──羽丘女子学園に通う生徒達にとって、それはいつもと変わらない日常。
今はまだ、辛うじて。
登校時間にもなれば学園の門をくぐる生徒達で溢れかえる通学路。その中には、氷川日菜も当然ながらいたし、今井リサの姿もあった。
昨日はひどく怒られた。天文部の活動に夢中になるあまり、レッスンに大遅刻。その話を聞いた氷川紗夜からも家に帰ってから追加で怒られた。だが、それだけの価値と甲斐はあったと日菜は確信している。絵空事や夢物語だと思われるだろう、しかし辿り着いた答え以外に“るんっ”とはこなかった。
まだ仮説と推測の域を出ないが、これは有力候補だ。
怒られたところでいつものことだ。めげないしょげないへこたれない──いや、大好きなお姉ちゃんに怒られたのは流石にちょっと堪えたけれども。
(う~ん、あとはこの仮説を何とか実証させたいんだけど。どうしたらいいんだろ? やっぱり身近なものだと都市伝説かなー)
こっぴどく叱られたと言うのに、日菜の足取りは軽かった。放課後になったらまた天文部の活動をしよう。
リサは朝から自分の右手を気にしている。それを隣で見ていた湊友希那は不思議そうな顔をしていた。
「リサ。手の調子が悪いのかしら」
「うーん、別にそういうわけじゃないんだけどぉ。いつもの手だなーって」
「……?」
小首を傾げる友希那に、リサは何でも無いと手を振ってみせる。昨日の分の練習をしなければならない。
前を向いたリサに、しかし道を阻むのは他ならぬ青葉モカ。
「ふっふっふー、おはようございますリサさん~……」
「おはよー、モカ」
「約束の品をいただきにきました。お忘れではないですよねー?」
「もちろん♪ はい、これ」
「おぉー……ありがたく頂戴しますね~。リサさんもワルですのぅ」
「そういうモカこそ。昨日はありがとね」
「この至宝のクッキーに比べたらあれくらいモカちゃんにはお安い御用ですー、それでは」
手を振ってモカが下駄箱に向かう。心なしかその足取りがとても軽そうに見えた。
一連の流れを見ていた友希那はますます首を傾げている。
「なにかあったのかしら?」
「まー、うん……昨日ちょっと怖い話聞いちゃってね。夜道を帰るの付き合ってもらったんだ」
「怖い話?」
(……そういえば、あの占い師の人。また行き倒れてたりしないよね?)
本当に占い師かも怪しいところだが、リサはふと思い出していた。じっと顔を見つめてくる幼馴染に、事の経緯を話しながら学園の門をくぐる。
「昨日ね──」
放課後。学生の本分である勉学からの解放に、生徒達は思い思いの行動をとる。
真っ直ぐ帰宅するもの。友達と集まって寄り道するもの。部活動に向かうもの。
或いは、ガールズバンドの練習に勤しむもの。
今井リサと湊友希那は、その最たる後者だった。昨日の分の遅れを取り戻そうと練習に向かおうとする。そんな二人を追いかける宇田川あこの姿があった。
ガールズバンド『Roselia』として、次のライブに向けて練習は欠かさない。それぞれの時間はあるだろう。しかし、バンドメンバーと集まって練習をしている時間はただただ高みを目指して演奏に集中する。
湊友希那にとって。今井リサにとって。氷川紗夜にとって、白金燐子にとって、宇田川あこにとって、一番かけがえのない時間。
この青薔薇を咲かせている時が、何よりも充実していた。
ライブハウス『Circle』での練習を終えて、日が落ちる前に解散する。
いつもより早めに切り上げたことにあこが首を傾げていた。その理由は、リサから聞いた話を気にしているからだ。
「友希那さん、今日はもういいんですか?」
「ええ」
「なにかあったのですか? 調子が悪い、とか」
「そんなことはないわ、紗夜。リサの話があったから、今週は少し早めに切り上げるわ。怪我をされたら困るもの」
「どんな話なんですか……?」
「あまり不安を煽るような事はしたくないけれど、ちゃんと伝えておいた方が安全ね……」
──その話を真摯に受け止めた紗夜は、神妙な面持ちで頷いていた。気の弱い燐子は、不安が勝るのか普段よりも落ち着かない。あこも同様に、少し不安そうにしていた。
「そのような事件があったのなら、新聞やニュースで報道されそうなものですが……警察の方は何をしているのでしょう」
「あこちゃんも気をつけてね……」
「うん、りんりんも!」
「そういうことだから、今日の練習はここまでよ。あとは自主練習ね」
