──夜が明ける。夜が明ける。日に照らされる無貌のものは、一匹たりとていなかった。もとより陽の光を浴びれば消えてしまうような夢泡沫。だが、しかしエヌラスは一匹も残さなかった。
不愉快だった。ただ、ひたすらに不愉快だった。存在そのものが許せなかった。気がつけば、全身返り血塗れで、自分のものも混じっていたがそんなことは些細なことだ。
今が何時で、此処が何処で。自分が誰かを再認識する。
問題ない。大丈夫だ。自分は“正常動作”しているのだと、エヌラスは確認して倭刀から血を払う。歩くたびにコートの裾から血が垂れる。額から流れる血を袖で拭い、逆に汚れてしまった。
道行く人々が顔を見るなり悲鳴を上げて逃げていくが、気にしない。
ふと、兼定の倒れていた場所へ戻ってくると、そこに姿はなかった。他の刀剣も、全て消えている。誰かが拾ったのだろう、と考えることにした。
剣道場の裏手。屋敷に戻ってくると、日菜達が疲れ切った顔をしていた。
「──エヌラスさん?」
「ひぇっ!? ち、血だらけじゃないですか!? びょ、びょ病院!? えと、救急箱!?」
「大丈夫なんですか!?」
「半分ぐれぇ俺のじゃないから大丈夫だ。風呂借りてくる」
サイバネコートを脱ぎ捨てて、血だらけの半裸で上がり込むと案の定、管理人夫婦から悲鳴が上がった。
朝風呂を浴びて、血と汗とよくわからない体液も流したエヌラスが戻ってくる。室内は重い空気に包まれていた。何があったのかを尋ねると、エヌラスが怪異狩りに勤しんでいる間に妖怪が一匹訪ねてきたらしい。なんでも、百鬼夜行の先導役。付喪神の生みの親であると名乗った夜行童子なる三眼の妖怪。その話にエヌラスは耳を傾けていた。
「何もされなかったのか?」
「うん……」
「話をするだけして、消えちゃったんです。でも、怖くて……」
「そうか」
「この結界、機能していたんですか?」
「そいつは何処に行ったんだ」
「わかりませんよ、気がついたら消えていたんですから」
「そりゃそうか。悪かった」
恐怖で眠ることもできなかった彩達は眠そうにしている。それを見て、エヌラスも何か気を紛らわせてやりたかったが、何も思いつかなかった。こちらも徹夜明けだ。しかし、イヴが眠気に負けじと口にする。
「エヌラスさん。カネサダさんと、コテツさん達は……どうしたんですか?」
「──あいつらは、帰ってこねぇよ」
言葉を選んだのだろう。直接、死んだとは言わなかったのはエヌラスなりの気遣いだ。縁側に腰を下ろして庭木を眺めながら、ポケットから煙草を取り出している。
ドラッグシガーに火を点けて吸い始めると、すぐに日菜がやってきたのですぐ離れた。頬を膨らませてむくれている。
「むー」
「むー、じゃねぇよ。吸ってる時に近づくな」
「じゃあ吸うのが悪い!」
「はいはいそっすね喫煙者でごめんなさいねーしゃっしゃーす」
「うわ、すっごい適当な反応……」
「それで? これからどうすんだ。俺は七星剣へし折りに行くが」
「道わかるの?」
「なんとなく」
此処まで離れていても、それとなく気配は辿れる。付喪神と長らく付き合った結果、その波長を感じ取れるくらいにはなっていた。
だったら自分もついていく──それくらいは言いそうな日菜だったが、今回はおとなしく引き下がっている。
「どうした? いつもなら俺が言ってもついてくる癖に」
「……千聖ちゃんがね、ちょっとは距離を置いた方が良いって」
「あ、そ」
「……寂しくないの?」
「別に。傍にいないほうが安全でかえって安心する」
「本気で言ってるなら、あたし結構傷つくんだけど」
「むしろ、危険とわかってて傍に来るお前の神経が理解できない」
「でもエヌラスさんは危ないところ平気でいくじゃん!」
「そうしないとお前らが危ないからな──あ? なんだその顔」
面白い顔をしている日菜が自分の顔の熱さを自覚してから麻耶に助けを求めるようにしがみついていた。──エヌラスは半裸のままである。
「ん、んんっ! あの、エヌラスさん? いい加減服を着たほうが……その、私達も女の子なので……みだりに肌を見せられるのは、困ります」
「見苦しくて悪かったな。すぐ着替える」
