術を行使する際に必要とするものだ。私はそうは思わない。手足などただの“末端”でしかない、ならば魔術の構築も行使もどこで行うか──“ここ”だ」
自らのこめかみを叩いて見せてから、大魔導師が拳を握る。
虚空を殴り抜けた、次の瞬間。風が吹いた。遅れて、芝生が揺れ、木の葉が舞い上がり──地面が、めくれ上がった。まるで土石流災害の如く勢いでそれは雑木林を薙ぎ払っていき、勢いは止まずに遥か遠方の山の麓を叩き、斜面を土砂で崩して、そこでようやく止まった。
「人のことを生きた災害だの化け物だの怪物だのとやかく好き放題言いたい放題言われるが、別に私は気にしない。事実であり、理解も共感も私は求めていない。倫理に則った魔術など、たかがその程度の領分でしかない」
たった、一撃。なんのことはない、ただの裏拳。それだけで自然災害に等しい被害を目の当たりにした香澄達は今度こそ言葉を失った。
「魔術を極めるとは、どういうことか。答えは必然的に「人を辞める」ということにある。どういった術式、科目、属性、あらゆる観点から初めても究極的にはそこに辿り着く。狂気による破滅は避けられない──」
「……だが?」
「だが──果たして、本当にそうだろうか? 狂気を御するのは、絶対的な冷徹さを伴う理性だ。それを手放した時、魔術師は尽く例外なく破滅する。ならば簡単な話だと思わないか?」
形容し難い寒気に包まれ、だが抗うことが出来ずに童子切安綱は大魔導師の瞳を視る。
黄金色の色彩を放つ瞳。その瞳孔の奥に潜む狂気の片鱗──、答えはいとも容易く目で語っていた。
「この狂気こそを正気と制御すればいいだけのことだ」
「────何が貴様をそこまで駆り立てた」
「“覇道”。ただそれだけだ」
大魔導師の姿がかき消える。だが、童子切安綱だけは太刀を振るっていた。
金属音。空中で弾かれたのは、黄金の十字架だった。しかしそこに大魔導師の姿はなく、ふと空を見上げれば──“そこに、立っていた”。
童子切安綱の眼には、今ならば理解できる。その術理が。馬鹿げた量の術式を並行起動させていることで可能とする現実離れした超常現象を前に、寒気よりも先に武者震いをした。
大魔導師が構えるのは、黄金の弓。そこへ黄金の十字架を“装填”する。──先程まで振るっていたのは、“杖”でも“剣”でもなく。ただの“鏃”でしかなかった。
「──あの、弓は…………」
見覚えがある。知っている。見たことがある、忘れもしない。
氷川紗夜は知っていた。きっと氷川日菜も知っている。
──
「童子切さん、あれは──!!」
「やかましいっ!!!」
大魔導師の手から放たれた黄金の矢が光となって空を走る。それを真正面から、叩き斬った。
淡い光が弾け飛び、童子切安綱が刀の背で自らの肩を叩く。
「切り落とせば全部同じよ。避けるまでもなし」
「…………」
「……心配いらないみたいね」
「そうですね……」
避けられないなら切り払う、それどころか避ける素振りひとつ見せなかった。
大魔導師はそれに驚愕も落胆もしなかったが、ただ少しだけ笑っている。
「──ならばこれはどうだ?」
再び矢をつがえ、その数が一から十へ。十から百へ。
無数の十字架が童子切安綱を狙っていた。
「駆けろ“群狼”──狩りの時間だ」
手綱を離した
黄金の豪雨となって降り注ぐ十字架から童子切安綱がその場から横へ飛ぶ。その瞬間、全ての矢が自らの意思を持つかのように進路を変更して追跡し始めた。
後ろから追跡するのではなく先回りする矢もあれば、直角に軌跡を変えるものもある。全方位から迫る黄金の矢に対し、童子切安綱は太刀を口に咥えた。バルザイの偃月刀を逆手に持ち替えて薬指と小指で保持。
