ハンティングホラーが雨の中、街を走る。
海洋から溢れ出す瘴気は霧となって海面を覆っていた。
邪神。邪神――父なるダゴン。そのつがいとなる母なるヒュドラ。皮肉なことに、ハンティングホラーが纏う対国家攻略呪術外殻もその名を冠している。
これは、神をも殺す劇毒の多頭竜だ。邪神を殺すために、神殺しの毒を載せた合成獣。
自律行動から、独自で判断する。状況はこちらが一手遅れを取っている。
双子の邪神。日本の刀剣付喪神。その両者でこの兵装を持ち出さなかったのは単純に火力の問題だ。これは、日本で扱うにはあまりに手狭すぎる。
あの人と邪神に、なんの違いもありはしない。邪神を殺すためならば、その力すら振るう。その矛先が人類に向けられているか否かでしかなかった。
ハンティングホラーが吼える。鋼鉄の合成獣が魔導燃焼機関を連動させて単独で邪神、ダゴンへ挑む。
盛り上がる海面に、巨大な腕が生えた。無数の触腕。巨大な口腔。その身の丈は、まるでクジラのようだ。現存する最大の動物種であるシロナガスクジラですら体長は二五メートルだ。しかし、深海の落とし子より異常成長を遂げた父なるダゴンはそれを遥かに凌ぐ。
たった一手。些細なミスで。邪神が生まれてしまった。異なる邪神であろうともその力を宿した遺物を用いれば容易に汚染することができる。際限なく増える。地球を滅ぼすのにこれほどうってつけの脅威も存在しない。
――だが。
だが。これまでずっと、エヌラスは一人でそれを相手にしてきた。その全てが、誰かの笑顔を奪う前に。
手を伸ばしても届かないと知っていながら、手に入れることができないと知っていながら放っておけないお人好しだ。
ダゴン。人に近い姿をしているが、その姿はあまりに醜悪に過ぎる。
多島海を覆う影。邪神の威容を目の当たりにする人間が正気を保てるだろうか。当たり前の世界を全て否定されて、日常の裏側に潜む怪異を目にして。薄氷の世界で、再び生きていくことができるだろうか。それは、きっと、恐らく。何者にも出来ない。
『エイボンの書:機械語翻訳版』から小型の魔術制御機器を射出して、海を覆うように結界を展開すると同時に維持する。少なくとも瘴気によって汚染される人間はこれで出ない。だが、海の生き物は死滅するだろう。生態系に著しい悪影響を与えると知っていながら、こうする以外にない。
――今は動けない主に代わって、自分に成すべきことを成す。
彼女たちを守る。自分の持ちうる性能の全身全霊を持って、邪神を封殺する。
対敵を臨む。ダゴンもまた、その瞳のない眼でハンティングホラーから放たれる敵意と殺意を認識して威嚇する。瘴気を孕む咆哮が海を狂わせる。
地球の面積を鑑みれば、ダゴンほど恐ろしい相手はいない。見渡す限りの大海原。きれいなばかりの青い海。だが、深く潜れば深く潜るほどにその色は黒く、黒く、どこまでも広がる闇。
天を衝く水柱が渦巻く。瘴気の海。『水神クタアト:機械語翻訳版』の処理速度を引き上げてその邪神術式を解析する。解呪に至らずとも、対策は可能だ。
『セラエノ断章:機械語翻訳版』によって、渦が引き起こす気流の変化も手にとるように解る。全機能を飛行能力に転換するハンティングホラーの外殻が変形していく。
小型の全身翼機となって、爆音と共に隙間を縫うようにダゴンへ迫る。
巨大な腕と背面の触腕を振るって迎撃しようとするが、的が小さいこともあるが異常な速度で持って翻弄していた。
それならば、と。拳を海面に叩きつける。空が落ちてくるかのような、水の壁。ハンティングホラーはそれを回避不可能と即座に判断した。
『
結界を展開していた『ガルバ』から再び出現すると、『金枝篇:機械語翻訳版』を読み込んで目玉から光熱呪砲を放つ。それはダゴンの腕を焼き、触腕を焼き切る。だがすぐに再生していった。
瘴気を交えた海洋に触れている限り、その再生能力が途切れることはないだろう。
それは、どうあっても不可能な話だ。巨体、五十メートルはあるダゴンを地上に打ち揚げた上で消滅させるなど。できるはずがない。
ハンティングホラーは思考する。
どうしたらいいだろう。どうすればいいだろう。どうしたら、アレを主に代わって封殺できるだろうか。