友希那の決定に、リサ達が頷いてスタジオを後にする。その姿を見かけたスタッフが労りの言葉を投げかけた。会釈を返しながら、Roseliaは五人で帰路につく。
並んで歩いていると、ふと。リサは友希那達に話していないことを思い出した。
「あれ、友希那に話したっけ? 占い師のお兄さんのこと」
「……その話は聞いてないわね。昨日のシフト変更の経緯だけよ」
「占い師の……お兄さん……?」
「どのような方なのですか?」
「う~ん、どう。どうって聞かれると言葉に困るなぁ」
はて。なんて言ってみんなに教えてあげようか。悪い人ではなさそうだったが、いかんせん外見が完全に人を近づけない雰囲気があった。進んで声を掛けたくはなかったがあの時は状況が悪かったのだから仕方ない。
「……とりあえず、黒かったかな? 髪も服も、頭の先から爪先まで。で、目つきが悪くて左目に傷?っぽいのがあった、ような気がする。なんか見るからに危ない雰囲気の人だったけど、話してみると結構いい感じだったよ」
「……そのような人と関わり合いになりたいとは思いませんが」
「あー、紗夜とは反りが合わなさそう。そういうだらしない人嫌いでしょ」
「当然です」
胸を張り、腕を組む紗夜が一人で頷いていた。生真面目が過ぎるくらいだが、それが当人の音楽の技術にも繋がっている。
「大体、占い師なんて不安定な収入そうな方」
「餓死寸前になってたからクッキーあげたんだよねぇ……」
「…………」
「うん、紗夜の言いたいことはわかる。その目です~っごくわかる! でもさ、ほら。なんか放っておけなくて! クッキーも美味しいって言ってくれたし、感謝もしてくれたよ!?」
「施しを受けて感謝するのは一般常識です。そんな野良犬や野良猫に餌付けするような感覚で世話をしてはいけませんよ。今井さんの世話好きにも困ったものですね」
「アタシ遠回しに怒られてる……?」
「そうね」
紗夜に叱られ、話を聞いた友希那に呆れられ、燐子とあこにフォローされてリサは笑っていた。
夕暮れ時。陽が傾いた街並み。血のような色──赤い夕暮れ。
人々の賑やかな声が遠い。いつもの帰り道のはずなのに、恐ろしくなるほど周囲が静まり返っていた。その異変に真っ先に気がついたのは燐子だ。
「りんりん? どうしたの?」
「あ、あの……何か、変じゃありませんか?」
「白金さん? なにがですか」
「すごく、静かな気がして……」
「……言われてみれば、それもそうね」
友希那が周囲を見渡す。
いつもの街並み。いつもの夕暮れ。見慣れた景色。沈みゆく夕陽。だが、人通りだけが消えていた。すれ違う人も、行き交う声も聞こえてこない。自分達だけが世界に浮き彫りになったかのような日常の異様さに五人は立ち止まった。
あの時も、そうだった。人気のない夜の公園に、一人途方に暮れていた占い師を思い出す。
──学生鞄を握る今井リサの右手の中で、静かに輝くおまじない。
「……道、引き返しませんか?」
「そうですね。何か良くない気がします」
「…………」
「友希那?」
「リサが言っていたのは、あの人のことかしら」
友希那に言われて、視線が集中する。
ゆるやかな坂道。その直線上に立っているのは、無気力そうに佇む男性。だが、目を凝らしてみるとまったく似ても似つかない。見知らぬ相手だった。合っているのは、服装が黒いくらいだ。
ゆるやかに開かれた口に、どこを見てるのかも定かではない瞳。
身の危険を感じるには十二分が過ぎる不審人物に、足がすくみそうになる。
「全然違う人、知らない人!」
「そう。みんな、道を引き返すわよ。走って」
燐子の手を引いて、真っ先にあこが道を引き返した。それを追うようにして紗夜、友希那、リサの順番に駆け出す。
背後から聞こえてきた足音に、思わず振り向いた。不審者が追ってきている。それに悲鳴を上げそうになるが、カバンをキツく握りしめて走ることに専念した。
「今井さん、少し横にずれて!」
「えっ、なんで!?」
「早く!」
紗夜が足を止め、カバンをずらして肩紐を両手で握ると思い切り振りかぶる。言われたとおりにしていたリサの背後、手を伸ばしていた不審者の顔を強打していた。すぐに担ぎ直して走り出す。
「さ、紗夜!?」
「正当防衛です! 走ってください!」
倒れた相手はすぐに起き上がり、先程よりもスピードを上げて追ってくる。