右手に奔る紫電、稲光が形作るのは大弓。そして、つがえる矢もまた蒼い稲妻だった。
「
轟音、閃光。大地を鳴らす程の風切り音は大魔導師の
「奇遇だな。俺も弓は得意としている。切り落とすのも撃ち落とすのも好きな方でやってやる!」
「……当たるとわかっていれば避ける必要もなく、落とすのは容易か。成程、これだから武芸者は気に食わん。つくづく腹立つな貴様」
大魔導師の手から三度、放たれる黄金の十字架。それを正面から撃ち返した童子切安綱が素早く太刀を翻す。瞬時に距離を詰めていた大魔導師の十字架を弾き、だがそこで違和感に気づいた。
防御したはずの手が痺れ、危うく太刀を手放してしまいそうになる。
「ッ──!」
「小細工無用、手加減一切不要。貴様ら武芸達者な馬鹿共に合わせて真正面から正々堂々相手してやる。なに心配はいらん、
バルザイの偃月刀と黄金の十字架が打ち合い、火花を散らし、衝撃波と共に周囲が爆ぜていく。
(片手で戦っていた? 馬鹿抜かせ──!! 貴様、先ほどまで指先だけで戦っていたも同然ではないか!)
「どうした、この程度で押される貴様ではあるまい? 童子切安綱」
大魔導師の一挙一動を見逃さまいと童子切安綱は常に立ち回る。だが、凝視すればするほどに全身を覆い、纏った術式が狂気の沙汰としか思えない。脳が理解を拒む。
幾重にも織り込まれた身体強化、三重の重力防壁を“常時”展開し、維持したまま更に攻勢術式も同時に発動させている。常人ならば脳が焼き切れて廃人と化してもおかしくない。
それでも身を引くわけにはいかなかった。それでも、それでもと選び続けてきた自分の道の前に怪物が立ちはだかる。
童子切安綱の二刀流と大魔導師の十字架が激しく打ち合い、互いに足を振り上げて蹴り飛ばした。
吐血し、咳き込みながらも顔を上げる。まだだ、まだ。童子切安綱が駆け出した。
大魔導師が空中に“着地”することで先の先を外す。草を薙ぐ一閃を止めて、寸でのところで太刀を跳ね上げた。完全な奇襲だったにも関わらずその一太刀を最小限の動きで避けてみせる。だが、ほんの僅かに前髪を掠めていた。
不意に、童子切安綱が太刀を手放す。その動きにほんの刹那、意識を奪われた。
「コイツは──二代目の分だぁ!!!」
襟首を掴み、左手に保持していた白炎で大魔導師の顔面を殴り抜ける。吹き飛ぶ相手を見てから太刀を蹴り上げて掴み取った童子切安綱が身を屈めて地を鳴らす。
殴られた頬に触れて、それから大魔導師は笑みを浮かべていた。
「──悪くない一撃だ。今の貴様が、どれほどの高みにあるか試したくなった。大人げない話だがな、少々“本気”を出させてもらうぞ」
これほどの超常を引き起こしておきながら“半分”にも届いていない。多く見積もっても三割──最悪、一割程度。
大魔導師が指を鳴らす。小気味良い、高い音がまるで鈴の音のように響いた。それは香澄達の耳にも届く。澄んだ音。耳にするだけで身体が軽くなったような心地に驚いていた。だが、それがなんの為に鳴らされた福音なのか、すぐに理解する。
天が平伏したかのような重圧に襲われて呼吸すら忘れた。それは、大魔導師の身体から放たれる魔力と瘴気によるプレッシャーだった。大気が恐怖しているのかビリビリと震えている。
「あまり全力を出すことはないのだが、興が乗った」
「貴様にとって、それほどまでにこの世は退屈か──」
「──ああ、つまらんな。ぶち壊してやりたくなるくらいにはな。それこそ跡形もなく消し飛ばしてやりたくなる。だがそんなことをしたところで何になる。時間の無駄だ」
「さも、やったことがあるような口ぶりだな」
「…………はて? どうだったかな、“忘れたよ”。私が全力を出さない理由が、もうひとつある」
