帰りの新幹線で席に着くなり、エヌラスは眠り始めていた。腕を組んで、眉を寄せながら口をへの字にした不機嫌そうな寝顔。魔術師にとって睡眠というのは生活していく中でもっとも無防備な状態だ。だからこそ、意識を切らさない訓練をさせられる。身体を休めておきながら、精神活動を欠かさない鍛錬はエヌラスも例外ではなく、少なくとも一流の魔術師ですら音を上げるレベルのものを積まされた。
仮眠すること約五時間──新幹線に揺られながら日菜達の護衛を兼ねてようやく見慣れた場所に戻ってくることができた。
「エヌラスさん、着いたよ?」
「わかった」
「……起きてたの?」
「俺が寝てたら誰が助けるんだ」
肩を叩くなり腰を上げるエヌラスに続いて、パスパレも駅を出る。すっかり事務所のスタッフ達に対して不信感を抱いているが、あくまでもそれは業務上の問題だ。
「では、自分達はこれで──」
「おい」
足早に立ち去ろうとするスタッフ達に向けて、エヌラスが短く一声掛ける。
「今後何かあったら俺に連絡しろ。手に負えない事態が起きたら、すぐに」
「え? ですが……」
「俺の連絡先を渡しておく」
有無を言わさず、彩に自分の携帯番号を記載したメモを強引に渡すと立ち去ろうとしていた。
「あの、給金の方などは……」
「この期に及んで金の話かよ、聞いてもいねぇのに。いらねぇ、無償でいい」
「ですが、その、雇用契約など」
「最初からそういう面倒な話を持ち出してでも守ってやりたかったなら、アイツは死んでねぇんだよ。馬鹿も休み休み言え。大概にしろ、消し飛ばされてぇか」
尻込みするスタッフ達に呆れたため息をつくと、エヌラスは日菜に手を差し出す。首を傾げて、とりあえず手を握ってみるとすぐに振りほどかれた。
「ちげぇ、そうじゃねぇ。報酬、割引券」
「あ、そっち? ちょっと待っててね……はいこれ!」
「毎度あり。今後ともご贔屓に」
とてもではないが、釣り合わない報酬だ。割りに合わない。
人が死んでいるというのに、苦言を呈するどころか支払われた報酬に何一つ文句を言わない。
「あの、本当にそれで……それだけでいいんですか?」
「こっちはオマケだ。別に欲しいわけじゃねぇ」
「あたしとのデートは?」
「少しくらいはいい目を見させろ」
割引券をポケットに突っ込んで、エヌラスは彩達を指差した。
「此処に、そうやって五人全員無事に揃って帰ってこれた。俺の仕事も報酬も、それで十分だ。あとのことは全部、どうでもいい」
「どちらへ?」
「帰って寝る。クソ疲れた」
一応。今日までバイトは休みにしていたが、明日からはいつもどおりの生活が待っている。そのために少しでも長く身体を休ませておきたかった。
立ち去るエヌラスの背中が少しふらついている。足元も少し危なっかしい。すぐに雑踏の中へ紛れて、追いかけることも叶わなかった。間もなくして迎えのバスが駅に到着して、そのまま芸能事務所まで送迎される。
その間、彩達の口数はいつも以上に少なかった。SNSを開いてずっと遡っていたが、やはり何処にも。一件も投稿はない。
あれは、本当に自分達の身の回りで起きた出来事だったのだろうか。悪い夢だったのではないかという気持ちが段々と強くなってくる。
ふと、アプリを開くと千聖から送信された画像が並んでいた。
笑顔を向けて、ピースサインを見せるミカヅキとカゲミツ。ゴウや太郎太刀、次郎太刀の写った一枚。時代劇の撮影かと勘違いされるだろう。だが、彼らは確かにいたのだ。
此処には残っていないけれど、一枚も撮っていなかったけれど──九十九兼定は、彼らと同じように笑って一緒にいてくれた。
血の足りない頭をぐらつかせながら、エヌラスはマンションに向けて歩いて帰る。
見慣れた道を歩きながら、ドラッグシガーを取り出そうとする手を止めた。
ちょうど時刻は下校時間。すれ違う制服を着た少女たちの視線の中に、氷川紗夜の姿があった。
調子の悪そうな顔を見て呆れたように視線を逸らして、ため息をつく。
「戻ってきたんですね」
「ああ」
「日菜からも連絡があって、もうすぐ帰るとありました。あの子は?」
「事務所。夜には帰ってくるだろ」
横を通り過ぎようとして、引き止められた。
