転生者の幸福   作:ぜろさむ

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後編

 長い転生生活で、ぼくの魂は膨大な量の記憶を溜め込んでいて、正直最初の方の記憶とかは、もうあやふやになってしまっている部分が多い。そんな中でも、なぜか一番最初期の記憶、つまり「日本」で生きていたころの記憶だけは、やけに鮮明なまま残っていて、今でもときおり思い出すことがあった。特に、転落死なんて死因を選んだときには、連想で一番最初の死を思い出してしまうことが多かった。

 一番最初の死も、自殺だった。死因は転落死。最寄りのオフィス街に立ち並ぶ高層ビルの屋上から、ぼくは大通りに向かって身を投げた。

 過労だとかいじめだとか、はっきりとした理由があるわけではない。いろいろと細かい要素が重なった末の、衝動的なものだった。

 ただ、衝動的とはいっても、くわしく紐解いてみればやはり理由はあるもので、有り体に言うならぼくの場合は、家族関係のこじれが原因だったと言えるだろう。

 「日本」で生きていた頃、ぼくは普通の中流家庭の長男だった。家族は四人。父と母と、二歳年下の弟がいた。

 身体的に何の欠陥もない健康優良児だったぼくと違って、弟は生まれたときから特殊な病気を患っていた。詳しい名前は忘れてしまったけれど、脳の一部に欠陥があったらしく、通常の集団生活は難しいと言わざるを得ない状況だった。

 弟が生まれて喜びに浸ったのもつかの間、冷や水を浴びせるように現れた問題に対して、父と母は衝撃を受け止めきれないようだった。それでもなんとか治療しようとして、色んな病院を回って医師に相談したりしていたけれど、有効な手がかりは見つからなかった。

 病院から帰ってくるたびに気落ちして、だんだんすり減っていく両親を、ぼくは見ていられなかった。そんなに苦しいのなら、やめちゃえばいいのに。子ども心にそんなことを考えたりもした。

 やがて、母は弟の完治を諦め、長期的な矯正に方針を切り替えた。社会に完全に馴染むことは不可能としても、少しでも適応させるために、弟を学校に通わせず、自宅で特殊な学習プログラムを受けさせる。

 弟が「障害者」であることを受け入れる過程で、父と母にどんな葛藤があったのか、ぼくは知らない。当時のぼくにとって弟は、いつのまにか障害者になっていた「かわいそうな子」であると同時に、どんなに頑張っても普通にはなれない「弱者」だった。

 状況が変わったのは、弟が六歳、ぼくが八歳の頃だった。それまで庇護すべき弱者でしかなかった弟に、「才能」が見つかった。正直、才能という言葉はあまり好きではないが、弟が持ち合わせていたものは、正しくその言葉で表現されるべきものだった。

 見つかった才能というのは、絵の才能だった。母が戯れに与えた画用紙とクレヨンを駆使して、弟は人生で初めて絵を描いた。弟が差し出した絵を見て母は妙な違和感に囚われ、そして次の瞬間、驚愕に見舞われた。

 弟が描いた絵は、眼前に座っていた母を描いたものだったが、明らかに立体を意識した遠近法が絵の中に表現されていたのだ。

「この子にはきっと、絵の才能がある」

 思い込んだら、母の行動は早かった。

 母はそれまで続けていた矯正治療をすっぱりやめると、浮いた費用をつぎ込んで弟に絵の英才教育を受けさせ始めた。弟のような子供でも積極的に受け入れて美術を習わせてくれる絵画教室を探し出し、ほとんど毎日のように車で送り迎えをして弟を通わせた。

 弟の成長は、真綿が水を吸い込むがごとき速度で、弟の描く絵は日に日に精緻になっていった。

 弟は天才だった。

 天上の存在が気まぐれで「特典」を与えたような、恣意的な天才ではない。状況が生み出した天才だったのだ。

 弟は頭の一部に欠陥を抱え、常人には想像もつかないハンディキャップを背負っていた。弟に絵の才能があったのは、それらの欠陥と引き換えにしたものだったのだと、ぼくは思う。

 まともに人とコミュニケーションを取ることもできない弟は、絵で自らを表現する以外に世界と関わる方法がなかったのだ。それしか方法がないがゆえに、他にいくらでも世界と関わる手段を持っている健常者の何倍もの速度で弟の技術は成長した。

