早朝の家の中、フリッツの父、アルフレートは強い眠気に耐えながら起床した。以前は妻が彼を毎朝のように起こしていたが、その人はもういなくなってしまった。
一人で寝て起きる事で彼女の逝去を意識せざるを得なくなり、アルフレートは胃の奥が重く沈む感覚を覚えた。慌ててサイドテーブルの上に置いた胃薬を掴み、乱暴に三錠ほど口の中に放り込み噛み砕いで溜飲する。
まだ慣れない薬特有の苦味を口の中に残し、胃が軽くなるのを感じながらアルフレートは朝食の準備をしようと階段を下っていく。妻に先立たれた彼には、少なくとも息子を食べさせていくことは自身に課せられた義務だと感じていたし、しなければならないことがあれば、今にも崩れそうな足元がなんとか崩れてしまう寸前で耐えられることができた。
今日の朝食を拙いながら用意しようと一階に降りた時、ふと香ばしい匂いがしていた。
もしやと思いキッチンを覗き込むとそこには台に乗って台所に立ち、料理をするフリッツがいた。部屋に漂っている匂いも自分が作った昨日の料理モドキとは違い、ちゃんとした料理のいい香りだった。まるで妻が帰ってきたかのような気分さえする。
きっと今まで見て来た母親の料理のマネなのだろう。しかし形は違えど息子の中に妻の痕跡が残っていることに目頭が熱くなってしまう。そんな自分を見られまいと声をかけられず、しばらく様子を見ているとこちらに気づいたフリッツが振り向いて目が合った。
目が合い、息子は少し照れ臭そうにはにかんで見せた。
「あぁ、父さんか。もうすぐ出来上がるから座って待っていてよ。少なくとも父さんのよりマシなはずだから」
「——っ! ……そうするとしよう」
震えてしまいそうな声を息子に気取られまいと精一杯腹に力を入れて返事をしたため、言葉は短かった。
座って待っているとすぐに料理が運ばれて来た。昨日自分が作ったものを思い出し比べてみるが雲泥の差としか言いようがない。一口食べ驚く。いつもの妻の味、もう食べられないと思っていた味がそこにあった。一口一口を惜しむように咀嚼していく。確かに彼女の味だった。
食べることに夢中になっていたことで、こちらを窺うように見ているフリッツを目が合う。目が合うと息子は苦笑して、それから手元のスープに視線を落とす。
「見よう見まね、というか記憶を頼りに作ったんだ。母さんの味ってこんなだったかな? まあ、でもよくわかんないや。……父さんも仕事が忙しくなるだろうし、朝飯くらいは俺がどうにかするよ」
矢継ぎ早にそれだけ言うと、フリッツは黙って食事をかきこむと空いた皿をかたずけていく。
私が食べ終わると同じように空いた皿を取り上げていき、まとめて洗いはじめた。いつの間にか手のかからなくなってしまった息子に誇らしさと、まだ子供だろうにこんなことまでさせてしまった歯がゆさが胸に残り、私はただ皿を丁寧に、それこそ妻がしていたように洗う息子の後ろ姿を見つめていた。
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食事が終わった父さんの皿を流し台に持っていき、水道を開けて水洗いを始めた。手を動かしながら過去の記憶、あの時母さんがどうやっていたかを思い出してその通りに手を動かしていく。不思議とぼんやりしていた記憶がはっきりとしたものに変わっていき、片付けに困ることはなかった。
先ほど朝食を作っていた時もやり方なんかも思い出しながら終わらせることができた。自分がこんなに物覚えがよかったかと一瞬首を傾げたが、そんなことよりも早く終わらそうと手を動かす。
出来上がった料理は申し分なく、多分母さんの味はこんなのだったと納得がいくものだった。片付けも終わり、街の方へ働きに出る父さんの声に生返事を返し、洗った皿を乾いた布で拭きながらこれからどうしたものかを考える。
そしてまだ荷ほどきが終わっていないことに気がつき、部屋の隅に積まれた木箱を開けて、適当な場所にものを置いて並べていく。父子二人分の荷物などたかが知れており、昼になる頃には荷ほどきは終わっていた。
