ホテルのプールではしゃぐ香澄達から目を背けて、エヌラスは厚くなる灰色の雲を見上げていた。急な悪天候に、酷い土砂降りが来ることは明白。しかし、こうも急激に天候が変わるものだろうか。
アイウェアを外して、視覚強化。青い大海原に潜む巨大な影。不快感。水に覆われた瘴気の塊──だが、あまりにも異様過ぎる。まだ昼前だというのに、空は低く重い。黒雲に雷鳴も唸り始めていた。
折角の休暇だというのに、どうしてこう。タイミングが悪すぎる。
「────」
貨物船に視線を向けて、人影の正体を探ろうとするが気配が消えていた。
その横顔を見上げていた有咲が、生唾を飲み込む。
赤い瞳の色。暗く沈んだ、血の色。不吉な宝石のように、淀んだ輝き。まるで、血に飢えているようにも思える。目つきの悪さもさることながら、刀傷も相まって睨まれたらひとたまりもない。
「……あの」
「なんだ」
「どうかしたんですか?」
「…………」
言葉を選んでいるのか、探しているのか。じっと黙り込み、やがて目を合わせる。
「絶対に。ホテルから出るな」
それが一体どういう意味なのか、わからなかった。
突然の外出禁止令に、有咲が思わず「はぁ?」と、口に出してしまう。しかし、洒落や冗談ではないことは目を見ればわかる。ふざけている調子ではない。
外の天候が一気に悪化していく。間もなくして、バケツを引っくり返したような土砂降りとなった。
これでは景色を楽しむこともできない、大きな雨粒がガラスを叩く。台風さながらの暴風雨に香澄達も驚いていた。
「あ、あれ? さっきまで曇りだったのに……」
「海外だからかな?」
それでも、この天気は何かがおかしい。
呼び寄せられたかのように、エーゲ海を覆いつくしている。海面を叩く大雨。街を濡らす不吉な悪天候。
それが目眩ましであることはわかる。規模の差はあれど、魔術の一種だ。
術者がいるならば、天候を操作するほどの大魔術は手に取るようにわかる。それが全く感じ取れないことにエヌラスは顔をしかめていた。
地球は、青い星だ。海洋面積にして七割。その中に身を隠されてしまうと、一気に探知が難しくなる。
相手が海中にいることは察しがついていた。それが貨物船に隠れ潜んでいた人影であるとは限らない。
「この天候じゃ飛行機も出せないだろう。海も荒れてきた」
「こんな土砂降りの中、出かけようとは思いませんよ」
「沙綾。俺が言っているのはな、命の危険が迫っているという話だ。大げさに聞こえて、そう言っているように思われてもいい」
大真面目に、真剣な表情でエヌラスはパーカーのフードを上げた。
「こいつは少し、洒落にならん規模の災害だ」
「災害……だなんて大袈裟な」
「自然災害だと俺は一言も言っていない」
地震や嵐だけではない。災害にも種類がある。
例えば──超常現象による大規模な災害。或いは、邪神によるもの。
それを
人間の手で決して太刀打ちができるものではない。如何なる武器や技術を持ってしても、それは人類の歴史から外れた超常の論理によって成される災害なのだ。
「最悪、俺はこの国ごと消し飛ばす。お前達“だけは”巻き込まないようにしてな。だから、もう一度言うぞ。──絶対に、このホテルから出るんじゃねぇぞ」
エヌラスの言葉に、静まり返る。
「あの、なにが……起きてるんですか?」
「わからん」
「わからんって、そんだけ脅しておきながら……」
「敵の正体も、この災害も、これが何日続くのかも分からん。観測所もない。現段階で俺から言えることはただ一つ」
危険から未然に身を防ぐためにも、このホテルから出てはならないということ。それは当然のことだが──それで命が助かる程度ならば、災害とは呼ばない。
「俺は外の様子を見てくる。何度でも言うし、聞かん場合──命の保障はない」
エヌラスがプールに浸かっている香澄達に背を向けてパーカーのファスナーを開ける。
裾を翻して、一瞬だが背中が見えた。
腹や肩、胸だけでなく、傷跡は背中にも無数に広がっている。正面から貫通した刀傷。銃創に火傷、爪痕──。
だが、いつの間にか黒尽くめの服装を着込んでいた。美咲が目を丸くしている。
「絶対に、このホテルから。一歩も出るな。窓も開けるなよ。結界が綻ぶ」
懐からアンダーリムフレームのメガネを取り出して、エヌラスはプールを後にするとフロントに向かった。
ホテル関係者に同様のことを伝えておく。しかし、それを真に受けるとは考えがたい。魔術で扉を封鎖することは簡単だが、エヌラスはそれ以上の警告を控えた。
