Guten Tag meine Fräulein
自分を構成する最小単位、自分の始まり、ルーツとも言えるそれがなんだと問われたのならば、俺はそれを淀みなく答えることが出来る。
目を閉じれば今のことのように思い出せる牧歌的な風景。俺と彼女が出会ったカルフの街はカールスラントの南にある静かな街だ。ナルゴト川に沿って建てられた街は穏やかな風景が残り、少し郊外に行けば牧草地が広がっていた。
そこに何度もピクニックに出掛けたことを覚えている。サングラスがなければ、少しでも日差しのある場所にはいられないくせに、彼女は妙に俺と一緒に何処かへ出かけることをせがんだ。
この町には俺たちと同年代の子供は一人もおらず、父の仕事で偶然にも近所に住むようになった俺が彼女の遊び相手になったのはとても自然なことだった。初めて挨拶に行った時には父の背に隠れて窺うように警戒していた彼女は、数日して慣れてしまうとまるで親を見つけたアヒルのように何処へでも俺についてきた。鬱陶しいと思う反面、兄弟がいなかった俺には妹ができたみたいで楽しいと思うこともあった。
だから幼少期という時間において、俺にとっての全てには彼女が存在していた。
穏やかな日差しの下、彼女の母が作ってくれたサンドイッチとソーセージの串を甘酸っぱいレモネードで流し込みながら、俺と彼女は木陰からのんびりと草を食む牛たちを眺めていた。これの何が面白いのかと聞かれると非常に困るのだが、とにかく俺はこの時間が好きだった。ゆっくりと過ぎていく時間、代わり映えしない日々。そんなとるに足らないものが俺という人間を作り出したルーツなのだろう。失ってしまった今だからこそ、そう強く思える。
眼下に広がる赤。彼女の酒蔵で見たワインよりも赤く、彼女と眺めた夕日よりも赤い、炎と血が彩る赤色が空と大地を塗りつぶしていた。純一色のその光景に一つだけ異物があった。
黒。黒曜石のように黒いそれは見下すように空を飛行していた。ネウロイ。永きに渡り人類の敵であり、天敵とされてきた怪異。それが俺たちの街を、国を壊した。帰る家も、故郷もなく、やりきれない無力感の中で彼女を、ハイデマリーを抱きかかえたまま俺は空へと向かって吠えた。
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ひどく憂鬱な気分だ。父が運転する車の中で行儀悪く寝転がりながら読みかけていた哲学書を足元へ放り投げた。ミラー越しから見ていた父が咎めるようにして口を開いた。
「フリッツ、ダメじゃないか。本は大事に扱わないと。……やっぱり友達を別れるのは嫌だったか?」
少し申し訳なさそうに声色を弱らせた父。それも仕方のないことだった。母が病で亡くなり、傷心した父は元いた街へと戻ろうとしていた。当然父についていくしか選択肢のない俺は父とともに初めていく父の故郷へと住まいを移すこととなった。
当然、不満はある。仲の良かった友人たちを疎遠となり、見たこともない街へと引っ越すのだ。不満など出て当然だ。しかしそれ以上に母を失い途方にくれる父を見ていられなかった。子供心に今の父にはゆっくりを心の傷を癒す時間が必要なのだと、どこかで納得していた。それでも父の傷心に自分ができることがないこと、自分のことばかりで母を失った俺に何もしてはくれない父に対する苛立ち、そんな感情が複雑に混ざり合い虚ろな遣る瀬無さばかりが胸に残った。
やり場のない感情はエミールの背表紙とともに乱暴に投げられた。
父に返す言葉も、そんな気力も湧いては来ず、父から顔を背けるようにして俺は座席に顔を押し当てて押し黙った。
「……あぁ」
弱ったように情けなくうめく父の声を無視して寝たふりをする。車の振動だけは誰にも構わず自己を主張していた。
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互いに無言のまま車を走らせること数刻。すっかりあたりも夕方という時刻に車輪が回転を止める。
古い一軒家だった。庭は大雑把に手入れをした様子はあるが割と伸び放題、父に言われるがまま荷物を持って家に入ると埃臭さが鼻を通り、思わずくしゃみが出る。それだけのことだったが、そんなまったく掃除されていない家の様子が亡くなった母の存在を連想させ、初めてやってきた家だったがすでに嫌いになりそうだった。