自分の部屋用の木箱を二階にまで運び、本やら文房具やら、木箱から出てくるものを当面の生活をする上で困らない程度の配置に並べていく。荷物の詰まっていた木箱の底が見えるまでに片付けが済むと、底の方に記憶にないスチール缶が入っていることに気がつき、とりあえず中身を見ようと開けて思わず息を飲んでしまった。
「シチリア島の時の……。こんなところにあったんだ……」
入っていたのは砂とサングラス、そして写真だった。家族三人でシチリア島に行った時、記念にと砂浜の砂を缶の中に入れ、現地のカメラマンにとってもらった写真も一緒に入れていた。家族三人で並んだ写真。もう撮ることが叶わないそれを急いで空いている写真立てに入れて机の上に飾る。
そういえばと一緒に入っていたサングラスを取り出して広げる。女性用。シチリアの土産屋で買って、母さんが使っていたものだ。
こんなものが今更出てくるとは思わなかった。母の遺品は全て父が処分してしまった。そうでもしないと、あの思い出の詰まった三人の家から離れられないと、父自身が理解していたから。だから何もかもを処分してしまった。
だからこんな形で母の形見が出て来てしまって、俺は反応に困ってしまった。
家に置いていくわけにもいかない。もしも父が見つけてしまったら、もとの不安定な父に戻ってしまうかも知れない。本当に良くなったのだ、あれでも。直後は本当にひどかった。学校から帰って来て父が生きていることに安堵した日など数えきれない。
だからこれはこの家には置けない。でも捨てられるかと聞かれるとないも言えない。唯一手元にある母の存在を示すものなのだ。捨てることが憚れる。置いておくこともできず、捨てることもできず、だから仕方なくシャツの襟もとに引っ掛けて持ち歩くことにした。
虹彩の色が濃い俺にサングラスは不要だが、持っていると不思議と母と一緒にいられるような気がした。
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荷ほどきが全て終わり、一息つくためにソファーに体重を預ける。特段やることなどなく、ふと昨日の、ハイデマリーとの約束を思い出す。
——また……、遊びに来てくれる?
そんな約束に自分はまた来ると言ってしまった。なら、まぁ、行ってもいいのではないだろうか。誰へでもなく言い訳をして家を出た。
それほど我が家からシュナウファー家は離れていないから、テクテクと歩いていればすぐに着いた。しかしたどり着いてドアを鳴らそうとして、今になって急に不安が募る。昨日の今日で初めて会って、突然訪問してもよかったのだろうか。
流石に品がないかと悩み硬直していると後ろから声をかけられた。
「あら、もしかしてフリッツくん?」
振り返るとそこにいたのはハイデマリーのお母さんだった。買い物帰りらしく、左手で持ったバッグから食品が顔をのぞかせている。
心の準備もできていないのに遭遇してしまったことにたじろいでしまう。
「あ、あの、その、……ん」
目線を合わせようとかがんだ彼女から思わず視線を逸らして、逃げるようにうつむいてしまう。そんな俺の様子を見て彼女はあらあら、と朗らかに笑っていた。
「ハイデマリーに会いに聞きてくれたのでしょ? 遠慮しなくて大丈夫、入っていらっしゃい」
「え、あの、その」
どうも彼女を前にすると不思議なことに態度がしどろもどろになってしまう。促されるまま家に入ると彼女はハイデマリーを玄関から呼んだ。
一度ドンっと大きな物音がして、静かになったと思えば廊下を走り、階段を降りる音が大きくなる。階段は扉の先にあるらしく、その向こうで足音が止んだ。そして慎重に様子を伺うようにドアノブが回り始め、さも幽霊が来たかのように木の軋む音をさせながらそっと扉が開いていく。
そしてその隙間からこちらを覗き込む赤い瞳とボタンの瞳。テディベアを抱えたハイデマリーがこちらを見て互いに目線がぶつかる。そしてやって来たのが本当に俺だと分かると彼女は昨日と同じように、花が咲くような笑みを浮かべていた。