「なんだよ?」
「また、怪我をしたんですか?」
「それがどうした。あいつは無事、他の四人も怪我一つない。万々歳だろうが」
「…………そうですね。確かに、それは大事なことです。私にとって」
「んじゃあな」
「貴方を心配する人のことを、考えたことはないんですか?」
紗夜の言葉に──エヌラスは思わず立ち止まって考える。だが、すぐに思い浮かべた相手を振りほどいた。
「そんなやつ、この地球上にはいねぇよ」
「……」
「なんだよ」
「目の前にいますよ。なにか言うことは?」
考えること数秒。
「なんも」
「そうですか」
歩き出すエヌラスに、紗夜がついてくる。日が傾いてきた歩道を、距離を置いて歩く二人の姿はどこか奇妙だった。
「なんだよ」
「いえ、大したことではありませんよ。気にしないでください」
「練習行かなくていいのか」
「まだ時間があるので」
「……」
「……なにか?」
「別に」
花咲川学園を越えて、商店街を越えて──住宅街に差し掛かって。まだ紗夜は後をついてくる。ほとんど口を開かずに結局マンションの前まで来てしまった。
振り返れば、仏頂面の紗夜。いつまでついてくるつもりだったのか、腰に手を当ててこれみよがしにため息をついている。
「で。お前はいつまでついてくるつもりなんだ?」
「特に止められていませんでしたので」
「俺の部屋まで来るつもりか?」
「まさか。異性の部屋に上がり込むなど、風紀が乱れます。そういった関係でもありません」
「んじゃなんでついてきたんだよ、お前」
「なにも言うことはなかったのでは?」
「……根に持ってんならそう言えよ」
「なんのことか分かりかねます」
まっすぐ歩けないほどの怪我を抱えて、疲労していた自分を気遣ってここまで見送ってくれたのだろう──なんとなく、そんな気がした。へそを曲げた紗夜のことだ、素直に言うのは恥ずかしくて腹立たしいと思っていたはず。
「紗夜。手」
「はい?」
エヌラスは、紗夜の掌にリサと同じように魔除けのおまじないを描いた。キョトンとした顔に背を向けて、マンションの階段に足を掛ける。
「気をつけて帰れよ。それと、あんま夜遅くならないようにな。練習頑張れよ」
「ご自分の健康管理ができない方に言われても、あまり嬉しくありませんね」
「ああそうかい──見送りありがとよ、紗夜」
「どういたしまし──…………~~~~、」
つい、反射的に返事をしてしまった。何か言い返そうとした時には既に二階に上がって姿が見えなくなっている。ますますそれが腹立たしい。紗夜は素早く踵を返すと、ギターの練習に急ぐことにした。
──自室の部屋の鍵を開けて、玄関に入る。靴を脱ぎ、コートを脱いで床に投げる。
リビングに入るなり、視界が反転した。床に倒れて、それきり。
全身に伸し掛かる重力の鎖にがんじがらめにされてエヌラスは指一本動かせなかった。疲労感が心地よい眠気と共に襲いかかってくる。とても抗いきれそうにない。目を閉じて、意識を手放そうとするが、背筋を嫌な予感が撫でた。
身体に伸し掛かる重力に、師匠の面影がちらつく。疲れ切ったはずの身体を跳ね起こして、誰もいない空間に向けて銃を構える。
…………。カチ、カチ、と。時計の無機質な秒針の音だけが、リビングに響く。息を吸い込み、ゆっくりと吐き出してレイジング・ブルをテーブルの上に置いた。
目頭を押さえて、喉の乾きに冷蔵庫を開ける。
そこには、色とりどりな野菜や肉が詰め込まれていた。飲料水も一緒に入っている。
食材をこうも買い込んで、鍋にしても結局使いきれなかった。キッチンにも調味料が並んでいるものの、無用の長物。
全部、兼定が買ってきたものだ。献立を考える時の顔も、楽しそうに料理をしている時の顔も、食卓を囲んでいる時も、何が楽しいのか笑っていた。
「…………あの、馬鹿が。全部使い切れって言っただろうが。誰が料理すんだよ、これ」
捨ててしまおうかとも考える。だけど、食べ物を粗末にするなと口うるさい顔を思い出した。
肩を落として、エヌラスは冷蔵庫から飲み物だけ取り出して閉める。
並べたコップの片方を手にすると注いで一息に飲み干した。せっかくなので、残り少なくなった水を空にして捨てる。また買いに行こう、と考えて。