「……私はそんなこと言ってないんだけど」
「日菜さん? なにか言いました?」
「なんでもない」
ドラッグシガーの火を消してから、不意に思い出したように小瓶の事を千聖に聞くと、ちゃんと一晩中肌身離さず持っていたようだ。その中身は不思議なことに残り一割ほどとなっていたが、それがちゃんと魔除けの効能を果たしていたことにエヌラスは頷く。
「スタッフやマネージャーに連絡はしたのか?」
「はい。一応、朝一に」
「なんて言ってた?」
「……少し、曖昧でしたけれど。すぐに迎えに来るそうです」
「ならよかった。待ち合わせ場所は?」
「…………」
少しだけ、千聖は気まずそうな顔をしていた。
「どうした」
「最後に目撃されたのが、奈良だったので。そちらの方に迎えに来るそうです……」
「…………」
「大和国です。つまり、エヌラスさんと行く先は同じ、ということになります」
頭を抱えるも、そういうことなら仕方がない。そもそも今、自分たちがこうして京都にいること事態がカゲミツの法術によるものだ。一瞬にして移動させられたとは誰も信じないだろう。ならば最後に目撃された奈良──大和国まで足を伸ばすだけでも誠実さが伺える。
それでもエヌラスは何か思うところがあるのか、難しい顔をしてドラッグシガーから紫煙を漂わせていた。
「……すぐ出るぞ。支度しておけ」
「わかりました」
「あの、兼定さん達はいいんですか……?」
麻耶の一言に、エヌラスは一瞬躊躇した。このまま立ち去れば、二度と会うことはできなくなるだろう。それでも──思い出すのは、絞り出すような声。
“俺は、此処でいい”と、言っていた。あの男の士道の終着点は、此処だ。京の都、そして現世壬生狼志組が守っていた場所。新選組、縁の地──。
「あいつは、此処に置いていく。本人がそう望んでいたからな」
そう呟いた時の顔は、どんな表情をしていただろう。ただ、哀れむような視線を向けられていたことから、少し情けない顔をしていたのかもしれない。すぐに顔を背けた。
「エヌラスさん。辛いなら辛いって言えばいいじゃん、悲しいなら、そういえばいいのに。なんで黙ってるの? 言わなきゃわかんないんだよ?」
「言ったところで、どうにもなんねぇよ。痛いとか辛いとか、苦しいとか悲しいとか、他人に言ってどうなる。助けてくれるわけでもないだろう? 別に俺は大丈夫だ」
「そんなはず、ないです」
「彩ちゃん?」
「だって、今のエヌラスさん。すごく、辛そうに見えるから……あんなに兼定さんと仲良かったじゃないですか! ホテルで、大喧嘩するくらい……!」
なのに、置いていくと切り捨てて。そこにあった感情が嘘であったとは思えない。
「エヌラスさん。嘘をつかないで、本当のこと言ってください」
「…………俺の本音、か」
ドラッグシガーを吸い終えて、一服を終えると携帯灰皿に捨てる。
──此処に来るまでも、ずっと長い間戦ってきた。
誰かの温もりに触れるたびに振り切って。
ずっと、独りで。気が楽だったから。それでも誰かの手を借りなければ戦い続けることができなくて。それで傷つく人がいることが耐えきれなくて。結局自分は孤独なままなのだと。
疲れ切っていた。立ち止まれば、そこで二度と起き上がれなくなってしまうくらい。そんな自分の傷から目を背けて、ただ歩いてきた。気がつけば、此処は故郷から遠く離れた場所で。争いとは縁のない世界で
自分こそが、何よりも異物であると嫌でも感じさせる。
「……そうだな」
目を閉じれば、思い浮かぶのは口うるさい吸血鬼の顔で。呆れたような顔で笑いながら、料理を振る舞ってくれて。それが、世界一美味しくて。口にするのが恥ずかしくて──。
「誰かの優しさに、溺れたいな──」
それこそ、痛みも忘れるほど、腹一杯になるくらいに。だが、それは自分が切り捨てた日常で、感傷的になる暇などない。だから自分はこうしてずっと胸の痛みから目をそらし続けていたというのに。
それきり、エヌラスは押し黙った。服を着替えて、サイバネコートに袖を通して。世話になった管理人夫婦に御礼を言う時も、電車に乗る時も。ずっと。日菜が何を言っても口を閉ざし、へそを曲げていた。
