──氷川紗夜は、時計の針を睨んでいた。
時刻は、夜の九時を回っている。練習にも身が入らない。かといって他の息抜きにも集中できなかった。ただ、無為に過ぎていく時間。
スマホのロック画面を見つめて、数秒。数分。どれほどそうしていただろう。
明らかに様子がおかしかった。いつものお調子者気取りではなく、あの時のような激情家でもなく、ただひどく落ち込んでいた様子だったのが気がかりで仕方がない。
自分でも解らない。どうしてそんなにも気にかかるのか。その感情を言葉にするのなら──、いや、きっと違う。絶対にそんなことはない、と自分に言い聞かせる。
いつもなら、こんな時間に外を出歩こうとは思わない。
もう一度掛け直そうと指を動かして、電話帳を開く。
電話帳のリスト『要注意人物』に登録された名前を見つめて、指が止まった。
エヌラスという四文字に、発信するか迷う。
掛け直したら、出てくれるだろうか? それとも、まだ取り込み中なのだろうか。また一方的に切られるかもしれない。そんなことを考えること数分──気づけば時刻は九時半を回っていた。
なんとか自分の気を紛らわせようと、日菜の部屋の扉をノックする。少ししてから、パジャマ姿の日菜が顔を覗かせた。
「おねーちゃん? どうしたの?」
「日菜、ちょっといいかしら」
「うん、いいよ」
部屋の中に入り、テーブルを挟んで向き合う。
週末の遠征ロケの帰りが遅くなった理由を、まだ話してもらっていなかった。それに、エヌラスのことも気がかりで。
紗夜は、日菜にそのことを包み隠さず話すように促した。だが、どうしてか少しだけ顔を曇らせて目を逸らしている。
「話せないことなの?」
「ううん。おねーちゃんがあたしのことを心配してくれてるのは、すごく嬉しい。でも、どう話そうかなーって」
「いつも通りでいいわ。できれば順を追って話してくれる?」
「……わかった」
それは、付喪神のお話。おとぎ話のような、とても信じられない刀剣活劇。しかし、紗夜はそれに真剣な表情で耳を傾けていた。なぜなら、この目にしているからだ。
九十九兼定を。ミカヅキを。シシオウ、カゲミツを。それらを相手取っていたエヌラスのこともまた、他の人よりは知っている。
自分の知らないところで、大きな戦いがあった。それに、彩も千聖もイヴも。麻弥も日菜も巻き込まれたが、全員無事に帰ってきたが──その代わりに、やはり大怪我をしていた。
やっぱり、と思った。だが、話の中で違和感を覚える。
「──兼定さんが、死んじゃって」
「……待って、日菜。今日学校に来たわよ?」
「うん。彩ちゃん達も言ってた。見間違いじゃないのかなって思ったけど、やっぱりそうだったんだ」
「ええ……剣道場で、凄い迫力で打ち合ってたわ。竹刀を折ったのは少しやり過ぎだけれども」
話を聞く限りでは宿泊先のホテルでも大喧嘩していたようだ。
そこで、不意に思い出す。
「そういえば、電話を掛けてきたけれども。あれは何だったの?」
「えっとね……あたし、エヌラスさんとキスしたの」
「────…………ちょっと待って、日菜?」
「だってそうしないと彩ちゃんが危なかったし、エヌラスさんも負けそうだったから」
「それがどうして、キスに繋がるの?」
「? おねーちゃんが言ったんだよ? 粘膜接触が必要だって」
ああ、そういうことか──頭のどこか冷静な部分で納得する反面、どこか申し訳なさそうにしている日菜を叱るに叱れなかった。
「あなた、アイドルでしょ? そんなことをしていいの」
「んー、本当は事務所の人達からもちょっと怒られたんだよね。でもああしないといけないと思ったからしただけ」
反省の色なし。
「本当に、それで良かったの。あなたは」
「うん。あたしは全然後悔してない。でも、キス以上はまだちょっと心の準備できてないかな」
「それ以上は私が許さないわよ」
「んー、でもおねーちゃんにとってもエヌラスさんは命の恩人だよね」
「それは──その、通りだけども。それとこれとでは話が違うわ」
「あたしにとっては、自分だけじゃなくて皆の居場所を守ってくれた命の恩人。だから、あたしに出来ることがあれば力になってあげたいんだ」