自分の部屋は、こんなにも物静かだっただろうかと、不意に思った。
帰ってきたら兼定が居て。買い物に行って、商店街で肩を叩き合いながら選んで。
今にして思えば、あの男は結局自分にとって何だったのだろうかと、考える。
それを口にするのは、いけない気がした。きっと、自分にとって辛い言葉だから。
「……風呂入って寝るか」
忘れようとした。考えないことにした。孤独であることを寂しいと思ったことはない。最初から自分はひとりだったのだから。だから大丈夫、きっと、大丈夫だ。これからも、この先も。
慣れた痛みと数え切れないほどの傷を抱えて、血反吐を飲み込んで戦っていける──。
彼女たちだってそれを望んでいるはずだ。危険に巻き込まれるのは御免だろう。だから何も知らずに、これまで通りの生活を過ごしてくれるだろう。
そうであってくれと、切に願う。
これ以上は、自分の心の悲鳴に耐えきれなくなりそうだから。
…………斬らねばならぬ。
斬らねばならぬ。人の世のため、悪を断つ。
あゝ、斬らねばならぬと言うのなら──それは、誰かの正義ではなく己の正義として為すべきことだ。
眼を開ける。
夜風が吹き抜ける京の都に、瘴気が漂い流れる。嫌な風が吹いていた。
肩で風を切りながら、ひとり歩く。
一条戻り橋より、通りの前にただ立ちはだかる。
眼前に迫る百鬼夜行、姿形も朧気な無貌にして無形なるもの。
鈴を鳴らし、導き歩くは夜行童子。人の世に姿を見せぬと口にしたばかりの童は、行進を阻むひとりの男を前にして目を剥いていた。
「おや? おや、おやおや。これは、これはこれは──どうしたことか。
まるで、そこに立っていることが不思議でならない顔をしている。首を折れるほど傾げて、疑問に頭を悩ませていた。
「おかしい、おかしいぞ? 七星剣こそが最後の付喪神。我が傀儡、人の世を乱すための道化であったはずなのに──
ただ、無言で睨みながら鯉口を切る。
男が、一歩踏み出した。それに、夜行童子はただならぬ殺意を感じ取り、鈴を鳴らす。
一斉に飛びかかる夜を往く怪異の群れ。異形、付喪神になれなかったなり損ない達をただ一閃する。
「──貴様、貴様はなんだ? お前は誰だ? ……いいや、そんなはずはない! いいや、有り得ない! 嗚呼、变化大明神! 無貌のもの! 千の貌をもつもの、夜に吼えるもの! ないあるらとほてっぷよ! 何が起きておられますか! ──
壬生狼が吼える。夜闇を散らすが如く、鬼神のような轟と共に駆ける。駆ける。ひた駆ける。己の道を突き進む。
斬って。斬って、斬って。ひたすらに、斬り進む。己の眼前にある全てを断ち切る。
邪道、外道、一切不要。人道非ざるものを全て断つ。
夜行童子が逃げ出そうとする。だが、それ以上に速かった。地を鳴らし、石畳を歪ませるほどの踏み込み。──縮地抜刀術。魔刀として顕現した菊一文字の刃。
面が三枚に下ろされる。首、腕、胴、足、正中線三段突き。
血も涙もない、絶殺の剣技。月明かりに閃く死の華──それこそは、在ってはならぬ魔剣。
「……きさ、まは────なんだ…………?」
今度こそ消え往く夜行童子の掠れた声に、血振りを行いながら納刀する男が首だけで振り返る。
「──俺が、新選組だ」
地面を転がる夜行童子の頭。その口元が歪んだ。歪な笑みを浮かべていた。
「はは…………!! はははははは、アハハハハハハハハハハハ──!!!! そうか、そうかそうか! そうであったか! そういうことか、貴様は──貴様だけは、
壊れた玩具のように笑いながら、夜行童子が消滅していく。
京の都を騒がせていた百鬼夜行も、跡形もなく夜闇に溶けていった。
残るはひとり。
ただ、ひとり残ってしまった。
夜空の月を見上げて、目を細める。
じきに新月だ。それまでに──終わらせなければ。
共に戦うことは、叶わない。
共に生きることは叶わない。
まことに、良い夢だった。
だから、目を覚まさなければ。
「…………。待ってろ、外道。今斬りに行く」
羽織を翻しながら、人気のない道を歩く。
正しく、付喪神であるならば──斬らねばならぬ、友がいる。