ホテルの中を三人で見て回る。廊下を走ろうとする香澄を捕まえて、好奇心のままにふらりとはぐれそうになるこころを捕まえて、まるで自由奔放な猫の散歩をしている気分になっていた。
それでも常に黒服が最低でも一人は物陰からエヌラス達を見守る。
一階から、施錠された屋上まで。食堂から温水プールと、中庭テラス。すれ違う他の利用客にこころと香澄は笑顔で挨拶。エヌラスも会釈に留めておいた。笑われながらも通り過ぎるが、中にはどういった関係なのか勘ぐる客もいたりするが、エヌラスに睨まれて押し黙るしかなかった。
「はー、広い!」
「そうね! これなら一日中見て回っていても飽きないわ」
「ちょっと休憩するか」
スポーツジムも備え付けられていることには驚いたが、この国の中でも五本指に入る程の超がつく程の優良物件。一泊するだけでも相当な値段になる。
香澄達のパスポートだけでなく、エヌラスのパスポートまで偽造してくれた。それ、法的にとても問題があるわけなのだが本当にいいのか弦巻家。人権まで金で解決しちゃいけないんだぞ弦巻家わかってるのか──とも思ったが、よくよく考えると自分に人権なぞあってないようなものだという扱いをされてきたので、なんか、もう、どうでもいいか!(よくない) エヌラスは深く考えないことにした。
旅行用のガイドブック、というわけではなかったが一通り読んだ資料の知識には神話の内容も含まれていたが、問題はそれが四割に及んでいたことだ。書きすぎだぞ黒服。現地情報三割に満たなかったぞ。
風光明媚な多島海を眺めながらの一時は、短いながらも心身に染み渡る優雅な時間。だが、胸いっぱいに磯の香りを吸い込む香澄と足を揺らしながら楽しそうにしているこころに挟まれているはずのエヌラスは浮かない顔をしていた。
「どうしたんですか、エヌラスさん」
「……なぁ。海、行くのか?」
「いやぁ、さすがに時期が早いと言いますかぁ……」
「ならいいんだが」
「あのー、もしかしてとは思いますけど」
香澄が何かを察したように目を逸らす。
そう。エヌラスは、海が嫌いだ。具体的には海の生き物が嫌いだ。海産物は食えるが、好き好んで食いたくない。美味いとは思うのだが、素直に口に運びたくなかった。
「ごめんなさい、エヌラスさん。気づけなくて」
「いや、何も言わなかった俺も悪い」
「でも大丈夫です! 私達も精一杯サポートしますから!」
「そうか」
雲行きが怪しい気がするぞ? 敢えて口にはしないが。
「……香澄。お前は何か勘違いしていないか?」
「え? だってエヌラスさん、泳げないんじゃ……」
「こっから日本まで泳いで帰国してやろうかお前」
「いやぁ~、あはは。流石にそれは……流石に……あの、できないですよね……? それができたらオリンピック選手も真っ青なんですけど」
「さすがにやらんけどな」
「ですよね! もー、びっくりさせないでくださいよ」
やらない、と言っただけで、できない、とは言っていない。
「エヌラスはとてもスポーツができるのね、すごいじゃない。あたしも得意よ」
「そうなのか? ちょっと意外だ」
てっきり富豪の一人娘、ということで運動が苦手だと思っていた。しかし、実際は物凄く活発的だ。失敗を恐れないチャレンジ精神と手厚いサポートの賜物。
「さて、と。夕飯までまだ少し時間はあるが、どうする? 何かしたいことはあるか?」
「はい! ライブがしたいです!」
「それはもうちょっと後な。セッティングとかあるし、まだ掛かりそうだ」
「ええ~、うぅ……わかりました……あっ! じゃあ外でギターの練習してきてもいいですか!」
「あー……一人は危ないから俺も一緒に行くぞ」
「そーだ、おたえも誘おうーっと! おーたーえー!」
「ホテルの廊下で騒ぐな走るな駆け出すなぁ! 待てやこらぁ!!」
「面白そうだからあたしも行くわよー!」
一丸となってはしゃぐ三人を見て、思わず笑みをこぼす客多数。
海を臨みながら、ギターケースを担いだ香澄とたえが何を弾くか話し合っている。その後ろ、エヌラスはなぜかベースを持っていた。正確には、持たされている。りみの物ではないし、かといってはぐみの物でもない。黒服に持たされたものだ。ご丁寧にスーツまで有言実行で用意できているので完全に逃げ場無し。こんな手厚いサポート毎回受けてたらそりゃ怖いもの知らずになるわ。
こころとはぐみ、そして美咲に花音。さらに薫。ハロハピメンバーは勢揃いだ。
一方でポピパは不要外出断固拒否、我疲労困憊な有咲が不在。沙綾も時差ボケでダウン中。りみは流石に恥ずかしいという理由から不参加。
