法隆寺大講堂の前、石畳と灯籠、玉砂利が敷き詰められた前でエヌラスと七星剣の拳が交わされる。掌底を主軸にした発勁に対して、外側から腕を合わせて脇腹を叩き、横に逸らす。
横から下段、勢いを削がれたところで七星剣のかち上げる掌底が顎を捉えて身体が宙に浮いた。その腹部に向けて前蹴りで押し飛ばすと、エヌラスの身体は玉砂利の上を転がる。即座に受け身をとって体勢を整えた。
再度、構え直す。七星剣も残心から、ゆるく拳を握って半歩だけ足を前に出していた。
刀の付喪神と高を括っていた。だからこそ、無手の格闘が達人の域にあることにエヌラスは気を引き締める。
自らの縁にある土地。自らに所縁ある場所。霊験あらたかな神聖なる建造物。それらの
七星剣もエヌラスの武術の腕は見聞きしている。それは丙子椒林剣の姿を通して。外道外法の類、妖術詐術の技。決して油断はしない。一寸でも隙を見せれば首が飛ぶのはこちらの方だ。
──ただし、ある一点において七星剣はエヌラスが遠く及ばない領域に達している。
踏み込み、掌底。横から薙ぎ払うような開手による払い、返しの技が胸骨を叩く。連撃からの高く振り上げた足が顎を掠める。緩やかに降ろされた片足を肩に置くようにしてエヌラスの胴を蹴りつけながら宙返りと共に着地するなり七星剣が攻めに入った。
死に体となった状態から体勢を直そうとするも、防御をかいくぐる拳と武術にまるで先を読まれているかのようにエヌラスが打ちのめされて胸部を穿つ発勁によって地面を転がる。
咳き込み、吐き出した肺の空気を入れ替えるように息を吸い込む。
睨み上げる相手に対して、七星剣は自分の耳を指差していた。
「われは、耳が良い。それは恐らく聞き及んでいると思うが、存じているか?」
「……それが、どうした」
「そちの息遣い、体捌き、気を発する動き。心音、それに混じる不快な音──いずれもわが耳に届いておるとも。拳を交えればより正確に」
ティオとティアは、速度の一点にのみおいてエヌラスを遥かに凌駕していた。それは神速と呼ぶに相応しい、超常的な速度で突き放している。
だが七星剣は違う。拳も、体術も見切れない速度ではない。見えていて、避けれない。防げない攻撃だ。こちらの隙を逃さない一撃を確実に叩き込んでくる。
対敵の挙動を先んじて、その体捌きから見抜いて動く。それは聴勁とも呼ばれるものだが──七星剣は度が過ぎている。
ただ、耳が良いというだけでこちらから先手を取れる絶対の優位性。ならば耳を潰しさえすればとも考えるのは当然だが、それを見過ごすような七星剣ではない。
魔術による攻撃も、恐らく見切るだろう。不快な音、と評していた。それは銀鍵守護器官による身体強化を含めた魔術回路による稼働音のことだろう。通常、人間の耳には聞こえるはずもない音域のはずだが、それすら捉えている。
「そちの武術の腕は、一流ではあるが達人ではない。何故極めなかった?」
──違う。
自分は、戈を止める道ではなく深淵無淵なる魔道を選んだのだから。そこは救いも頂点も無い無限に広がる大海原のような道。限りなく、無窮の覇道。
「内勁は大したものだ。称賛しよう。だが些か、殺気が走り過ぎる」
立ち上がったエヌラスの乱打を捌き、七星剣が反撃に転ずる。防御魔術──その気配を捉えて、拳を止めると足を払う。意識の集中が乱れたところへ顔に裏拳が叩き込まれた。
鼻柱にはしる鈍い痛みにたたらを踏む。そして、七星剣が一拍。無造作に手を叩いた。
パァン──! 刹那、エヌラスの顔の真横の空間が“爆ぜる”。まるで空砲でも至近距離で鳴らされたかのように、耳鳴りに襲われた。
「つぁ──!」