「……そう。そこまで言うなら、私も止めないわ。もし、嫌がるようなことをされたらちゃんと相談してくれる?」
「エヌラスさんに限ってそんなことしないと思うけどなー。なんとなく、そんな気がする」
むしろ変に気遣っているほどだ、と日菜は付け加えた。
話を聞き終わってから、紗夜は迷っていることを打ち明ける。
電話を掛けた時の様子がおかしかったことを話すと、少しだけ考えていた。
「だったら、今から会いに行ってみる?」
「もう夜遅いのよ? わかってる? 明日も早いし」
「じゃあ電話掛けてみよーっと」
「……どうして日菜が電話番号知ってるのかしら?」
「え。教えてもらったからだけど。何かあったら電話寄越せって言ってたし」
「……パスパレも皆さんも?」
「うん。事務所の人達も緊急連絡先にしたくらい」
それだけ今回の事件が人知を超えていたということだろう。止める暇もなく日菜が電話を掛けていた。
緊張感が漂う中、何度かコール音が鳴る。何を話そう、何を聞こうか考えて──エヌラスが電話に出た。
「あ、出た。もしもし、エヌラスさん?」
『…………なんだ』
「あれ、なんか結構しょんぼりしてる? どうしたの?」
『別に……なんでもねぇよ』
「そう? 今なにしてたの、おねーちゃんが気にしてるみたいなんだけど」
「ちょ、ちょっと日菜!? なにを言っているの?」
「え、違った?」
「ちが……わないかも、しれませんけれど……」
『…………』
深々と、電話の向こうでため息を吐いている。
「それでどうしたの? 兼定さんは一緒じゃないんだ」
『あいつは──、兼定は、そうだな……もう、いないな』
「…………どうして?」
『……俺が斬った。斬って、殺した』
「友達だったんじゃないの」
『──日菜。もういいか。用がないなら、もう切るぞ』
「待って。はい、おねーちゃん」
「えっ。ちょっと……えっと、もしもし? 聞こえますか?」
突然日菜から渡されたスマホに慌てながらも、なんとか平静を取り繕う。返ってくるのは、静かな怒り。
『聞こえてる。何の用だよ』
「……用がなければ、電話を掛けちゃいけませんか」
『……今は、一人にしてくれ』
「そういうわけにもいきません」
『──紗夜。頼むから……今は、俺を一人にしてくれ。ひどく、疲れてるんだ』
「疲れている以上に、辛そうに聞こえますが?」
『ああそうだよ。疲れてるし辛いし、しんどいんだよ。何もしたくないし、何も聞きたくない。今はただ一人にさせてくれって言ってるだろうが』
「……そんなに迷惑ですか。私や日菜の気遣いが」
『…………』
「頭に来るほど疲れてて、辛い思いをして、しんどいと口にしておきながら。他人の気遣いや気配りを邪険にして。それで一体、誰があなたを助けるんですか」
『俺は助けてくれなんて一言も言ってない』
「大きなお世話だと言いたいのなら、こちらこそ。助けてくれと言った覚えはなくても、大怪我してまで日菜達を助けてくれてどうもありがとうございます」
半ばムキになりながら紗夜が口早に告げる。
『あーそうかよどういたしまして』
「兼定さんを斬って、殺して、それにどういった互いの事情があったのかは測りかねますが、あなたが倒れて動けなくなったら誰が私達を守るんですか。そんなことも分からないのですか」
『──わかっているから、俺がテメェらを遠ざけてるのがわからねぇのかよ!』
初めて、自分の感情を露わにした。それは、どうしようないくらいに、行き場のない怒りで、常に自分に向けてきたもの。突然の怒号に紗夜が思わずスマホから耳を離した。
『俺以外の誰が化物を相手にする。俺以外に誰が兼定を斬れた! あの野郎は勝手にそこらで野垂れ死んでいりゃよかったってのにわざわざ俺を斬りにきやがった! だから望み通り斬ったし、斬られもした! その結果俺が生き残って、アイツが死んだ! わかったら黙ってろ! 俺に情けをかけるな、同情するな、気遣うんじゃねぇ! 俺が勝手にやって、勝手に傷ついて。勝手に落ち込んでるだけだ! ──だから、頼むよ。俺はお前たちに、そんなことをされる立場でもなけりゃ筋合いもないんだから……放っておいてくれ』