無言で二階に上がり簡単にベッドメイキングされたシーツの上に乱暴に身を投げた。バネが軋む音がしてすぐに静かになる。すぐに階段を登ってきた父が扉の前でノックをして夕食だと言ったが返事もする気にもなれず、ポケットにねじ込んで表紙に折れ目がついた文庫本を取り出して適当な場所から読みはじめた。
ここに書かれてる高尚な哲学などちっとも理解できなかったが、ただ外界との交流を断つのにこの本は十分過ぎるほどその役割を果たしてくれた。
物音一つしない静かな家の中、時々紙をめくる音がかすかに聞こえるだけだった。書かれている内容など頭には何も入らず、気がつけば意識は闇の彼方へと沈んでいた。
顔に当たる朝日の熱で目が覚めた。寝ぼけ眼をこすりながら上半身を起こすと見慣れない周囲の光景、見慣れた自分の部屋ではなく初めて見る質素な一室に思わず身を固くする。一瞬、自分が誘拐でもされたのだろうかと突飛な発想が頭をよぎったが、冷静になってここが新しい我が家の自分の部屋だと気がつくのにそう長い時間は必要ではなかった。
重い足取りが薄く積もった埃を蹴り上げながら階段を下っていき、リビングに入るとちょうど父が料理をしている最中だった。こちらに気がついた父は振り返ると無理したようなか笑顔を作った。
「あぁ……、フリッツ起きたんだね。もうすぐ朝食ができるから座って待ってなさい」
その言葉に答えることなく俺は乱暴にソファーに座る。まだ荷ほどきの終わっていない荷物を眺めていると肉の焼けた匂いがする。食卓に座り形の悪いオムレットと若干焼き過ぎのソーセージ、塩っ辛い匂いのするスープが卓に並べられていく。
「ごめんなぁ、父さん料理なんて若い頃にちょっとしたっきりで、母さんがいつも作ってくれててたから……」
そこまで言って父は顔に影を落とし黙ってしまった。おおかた母が亡くなった時のことでも思い出したのだろう。
「……いただきます」
そんな沈黙に耐えられずなんとか声を絞り出す。俺の声を聞いて目の前に息子がいることを思い出したのだろう、父は顔を上げると急に明るい表情に努めた。
「あぁ……、あぁ! たくさんあるからな、しっかり食べてくれ。……そうだ。今日は昼にシュナウファーさんの所に挨拶に行くぞ。引っ越しの時に色々とお世話になったからな」
「……そう」
短く返事をして食事を再開する。母の料理を思い出して比べてみると、いややっぱりそんなことをするまでもなく不味かった。
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食事を終えて昼下がり、石畳のカルフの街を歩く。斜め前には父が歩きそれを追って歩いているとすぐに目的の家に到着する。ワイナリーをしてるらしいシュナウファーさんの家はその経営が順調らしく、立派な門構えをしていた。チャイムを鳴らすとすぐにシュナウファーさんはやってきて、よく来たと朗らかに笑いながら家に招き入れてくれた。
「やぁ、ハインリヒよく来てくれた。この町で時計技師が必要だったんだ。……君の奥さんのことは残念だったよ」
「あぁ、こちらこそ何から何まで世話になってしまった申し訳ない。アルフレート、君には世話になりっぱなしだね」
「何を言う。同郷のよしみじゃないか。君もそうだが息子のフリッツくんだってゆっくりとする時間が必要なはずさ。まずは一息をついて、そこから新しい生活を始めればいいさ」
「本当に、何から何まですまない」
父はそう言って涙ぐみはじめた。微笑んだアルフレートさんは優しく父の背を叩いていた。そんな光景を眺めていると後ろから肩を叩かれた。振り返ると知らない女性が立っていた。年はおおよそアルフレートさんと同じくらい、きっと彼の奥さんなのだろう。
彼女は優しく微笑んで俺を見て言った。
「向こうでおばさんといましょうか」
暗に男泣きしている父を見てやるなと言うことなのだろう。俺が素直にうなづくと彼女は俺を隣の部屋に連れて行った。
隣の部屋にやってくるとそこは談義室のような部屋だった。壁には本棚があり、きっちりを几帳面に本が並べられ、座り心地の良さそうなソファーがいくつか並んでいた。
促されるがままに座り小さな丸机に上にティーセットが並べられる。紅茶のいい匂いがしてきて自然と心が落ち着いていくのを感じる。
ふと違和感を覚える。よく見てみると並べれられたティーセットのうち、カップが二人分ではなく三人分並べられていた。俺とおばさんの分と考えると一つ多く、父たちのことを考えると一つ少ない。不思議に思い首を傾げていると、おばさんがゆっくりとした足取り、いや、よく見れば後ろから引かれるようにして歩き、見ると彼女の後ろから綺麗な銀色の髪が揺れている。