そして一人でこの場にいる全員をほぼ監視しなければならないエヌラスは空と海の青さに眼が痛くなってきてサングラスを着用していた。半袖シャツに、長袖のアウターを着込む形で肌の露出を極力避けている。
「え~と、こころ。ストリートライブでもやるの……?」
「? 香澄とたえのギターを聞くのよ? せっかくだからみんなが居たほうがいいじゃない!」
「よかったー、てっきり外で演奏するのかとばっかり……」
海辺に突然現れるミッシェルなんて、話題の格好の的でしかない。はぐみは海を見渡して目を輝かせていた。今にも走り出していってしまいそうだが、そこは先生のいる手前、良い子に
「でもエヌラスまで演奏してくれるなんて、とっておきのサプライズね♪」
「別に弾きたいわけじゃねぇんだけどな……」
黒服達に凄い勢いで迫られて手渡されたベース──「スーツの御礼は結構ですが、こころ様を楽しませるために是非演奏をお願いします」と迫真の表情で言われては仕方ない。しかも三人から。
ギターのハードケースを下げながら、エヌラスは肩を落としていた。スーツを受け取った手前、断るわけにもいかない。
(……大体、これどっから用意してきたんだ)
周囲を見渡しても楽器屋は見当たらない。本当に何処から調達してきたのだろう。もしかすると最初から何か理由をつけて演奏させるために用意していたのかもしれない。まぁ、楽器の入手経路はどうでもいい。問題は、だ。
今、現在。演奏していないにも関わらず自分達がとても注目を浴びているということだ。
確かに、珍妙な一団に見えるかもしれない。楽器を持って海辺に姿を現す少女たちに紛れて、約一名ほどサングラスを掛けた不審者がいれば。人売りとかと勘違いされるのではないかとそれはそれで少し不安なエヌラスだったりする。
「ま、俺は適当に演奏するから、そっちはそっちで適当に合わせてくれ……」
「……エヌラスさん、ベース持ってたんですか? この前遊びに行った時は何処にも置いてなかったのに」
「寄越されたんだよ……」
ケースを開けると中には真っ黒なギター。それを見た瞬間、たえが硬直した。香澄も興味津々といった様子で覗き込んでいる。
「なんだかエヌラスさんそっくりですね」
「ギターまで黒くしなくていいだろうに……」
「香澄とお揃いだ」
「えっ、そうなの!?」
「先生の変態」
「やめろ、お前にそんなこと言われて興奮するやつがいたらそれこそ本当に変態だから」
「しないんですか?」
「…………ちょっと考えさせてくれ」
「はい」
するかしないかで言われたら、確かに、まぁ、ちょっとはするかもしれないが。──しかしなぜかそういう言葉を自分に向ける相手が誰か、と考えて真っ先に浮かぶのは紗夜である。いや確かに顔を合わせる度に何かしら不満言われてる気がするけれども。……俺は何を言っているんだ? エヌラスはそこまで考えて我に返る。
相当気が緩んでいるらしい。かぶりを振って、息を吸い込む。
ピックを使わずに指で鳴らす。弾き心地は悪くない。むしろ快調に過ぎて怖いくらいだ。
「エヌラスさん、私のピック貸してあげます!」
「いいのか? なら、少しだけ借りるぞ」
「香澄。どんな曲弾く?」
「う~ん、やっぱり、キラキラドキドキする感じの!」
「だよね。そういうと思ってた。新曲のヒントになるかもしれないし、深く考えないで──」
エヌラスが弦を鳴らし、指の感覚を確かめるようにしている。かなり激しい曲調だが、指の動きは迷いがない。
右手の感覚が少々鈍いことに、懐から取り出したタバコの口に小瓶に入った液体を漬けてから咥えた。主流煙を吸引した方が効能は十分に発揮されるが、喫煙せずとも効果を出すには咥えたままの方が持続性がある。
サングラスを掛けたまま、前髪をかき上げて後ろに流す。タバコは咥えたまま香澄達に視線を向けていた。
「何してんだ、言い出しっぺ。弾くんだろ」
「……ものすごくやる気出してません?」
「そう見えるか……?」
「と、とりあえずエヌラスさん弾いてみてください!」
「あー? マジかよ……、そうだな……」
何を弾こう。どんな曲を弾こうか。考えながらも、手を動かす。
ハードロックの激しい曲調だが、その指の動きからペースの維持もさることながら、まるで機械のような正確さ。遊びの一切感じられない本気の演奏にはたえも素直に感心している。香澄は間の抜けた顔で口を開けていた。
しばらくの間、弾いていたエヌラスだったが、不意に演奏の手を止める。
「いや、弾けよ……なんで俺だけに演奏させてんだよ……」
「……あの、横で聞いてて思ったんですけど、初手からトップスピードなのはどうかと」
「ロックってこういうもんだろ、美咲」
「そうですけれども、もうちょっと足並みを揃えられる感じのがいいかと!」