 ただの弱者でしかなかった弟が天才になった影響は、当然ながら家族全体に波及した。

 父と母は諸手を上げて喜び、ますます弟に慈しみと賞賛を注ぐようになった。

 父は弟に画材を買い与えるために仕事に専念するようになり、ほとんど家に帰って来なくなった。

 母は弟が画家としての生きていけるようになるように、様々な道を模索し始めた。

 両親が弟に関わる時間はどんどん増えて、代わりにぼくに関わる時間はどんどん減っていった。

 ぼくはそんな三人の様子を、ただ遠目に見ていた。

 生まれつきの不運をバネとして才能を開花させた弟と、弟のために精一杯の援助をする両親。三人の世界は実にドラマチックに完結していて、希望に満ちたものだった。

 そしてぼくは、そんな「完璧」の蛇足だった。

 仕方のないことだとは思う。だって、生まれつき障害を抱えた子供と、健康優良児の子供では、大人がどちらにより同情するかなんてことは、猿でもわかることだ。両親が弟に構って、ぼくに構わなくなるのは、至極当然の成り行きだった。

 ぼくも寂しかったから、学校でいい成績を取ろうと必死に勉強したり、あるいは弟の無能さをあげつらって馬鹿にしてみたりしたけれど、どうあがいたって弟の派手さには敵わない。

 それどころか、ぼくが一方的に弟に突っかかってみても、弟の方がぼくがなぜ怒っているのか理解すらできないのだ。ぼくと弟は競い合うどころか、そもそも同じ土俵に立ってすらいなかった。

 ぼくは次第に両親の気を引くのを諦めるようになって、少なくとも両親から嫌悪されないように、物分かりのいい長兄を演じるようになった。

 ぼくにとってどうしても耐え難かったのは、母がぼくに弟の世話を教え込もうとし始めたことだ。

 ぼくが高校生になって、将来の進路をそれなりに深刻に考え始めたときのことだ。その頃には弟は年若い天才画家としてすでに有名になっていて、特待生待遇で絵の学校に通っていた。

 母からしてみれば、自然なことだったのだろう。母は弟を産んだときすでに三十代半ばだったし、順当に生きられたのなら、弟が母より先に死ぬことはない。母が自分の死後の弟の人生について心配し、その結果としてぼくに弟の世話係を引き継がせようとしたのは、自然な思考だった。

 だけど、ぼくにとっては冗談ではなかった。弟とはもう何年もまともに口をきいていなかった。ぼくは弟が嫌いなわけではなかったが、弟のせいでぼくが享受するはずだった幸せを奪われたとは感じていた。ぼくと弟の関係は、「血が繋がっているだけの赤の他人」程度のものだったのだ。

 母はぼくと弟が助け合って生きていくのは当然のことと考えていたのかもしれないけれど、ぼくにしてみればそれは奴隷契約にも等しい話だった。ぼくは激昂し、大喧嘩の末に進路を決めた。家から遠く離れた大学への進学。授業料も、生活費も、自分で賄った。二度と家には帰らないつもりだった。

 

 

 

★★★

 

 

 

 それから数年後、ぼくは高層ビルから身を投げて一度目の自殺を果たすことになる。

 家族との関係のこじれは、最も強力な要因ではあったことは確かだが、決定的なものではなかった。

 孤独感から来る抑うつ状態に、細かな不幸がいくつか偶然重なって、長期的な波動と短期的な波動が合流した結果、精神の臨界点を超えてしまった。

 無理矢理に説明をつけるとしたら、恐らくそんなところだろう。あの自殺はそういう意味では、ある種の事故だったとも言える。

 いっそのこと、弟を憎むことができたら。そう思ったことは何度かあった。

 弟のせいでぼくは不幸になったのだと思い込むことができれば、ぼくは自分の中に淀む暗い感情の矛先を見つけることができただろうし、限界まで溜め込むこともなかったはずだ。だけど、ぼくは弟を悪だと断じることはできなかった。それは、ぼくがずっと近くで弟が苦しむ姿を見てきていたからだった。

 絵に出会う前の弟には、自由な時間はほとんどなかった。分刻みで定められた学習プログラムで、一日の行動のほとんどを強制されていたからだ。ぼくが学校で友達と一緒にいるときも、弟は自宅で一人で自分の障害と向き合い続けていたのだ。自分がなぜこのような苦痛を強いられなければならないのか、理解できないままにプログラムをこなすしかなかった弟のことを思うと、ぼくは弟を憎むことなどできなかった。弟が幸せになるために、ぼくが割りを食わざるを得ない現実に、絶望することしかできなかったのだ。

 今から思えば、神さまに「魂の所有権」をもらったぼくが「完璧な人生」を求めたのは、一度目の人生の反動だったのかもしれない。三人で完結していたあの幸福の中に、ぼくも混ぜて欲しかった。弟に嫉妬することも、無力感に打ちひしがれることもなく、家族全員で笑い合えるような結末が欲しかったのだ。