恐らく自爆しても不可能だ。アレは地球で生まれた邪神だ。この星に息づく限り、自分の全機能を持ってしても届かない。自分にできることは、可能な限り注意を引いて時間を稼ぐことだ。
主が目を覚ます、その時まで。
――最強の軍神を知っている。最強の
誰よりも真っ直ぐで、誰よりも強く在って。決して折れない、決して曲がらない、鋼の刃のような心の男を。
世界が邪神の脅威にあって、自分の生涯全てが無駄であると知ってもなお。
その男は、一国一城の主であることを曲げなかった。
耐えきれなかった。堪えきれなかった。全てを打ち明けて、全てを識って、それでもなお――その男は、座したまま笑って。
女神と共に、一言。
『そうか』とだけ、答えた。
微笑んで、手を伸ばして。肩を叩いて『それは、辛かったな』と。自分に声を掛けてくれた。
何度、手にかけただろう。何度、殺しただろう。何度繰り返しただろう。そんな、意味のないことを。
全てを識った最強の軍神は、笑いながら『飯にしよう』と言った。
そして、その翌朝――書き置きを残して自害していた。
ただ、一言。
『すまなかった』とだけ残して。そこに、どれだけの感情を込めていたのだろう。
愛して止まぬ女神と刺し違えて、息絶えていた。
世界を背負う器ではなく、救えきれないと諦めていた。だから、一国一城の主として君臨することを選んだのだ。それは、全てを識ってからも変わらなかった。
いつからだろう。そんな男の在り方すら、その相手すら、億劫になって。面倒になって。何もかもが嫌になって。全てを投げ出したくて、それでもやめるわけにはいかなくて。
ただ、効率的に殺す方法だけを考えた。突き詰めた。
そうして、至ったのが――この、対軍事大国攻略決戦呪術兵装“天雷”だ。
(…………嗚呼、そうだ)
この刃は、己を殺すために。ただ、心を殺して殺すためだけに。
終わらない地獄の中を、効率的に進むことだけを考えて造りあげた。
もう二度と、殺さないと決めた。
もう二度と、手にかける事はないのだと。
もう、二度と――あの頃には、戻れないのだ。
日常を捨ててきた。自分が入り込んでしまえば、彼らの毎日が壊れてしまうから。
だから、戦うと決めた。これ以外は、もう何もいらない。
邪神は皆殺しだ。魔人も皆殺しだ。例外はない。
(俺は――)
地を這ってでも、前に進む。
血反吐に塗れてでも、前に進む。
地獄に堕ちた。自分が選んで、望んだ地獄だ。
ならば後は、這い上がるだけだ。立ち上がって、駆け上がるだけでいい。
銀鍵守護器官が新たな血液を生成する。薬物に対する免疫力を付けた血が全身を巡る。
燃えるように胸の奥が熱い。焼けるように全身が痛い。
(……絶対に、諦めない)
師の教えを蔑ろにするわけにはいかない。
いつか、越えると決めた。いつか越えてみせると。届かない背中に手を伸ばして、誓った。
大魔導師の魔術を。
何も出来ない。何も手に入れることができないけれど、だけど――それでも。
諦めることだけは、絶対に出来ない。亡くした命と、犠牲にしてきた命の全てを無駄にすることなんか出来ない。道を踏み外しても、どれだけ人道に背こうとも。それだけは、決して。
まだ、死ぬわけにはいかない。
自分は、まだ一度も辿り着いていないのだから。
笑って終わる、ハッピーエンドの夢物語を。
アイツらが笑っていられる世界のためなら、どんな地獄にだって耐えられる。
必ず、越えてみせるとも。
邪神に屈するわけにはいかない。負けるわけにはいかない。
俺がしてきた大罪は、それだけでは償いきれない。
地の底から這い上がるように吼える。立ち上がる、砕けた骨と肉を継ぎ接いで。
駆け上がる。寝ている暇など、立ち止まっている暇などどこにもない。
霧に覆われたエーゲ海では、異常気象が相次いでいる。だが、その全貌を望むことはハンティングホラーの結界のおかげで敵わない。忠犬に感謝しながら、エヌラスが構える。
断鎖術式壱号・弐号の起動。全身の磁場鍛装。脳が焼ききれそうなほどの情報量に、視界が赤く滲む。血走った目に、血涙と鼻血と、吐血と。何度繰り返しても、自分の不甲斐なさに怒りを覚える。この程度しか、できないのか。
“固有時制御・決壊”を再展開する。全身を目まぐるしい勢いで巡る血流に、傷口が開いた。痛みは堪えられる。耐えられる。自分がしてきた事に比べれば、たかがこの程度――!