「んー……」
少し考え込み、何度か指でテンポを確認してから今度は伸びやかなメロディ。ゆるやかな、だがしっかりとした演奏。
「え、演奏の幅……広いですね……すごいなぁ……」
「ふふ。本当に飽きさせない人だ。こころが入れ込むのも分かる気がするよ。演奏も、参考させてもらおうかな。心揺さぶるようなサウンド……水平線にまで響くようなバラード、素晴らしく儚いね。花音もそう思わないか?」
「ふぇ、私は……えっと──」
顔を赤くして目を逸らしてしまう。
「……か、カッコいいなぁ、なんて……」
「エヌラス先生、せっかくだから何か歌ってみてくださーい!」
「はー? なに言ってんだ、はぐみ。歌えったって……」
「あたしも聞きたいわ! とっても素敵な曲ね」
「…………」
口をへの字にして物陰で待機している黒服に顔を向けると、静かに、だが深く頷いていた。
お願いします──。まるでそう言わんばかりに。
こころの期待に満ちた眼差しと笑顔を向けられていたエヌラスは、念の為、香澄とたえにも向き直る。ロングトーンで一度区切り、肩を落とした。
「……一曲だけ。先に歌う。適当に合わせろ、いいな二人とも。もし演奏しなかったら俺はギターしまってホテルに戻るからな」
「は、はい! お願いします、頑張ります!」
「わかりました。私も負けてられないかな……」
「おぉ、おたえがやる気に満ちてる……私だってやるぞー!」
息を吸い込み、吐き出す。肺の空気と思考を切り替えて、エヌラスは咥えていたドラッグシガーをシガレットケースに落とし込んだ。
──それは、遠く離れた
静かな出だしから、しかし、エヌラスの声は道行く観光客のみならず現地住民すら引き止めていた。徐々に声量を上げていくと、それは一人で合唱しているのとさほど変わらないほど海へ向けて響き渡る。
とても悲しい、胸を締めつけるような歌だった。失った夢と未来を探し求める二人の、途方も無い旅路は、胸にした思いと、握りしめた覚悟で切り開いていく。
ややゆったりとした曲調ではあるが、力強いボーカルの、伸びやかな高音のロングトーン。間奏を挟むと、低音のスローテンポから再び歌い出す。聞き入っていた美咲達だけでなく、足を止めていた人々も耳を傾けていた。
中にはスマホを傾けて動画を撮っている者もいたが、エヌラスは歌うことに集中している。
思えば──遠く、遠く、遥かな場所に来てしまった。だが、それでも。自分の歩む道は変わらない。例えどれだけ多くの悲劇と憎悪を背負ったとしても、自分には成し遂げたい夢がある。
一曲。僅か、五分に満たないストリートミュージックは、しかし。多くの人々の足を止めた。
歌い終える頃には、前髪が乱れて散っている。再びかき上げて、僅かに熱くなった身体を冷まして息を深く吐き出していた。
サングラスの奥で、エヌラスは目を開いて自分達を囲むように出来上がっていた観客に驚く。
「ぅおっ!? なんだこの客!?」
「えっ、気づいてなかったんですか!?」
「気づくわけねぇだろうが歌うのに集中してたんだから! っていうかつい一曲フルで歌っちまったじゃねぇかどうしてくれんだ香澄おたえ!」
照れ臭くなってきて振り返ると、香澄が呆然と立ったままギターを持って泣いていた。それにどっと全身から冷や汗が吹き出す。
「なんで泣いてんの!? 俺なんかしたか!? っていうかどうした、なんだ、どうした!」
(わー、こんなに焦ってるエヌラス先生珍しい。というかこの人、こんな人間臭い顔するんだ。ちょっと意外っていうか、物凄く意外だ……)
てっきり、大人らしく常に表情を崩さないものだとばかり思っていた。だが、美咲が思っている以上にコミカルな一面も持ち合わせている。涙を流す香澄に戸惑うエヌラスだったが、ポケットからハンカチを取り出すととりあえず涙を拭いていた。
「──あ、すいません! あの、えっと」
「で。なんで泣いてんだ?」
「なんていうか、ぎゅーって! それで、なんか、気がついたらぶわーってなっちゃって!」
「……あー、おたえ、翻訳」
「香澄語は有咲が専攻なので、難しいです」
「そっかー」
「なにそれ初耳!?」
「うっさい猫耳。みゃー」
わしゃわしゃと、エヌラスが両手を伸ばして香澄の頭を撫で回す。しばらくそうしていたが、やがて勢いを失い、自分に向けられるこころ達の視線に気づくと顔を両手で覆った。
「…………………………………………今のは忘れてください…………!」
耳まで、真っ赤にしている。
ああ、この人。気を緩めると、とことん緩い人なんだな──美咲達は、普段からそうしていたらもっと接しやすいのにと思った。顔はちょっと怖いけど。