 

 

 

★★★

 

 

 

 神さまに忠告を受けたのちも転生を繰り返すうちに、ぼくはだんだん自分の魂がどれくらい劣化しているのかを感じ取れるようになっていた。

 死期が近づいた人間が自身の寿命を悟れるようになるのと同じような感覚だろうか。自分の中から大切なものがこぼれ落ちていくのが分かって、それがあとどれくらいの間持つのかも、感覚的に掴めるようになってくるのだ。

 その感覚が教えるところによると、どうやらぼくの魂は今回の転生で限界を迎えたらしい。今回の人生が、ぼくにとって本当の意味で最後の人生になるようだった。

 今回の生家は、この世界では支配階級と言える貴族の家系だった。

 完全にランダムな転生で、人生のスタートが支配階級で始まるというのは、そうあることではない。単純に、どんな世界であっても支配階級の人口というのは少ないものだからだ。

 「完璧な人生」を目指していたころならば幸運に小躍りして喜んだかもしれないが、そんな気も失せた今となっては煩わしさばかりが目についた。ぼくは貴族だけが受けられるという魔法教育をさっさと修めたあと、家族の誰にも内緒で家を飛び出し、旅を始めた。

 目的のある旅ではなかった。旅自体が目的だった、とも言えるだろう。今まで散々、くだらない目的のためにくだらない人生を送ってきた。最後くらい色々なことを忘れて、生きることを楽しんでもいいだろう。そう思って、深く考えもせずに出発した。

 ひとり旅は大変だったが、「完璧な人生」のためにぎらぎらしていたころと比べると、心は随分と穏やかだった。幸いにというか、この世界の魔法は個人でもかなり広い範囲に応用を効かせることのできる汎用性の高いもので、細々した雑事は大抵なんとかなった。宿泊施設は充実しているとは言えなかったが、この世界でもっとも信徒を集める宗教である「聖火教」の教会が各地に建っていて、困ったときはそこに泊めてもらうことが可能だった。

 十代で旅を始めて、数年が過ぎた。

 度々死体の偽装を繰り返してきたことが奏功して、この頃になると、当初は追っ手を放っていた様子だった実家もぼくの生存を諦めたようだった。

「これでぼくは自由だ。この世界で、本当に一人になった」

 清々しさと寂しさが、同時に胸の中にあった。ぼくはきっと、このまま人知れずどこかで野垂れ死ぬのだろう。魂をひとつ丸々使い潰した男の末路にしては、あまりにあっけない感もあるが、最後まで「完璧な人生」なんて幻想を追い求めて破滅するよりはまだしもましと言える。

 そもそも人生というのは、物語のように分かり易い解答が出るものではない。ぼくの人生は、これでいいのだ。ぼくはそんな風に、最後の人生に対して自分の中で折り合いをつけるようになっていた。

 

 

 

★★★

 

 

 

 その少女とぼくが初めて出会ったのは、いつものように一晩だけ教会に宿泊させてもらったときのことだった。

 その教会は孤児院を兼ねていて、親のいない子供たちが何人も神父さんに養われて暮らしていた。

 ぼくは戯れに魔法を見せてやって、子供たちと仲良くなった。この世界で魔法の知識に触れることのできる人間は限られていて、魔法技術で生み出されたものは戦場以外では特権階級の娯楽のためにのみ使われるので、平民以下の人間は一生魔法を目にすることがないのも珍しくないという。

 簡単な風の魔法できゃっきゃとはしゃぐ子供たちは微笑ましく、ぼくはこれまでの人生で見失っていたものをまたひとつ取り戻した気になった。

 翌朝、教会を発つ時間になって、神父さんはぼくの前に一人の子供を連れてきた。昨日ぼくが遊んだ子供たちの中にはいなかった子だった。

 肩まで伸ばしたばさばさの髪を、頭部ごと襤褸のフードで覆い隠した女の子。右手を神父さんと繋ぎ、無言でぼくをじっと見つめている。

「魔法使い様。失礼なことだとは分かっているのですが、どうかこの子を見てはもらえませんか?」

 ぼくは訝しみながらも、女の子のフードをそろりと脱がせた。露わになった容姿は孤児にしては整ったもので目を引いたが、ぼくが驚いたのはそこではなかった。

 少女の面貌は、額から目元のかけての部分が黒々とした大きな痣で覆われていたのだ。

「これは……」

「はい、『悪魔憑き』です。魔法使い様」

 「悪魔憑き」とは、この世界に固有の謎の病だった。頭部の上半分が大きな痣に覆われる以外にこれといって症状は出ないが、これに罹ったものは長くても五年は生きられず、どんなに健康に見えてもある日突然死んでしまう。