苦痛に顔を歪め、眼前に迫る拳をまともに受けて再度玉砂利の上を転がる。その姿を眺め、七星剣は目を細めていた。
「……そちも、この程度か。この程度でしかないのか」
落胆の色を滲ませた声。此処まで来た猛者であるならば、と期待を含ませていた。しかし自分に刀を抜かせることすら敵わぬようでは、到底無理な話だ。
「目を閉じる程度の加減が必要と見たが、如何にする」
「黙っ、てろ……!」
「その意気やよし──」
立ち上がる。その姿を静かに見つめて七星剣はエヌラスに向けて構えていた。
どれほど聡い耳を持ち合わせていても、感情や心は解らない。だから、そこまで殺気立つ対敵に理解が及ばなかった。人の心の動きだけは聞こえない。
何度打ちのめして、何度叩き返しても、どれほど拳と蹴撃を見舞っても。
地面を転がるたびに立ち上がって、痛みをねじ伏せて、血を流しても立ち向かってくる。
拳を外側に避けて、腕を掴むと捻り上げて肘を折る。肋骨を砕き、胸骨に拳を打ちつけて、音を鳴らす。横っ面に回し蹴りを打ち込むと玉砂利の上を派手に転がっていく。不快な音が一層強くなると、耳にするのもおぞましい壊れた体組織の再生音が七星剣の鼓膜に響いていた。
「……魔術、なるものを使うのだろう? なぜ体術でわれに向かう。敵わぬと知っておきながら」
結果は同じだとわかっている。魔術を行使する時、必ずその術式の制御に意識を割く。それを捉えられるだろうとエヌラスは見抜いていた。それほどまでに、七星剣の耳は厄介だった。加えて、音を鳴らすだけでこちらに衝撃波を叩き込める。どうあっても、自分の意識より先に魔術を扱うことなど出来やしない。
超常音域を捉えられる耳を前にして、どう目の前の相手を越えるか思考する。
──不意に、七星剣がエヌラスから視線を外した。あらぬ方角を見つめている。
「われはなにも、耳が良いというだけではない。付喪神として得たものは、せいぜいが神通力と鳴らした音を操る程度よ。人並み外れておるが」
「…………?」
「この国は、今や大和は人に溢れ音が鳴り止まぬ。それは少々、耳障りでやかましく聞こえる。だから此処に結界を張ったのだ。外は、静けさとは程遠い。それでもなにやら、何処かで聴衆が集まっておるようだ」
この法隆寺にあって、結界の中にいながら外の様子を七星剣は把握していた。
不意に、手を叩く。小さく、短く。法隆寺の中に吹いた風が鳴らす木々のざわめきから、枝が断ち切られる。
「わかるか、異国の者よ。自ら音を発していればわれはこのように手を鳴らすだけで音を消すことができる。口と同じく耳を閉ざすことなどできないのだ」
「──テメェ……!」
「人の話を聞かんやつの話など、聞く耳を持ち合わせておらぬ。ゆえに断つ。不快な音は、鳴らされる前に消してしまう方が良い」
今。この国に。この法隆寺に、街にどれだけの人が溢れているだろう。その全てが音を立てて生きている。心臓の鼓動に始まり、話し声や足音。その音の発生源を全て意のままに出来るのだとしたら、恐ろしい話だ。七星剣はそれを遠ざけようと音を阻む結界を形成して法隆寺に身を置いている。異様な静けさに納得がいった。だが、それまでだ。
目の前の付喪神を打ち倒すための術式を形成する。それは、全て先を読まれるだろう。しかし、良いも悪いもない。他に打つ手がないのだから、愚の骨頂。
この境内全てが相手の支配下にあるのなら、どちらにせよ変わらない。
「……? なんだ……何を────」
七星剣の意識は、変わらず外に向けられていた。眉をひそめている。
雑踏が、聴衆がある一点に集まっていた。他と違う足音が、五つ。壇上より向けられている。拡張された音が、声が響いていた。五つの音色に人々が沸き立っている。