それほどまでに、魔術師にとって「腹を割って話す」というのは恥ずかしいものなのだ。
時は遡り、丑三つ時。
──大和国、法隆寺。
ただ、御堂に座す七星剣の前に立つのは、大天狗正家。
瞑想をしているのか、ただ静かに腰を落ち着かせている。
「……何用か。大天狗」
「某の銘を一目見ただけで看破するとは恐れ入る」
「なに。われは耳が良い、それだけのことよ」
片目を開けて、刀を抜き放っている大天狗を見るなり「ふむ」と小さく唸った。
「なにゆえに、刃を抜く?」
「貴殿が、この大和に混乱をもたらすものと見た」
「ふぅむ。そうなぁ……仕方あるまい。人の世は、われが生きた後世のこと。ならば、今一度現世に命を与えられた以上は、われが治めなければ人の世は今生が末代よ」
「何をなさるおつもりか」
「人の世を、人ならざるものによって守護すること。草薙の剣、他もあろう? 神代の世まで名を馳せた者共を我が手によって呼び起こす」
「斯様な仕儀は、致しませぬ──この大天狗正家が」
「さてなぁ? そうは言われても、ふむ、そうだな…………戯れもよかろう」
腰を上げて、七星剣は無手で構えていた。腰に下げた直刀を一目見て、大天狗は静かに詰めていく──不意に口を開かれる。
「七手」
「……なんと?」
「大天狗。そちとは、七手。それ以上は打ち合わぬ」
「某を見くびっての言葉か?」
「そう思うのならばかかってくるがいい」
七手。それが、自分に許された太刀打ちできる数なのだと宣言された。
天狗の面頬の奥で、生唾を飲み込む。確かに、自らと七星剣の力量を弁えれば長く打ち合うことはできないだろう。しかしながら、相討つ覚悟であれば勝負は解らない。だというのに、断言したのだ。
「さぁ参れ。夜は長い、だが人の世に残された時間は余りに短い。いざ、いざ──いざ尋常に」
「──参る!」
「応っ!」
中段より、音もなく大天狗が距離を詰めて振り下ろす。それを先んじて読んでいたかのように、一寸早く七星剣は半身をずらす形で避けた。一手。
刀を翻して横に払う。そのまま引き込み、突き出す。二手を躱され、三手を払われる。
下段に落とした刀を跳ね上げる、四手を囮に五手の下段が本命──しかしそれすら読まれた。太刀を足で踏み止められている。
「残り二手。如何用に?」
「────」
七星剣の静かな声に、背筋が凍った。残り二手、猶予は無い。だが、攻め入る隙も見当たらなかった。
細められる目に宿るのは、ただ大天狗に向けられた哀れみだけ。それほどの大義を背負ってなおも自分に立ち向かう覚悟を嘆いていた。
「ちぃ!」
刃を引き戻し、足を除けると大天狗が丹田に気を込める。最小限の動きから、突きを放ち──身体が自然と動いた。“躱される”と読んだからだ。
そして、それはその通りになった。七星剣は針を穴に通すような点の攻撃を避ける。僅かに首を傾けるようにして。そこで、刃を止める。己の膂力で持って、押し切る──!
避けようがないはずの七手。
それを七星剣は、苦もなく、流れるように腕を伸ばした。柄を握る大天狗の手に触れて、手首をひねるようにして自らの首を断とうとする刃から逃れた。背中を合わせて、手を叩く。
「七手──詰んだぞ、大天狗。刃を収め、引くがいい。さすれば、見逃してやろう」
「…………」
「どうした? 引け、と言っておる。次に刃を返せば、首が飛ぶぞ」
一太刀も浴びせること敵わぬままに、首に刃を押し当てられている冷たい感触。動けば、死が待っていることは明白であった。しかし──鞍馬山に居座る自分を天狗殿と仰ぎ、受け入れた現代の人々の優しさに触れて、霞まない温もりがある。それを、人ならざるものの手によって守ることなどあってはならぬこと。
何故ならば、自分たちは妖怪だ。人と相容れてはならぬ夜の化性なのだから。
「……なりませぬ、それだけは」
「ほう」
「人の世を守るのが務めであるならば、人の世のために散るのもまた務め! ──御免!」
大天狗が踏み込み、振り返りざまに七星剣を刃の間合いに収めていた。どうあっても避けられぬはずの刃を、しかし──ため息をひとつ。
「愚か」