 あらゆる医師がこの病の謎に挑み、あらゆる角度から検証を繰り返したが、先天性のものなのか後天性のものなのかすらも分からず、治療法も確立されていない完全な死病であった。

 医師でもないぼくがこの病を知っているのは、聖火教がこの病を「悪魔の仕業である」とし、広く世間に広めたという経緯があったからだった。

「……この子は、いつ頃からこの病を」

「すでに、三年前には」

「なぜぼくに?」

「……ご存知のように、我々信徒は『悪魔憑き』を見つけたら教会に連絡し、聖騎士団に引き渡す義務が課せられています。しかし、そんなことをすればこの子がどのような仕打ちを受けることになるかは火を見るよりも明らかだ。教会の中でも聖騎士団は、特に『悪魔』と名のつくものに対し容赦がない」

「……」

「魔法使い様。私は、『悪魔憑き』は悪魔の仕業などではなく、なんらかの魔術的な原因があると考えております。神父の端くれとして、私も魔術を齧っておりました。彼女の身体を診察してみましたが、やはり()()()()()()()()()()()。だとすればあり得るのは、魔術的な呪いとしか……」

「なるほど。つまり、あなたはそれを私に調べて欲しいと」

「勝手なことを言っているのは百も承知です。しかし、この子にはもう時間がない。それに、こんな辺境の教会では、魔術的な知識を得ようにも伝手が無いのです。私よりもずっと優れた魔法使いであり、旅をしているあなたであれば、この子の命を救う方法を見つけられる可能性もあるでしょう」

 神父は沈痛な面持ちで懇願する。

 仮にも聖火教の所属である神父が「悪魔憑き」を逃がそうとしたということが知れれば、彼の身にもどんな災いが降りかかるが分からない。しかしそれを押してでも、彼は少女を見捨てることができなかったのだろう。

 ぼくの存在は彼にとって、地獄にもたらされた一本の蜘蛛の糸なのだ。頼りないとわかっていても、掴まずにはいられなかった。

 しかし、この要求を受け入れるということは、ぼくもまた聖火教の教義に反するということだ。どこの神父もこの神父のように悪魔憑きに理解があるとは思えない。この少女を旅に同行させるということは、教会に泊まることができなくなるということだ。人目も忍ばなくてはならなくなるだろう。最悪、聖騎士団に見つかれば、殺されることもあり得るかもしれない。

 この人生は、ぼくの最後の人生だ。今までのように不幸に行き当たったらリセット、というわけにはいかない。ぼくの命の重みは、今や周囲の人々と変わらないのだ。軽率な選択をするわけにはいかない。

 ぼくは逡巡し、最終的な決定を少女自身に委ねることにした。今この場で最も弱い立場にある彼女の意思が、最も尊重されるべきだと思ったからだ。

 少女の、痣に覆われた双眸を真っ直ぐに見つめて、ぼくは問うた。

「きみはどうしたい?ぼくと共に来れば、この先数十年生きられる可能性が、ほんの僅かだが開けることになる。しかし未知と危険がいっぱいだ。神父さんの元に残れば、あと数年で死んでしまうかもしれないが、見知った仲間と穏やかな時間を過ごすことができるだろう。きみの人生だ。きみが選びなさい」

 少女は神父を見上げ、ぼくを見上げ、俯いて地面を見つめたのち、神父さんと繋いでいた右手を、そっと解いた。

「それがきみの選択ならば、ぼくはそれを尊重しよう」

 少女が差し出した右手を、ぼくは左手でそっと握り返した。

 

 

 

★★★

 

 

 

 こうして、孤独な一人旅は奇妙な二人旅になった。

 ぼくが名を聞くと、少女はソフィと名乗った。

「父さん……神父さんがつけてくれたの」

 もう会えないかもしれないことを思い出したのか、少女は少し寂しそうにしながら言った。

 ぼくはいつかの人生でぼくに向かって微笑んでいた女の子のことを思い出して、懐かしい気持ちになった。

 ソフィとぼくは、聖火教の気配を避けながら、都市を巡る旅を続けた。人の集まるところには、知識が集まる。平民以下が魔法の情報を得るのは簡単ではないが、ぼくには実家から出奔する際にいくつか持ち出してきた貴族徽章があった。