「俺の――地獄の、邪魔ぁするんじゃねぇぇええええっ!!!」
ダゴンの威容を前にして、吼える。
雷光を残して、エヌラスの姿がその場から消えた。
空港に到着したバスから香澄達が慌てて降りる。しかし、天を震わせる低い唸り声に立ち止まって振り返った。
何かが、動いている。霧に覆われてよく見えないけれど、なにか。人智の遠く及ばない何か理解できない生物が動いていた。
不安に押し潰されそうになるが、背中を押されて弦巻家の自家用ジェット機に駆け込む。
「エヌラスさんは――」
「今は皆様の安全が最優先です! 早く!」
「でも、あれ!」
美咲が立ち止まるが、こころが手を引いてジェット機の中へ連れ込んだ。その後に続いて有咲達も乗車すると、着席する間もなく濡れた滑走路を緩やかに走り始める。天候の悪化がぶり返してきている。離陸するなら今しかない。これを逃したら、またいつ天候が回復するかも解らない以上、一刻の猶予もなかった。
着席して、シートベルトを締めて。全身にゆるく伸し掛かる重力を堪える。
「だいじょうぶよ、美咲」
「……本当に?」
「ええ。だって、エヌラスが守ってくれるんでしょう?」
「それは……そうかもしれないけどさ」
心配で、不安で堪らない。恐怖感に身が竦む思いだ。なのに、柔らかくて、温かい笑顔のこころを見ているとそんな凍りつくような心地も薄れていく。何も考えていないのか、本当に心底エヌラスのことを信じているのか。後者であると、美咲はなんとなく思った。
ジェット機が緩やかに離陸する。再び悪化の兆しを見せる空港から、辛うじて抜け出した。
空から見下ろす町並みは、ひどく不気味で、薄暗くて。自分達がそこに滞在していたとは到底思えないほど暗い影に覆われていた。
(……あれ、なんだろう)
チカ、チカと。街の中を点々と駆け回る光が見える。凄まじい速度で海に向かっていた。
乱気流に突入し、ジェット機が激しく揺れる。その振動を椅子に掴まって耐えると、すぐに雲の上に抜け出した。
雲の下の悪天候など、素知らぬ顔の青空が晴れ渡っている。当然のことだが、今は太陽の光が何よりも恋しかった。
暗闇は、怖いものだ。夜闇を照らす人の灯りがあって、当たり前なのだから。
それでも――得てして脅威というものは人という餌を求める。雲を突き破り、何かが空の上に飛び出してきた。
「薫くん、あれ見て! なんだろう?」
「い、いやぁ……なんだろうね……ははは」
「なんだろうね……、戦闘機、みたいだけど……?」
翼を広げたコウモリのようなシルエットのなにかは、ありえない軌道のありえない速度で空を駆け巡る。それを追うように何かが下から発射されていた。
ダゴンの水圧カッターだけでなく、逆巻く渦の奔流が雲を突き破って起こり得ない雨を降らしていた。それを断ち切るように何かが射出されている。まるでSF映画さながらの超常現象を前にして、香澄達も気になって窓に張り付いた。
「……もしかして、狙われてるのかな?」
「嘘だろ? 今高度何メートルだと思ってんだ」
「雲の下から狙ってるとしたら、凄い精度だよね」
たえの言う通り、ダゴンは雲の下からハンティングホラーを狙っている。それは、有り余る魔力反応を追跡してのことだ。嗅ぎ分けて狙っている以上は動き回るしかない。足を止めればたちまち車体が粉砕されてしまう。
『セラエノ断章:機械語翻訳版』による
加速度的に装甲の損耗が広がっていく。それでも止まるわけにはいかなかった。香澄達を乗せたジェット機を視認したハンティングホラーは遠ざかった。
「あ……見えなくなっちゃった」
(私達から離れたように見えたけど……気の所為、だよね? 現実感なさすぎて麻痺してきた)
もっと近くで見たかったー、などとのんきなことを言っているはぐみを羨ましく思いながら美咲は深く息を吐き出す。