「神楽か……」
現代にもその風習が残っていることにどこか感慨深さを感じながら、目を離した。
少女と思わしき五つの声色。鳴らされる弦の音。爪弾く鍵盤の音色──それに混じる、不協和音に七星剣が音の発生源に目を向けた。
エヌラスの身体から、紫電が迸る。身体から流れる血液を魔力で分解しながら、自分の制御下に置く。その口に咥えているのは、僅か五十ミリリットルにも満たない覚醒剤──“
一息に飲み干し、小瓶を噛み砕いて吐き捨てる。一瞬にして体内を循環する蜂蜜酒の効能に、魔術回路が過剰熱量を発し始める。強制起動、限界域に近い励起活動に、生身の身体が耐えられるはずもなく血管が爆ぜていた。
銀鍵守護器官の出力を上限まで引き出す。
ドラッグシガーを震える手で取り出して着火する。紫煙を吐き出しながら、血液を電気分解していく。
「──“
「………………」
七星剣が耳に捉えたのは、土石流のように体内を巡る血液。その過負荷に耐えきれず弾ける肉の音、肉の焼ける不快な音。鳴り止まぬ魂の燃焼音。
怪異殺しの化物であると夜行童子は言っていた。それを理解した。初めて、その言葉の意味を理解するに七星剣は至った。
人の姿をしていながら、怪異を前にして、人の皮を脱ぎ捨てた本性こそがこの化物の本質だ。その絶対の殺意を目の当たりにして、武者震いが止まらない。全身が総毛立ち、刀の柄に手を伸ばした。
──限界を越えた魔力の過剰放出。それによる自壊現象。体組織の再生と破壊、細胞放電現象、いずれも魔力で制御する。問題ない。問題ない──血液こそ我が源泉。
自分の身体を対象とした、最小領域の結界魔術。体感速度と時間を誤認識させる加速術式。
当然、その反動は凄まじいものだ。限界を越えたまま全力で走り続けた全身がどうなるかなど考えただけで恐ろしい。しかし、エヌラスにとっては“その程度”だ。
大切なものを失う痛みに比べれば。
誰かの優しさを振りほどく苦しみに比べれば。
「“
紫電が、赤く血に染まる。身体から止めどなく流れ出る血液の電気分解による血霧を纏い、体内の電気信号を加速させる。空気抵抗による摩擦を最小限にする防御幕を形成、それら全てを自らの意識下の制御において、血に染まった顔で七星剣を睨む。
薬物投与による魔力の
「テ、メェに──!!!」
血を滲ませる、地獄から這い上がるような声に七星剣が直刀を抜き放つ。
「──あいつ等の歌も笑顔も奪わせねぇっ!!!」
「それが帰る理由か──」
耳鳴りがする。とても不快な耳障りな音だ。超常音域の加速音が鳴り止まない──さらに、鼓膜を打つ膨大な音量に七星剣が初めて顔をしかめた。
まるで、染花の如く彩りに溢れた音階。晴れやかな、綺羅びやかな音響の天華。
咲き誇る繚乱の五人の乙女。この場においてはあまりに不釣り合いな、汚れの一つ知らぬような華麗な歌声。万の塗料で彩っても、なお、その歌を越えることはできないだろう。
聞こえているのは、七星剣だけだ。
法隆寺から遥か遠くでステージに立つ『Pastel*Palettes』の野外ライブ。それは、予定されていた収録の穴埋めとしてマネージャー達が尽力した結果だ。急遽執り行われる事となった遠征ロケに、無茶と希望を通した事務所の苦労は計り知れない。
「ええい、耳障りな!」
対敵が赤雷と共に駆け出すと玉砂利が爆ぜる。咄嗟に刃で防御した七星剣の腕が衝撃に襲われてた。指を鳴らす。衝撃よりも先に身を翻してエヌラスが避けていた。息を継ぐ暇も隙も与えない猛攻に継ぐ猛攻と連撃。
(立ち止まるな──! 止ま、るな──……!)