 貴金属をふんだんに使用して造られた、芸術品のようなバッジ。

 貴族であることを示すこのバッジがあれば、どんな見窄らしい見た目であっても、国立の図書館に入館を断られることはない。

 「悪魔憑き」のことを人に尋ねるわけにはいかないので、情報収集は基本的に一人で行った。

 「悪魔憑き」の記述を含む歴史書や、魔術的な呪いを網羅的に解説する学術書など、有力そうな情報には片端からあたり、望みが薄いと判断したら次の都市へ。

 そんなことを毎日繰り返していくうちに、有力な候補はどんどん消えていき、最後にこの国の首都に設置された世界最大級の国立図書館だけが残った。

 すでにソフィと旅を始めてから一年以上が経過している。神父の話ではソフィは四年前には「悪魔憑き」を発症していたというから、定説では、ソフィはもはやいつ死んでもおかしくないわけだ。時間はあまり残されていない。

 ぼくらは図書館に入り、まずその圧倒的な蔵書量に驚いた。これまで色んな都市でいろんな図書館を見てきたけれど、流石に首都の図書館だけあってここの規模は桁違いだった。

 顔の上半分を包帯で隠したソフィの手を引いて、棚から引っ張りだしてきた蔵書を机に起き、一冊ずつ調べ始める。隣の席でソフィは一言も発することなく静かに座っている。ぱらぱらと、しばらく紙をめくる音だけが響く。

 ふと、なぜぼくはこんなことをしているのだろう、という疑問が湧いてくる。なぜぼくは最後の人生を、わざわざ見知らぬ少女のために、こんなにも一生懸命になって費やすことができているのか?

 ずっと自分だけのために「完璧な人生」を追いかけていたぼくは、自分で自分のことを、自分本位の身勝手な男なのだと思っていた。人の気持ちを省みることなく、自分のわがままを通そうとするやつなのだと。

 だとしたら、こうして少女のために動いているように見えて、今もぼくは自分のために動いているのだろうか。

 それとも、単なる気まぎれなのか?成功しても失敗しても、数年で終わることだからと割り切っているのだろうか。

 あるいは、自分でも気づいていないが、ぼくが「完璧な人生」を求めたことと、少女を救おうとしていることには、何か共通の動機があるのか?

 わからない。ぐるぐると巡る思考とは独立して、手と目は作業を続けている。ぱらぱらと(ページ)をめくる動きは止まらない。

 ぐるぐる、ぱらぱら、ぐるぐる、ぱらぱら。

「――ん?」

 不意に意識に何かが引っかかって、頁の端っこを摘んだ指が止まる。視線がしばらく文章を舐めて、やがて一箇所に収束する。そこにはこう書かれていた。

「『悪魔憑き』は心身の病ではない。心の器の異常である。ゆえに、人が『悪魔憑き』を癒すことはできない……」

 「心の器」。肉体という物質に、精神を留めおくための容器。大昔、そういう説明を、ぼくは誰かから聞いたことがあった。

 ぼくはソフィの方を見て、ソフィも包帯越しにぼくの方を見た。

「ソフィ」

「なに?」

「行こう」

 ぼくはソフィの手をとって、歩きだした。

 

 

 

★★★

 

 

 

 もし100人の転生者が、ぼくと同じ「魂の所有権」を特典(ギフト)で受け取ったなら、きっと100人全員が、ぼくよりもずっと有効な使い方を見つけるだろう。

 ぼくよりもずっと多くの人を幸せにするだろうし、ぼくよりもずっと沢山の発見をするだろうし、あるいは神さまの視点に立って、宇宙の調和とやらを保つために貢献する人もいるかもしれない。

 思うに、ぼくは人生の使い方が人よりもずっと下手くそだった。

 人生とは自らの可能性を開拓していく道のりのはずなのに、自分で自分の視野を狭めて、自分で自分の選択肢を奪っていた。

 その挙句、今のぼくの手元にあるものは、残り僅かとなった魂の寿命と、数えきれないほどの自殺の経験。それから「完璧な人生」という初志を貫徹できなかったことへの、少しの後悔。

 なんとも貧相なものだ。人よりもずっと長い時間を与えられていたのに、ぼくはその長い旅路の果てに、いろいろなものを失くしてしまった。他の100人なら得られただろう多くの学びを、ぼくは見落として、素通りして、振り返ろうともしなかった。

 愚かなことだ。滑稽なことだ。ぼくは自分から自分の幸福を否定していた。自分で自分を追い詰めていたのだ。

 だが、そんなぼくの愚行の中でも輪をかけて愚かなことは、物事の悪い側面だけを見ようとしていたことだ。自らの無能に、不運に、欠陥に、ぼくは常に注意を払い続けてきた。そして、その裏に隠れている良い側面を見ようとしなかった。そんなものは存在しないと、思い込んでいたのだ。