「その理由とはなんだ?」
「端的に言ってしまえば、耐えられんからだ」
「……貴様の身体が、か?」
「
身に余る光栄だ、自嘲の交じった返答に大魔導師が肩を回した。
そして、構える。それは見たことのない構え方だった。
左手の指を揃えて、まるで赤子を抱くように。右手は見えない柄を握るように。不可視の槍を携えているかのような立ち姿に、だが童子切安綱の眼は正しく世界の在り方を見ていた。気が狂いそうになるほどに。
手元に集中する黄金の粒子。その総てが余さず命の灯火。魂を捕らえて離さない牢獄の檻から死者達が形を成したのは、黄金の槍だった。
「────、それが……貴様の得物か」
「弓はいい。
童子切安綱はそこで、初めて大魔導師が神を憎んでいることに気づいた。思えばこの男、最初からそうだった。神の定めた理をぶち壊す。神の定めた法則を台無しにする。神という存在そのものを疎んでいる発言ばかり。
それほどまでに神が憎いのか。それほどまでの憎悪なのか。人を辞め、万物の理を覆すほどに。
同時に、憐れんでしまった。
ただ独りだけ、その頂に届いてしまったが故の退屈なのだろう。
剣の道もまた同様に、極めればそこに辿り着く。“無空”の果てに、なにがあるか。
果たして届くか。目の前にいる遥かなる至高天の頂に座する怪物に。
──否。届けなければなならない。この世界が、救済に値する価値があると示すために。
「興冷めさせてくれるなよ。振り落とされるな。死ぬ気で追い縋れ──それでも、尚。この私に刃を振るえ。もし、それが出来なければ邪神に代わって私がこの星を滅ぼすだけだ」
この男の言葉に表も裏もない。ただ“絶対”という確信だけがある。有言実行、発言の敢行に一切の躊躇がない。
大魔導師の
何もできないと嘆いていた。ただ鍵を打つだけだった。つまらないやつだった付喪神。
足りなかったのは、ただこの胸の熱だけだった。
童子切安綱は太刀を突き立てて、首から下げていた勾玉の紐を引きちぎる。
何の変哲もない、つまらない勾玉。最初で最後の贈り物。これを渡してきた鬼の顔を思い浮かべて──ただ笑った。なくしてしまうには、あまりに口惜しい。
「コイツを預ける、持ってろ」
無造作に放り投げた勾玉をキャッチしたのは、はぐみだった。
身につけていられたのは、ほんの僅かな間だったが──それでも、失うのを惜しむ程度の宝物に違いはない。
「童子切安綱。貴様の力に免じて、ひとつだけ助言をしてやろう」
「聞こう」
「私の魔術に匹敵する境地が存在する。器物の神、造り物の神、紛い物の神。“鬼械神”となった今の貴様になら到達できる」
「その境地とは、なんだ」
「“無限熱量”。昇華魔術において、他の追随を許さない窮極呪法だ」
槍の穂先を突きつけられるだけで、童子切安綱の全身の細胞が危険信号を発する。
「……訂正させてもらう。今の、“お前たち”になら、必ずだ」
「──助言、感謝する」
「確かに伝えた。続けようか」
太刀を引き抜いて、大魔導師と構え合う。
些細な訂正ではあったが、それはこの怪物が命の裁量を何一つ間違えない証拠だった。童子切安綱はそれが恐ろしくてたまらなかった。
その魂の総量を上回るには、無限の頂に辿り着く他にない。
黄金の槍と打ち合いながら童子切安綱は身体が軋む音を聞いた。心が折れそうになる。膝を折って屈してしまいそうになる。頭を垂れそうになった。
──それでも、思い出すのはひとりの鬼。逃げ出す理由がなかっただけで、最後までワガママに付き合ってくれた馬鹿の顔。
それが不思議と、踏み出す力を与えてくれた。
預けた命を使うのは、後にも先にも無い。