この悪天候の中、外出している人間がいたのなら殺した方が早い。もしも、邪神災害感染者が出た場合、そこから一気に蔓延する可能性もある。
ドアを開けて外に一歩出た瞬間、暴風雨が容赦なく叩きつけられた。視界を確保してはいるが、息が詰まるような圧迫感に顔をしかめる。外出していた人々も慌てて屋内に避難していた。しかし、誰も街を覆う瘴気には気がついていない。
メガネを叩き、リムフレームからマスクが展開される。面頬のように鼻から顎下、頬まで覆う黒いガスマスクは、人間が生存不可能なレベルの環境下においても呼吸を可能とする浄化作用も備えていた。
簡易型拡張補助脳。意識の拡大、状況予測からの予知機能。最低限として備えている機能を起動させてエヌラスは駆け出す。レンズに映し出されるのは、危険度が高いか低いか。どの方角から迫っているかを感知してくれる。
港に向けて走るエヌラスとすれ違うのは、大荒れとなった海から引き上げる警察関係者。それならば好都合だ。近づくことのできなかった港に向かい、驚愕する。
行方不明者が相次いだだけでなく。現場に広がっていた血痕が雨粒で流されようとしていた。落ちていた魚の鱗を拾い上げてから観察してみる。手で割ってみるが、中々に強固だった。物理的な問題もある──が、魔術的な防御力も兼ねていた。これは、自然の生き物が持つ機能ではない。
まるで、舐めるような嫌悪感。獲物を狙う爬虫類のように、ジッとこちらの様子を窺っている。だがしかし、それが何処からなのか、どの程度の距離なのか。どれほどの脅威なのか、全てにおいて不透明で不明瞭。
海に潜んでいるであろう敵に向けてエヌラスが、魔術で敵意を放つ。
波しぶきが寄せては引いて白波を立たせている。大しけの海を睨み、その中にポツンと浮かぶ物体があった。
魚の頭のようにも思えたが、目を凝らす。しかし、明確な形を捉える前に海中に逃げられる。
(……瘴気の濃度が高いな)
少なくともこれで敵が魔術師の線が消えた。相手は邪神の眷属だろう。
地面を見下ろして、他に何か手がかりがないか探していたエヌラスは手を止めてその場から横に飛び退いた。
暴風雨のせいで視覚も聴覚も聴かない。だが、拡張補助脳のおかげで脅威の接近が捕捉できた。
(気配が読めなかっただと──!)
拳が地面に打ち下ろされ、ひび割れていく。
雨に濡れて輝く鱗。撥水性の高いサイバネコートであっても、長旅で摩耗していたせいで機能が落ちている。対敵を視認する。
巨大な魚の魔人、その身の丈はエヌラスを越えていた。
『────』
「……」
邪神の眷属。それは、この地球において自然発生するはずのない存在だ。ならば必ず何処かにいる。地球のどこかに、邪神が潜んでいる証拠。
水神クトゥルーの眷属。
海辺に加えて、この大荒れの天候。地の利は圧倒的に相手にあった。
強靭な生命力に加えて、怪力。決して健脚ではないが、海中における移動速度は凄まじい。まかり間違っても、海中で相手にはしたくなかった。
土砂降りの最中、睨み合うエヌラスと深海の落とし子。
拳を握りしめ、身体を隆起させている。腕を振り上げて身を屈め、今にも飛びかからんとしていた。正面からの力比べでは、不利になるのは目に見えている。相手は水を取り込んで力を増しているはずだ。海中から音もなく忍び寄り、怪力を振るう。たったそれだけの単純な戦術だが、シンプルであるがゆえに脅威だ。
瘴気を含ませた咆哮をあげて、深海の落とし子が迫る。
拳が打ち下ろされ、エヌラスはただ左手を添えて横から捌く。そしてそのまま、無造作に首元に右手を当てた。
気息を整え、気を練り上げて、魔術回路より発電する。極限まで高めた気孔と魔術による魔導発勁──“紫電”鬼哭掌。
生体電流より昇華された電磁パルス攻撃。本来であれば電子機器に対して絶大な効果を発揮する技だが、体内に水を貯蔵している相手ならば防ぎようのない感電に全身の動きが麻痺する。
『──、────!』
全身の器官に感電して、麻痺する身体に弛緩される機能。無防備となった相手に向けて、エヌラスはコートの中から倭刀を引き抜いて首を断ち切る。造作もなく、切り落とされる亜人の首。
なんとも、呆気のない。手応えもなければ、人類の脅威ですらない。
屈み込んで、その身体を観察する。
(……背丈は二メートル。だがこいつの成長速度から察するに──いや、妙だな。明らかに成長速度が早すぎる。そのせいで身体が追いついていない……?)