「ね⁉︎ だから言ったでしょ。今日はお友達が遊びにくるって。嘘じゃなかったわ!」
嬉しそうな彼女はその喜びを表現するように小さく飛び跳ね、鼻息を荒くして抱えたテディベアに話しかけていた。
親しげにテディベアと話す彼女を眺めながら、彼女の境遇を思い出していた。目のせいで日中の日差しの下に出られない彼女にとって、あのテディベアはきっと家族以外の話せる人、お友達に相当するのだろう。
そんなことを考えているとテディベアとのおしゃべりに夢中になっていたハイデマリーに彼女の母が咳払いをして見つめていた。彼女は娘に苦笑いするような視線を送り、俺の方を叩いていた。
「ハイデマリー、せっかく今日遊びに来たお友達はいいのかしら? フリッツくんだって、せっかく遊びに来たのにその相手が別のお友達に夢中だったら帰ってしまうんじゃないかしら」
「まぁ、いけない。ごめんなさいフリッツ。でもこの子、アルブレヒトがいけないのよ? だって彼ったら、昨日のことは全部、私の夢だったって言うのよ?」
「うん、まあ。喜んでもらえたならよかった」
手に持ったテディベアの名前はアルブレヒトというらしい。ぬいぐるみと同列に扱われたことに乾いた笑いを覚えるが、あの物言わないぬいぐるみが彼女の数少ない友人なのだと思うと彼女を責める気にはなれなかった。
こうした状況で俺がするべきことは実に単純だった。友達に向ける笑みを浮かべ、手を差し出す。
「それじゃあ、何かして遊ぼう?」
「ええ! そうしましょう。こっちよフリッツ」
興奮冷めやまない彼女はテディベアを持つのとは逆の手で僕の手を取ると、そのまま家の中の部屋に連れて行く。家の中だというのに全力で走り出す彼女。バランスを崩さないように気をつけながら引っ張られながら後ろを振り向くとおばさんは口元を手で隠しながら笑って手を振っていた。
●
家の中を走り回って一通りの部屋に通された後、俺たちは昨日の部屋、あの書斎のような部屋に来た。部屋に入るとこちらに振り返ったハイデマリーが嬉しそうにソファーからクッションを三つ運んできて、促されるままその一つに座る。ハイデマリーとアルブレヒトに向かい合う形で座り、ハイデマリーは目を輝かせて言う。
「それじゃあ何をして遊びましょうか。何をしていいかわからなくて困ってしまうわ」
「ハイデマリーは、いつもは何をして遊んでいるの?」
質問してみたところ、彼女は急につまらなさそうに唇を尖らせ、非難するような視線がこちらへ向けられている。いきなりのことで、何故そんな目で見られなけれなならないのか、訳がわからず、まごついていると彼女は恥ずかしそうに肩を小さくして、消え入りそうな声で呟いた。
「な、名前。せっかくのあだ名なのに、呼んでもらえないのは嫌……」
「……それじゃあ、改めて。ハイディ、君は普段どうしているの?」
「——うん! それじゃあこれにしましょう」
そう言って彼女は本棚から背表紙が厚い本を一冊取り出し、広げてみせた。間に置かれたそれを覗き込んでみると、それはいくつもの写真がスクラップされたアルバムのようなものだった。アルバムと違うのは写っている景色に統一性がなく、被写体もいないことだった。
ハイデマリーは大事なものに触れるように貼られた写真に指を沿わせ、語り始めた。
「この写真はオラーシャのペテルブルク、こっちはガリアのモン・サン・ミシェル。……これは確か、そうロマーニャのヴェネツィア。どれも綺麗な場所だわ」
一つ一つの写真を指し示し、俺に紹介をしてくれるハイデマリー。そんな中、次に彼女が指さそうとしていた写真の風景には覚えがあった。
「それはギリシアのシチリア島だね」
「行ったことがあるの⁉︎」
過去に行ったことが伝えると、彼女は目を輝かせ声を弾ませてシチリア島の写真を指差した。そう、あれはまだ母さんが元気だった頃の話だ。
「うん。昔、家族で避暑に行ったんだ」
「いいないいな。きっと砂浜が綺麗で太陽が照りつけて眩しかったのでしょ?」