 だけど、今のぼくにはわかる。物事には必ず、良い側面と悪い側面の両方が存在する。例えば、ぼくは無数の世界を旅して多くのものを失ってきたが、同時に多くのものを獲得してきた。喪失とは概して獲得であり、両者の違いは解釈の問題でしかない。

 くだらない目的のためのくだらない旅路だったが、ぼくの手には、そのくだらなさの中で獲得されたものがたしかにある。

 そのひとつが、魔術だ。魔術とは、人の力の及ばない世界を理解し、操作して、支配しようという試みの総体に他ならない。あらゆる世界であらゆる手法でもって繰り返されてきた魔術的試み。そのどれもが人であるがゆえに逃れられない主観の歪みを伴ったものであったが、それらは確かに神の創りし世界の一部を暴き、神秘の正体を白日の下に晒してきた。

 そしてぼくは「完璧な人生」に至ろうとする過程の中で、それらの魔術に関わってきたのだ。ゆえに、ぼくにだけは、可能なことがある。

 各々の世界の魔術は不完全であっても、ジグソーパズルのピースをはめるように、それぞれの欠点を補い合うようにして全体的なひとつの像をイメージすることで、神秘を――つまり、神の御業を再現することができるのだ。

 ぼくとソフィは、都市をでたあと、「儀式」に使うための広い空間を求めて、街道を大きく外れ、山の中腹に空いた洞窟に来ていた。ここならば、誰に見つかることもなく大魔術を行使できる。

 睡眠魔法でソフィを眠らせ、ぼくは儀式に必要な準備を全て終わらせる。今から行う儀式は、ソフィの命を脅かしている「悪魔憑き」の原因を除去するものだ。

 国立図書館で当たった文献にあった一節。あの一文が、「悪魔憑き」の正体を全て説明してくれていた。

 「悪魔憑き」は肉体の病ではなく、「心の器」の異常。この世界の医師たちには、きっとこの一節の意味が理解できなかったのだろうが、ぼくにはこれの意味が理解できた。なぜなら、同じ説明をずっと昔に聞いたことがあったからだ。

 ここで著者が言及している「心の器」とは、「魂」のことだ。神はぼくに魂について説明したとき、水の入った甕の例を用いて、魂とは物質世界の肉体に精神という不安定なものを留めおくための容器であると言った。

 あの文献の著者はおそらく、ぼくと同じ転生者だ。恐らくは神に同じ説明を聞かされ、この世界に転生したあと、この世界特有の「悪魔憑き」を知り、その原因が心でも体でもなく、魂の不具合であると推測した。これは、魂の存在とその役割を知っているものだけが到達できる結論だ。

 心にも体にも不具合がないのなら、魂の不具合でしかありえない。そして、ここが肝心なところなのだが、心身の治療はともかく()()()()()()()()()。だからこそ悪魔憑きは、長年不治の病だった。あの文献を書いた転生者も、きっとそこで諦めたのだろう。魂を作ることはできないから、「悪魔憑き」を治すことは不可能だと。だからこそ「人の身では『悪魔憑き』を癒すことはできない」とまで記した。魂を作るのは神々の役割で、魂を治す方法は神々しか知らない。神ならぬ人の身では、魂の病である「悪魔憑き」を治すことはできない、と。

 本来なら、そうだ。だけど、ここにひとりだけ、例外がいる。「魂の所有権」を持ち、あらゆる世界で魔術を学んできた人間。神の御業を再現できるぼくになら、魂を成形するために必要だという「冥府の炎」も再現できる。

 材料も、手段も揃っていた。ぼくにしかできないことがあった。再現性はなくて、この少女ひとりしか救えない方法だけど。仮に成功したとして、ぼくがこの少女に与えることができるのは、ぼくが浪費してきた時間の数万分の一でしかないけれど。

 目の前で消えかかっている命の火を繋ぐことは、それだけで意味のあることだと思えたから。

 ――もし100人の転生者が、ぼくと同じ「魂の所有権」を特典ギフトで受け取ったなら、きっと100人全員が、ぼくよりもずっと有効な使い方を見つけるだろう。

 それでも、今ここでこの少女を救うことができるのは、ぼくというただ一人の人間なのだ。

「はじめよう」

 ぼくはゆっくりと、命を繋ぐ呪文(ことば)を紡ぎ始めた。

 

 

 

★★★

 

 

 

 ぼくとソフィの周囲を、ゆらゆらと揺れる紫の炎が取り囲んで行く。熱を持たない幽玄の炎。地獄の底で燃え続け、神々がそこで魂を成形するという、冥府の炎だ。

 異世界の魔法理論をつぎはぎに繋ぎ合わせた、誰も見たことのない神秘の領域の魔術。それによって、ぼくは神の御業の一端を再現することに成功した。しかし、重要なのはここからだ。ソフィの命は、いつ崩壊を始めてもおかしくない状況なのだ。迅速にこなさなければならない。