成人の背丈を越えるのならば、刃が通るはずがない。成体に近いはずのそれは、生まれたばかりのように柔らかかった。となれば、これは赤子だ。
生まれたばかりの眷属。この程度ならば、現代兵器も通用するだろう。
言ってしまえば、見掛け倒しだ。
落胆の色を見せて、エヌラスがマスクの中で息を吐く。驚かせてくれる──そう思った瞬間、拡張補助脳が警告を発した。
反応した瞬間に海面から弾丸のように飛び出してくるのは、もう一匹の“深海の落とし子”。
咄嗟に防御魔術を張るが、拳を防いだ衝撃に腕が痺れる。エヌラスが吹き飛ばされ、海岸沿いの露店を巻き込んで止まった。
『GRRR……』
「……海産物はこれだから嫌いだ」
破片を払い除けて立ち上がり、“深海の落とし子”を睨む。首を落とされた幼体を見つめて、それから拳を再び固く握りしめていた。親子ないし、親しい眷属だったのだろう。
倭刀で応戦するが、腕に食い込んで阻まれる。筋力も鱗の強度も、幼体とは比べ物にならない。
肩から背面に向けて伸びる大きな触腕で地面を叩き、自らの身体を押し出して拳で再びエヌラスを殴り飛ばす。
民家を何軒か巻き込んで、壁に背中を叩きつけられてようやく止まった。民間人の悲鳴を聞きながら立ち上がるが、深海の落とし子は濡れた地面で身体を滑らせて迫ってくる。触腕で速度と進路をコントロールしながらエヌラス目掛けて巨体と怪力を振るう。
レイジング・ブルマキシカスタムで頭部を狙うが、鱗に弾かれた。舌打ちをもらし、家屋から飛び出す。
窓ガラスを破り、再び土砂降りの雨の中へ身を投げ出した。
倭刀による一撃は通らない。かといって銃も効きそうにない。
手札を数える。挙げればキリがないが、どうにでも出来る。だが、それは周囲の被害を鑑みない場合だ。
民家の壁を壊しながら出てくる深海の落とし子は、人間を喰らいながら出てくる。口腔部で咀嚼して吼えるが、それを見てエヌラスには何の感慨も湧かなかった。
首を慣らして、拳を受け止めて発勁で流す。そのまま足を高く振り上げて魔術回路に紫電を流して──“
電磁加速蹴撃──アクセル・インパクトによる踵落としが頭部に直撃して地面に陥没する深海の落とし子に向けて、エヌラスは確実に息の根を止めるべく背中から胸骨まで蹴り貫いた。骨を砕き臓腑を踏みにじると、大量に吐血して魔人が絶命する。
足を引き抜き、消化物に人間と思わしき部品がちらほらと見えた。しかし、それには目もくれずエヌラスは再び検死を始める。
確かに、成体だ。骨密度も筋力も、眷属の成体として申し分ない。解剖してもその結果は変わらず、深海の落とし子の身体から無数の気泡が浮かび上がったかと思えば次の瞬間には全身が霧散していく。
不浄な緑色の霧となって、魔人は跡形もなくエヌラスの目の前から消滅した。
自分も死んでしまえば、こうなるのだろうか。そんなことを考えながらも、一度ホテルへ戻ることにした。ひとまず、敵の正体が探れただけでも良しとしよう。