その手が、今度はリサのカバンに引っかかった。バランスを崩して転倒しそうなところだったが友希那と紗夜に支えられて免れる。
──おかしい。何かが、おかしい。
燐子とあこは元来た道を引き返して走ったはずだ。だが、都会の喧騒が異様に遠い。人影すら見えなかった。
落としたカバンに気を取られて立ち止まってしまったリサに、紗夜達も足を止めてしまう。今から再び走って逃げる、というのは難しかった。
ゆらゆらと、身体をふらつかせながら不審者が千鳥足で近づいてくる。──その背後、人影が見えた。こちら目掛けて恐ろしい速度で近づいてくる。
「それ以上近づくと、警察を呼びますよ! 聞こえているんですか!?」
不審者は聞いているのか、はたまた人の言葉が通じないのか。虚ろな目をしたまま手を伸ばしてリサに近付こうとしていた。不安に怯えきって足がすくむ。
友希那が手を取ってくれている。だが、逃げようとする意思とは裏腹に足は動かない。
──こちらへ駆け寄ってくる姿に、リサは一瞬目を丸くしていた。
黒尽くめ。頭の先から爪先まで。赤い瞳に、近寄りがたい雰囲気の人相。
獣じみた速度を弛めぬまま、振り返ろうとしていた不審者の背中を蹴り飛ばしていた。足がめり込み、身体をくの字に折り曲げながら十メートルは地面を転がっていく。
常人なら死んでいる──それどころか、尋常ではない脚力だ。
飛び蹴りから着地して、一度だけ整息する。
「なんでお前らいんの!? 人払いの結界張ってたはずだよな、いやそっちのクッキーはいいや、わかるけどもなんで五人もいるんだよ!?」
「き、昨日の……占い師の人! 友希那、この人この人!」
「……そう」
「って、今アタシのことクッキーって。そんな名前じゃないんだけど」
「仕方ねぇだろ名前知らねぇんだから! 俺にクッキーをくれた命の恩人、以上!」
「……思った以上にテンションの高い方ですね」
半ばキレていると言ってもいい。突然の乱入者に、燐子は驚いて硬直していた。
あこは耳聡く「結界」という単語に反応している。
「結界!? こう、ぎゅわーんって感じの!?」
「多分想像しているものと比べて、ものすっごく地味なやつだぞ。いいから下がってろ」
横をすり抜けようとする占い師の男性の袖を掴んで、リサは眉を吊り上げていた。
「ま、魔除けのおまじないとか真っ赤な嘘じゃん! 全然除けられてないんだけど!」
「俺がきたろ?」
右手をとり、掌をつつく。そこで、ようやく自分の掌に浮かび上がるマークに気がついた。
「リサ……貴方、その手」
「……今井さん。いつから」
「知らない知らない! こんなのアタシ──」
「リサ姉の右手に秘められた力が解放されてる!」
「だーからアタシも知らないんだってば!」
「昨日俺がやったろうが!?」
友希那と燐子、あこの三人がリサの右手を覗き込んでいたが、紗夜だけは興味を惹かれつつも占い師の男性を睨んでいる。
「ったく、二回も人の結界に入ってきやがって。どうなってんだ。流石に俺が悪いとしか言えねぇけども。いや今回は完璧に俺の落ち度だから謝罪する他にないんだが……」
「失礼ですが、貴方は一体何者なんですか? あちらの方と知り合いでしょうか」
「いや、まったくの初対面。──だが、あいつはここで必ず仕留めるし、生かして帰すつもりは全くない」
占い師の男性は五人に背を向けると首を慣らしながら立ち上がる不審者に声を掛けた。
不意に、影がゆらめく。地面から生えてきたのは黒塗りの鞘。左手で掴みながら鯉口を切る。
「いつまで人の皮かぶってんだ、正体見せろ」
不審者の身体が膨れ上がる。頭を押さえながら、膨張する身体を埋め尽くす獣の体毛。変容する顔はイヌ科の特徴を捉えている。腕も、足も、身体も、それは最早人の姿をした獣だった。
「……ワー、ウルフ……?」
「なんだ、知ってる地球人いたのか。まぁどうでもいいけどな」
人狼。狼男。ワーウルフ、様々な言葉がある。だが、それは存在するはずがない。幻想の中でしかない。想像の中で生きるフェアリーテイルの生き物のはずだ。
夢を見ているのだろうか。今起きている出来事は現実ではないのかもしれない。そうであるならば、どれほどよかったろうか。
唸り声を挙げながら駆け出してくるワーウルフの体長は二メートルにも及ぶ。自分達よりも遥かに大きい身体の相手が突進してくるというだけで恐怖を覚えるものだ。しかし、男性は静かに刀を抜いて一歩踏み出す。