「……うーん、そうでもなかったかな。砂浜は綺麗だったけど、他に来ている人も大勢いたから海はそんなに楽しめなかったかな。あっ、でも砂浜から近いレストランのスパゲッティは美味しかったよ。貝とかイカとかが入っていて、お酢のしょっぱい味だった」
体験談を語っているとハイデマリーは寝転がるようにして顔をアルバムに寄せた。そして少し寂しげに声色をひそめた。
「やっぱり想像ばかりしても、本当に行ってみないと分からないことばかりのなのね」
そう言って彼女は物寂しい様子で写真を眺めていた。そんな態度を目の前で取られたら気になってしまうことは、きっと仕方がないことだろう。心の中で言い訳をして、良くないと思いながらも聞かずにはいられなかった。
「ハイディは何時もこうして遊んでいるの?」
「——うん。写真は素敵だわ。だってこの部屋から、いつでも好きな時に好きな場所がみられるんですもの。だからこうして写真を眺めて、そこがどんな場所なのかを想像して遊ぶの」
顔を上げたハイデマリーと視線がぶつかる。ガーベラのように赤い瞳が俺を見ている。でもその目は光を見られない。
「私の目、こんなでしょ? お外に出られないから、だからこうして遊んでいるの。……私の一番のお気に入りの写真はこれ」
彼女が指差したのはそれまでの観光地や有名な土地の写真とは打って変わり、特段珍しさもない写真だった。よく覗き込んでいると見覚えがあり、それがどこなのかに気づく。写っている川はナルゴト川だ。なんてことはない、ここから歩いて十分とかからない川辺の昼下がりの風景だった。
なんてことはない風景。しかし外に出られないハイデマリーにとってどんな外国と同じように遠い場所。
彼女の言葉に胸の奥に重い重石が載せられていくような苦しさがあった。
きっとそれが顔に出ていたのだろう。ハイデマリーは笑って見せて、でも大丈夫だ、と続けた。
「私ね、将来はウィッチになりたいの。いつか立派なウィッチになれば、この目のうまく使えるようになって、お外にも出られるようになるわ。そうしたらホウキに乗っていろんな場所に行くのよ。だから平気、あとちょっとの我慢なんだから」
彼女は嬉しそうにいつかやってくる将来のことを語った。そうなったらいいなと思った。しかし同時に気づいてしまう。彼女は今10歳。戦時中でもない限りウィッチになるための航空士官学校の入学は15歳から。少なくとも彼女はあと5年、この家の中に居続けなければならない。
あと5年。この薄暗い部屋の中で彼女は飛び立つ為に耐えなければならない。とても悲しいことだと思った。俺がこれから学校に通い、当たり前に日常を享受する一方で彼女はずっとここに変わらずいなければならない。
放っては置けない。俺はただの無力な12歳の子供だ。でも何も出来ないからってただ見過ごすだけでいいのだろうか。自分らしくもない正義感のようなものに燃えていた。いや違うのだろう。そういうのではなくて、単純に俺は彼女の助けになりたいと幾ばくながら考えているのだ。
しかしそう思っても俺に出来ることなど簡単に思いつかない。医者でもない俺に彼女の目は治せない。ウィッチでもない俺は彼女に魔法力の使い方を教えることは出来ない。
何も出来ない自分に歯がゆさを覚え、思わず俯いて、首にかけてあるそれの存在を思い出した。
首にかけたままのサングラスがそこにあった。
何となくかけてみた。予想通り視界は一気に暗くなった。もともと薄暗い部屋でサングラスをかければ視界がほとんど見えなくなるのは当然だった。
「あら、フリッツ。それは眼鏡? でもガラスのところが真っ黒だわ。誰かにイタズラされたの?」
サングラスをかけた俺にハイデマリーは不思議そうにこちらを見ていた。土産物屋の主人が言っていたことを思い出した。なんでもパイロットが使うヘルメットの遮光を眼鏡にしたものがこのサングラスらしい。まだ珍しいものらしく、一部の飛行場がある場所くらいでしか売っていないとも。
つまりハイデマリーがこれを見るのが初めてなのは自然なことで、もしかしたらと思った。
サングラスを外し、そのままハイデマリーに差し出した。
「やだわフリッツ。そんな真っ黒なガラスの眼鏡を貰っても、きっと何も見えないわ」