「……それができるほど、私達は人の心を失っていませんよ。残念なことに」
『お前は……本当に、いい加減にしろよ』
「あなたこそ。人の心がわからないのなら、黙っていてください。今はどちらに?」
『……森林公園』
「わかりました。失礼します」
通話を切り、紗夜は心底呆れながら日菜に携帯を返す。
やってしまった、と言わんばかりに顔を手で覆う姿を見て、日菜はにこにこと笑っていた。
飲み物を買いに行ってくる、と。小さな嘘を吐いて、二人が家を出る。
エヌラスの住所は知っている紗夜が日菜と夜の街を歩くが、恐ろしく人通りが少なかった。まるで街そのものが黙り込んでいるかのようだ。だが、それでも灯りは街中を照らしている。恐らくは魔術によるものだろうと考えて、先を急いだ。
森林公園に辿り着くと、すぐに異変に気がつく。血の臭い。そして、それは二人の目に入った。
凄惨な有様だった。血染めの歩道に、街灯が折れ曲がって点滅している。ベンチに腰を下ろしたまま俯いているエヌラスの姿を見て、さらに息を呑んだ。
サイバネコートは脱いで、修繕中。そのせいで更に傷跡が生々しい。滴り落ちている鮮血が足元で小さな水溜まりになって広がっていた。特に酷いのが、左胸の辺りだ。真っ赤になっている。
「エヌラスさん!?」
「……来るとは思わなかった」
「そうでもなければ何処にいるのかなんて聞きません! 怪我の具合は!?」
「別に。どうってことねぇよ」
「嘘を吐かないでください、この出血量では死んでいてもおかしくありませんよ!」
今すぐにでも病院に──焦る紗夜に、しかし日菜は冷静だった。
目頭が熱くなる。泣きそうになる紗夜の顔を見て、エヌラスはますます不機嫌なようだった。だから嫌だったのに、とでも言いたげに。
傍らに立て掛けている日本刀と一緒に置かれた割れた鉢金を見て、日菜は少しだけ目を伏せる。
血の気の引いた顔に、まだ真新しい刀傷を見て、紗夜が唇を噛み締めた。
「──」
病院に……、とまで考えて。すぐに振り払う。ダメだ。この人は普通の身体ではない。
手当をしなければ。だが救急箱もない。
何が、できるだろう。何をしてやれるだろう。こんなにも傷ついて、こんなにも落ち込んでいるこの人のために。紗夜は考える。思考する。思いを巡らせて、ポケットからハンカチを取り出すと顔の汗と血を拭う。
なんにもしてやれない。顔を伏せる紗夜に向けて、エヌラスは静かに口を開いた。
「……強かったよ、アイツは。兼定は」
「…………」
「俺を一度、殺せるくらいにアイツは強かった。だけど、生き残ったのは俺で。死んだのは兼定の方だ。自分で心臓吹っ飛ばして治さなきゃならなかったくらいに、アイツは……本当に強かったんだよ、紗夜──なのに、俺が生き残ったのは…………本当に、なんでだろうな」
今にも泣きそうな声で。肩を震わせながら、それでも涙は堪えていた。
「……アイツのせいで、また死ねない理由が増えた。本当に、いい迷惑だよ──あの馬鹿は」
傷口から血が止まらない。服の裾まで真っ赤になった姿を見て、日菜が手を伸ばした。
エヌラスの頭をゆっくりと撫でる。汗と血でくしゃくしゃになった髪を梳きながら。
「エヌラスさんは、つぐりすぎ。もっとゆるーんってしてていいんだよ? 今までは大変だったかもしれないけれども、日本は平和なんだから」
「俺がいなければの話だろ」
「うん。だから、日本にいるエヌラスさんも平和を満喫すればいいと思うんだけど」
「…………」
「身体の傷は治せるんでしょ? じゃあ、心の傷はどうやって癒やすの?」
魔術師である以上、精神制御はお手の物だが──それは、あくまでも擦り切れた傷を知覚しないだけだ。すり減っていく精神を薬物や魔術で誤魔化していく。そして待ち構えているのは破滅の二文字。そうして姿を消していった魔術師を何人も知っている。
「……ごめんなさい、エヌラスさん」
顔を伏せていた紗夜が、不意に謝罪の言葉を口にした。自分の浅慮さに、頭を下げる。