パァン──! 一拍、手を鳴らす。次の瞬間、大天狗は全身が寒気に襲われた。気づいた頃には切り刻まれて、刀を取りこぼしていた。
首、胴、正中線、両手と足。見えぬ刃に刻まれた身体から、とめどなく血が溢れ、立っていることすら叶わない。膝から崩れ落ちる大天狗を前にして、初めて七星剣が刀を抜いた。
「あまりに、愚か。敵わぬと知って、なぜ立ち向かった。われを超えるならば、人の世を背負うに足るもののみだ」
「……士道、不覚悟なりますれば」
「なに?」
「己の在り方を、見失わぬ者たちに……某もまた、名を連ねたものなれば──」
「そうか。ならばその在り方。士道、大義である」
無造作に刀を振るい、大天狗の面を断つ。黒い面頬の下で、壮年の大天狗が笑う。
「否、否──であ、りますとも……御用心、めされよ。七星剣……獣でありながら、士道を志したものこそが、恐ろしい……」
「胸に刻んでおこう」
静かに、目を伏せる。七星剣は大天狗との別れを惜しみながらも、その身体が徐々に消え行く一部始終を見守っていた。
カラン、と。太刀が横たわる。かがみこみ、納刀すると黙祷を捧げて立ち上がった。
その背後から、鈴の音が鳴る。振り返りもせずに、七星剣は刀に手を伸ばしていた。
「失せろ」
「いやぁ、いやいやいや。あまりにご無体な」
「そちに用などない」
「そうは問屋が卸しません。貴方様も付喪神なれば、ええ、まぁ、わたしの配下ってぇことで」
「知らぬ」
「取り付く島もないたぁこのことですかねぇ? わたしゃなーんもしない妖怪だってのに、邪険にしなくても」
夜行童子を睨みながら、刃を覗かせる。
「そちの声はひどく耳障りでわれの癇に障る。失せろ、貌なきもの」
「いやーわたしゃこんな顔ですけど?」
「得体も知れぬ輩を我が大和国に居座らせるわけにもいかんのでな」
「手厳しいことで」
けひひ。夜行童子が笑う。舌打ちをこれみよがしに、納刀する。すると、次の瞬間には笑っていた顔が真っ二つに斬られていた。だが、そこから血は出てこない。割れた顔から笑みが消えると、目を細める。
「流石。流石、流石はかの聖徳王の佩刀で! 人のためにある方は格が違う!」
「用が済んだら失せよ。われは気が長くない」
「ええまぁ。残ったのはもう、貴方様だけで。しかしながら百鬼夜行は叶いませんので、わたしゃ今夜を境に消えましょう。次は何年、何十年、何百年、何千──ああいや、そこまで人の世は続きませんか!
「…………」
「夜の闇を忘れた人の世では、ねぇ──」
七星剣が力任せに手を叩いた。そして、全身を刻まれる夜行童子が今度こそ、黒い霞となって消え失せる。
──ははははははははは!! あっははははははは!!! 御用心御用心、お気をつけなされよ聖徳王! これより貴方様がお相手いたすのは、人ならざるもの! 獣すら恐れる魔物にあります! まさに獣、化けた獣! バケモノ、怪物、怪異! 怪異狩りの怪異! ああまさに! まさにあの者こそは
夜の闇に響く夜行童子の耳障りな声に、七星剣は月を見上げていた。
「……邪神、か。そちの声は聞こえておるとも。だがわれは人の上に立ち、人のためにある。ならば人に尽くすのが道理だろうよ。例え、これより相手するのが化物であろうとも、人の世を守るため、われに挑むのであれば──斬らねばならぬ」
──御用心、御用心! 切り札奥の手しっぺ返しに大逆転! 貴方様の“次”は、もう……わたしの手の中にあるものでして!
「気は済んだか──夜行童子。千の貌のひとつ、みだりに人の世に顔を出すな」
──ええ、ええ。わたしゃ人間が大好きなもので。ここらで引っ込みますよ。
静けさを取り戻した法隆寺で、ひとり七星剣は夜の奏でる音色に耳を傾ける。
虫の声。遠い雑踏の音。動物の寝息。自然の音が心を和ませる。
「そちなど、人の世に這いつくばることしか出来ぬ程度の混沌であろうに」
吐き捨てて、ただ夜明けを望む。
日出ずる国の天子が見る最後の朝日は、色鮮やかに夜の闇を祓うように大和を照らしている。
その光景だけは、遠い昔からなにひとつ変わらなかった。それに七星剣が薄く微笑む。
叶うならば、この朝日を丙子椒林剣と共に拝みたかったものだ──。