 ありったけの集中力で冥府の炎の術式を維持しつつ、ぼくは自分とソフィの魂を表に顕現させる。炎によって擬似的な冥界と化した洞窟内では、本来人が触れることのできない魂を、表に現すことも可能だ。

 ぼくは取り出した自分の魂をじっと見据える。永劫にも等しい転生生活の末に、限界まで記憶を溜め込んだ、はち切れる寸前の魂。

 そして、ソフィの魂。こちらはぼくのものよりずっと余裕があるが、一部が黒々と腐食し、明らかに不良品であるとわかる魂だ。

 ――つまるところ「悪魔憑き」という病は、たまたま不良品の魂を割り当てられてしまった人間が発症する、先天性の不治の病だった。

 人の身では決して治すことは出来ず、対策も不可能。そんな絵に描いたような理不尽を、ソフィは生まれながらに抱えさせられていたのだ。

 ふいに、腹の底から、急激に激しい感情が湧き上がる。この感情は、ソフィアが死んだとき神に対して抱いたものによく似ている。だが、あのときとは違って刺々しい害意を孕んだものではない。衝動的で無軌道な怒りとは違う。あえて名付けるなら、これは「意地」だ。

 理不尽で不条理で、人の力ではどうしようもない物事に抵抗するための、反骨の意思。人を無力感の底に陥れようとする「真理」だとか「運命」みたいなものに対する、「クソくらえ!!」という叫び。絶望的な理屈に対して、盾も矛もなく、己の拳で真正面からぶち破ろうとする人間に宿る、底力の感情。

 ぼくは膨れ上がった感情を指先に込めて、ぼくの魂に手を伸ばす。大きな卵のようにも見える不定形の塊。その表面に爪を突き立てて、ぼくは一気に、その塊を引き千切る。

「ぐううう!?」

 瞬間、内臓が破裂したような衝撃とともに、「ぼく」という人間を構成する要素が、流出し始める。風船が割れて中の空気が外に漏れ出すように、魂の内側に溜め込まれていた記憶がこぼれ落ちているのだ。

 これまで歩んできた旅路、出会った人々との思い出、楽しかったもの、苦しかったもの、ぼくが見向きもしなかったものまで、自我の濁流は一切の区別無く押し流していく。

「があああああああ!!」

 痛みがあるわけじゃない。苦しいわけでもない。今のぼくを襲っているのは、単純で膨大な喪失感だ。何を失ったのかは分からない。ただ「とても大切なものを無くした」という根拠のない確信だけが、ぼくの全身を苛んでいる。

 ぼくはぼろぼろと涙をこぼしながら、自分から剥ぎ取った魂の破片を、腐食が広がるソフィの魂の上から貼り付けていく。

 ぼくがソフィを救うために選択した方法とは、魂の移植手術だった。

 かつて神が言った「魂は全て同じ素材から作られている」という言葉から思いついた方法だ。自分の魂から剥ぎ取った素材を使ってソフィの魂の腐食部分を覆い、冥府の炎で焼き付ける。その繰り返しで、ソフィの魂をぼくの魂で覆ってしまえば、ソフィの魂の腐食が進行したとしても、ソフィの精神は漏出することなく、肉体に留まっていられるはずだ。

 もちろんなんらかの副作用がある可能性は否めないし、下手をしたらこの場でぼくもソフィも死んでしまうかもしれない。完全に無駄なあがきである可能性を、否定できる根拠はどこにもない。

「だからなんだ。利口なフリして理屈に従うだけじゃ、何も変わらねえだろうが」

 結局、それが全てだった。ぼくの中でずっとわだかまっていた疑問が、唐突に腑に落ちた。

 ぼくはずっと、イラついていたんだ。一番最初の世界で弟を苦しめた障害だったり、ソフィアを死に追いやった「宇宙の調和」だったり、ソフィに降りかかった「悪魔憑き」だったり。そういう個人の力ではどうしようもないような、前提として諦めを強要するような理不尽を押し付ける、顔も知らない誰かにイラついていたんだ。泣き寝入りして、妥協案を探すしかない自分が惨めで、見返してやりたいとずっと思っていた。「完璧な人生」なんて手に入らなくても、そいつの顔面を一発ぶん殴ってやれれば、ぼくはそれでじゅうぶんだったのだ。