きっと自分の知らないところでこの先、沢山傷つくのだろう。沢山、死ぬような思いをするのだろう。以前のように、今回のように、次もまた、何度も何度も。悲しくて、辛くて、しんどい思いをしながらも、他の誰にも頼れないままずっと一人で。頼れる仲間を、斬り捨ててでも。戦いを辞めることはできない。
「私は、日菜と違って──あなたに何もしてあげられません」
「だったら、いつも通りの日常を送ってくれ」
「それが出来たら、苦労しません! 皆のために、こんなにも努力している人を放って……今更なにを……」
「じゃあ、お前はどうするんだ。紗夜。俺はこれからもこんな調子だし、この先もっと酷いかもしれないんだぞ」
「……それは」
しっかり者とはいえ、氷川紗夜はまだ高校生だ。あまりに酷な話をしていると分かっていても、エヌラスは相手を決して子供扱いせずに一人の人間として扱う。
言い淀み、口を閉ざした紗夜に与えられた選択肢は、それだけだ。何も出来ないのなら、ただ口を閉ざして日々を過ごす他にない。それが最善であるとエヌラスは思っていた。
「わかったら──」
「──そこまで、言うなら。わかりました」
紗夜が手を伸ばし、頬に触れる。まだ治癒していない傷跡からは、再び血が垂れていた。
緊張した様子で睨みながら、顔を近づけてくる。真剣そのもの、頬を赤らめて紗夜の顔が徐々に近づけられていた。エヌラスは触れそうになる唇を手で塞ぐ。
「──むぐっ!?」
「待てや、おう。ちょっと待て。本気か? 本気で、その……する気か?」
「ぷはっ──。あなたがそこまで本気なら、こちらも相応の覚悟と誠意を見せるべきだと判断したまでです。ですが、これっきりですからね! それに、その、これは──人工呼吸、そう。いわば救命活動の一環としてであって! 別に他意はありません! 勘違いしないでください……ね?」
日菜の顔を盗み見る。目が合うと、笑顔を向けていた。
「……わかったよ」
「…………では、その……失礼、します」
恐る恐る、といった様子で顔を近づけて──勢い余って、歯がぶつかった。固い音がして、エヌラスの唇がわずかに切れる。慌てて離れた紗夜の顔が今にも泣きそうになっていた。
「ご、ごめんなさい! ……なんて、言ったらいいか」
「……紗夜」
「んっ────!」
優しく唇を重ねて、わずかに舌を触れ合わせるとすぐに離れる。
「悪いな。血の味しかしなかっただろ」
「…………それは、その通りですが」
「覚悟と誠意だけ受け取っておく、ありがとよ」
「ど、どういたしまして……」
くしゃりと紗夜の頭を撫でて、立ち上がろうとするエヌラスの肩に日菜が手を置くと、舌なめずりをしていた。
「じゃあ、次はあたしから──んー♪」
「は? ちょ、日菜──!」
目の前で。自分からキスをするなり舌を入れている日菜を見て、紗夜が頭を抱える。どうしてこう、自分の妹は欲望に正直なのか……。
顔を離して、屈託のない満面の笑みを浮かべる相手にエヌラスが顔を覆った。
「お前は、どうしてそう……」
「えー、
「…………二回? 三回目?」
「あ、おねーちゃんにはそこまで言ってなかったっけ。うん、あたしはこれで三回目。二回目は怒ったエヌラスさんに凄い、大人っぽいのされちゃったんだ」
エヌラスの顔から血の気が引く。
その一方で、紗夜は静かに息を吐いて。満面の笑みを向けてくる。
「エヌラスさん──? 詳しく、ご説明していただけるでしょうか……? 私は今、冷静さを欠いていますので、悪しからず」
「手遅れじゃねぇか……」
「夜も遅いので、とりあえず一言だけ──最低です、エヌラスさん」
恥ずかしがっていたのはどこ吹く風と、冷たく言い放つと踵を返して帰ろうとする紗夜に、日菜が後を追う。
女の子二人が夜道を歩くのは危険だろうと、ハンティングホラーを黙って護衛につけておいた。その姿が見えなくなってから、エヌラスもベンチから重い腰を上げる。
指を鳴らす。結界の解除と同時に、森林公園に撒き散らした血液を揮発させた。夜風に流されてそれはすぐに消滅する。
残されたのは、踏み荒らされた芝生と曲がった街灯だけ。小さな騒ぎに留められるだろう。
太刀を下げて、割れた鉢金を見下ろしてから、エヌラスは鼻で笑った。
「……帰るぞ」
誰に語りかけるでもなく、一人呟いて。