歯を食い縛る。駆ける、ただ駆け出す。走り続ける。七星剣に叩き込む拳も蹴りも刃も防がれるが、それ以上に自分の身体が壊れる速度の方が早い。まだだ。まだ足りない。磁気加速を重ねる。
僅かに、相手の防御が遅れた。刃を虚空に振るえば見えぬ音の刃があらぬ方角から無数に襲いかかってくる。だが、防御に割く魔力はない。エヌラスは自ら刃の中に飛び込んだ。肉を断つ嫌な感触、骨にまで達する刃にしかし立ち止まらない姿を見て、七星剣が驚いている。
遮二無二、接近してくる相手を迎撃しようと刃を振り下ろした。その腕を掴み、指を鳴らそうとする手を握り潰さんと指を組む。
互いの胴体を蹴りつけて、だがエヌラスは手を離さなかった。口腔からおびただしい量の血液を吐き出しながら、術式を切り替える。
「抜刀──“隠剣骨爪”ッ!」
血液が魔力の源泉であるならばこそ、可能とする武道脱落者の抜刀術。自らの肋骨を刃と化して七星剣のがら空きとなった胴体を貫く。
腹を突き破る鋼鉄のあばら骨に、鼻で笑っていた。
「はっ……はっ、は……なんだ、それは──」
聞こえないはずはなかった。聞こえていたはずだった。だが、明らかに七星剣の反応は鈍く、対処が遅れている。それでも、どこか穏やかな表情を浮かべながら刀が手から落ちた。
大講堂の前、五重塔の前で、自らの身体を貫く骨の刃に手を掛けて身体から引き抜く。怪我の度合いで言えば圧倒的にエヌラスの方が致命傷だ。身体から刃を生やすなど、尋常ではない覚悟の沙汰だ。狂気に踏み込んでいる。
そうまでして成し遂げようとする大義に、敢えて理由は問うまい。それは自分には到底理解しえないものなのだから。
「──嗚呼、まったく…………あの、巫神楽さえ、聞こえなければ……われの覚悟も、鈍らなかったものを…………」
聞き惚れてさえいなければ、一寸、心地よい音さえこの耳が閉ざしていてくれればこの化物につけ入る隙など与えなかったというのに──。
腹を突き破り、伸長された肋骨を切り離して引き抜いたエヌラスが一瞬だけ止まる。そして、次の瞬間には致命的なまでの出血に身体を揺らして倒れようとしていた。受け身も取れず玉砂利に身体を預けると、即座に銀鍵守護器官が壊れた体組織の再生を始める。倒れたまま、口から吐き出される体細胞に沈みながらも身体を起こそうとしていた。
七星剣もまた、致命傷を負って立っているのも億劫になってきている。その場に腰を下ろすと、エヌラスを見守っていた。
「自らの血反吐に塗れながらも、そちは、どこに向かっているのだ……?」
「──…………」
吐血しながら、か細い声で何か呟いている。その言葉に、静かに頷いた。
「……ああ、それは…………遠いな。それほどのものを背負わなければならない星の下で生まれたのか……名も知らぬ怪物よ」
「…………────」
「ならば……まぁ、良かろう……先のない、無明の冥き宿星よ。せいぜい達者にな……」
目を閉じて、七星剣は遠くから聞こえてくる音色に耳を傾ける。観衆の盛況に負けじと輝く星のような少女たちが目に浮かんだ。
「……救いなき、探求。光明の道標を、手放すなよ」
事切れた七星剣の輪郭が薄れていく。
ごふ、と。喉に詰まっていた血痰を吐き出して、エヌラスが吐き捨てる。
余計なお世話だ、と。