 今までずっと、殴り方がわからなくて、迷走ばかりしてきたけれど。無駄なだけの人生の繰り返しだったと思っていたけど。どうやらそいつはいま、ぼくの手の届くところにいるらしい。ぼくは拳を握りしめて、そいつをぶん殴る用意をした。

 ソフィの魂は、もうほとんどぼくの魂の切れ端で覆われている。つぎはぎで、不恰好な形になっちゃったけど、ソフィは許してくれるだろうか?いいや、許してくれなくてもいい。生きてさえくれれば、とりあえずはそれでいい。

 自我が崩壊を始める。「ぼく」がぼくじゃなくなっていく。意識がいくつにも分裂して、身体が言うことを聞かなくなっていく。まだだ。もう少しだけ、持ってくれ。ぼくはもうほとんど見えもしない目を見開いて、最後の一片をソフィの魂に焼き付ける。記憶が流れ出して、魔術の制御が聞かなくなっている。冥府の炎がぼやけるように消えていく。

 身体が頽れ、ぼくはソフィの隣に横になった。息は不規則に荒い。精神は肉体の外に漏れ出していて、もはやぼくの命は、風前の灯だろう。最後の命が尽きるのは、もはや時間の問題だった。

 ぼくは最後の力を振り絞って、手の甲をソフィの頰に当てた。すうすうと、ソフィの吐息が手にかかって、ぼくはソフィが命を繋いだことを知った。

「ああ、よかった」

 涙が滲んで、声はぐずぐずになった。

 ソフィが生きている。その事実はそれだけで、ぼくの心を救ってくれた。

 思うに、高層ビルから身を投げたあの日、ぼくはすでに死んだ人間だった。転生を繰り返して、無数の人生を送ったとは言っても、ぼくの心は、あの日から一歩も前には進んでいなかった。

 幽霊が自分の死に納得できず、死んだ場所を彷徨っていたようなものだ。幽霊と違う点は、ぼくがたまたま神さまのお膳立てを手に入れて、少しばかり長い人生の「おまけ」を過ごすことを許されたという点だろう。

 ぼくは、未練を晴らす機会に恵まれた幸運な死人だったのだ。

 記憶は、相変わらずこぼれ落ちていっているが、すこしペースが落ちたようだ。魂の崩壊も止まっている。もはや修復は不可能だろうが、今しばらくの猶予を与えられたということだろうか。

 ぼくは大きく息を吸い込んで、魂の底の方にまだ残っている記憶をさらってみる。転生後のものはほとんど流れ出してしまったみたいで、残っているものは、一番最初の人生の記憶ばかりだった。

 体感ではもう数万年前の記憶だというのに、ほかの記憶が流れ出したからだろうか、記憶を突いてみれば、つい昨日のことのように思い出すことができた。

 ビルの屋上から飛んだ時の浮遊感。一人で暮らすと決めたきっかけとなった、母との大喧嘩。弟の描いた精緻な風景画。真夜中に疲れ果てて帰ってきた、仕事終わりの父。

 記憶はどんどん時間を遡っていく。

 当初はトラウマじみた経験だったが、こうして思い出してみると、ただただ懐かしいという気持ちだけがあった。死を受け入れることができて、少しは自分を客観的に見られるようになったということだろうか。

 時間は巻き戻る。過去の幻影は次々と後ろへ流れていって、ついに意識上では忘れていた無意識化の記憶領域に突入していく。

 絵の才能を見つける前の弟はまともに言葉を話すことも出来ず、父と母はそんな弟をどうにかしようと必死だった。何もできないぼくは、遠目に見ていることしかできなかった。

 弟が生まれる前。父と母の愛情はぼくひとりのものだった。ぼくは「幸福」の中にいた。全てが満ち足りていて、欠けたものなんて何もなかった。

 そして、原初の記憶。

 無数の記憶の山の、底の底に眠っていた、「ぼく」という人間を形作る一番最初の記憶が、記憶の流出に伴ってぼくの中で蘇ってきた。

 ぼくを抱きかかえて、微笑みを浮かべる母さんと、ぼくの顔を覗き込んでにこにこ笑う父さん。ぼくが、生まれたときの記憶。初めて、両親に出会ったときの記憶だ。

 二人は心の底から、ぼくの誕生を祝福してくれていた。ぼくは二人にとって、蛇足なんかじゃなかった。

 母さんがゆっくりと口を開く。

 ぼくが本当に言って欲しかった言葉。すでに受け取っていたはずなのに、ぼくが忘れてしまっていた言葉。かつてはぼくの始まりを祝福した言葉を、今度はぼくの終わりを祝福するように、もう一度。

 記憶の中の母さんが言う。

「生まれてきてくれて、ありがとう」

 ぼくの全ては、そこで途切れた。


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