初めて見るサングラスに彼女は困惑したようにこちらを見ている。
「いいからかけてみてよ」
「もう、イタズラしたらいやよ……。まあいいわ、かけるくらいしてあげる」
差し出されたサングラスをかけたハイデマリーは、やっぱりと言いたそうに唇を尖らせていた。
「真っ暗で何も見えないわ。目を開けても閉じても真っ暗だなんて、なんだか怖い」
予想通り彼女はサングラスをかけるとこの薄暗い部屋の中では全く見えないと言う。ならばも、しかしたら外に出ても薄暗い程度に感じつのかもしれない。
「ねぇハイディ。このまま外に出てみよう?」
「どうして? 私はお外に出てはいけないのよ?」
「もしかしたら出られるかもしれないよ?」
だが彼女は外に出ようとはしない。彼女にとって真昼の世界は言ってはいけない場所だともう思い込んでいる。
もしかしたらたとえサングラスがあっても彼女は外に出られないのかもしれない。しかし試すことをしなければ、その可能性だって可能性のまま終わってしまうんだ。
それを見逃すことは悪いことだと思った。俺が彼女に出来ることがあるのにそれをしないのは嫌だった。
「目を閉じて見て?」
「こう?」
お願いした通りにしてくれた彼女の手を持つ。冷たくて小さな彼女の手を引き、部屋を出て廊下を進み、そして玄関にたどり着く。
そして玄関に来たことを察したハイデマリーは嫌そうに首を振った。
「何度も言ってたわフリッツ。私はお外に出てはいけないの。太陽があんなに眩しいから、私の目が焼けてしまうの」
「でも外に出て見たくないの?」
「それは……」
困ったようにハイデマリーは言葉に詰まって何も言わなくなる。彼女にとって陽の光は避けねばならなくて、それと同じように足を踏み入れたい場所だと思っている。そうでなければあんな風に写真を見て外に世界に憧れてたりなんてしない。
俺がすべきことはたった一つ。彼女が外へ踏み出すきっかけになること。それ一つだ。
彼女が少しでもそれを望んでくれるなら、力になってあげることがきっと正しいことなんだと思う。
「ハイディ、信じて一緒に来て欲しいんだ」
「でも外に出たら……」
「なら目は閉じたままでいいよ。君に一緒に来て欲しいんだ、……ダメかな?」
「……目は絶対開けないからね?」
外に出たがらない彼女に頼み込み、どうにか出ることまで漕ぎ着けた。
サングラスをかけたまま、ぎゅっと目をつむった彼女の手を引き、外へと歩みを進めた。
●
ハイデマリーの手を引き、道を歩いていく。なんてことはないただの道。だが今はとてつもなく困難な道だった。誰かの手を引いて歩くことがこんなにも恐ろしいことだとは思わなかった。目を閉じた彼女は俺の手を頼りに歩いている。一つ間違えれば彼女に怪我をさせてしまう緊張感が短い道を長く感じさせる。
長い時間を歩いた気がした。そしてやっと目的の場所にたどり着く。
日は高く、滲んだ汗が額を湿らせていく。せめて直射日光は避けようと手近な木陰に座る。
「ここは川の近く? 草の匂いや木の揺れる音がしてる」
「そうだよ、君が見せてくれた写真の場所、……だと思う」
「……そうなの」
ハイデマリーはそう言うと手を伸ばし、足元の草木、木の幹と触れていく。
目を開かないで手で、耳で、鼻で、あらゆる方法で彼女は周囲を感じ取ろうとしていた。
「目は、開けられない?」
「やっぱり怖い。だって今までずっと暗い場所にいたのよ?」
上手くいかないものだ。どうしたものかと思い、話題を変えることにした。
「そのサングラスのかけ心地はどう? 母さんのサイズだったから少し大きいと思ったけど」
「ええ、少し大きけど、そんな気にするほどじゃないわ。……これお母さんのものなの?」
そう聞かれ、母さんのことを思い出す。
「うん、昔家族でシチリア島に行った時に父さんが母さんに買ったんだ。結局旅行から帰ってきたら使わなくてしまったままだったけど」
「——! そんな大事なものをもらって良かったの?」
「別にいいさ。家にあったって父さんがおかしくなる原因だ。だったら君に使ってもらった方がずっといい」