俺の前でおばさんが立ち止まると彼女は背後に隠れた子に大丈夫だと声をかけるが、隠れたままの彼女は首を激しく横に振っているのか絹のような銀がはらはらと舞う。
そのようなやり取りをしばらくしているとついに決心がついたのか、おずおずとガーベラのような紅色の瞳がエプロンの端からこちらを見つめていた。
彼女は何を言うでもなくジッとこちらを見ている。おばさんがいる手前、見つめられて無視をするわけにもいかず、俺は彼女の発言を待つことを強いられていた。
だらだらと緊迫した時間が過ぎていき、紅茶の湯気が死んだ頃、やっと彼女は口を開いた。
力一杯に手を握ったのだろう、掴んだおばさんのエプロンは大きくシワを作っている。
「は、ハイデマリー・シュナウファー……、です」
どうやら精一杯の彼女なりの挨拶だったらしい。いまにも泣きそうなくらいに瞳を潤ませ、唇を噛んでいた。
「フリッツ・ルンペンハルト」
対して俺は非常に素っ気なく彼女に名前を告げた。しかし何故か彼女はそれでパァッと表情を明るくした。しかしハッと体を一度震わせるとまたおばさんの後ろへと隠れてしまう。
どうしたものかとおばさんを見ると微笑ましいものを見るように俺とハイデマリーと名乗った少女を交互に見ていた。そして冷めた紅茶を見るとわざとらしい声を上げた。
「あらあら、紅茶が覚めてしまったわね、煎れ直してくるからちょっと待っていてね」
「あっ! お母さん……」
母親についていこうとしたハイデマリーを抱えたおばさんは彼女をソファーの上に座らせると早足で紅茶のポッドを持って出て行った。扉を閉める直前におばさんと目が合い、ウインクが飛んできてそのまま扉は閉まってしまった。
後に残された俺たちはどちらも話ことなく、無言が空間を支配していた。ハイデマリーは落ち着かないのかスカートの端をその小さな手で握りしめ、そわそわとあっちやこっちを見て落ち着かない様子だった。
時々目が合うとすぐに彼女は顔を赤くして逸らしてしまうため、まともに会話が始まるはずもなかった。流石に帰りたいと思い始めた頃、入口の方へと視線を投げた時、壁に掛けてある写真が目に映った。何やらワインの品評会らしい会場で症状をもらっているアルフレートさんが映っている。
「お父さん、ワインを作っているんだ」
何気なくポツリと呟いた俺の言葉に彼女は目ざとく反応していた。
「うん! とっても美味しいって評判なのよ。ワインだけじゃないの、スパークリングやウイスキー、リキュールだって作っているの。わたしはまだ子供だから飲ませてもらってことはないけど、とってもいい匂いがするの!」
それまでの静寂と打って変わり彼女は饒舌に語り出した。彼女の家族への愛情がありありと垣間見えるが、それ以上に俺は突然語り出した彼女に面食らっていた。鳩が豆鉄砲でも食らったような間抜けな顔をしていたのだろう。自分は饒舌に話していたことに気がついた彼女は顔をリンゴのように赤くするとそのまま小さく丸くなって顔を隠す。
短いやり取りしかしていないが、段々と彼女の人と成りがわかってきた。要は人見知りなのだろう、それも相当重度の。
恥ずかしさに身悶えしている彼女の前に立ち、何だか肩の力が抜けていく気がする。
「……話したいなら好きなだけ話せばいいよ。別にそんなに恥ずかしがることもないだろ」
おずおずと顔をこちらに向けた彼女は恐る恐ると言う様子だ。
「いいの?」
「別にいいんじゃない?」
ぶっきらぼうにそう答えると彼女は嬉しそうに顔を明るくした。そこから始まる怒号のマシンガントーク。
やれ、ナイトウイッチとして有望視されいただの、魔法力の暴発で視力が悪化して明るい場所にいられないだの、周囲に同年代の子供がおらず俺に会えて嬉しいだの、長々と彼女の半生がこと細やかに言葉となってこちらに飛ばされてくる。
こんな短い間に彼女については知らないことはもうないんじゃないかとさえ錯覚する。特に他にすることもないので仕方なく彼女の話すことに耳を傾けていると彼女は急に声を萎ませていく。
見ると申し訳なさそうにこちらを見ている。
「ごめんなさい、私ばかりが話しちゃって……。せっかくこんなにお話ができる人が来て舞い上がっちゃってた」
「おしゃべりしたり謝ったり忙しいやつだな。別にいいよ気にしなくて。どうせ父さんが落ち着くまで家に帰れないんだ。おしゃべりでも何でも付き合うよ」