一閃。身体を両断するのではなく、足を狙った斬撃。大腿に傷を負ったワーウルフの背後に回りこみ、姿勢を崩した相手の肩口目掛けて刀を振り下ろす。袈裟斬りにされて、刀身を食い込ませると占い師は地面に縫いつけるようにしてワーウルフを斬り伏せる。傷口を抉りこむようにして、その激痛に悶え苦しむ人狼はコンクリートを掻きながらリサ達に爪を伸ばしていた。
その手を見て、刀の柄から手を離さずに占い師は跨ぎながら腕を踏みつける。空いている左手を無地のコートに忍ばせて、取り出すのは一挺の回転式拳銃。過剰なまでに改造を施したマグナムリボルバーの照星をピタリと頭部に定める。
「俺の命の恩人に手ぇ出してんじゃねぇぞ」
銃声、というよりは砲声にも似た発砲音。頭皮を貫き、脳を破壊されて、全身を一度痙攣させたワーウルフが苦悶の声を残して沈黙する。身体に突き刺した刀を、念押しと言わんばかりに心臓に突き立ててから占い師は血振りをして鞘に収めた。
血溜まりに沈んでいたはずの人狼の死骸、それはまるでコールタールのように粘ついた液体となって地面に広がっていく。しかし、すぐに霧散してどこかへと消えていった。そのことを確認してから占い師の男性は鞘を自分の影に落とす。まるで水面に落としたかのように沈んで消え、銃もコートの裏側に忍ばせていた。
──何が、起きていたのだろう。まるで冗談のように。映画の撮影や、夢のように。
血のような夕陽を背負って、血のように赤い瞳の人が立っていた。頭を掻いて、さてと途方に暮れたようにしながら。
湊友希那も、今井リサも、氷川紗夜も、白金燐子も、宇田川あこもただ呆然と見つめていた。
口を開き、腰に手を当てて占い師の男性はうなだれる。
「あー……腹減った……」
……まるで冗談のように、しかしとても切実な問題に直面していた。腹が減っては戦はできぬ。
この世のものとは思えない腹の虫の鳴き声に、リサの緊張感が解れた。
「クッキー、持ってないか?」
「いや、アタシそんな毎日持ってきてるわけじゃないんだけど……」
「マジかー……まぁいいか。怪我してないみたいだしな、これでここら一帯は安全だし」
落ちているカバンに気がついて、占い師の男性が拾う。五人の中でカバンを持っていないのが一人だけ。すぐに持ち主に見当がついた。
「ほれ、カバン」
「……あの……本当に占い師?」
「武闘派占い師、てのは冗談として。さーてなんて名乗ったらいいのやら……そもそも言葉を交わしたのこの国が初めてだしな……」
「あの、もしかして……ブラックヒューマノイド、さんですか……?」
「…………んん?? なんだそれ、初めて聞いたんだが」
「世界各地で起きているオカルト事件で目撃されている、という…………」
まさかそんなはずが、と紗夜達が視線を向ける。
──心当たりしかないのだろう。気まずそうな顔をしていた。
「……俺、現地人にそんな呼ばれ方してんのか」
「はい……新種の未確認生物、ブラッドとか、オカルト狩りの黒い影、とか。ネットでも」
「オカルト狩り。いいな、それ。んじゃあ次からは自称・オカルトハンターということにするか。それじゃあ俺はこれで」
「待ってください」
踵を返して立ち去ろうとする占い師改め、自称・オカルトハンターの男性を呼び止めるのは紗夜のハッキリとした制止の声。はぐらかして逃げようったってそうはいかない。
「はい、なんでしょう……」
「……危ないところを助けていただいて感謝します」
「はははお気になさらずそれではさような──」
「話は終わってませんよ」
「……俺に何か用でも?」
「貴方、一体何者なんです? まだ答えてもらってません」
「オカルトハンターです」
「笑えない冗談は嫌いです、真面目に答えてください」
男性は、観念したように自己紹介を始めた。
「エヌラス。一応、魔術師だ。この国に来たのは四日前。世界各地で、さっきの化物みたいなのが出るようになったから片っ端から殺してきた。此処以外のは、ほぼ全部」
「ほぼ……?」
「冗談だと思ってくれていいが──」
──ぐごごごごごぎゅるるるる……。
「…………なんで人間って、腹が減るんだろうな……」
お礼も兼ねて、とりあえずこの人に何か食べさせてあげたほうがいいんじゃないだろうか?
ほぼ、満場一致で即決した。
──ガールズバンド『Roselia』にとって、それはいつもと変わらない日常。
今は、もう。
いつもと、変わらなかった“はずの”日常。