母さんが死んですぐの父さんの様子を思い出す。あの時は本当に酷かった。酒浸りになり、帰ってくる度に生傷を増やす父さんは見てられなかった。
「その、お母様のことは……」
「前にも行ったけど、母さんのことはもう終わったことだよ。俺も父さんもこれからの事、母さんのいない明日を生きていかなくちゃいけない」
「フリッツは強いね。私はきっとそんな風に勇気を持てない」
「勇気なんて立派なものはないよ。前を見てないと転んで二度と立ち上がれなさそうなだけ」
「それでもすごい。それに比べて私は……」
ハイデマリーは悔しそうに俯いてスカートの端を掴んでいた。
「ごめん、ハイディ」
俺が謝ると彼女は不思議そうに言葉の理由を訪ねた。
「君が外に出るきっかけになりたいと思ったけど。君にとって外の陽が、僕にとっての母さんがいなくなった日常と同じくらい怖いものなんだね。それなのに無理やり連れ出すようなことをして、思いやりが足りてなかった。ごめん」
二人して言葉を紡げず、涼やかな風が通り抜けた。
ハイデマリーが息を飲む音が聞こえた。
「フリッツ、私、目を開ける」
彼女を見ると、彼女は決心したように拳を握っていた。
「どうして? 嫌ならすることないよ。俺に気を使ってって言うならそんなの気にしないで」
「違うの。きっと私には勇気が足りていないの。今ここで勇気を持てなかったら、きっと私はいつまでも勇気を持てない人になってしまう。それはきっと悪いことだと思う」
強がっているのは簡単に分かった。握った手が小さく震えてシワを大きくしている。無理に勇気を振り絞ろうとする彼女にかけるべき言葉を見つけられない。
「それは……」
「でもまだ怖いのは本当だから。だから目を開けられるまで手を握っていてくれる?」
「そんなことでいいなら、喜んで」
手を取って、そっと包む。白く冷たい手に触れて、そのあまりの小ささに驚く。こんな小さな手の人が勇気を出そうとしている。きっと本当は俺が守らなきゃいけないのに、なのに彼女にしてあげられることは何もなく、ただ彼女を見守ることしか出来ない。
固唾を飲んで彼女の勇気を待っていた。
ほんの小さく、本当に小さく、罪の満ち欠けが早く感じるの速度で彼女は目を開いていく。
そして大きく目を見開いた。
彼女は声も出さず、動きを見せず、ただ静かに涙を流していた。透き通った涙が彼女の白い肌を伝って土を湿らせていく。
「見えるわフリッツ。こんなに、こんなにも明るいのに、私、私が見ているわ!」
サングラス越しに彼女は当たり前の風景を見ていた。当たり前のそれを取り戻した彼女は静かに握った手に熱を込めて握り返していた。
「ここはこんなにも綺麗だったのね」
「うん」
「天気がとても良いわ」
「うん」
彼女の言葉にうなづいて答える。彼女の声は上擦り、悲しさとは程遠い理由で震えていた。
「ここに連れて来てくれてありがとう、フリッツ」
「どういたしまして。おめでとうハイディ」
「ええ!」
涙と喜びでくしゃくしゃとなった笑みは、記憶にあるどんな人のどんな顔よりも綺麗だった。それが見れたなら全てが報われた気がする。
この笑顔が見られるなら、俺はなんだってやれってあげられると思った。
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この日は私にとって特別な日だ。私のための暗い家から飛び出して、広くて眩しい世界をこの目で見た。
この目で見た景色は平凡なものだったけれど、写真で見たどんな場所よりも美しく、確かに私の記憶に焼き付いている。ここに連れて来てくれたフリッツにはどれだけ感謝の言葉を積み重ねても足りないくらい。
フリッツ。私の初めてのお友達。そして私に陽の下の世界を見せてくれた人。私によくしてくれる人。なのに私はあなたに何もまだしてあげれられていない。
燃え盛る故郷の最期で、泣いて崩れるあなたに何もしてあげられなかったこと以上の後悔を私は知らない。愛おしい日々をどこかに置き忘れ、壊れてしまったあなたは今どこにいるの?