父や家族のことを思い出し少し鬱屈とした気持ちになる。思わずため息を吐いてしまうとハイデマリーはこちらを心配そうに覗き込むようにして顔を近ずけてきた。
「家族と仲が悪いの?」
「別に悪くないさ。ただ母さんが死んじゃって父さんが情緒不安定なんだ。だから前の職場を辞めてこの街に戻ってきたんだ」
「あ、あの、その。……ごめんなさい」
「……何度も言ってるけど謝るようなことじゃないよ。誰だっていつかは死んじゃうんだ。うちの母さんはそれがたまたま早かったってだけ。冥福を祈って、それでおしまいだ」
「何だかとても冷たい言い方。私だったら家族が死んじゃったら、きっと悲しすぎて死んじゃうわ」
「君はそう思うならその考え方を大事にすればいい。俺はもう悲しむことに疲れた、それだけだよ。それよりも今生きている父さんに早く立ち直ってほしい」
誰にも言わなかった本心を、どうしてか過去の初対面の少女に教えてしまっている自分の少なからず驚いてしまう。どうやらおしゃべりは感染るらしい。
そんな自分の軽率さに辟易していると閉じられていた扉が開かれやってきた父さんと目があった。申し訳なさと気恥ずかしさが混じった顔で父がはにかむ。
「フリッツ、待たせてしまったね。今日はもう遅いから帰ろう」
その言葉で時間が随分と立っていたことに気づかされる。というのも、この部屋には窓がなく妙に薄暗い。そういえば目の前のハイデマリーは魔法力の暴発で明るい場所がダメらしい。どうやらここは外に出られない彼女のための遊び場なのだろう。
一人勝手に納得しながら帰る体制に入る。といっても身一つできたため、迎えに来た父についていくだけのことだが。
父とアルフレートさんの後を歩き玄関から外に出る。外は暗くなりはじめ、もう夕食の時間だと言っている。シュナウファー一家に会釈を済ませ帰路につく。気恥ずかしいのかハイデマリーの姿は見えない。まあいいかと思い帰ろうとした時に背後から呼び止める声がした。
「フリッツ!」
ハイデマリーだった。急いで降りて来たのか、少し息を荒だてながら彼女はまっすぐに俺を見ている。
不安そうな表情で俺を見て彼女は恐る恐るという様子で口を開いた。
「また……、遊びに来てくれる?」
隣に立つアルフレートさんがとても驚いているのが印象的だった。普段は引っ込み思案な性格の娘がした自発的な行動に少し面食らっているようだ。
そんな誘いをもらうとは露にも思っていなかった俺は返答に困ってしまう。そして同時に普段満足に外出できない彼女の心情を思うと素直に首を縦に振りたいとも想思い、しかし今日初めて会った人たちに自分から会いにいくことに気恥ずかしさがあった。
どうしたものかと父の方を見ると父は朗らかにうなづいて見せ、シュナウファー夫妻の方を見ると微笑ましいものを見るように娘を見ていた。
どうやらそういうことらしい。俺は彼女の前に、息を吸って自分を落ち着かせた。
「まぁ……、その、迷惑じゃなかったらまた遊びに来る。ハイデマrっ——。……ハイディ」
最後の最後で台詞を噛んでしまった。それもよりによって名前を言えないだなんて。苦し紛れに彼女の個人的に言いづらい名前に代わるあだ名を捻り出す。苦し紛れの行為だったがどうやら不快ではなかったらしく、少し驚いた様子を見せ、そして彼女は花を咲かせるように笑っていた。
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彼と彼のお父さんが帰り、私はお父様とお母様の言いつけを守ってお風呂に入り、熱も冷めぬうちにベッドにはしたなく飛び込んだ。落ち着かない興奮が足をバタバタと動かす動力源に変わってクッションを叩く。お風呂の暖かさとは違う熱が顔を熱くさせ、口角が上がって仕方がなくそれを隠そうと枕に顔を埋める。
いつか暗い夜空の星に願った。この目のせいで外に出られない私に、会いに来てくれる誰かが現れないかと、お友達が欲しいと。
そしてそれが今日叶ったのだ。また来て欲しいとお願いしたら、また遊びに来てくれると約束してくれたのだ。それに終わらずあだ名までもらってしまった。
今日はなんて良い日なのだろう。一生分の幸福が一度にやって来たようにさえ思えてしまう。だからこのまま眠ってしまうと全てがただの夢になってしまうんじゃないかと悪い想像が頭をよぎる。でもそれくらいと同じくらい彼が遊びにやってくる次の日が楽しみで仕方がない。
あぁ——、早く明日にならないかな!