メイド・オブ・レンゴク   作:鈴近

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初出からかなり経ったので全文投稿することにしました。お楽しみください。
一回で全部出すのはさすがに読みづらいと思ったので一日一万字くらいずつ投稿されます。


幼少期1 人生の岐路

 黎明の頃が一番空は暗い。真っ黒だった夜空が少しずつ青へ表情を変えていき、太陽が光を連れてゆっくりと顔を出す。

 空が白む朝方、夕映はぱちりと目を開けて身を起こし、テキパキと布団を畳んだ。からりと障子を開けると、澄み切った早朝の空気が頬を刺す。夕映は寝間着姿のままぐっと伸びをし、冷たい朝の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。肺を空気が満たし、血がそれを取り込み、筋肉の繊維一本一本に血が巡っていく感覚を思い出す。体温が上がるのを感じて、夕映はぐっぱっと手を開き、閉じる。まぶしい光に目を眇めながら、彼女は開けた障子を音を立てずに閉め、着替えを始めた。

 また朝が来た。新しい一日が始まる。それがとても尊くて失われやすいものだと、心に刻みつけて、夕映(ゆえ)は今日も朝を迎えられたことに感謝する。

 木綿の着物を身にまとったら、まずは掃除、それから朝食の準備だ。たすき掛けをして、割烹着を着て、夕映は自室を出た。お仕えしている主人一家を起こさないよう、足音を殺しながら小走りで移動するという器用な真似をしながら、彼女は台所へ飛び込んだ。庭へ繋がる扉を開け、土間を掃く。次に水汲み。桶片手に井戸へ向かい、台所と井戸を往復。米を研いで浸水させ、みそ汁を作るためにマッチで火を起こす。

(杏寿郎坊ちゃん、今日は何時ごろのお帰りかしら)

 野菜を切りながら考えるのは、上の坊ちゃんのことだ。彼は夕方から夜にかけて働いていて、仕事が終わるのはいつも夜空が白く変わる頃。仕事で遠くまで出かけることもあるから、毎日この屋敷に帰ってくるわけではないけれど、帰るか帰らないかはいつもきっちり連絡をくれる。

 ばさばさと羽音が庭から聞こえた。ぱっと夕映はそちらを振り向く。

 

「カアァァーッ! 杏寿郎、帰還ハ一時間後ォ!」

 

 ちょうどこんな具合に。

 夕映は笑って、鎹鴉に「はぁい、わかりました。今日もありがとうございます」と頭を下げた。

 さて、一時間後なら米が炊けて握り飯を用意できる。あとは焼き魚に青菜のおひたしをつけようか。食事をしたらすぐに眠られるだろうから、部屋を整えて布団の準備をしておかなければ。仕事の算段をつけつつ、夕映はふにゃりと微笑む。

 今日も坊ちゃんが無事でなによりだ。

 

「ただいま帰った!」

「坊ちゃん! おかえりなさいませ、ご無事でようございました。朝ご飯できていますよ」

「うむ!」

「お着替え手伝わせていただきます。あ、そうだ、隣の小母さまが坊ちゃんに好い人はいないのかと見合いの話を……」

「断っておいてくれ! まったく、夕映が俺の嫁になることを了承すれば縁談もぱたりとなくなるだろうに!」

「あらぁ、坊ちゃんも懲りませんねぇ。私が煉獄家の女中である限り、坊ちゃんと一緒になることはありませんよぅ? せめて旦那様を正面から説得してくださいませんと。ああ恐れ多い。緊張のあまり鳥肌が」

「ははは、冗談がうまくなったな!」

 

 

 篝夕映は煉獄家の女中である。四歳のときにこの家に引き取られ、以降女中として仕えている。

 煉獄家には三人の男がいる。父、槇寿郎。長男、杏寿郎。次男、千寿郎。皆赤毛交じりの金髪で、獅子のような髪質をしている。特徴的なのはぎょろっとした金の瞳だろう。煉獄家男児はほとんどこの顔だと幼い頃に槇寿郎が語っていた。

 煉獄家の人々は鬼殺隊の隊員であり、この家系は、隊員たちの中でも最強を謳われる「柱」たちのうち、炎の呼吸を操る「炎柱」を代々輩出している。十年前は家長の煉獄槇寿郎が柱を務め上げ、現在は長男の杏寿郎が柱だ。

 鬼殺隊。千年前から鬼を狩るために存在する、政府非公認組織。隊員数は数百名、現在の柱は七名。隊士は関係者から鬼狩りと呼ばれることも多々ある。

 鬼。人間から変質し、人の血肉を食らうようになった化け物。

 すべての鬼の大本には鬼舞辻無惨という存在があるということだけが隊員たちに周知の事実として伝えられており、その「鬼舞辻無惨」がどのような外見なのか、男なのか女なのか、年齢さえも杳として知れない。わかっているのは鬼舞辻がすべての始まりだということのみ。鬼殺隊の目標は鬼舞辻を抹殺することである。鬼舞辻を殺さなければ鬼は増え続ける。鬼を増やせるのは原則として鬼舞辻だけだからだ。

 鬼にも柱に相当する十二鬼月という集団があり、柱が下弦を殺しては上弦が柱を食らうような状態が千年間続いている。その間にも無数の隊員が死んでいる。

 鬼を殺す手段は限られる。日光の下に引きずり出せばどのような鬼でも身体が崩れて死に至るが、それ以外の弱点はほとんどないと言っていい。腕を切ったところで瞬く間に再生するし、専用の武器でなければ頸を落としても死なない。

 しかし、鬼殺隊は鬼とは違って、人間相応の肉体のままで鬼と戦わなければならない。腕がもげれば二度と生えてこないし、血を流しすぎて死ぬことも多々ある。そんな中で人間が鬼と渡り合うために編み出したもののひとつが、「呼吸」だ。特殊な呼吸法を習得することで心拍数と体温を上げ、人間の限界を超えた領域に進む。身体を鍛え、正しい呼吸を習得することで、鬼殺隊は人間の身にありながら岩よりも硬い鬼の頸を落とすことが可能になる。

 しかし、それほど鍛えたとしても柱以外はすさまじい勢いで死んでいくのが現状だ。そんな状況でも隊員たちは戦う。鬼殺隊は何度も壊滅の危機を迎えたが、それでも鬼から人間を守るために日々戦い続けている。

 

「うむ、うまい! しかし量が少なくはないか?」

 

 不満そうに膳を見つめる杏寿郎の前で、夕映は新しい茶を湯呑に注ぐ。彼女の眉は下がっていたが、顔には相変わらずふわふわしたわたあめのような笑みが浮かんでいた。

 

「もう、坊ちゃんたら。眠る前にお腹いっぱいまで食べてしまったら身体に悪いんですよぅ? 千寿郎坊ちゃんが起きてこられるまで一眠りして、そのあとにまたたっぷり出させていただきますから、今は我慢してくださいな」

「むう……。それならば仕方がない、耐えるとしよう」

 

 杏寿郎は大食漢だ。店で売っているような弁当だと一回の食事で十個はぺろりと平らげるし、夕映が食事を持たせるときは四段重ねの重箱にみっしり食べ物を詰めて渡す。米粒一つ残さずきれいに返ってくるのが常である。

 というか、鬼殺隊に所属している隊員は強ければ強いほどよく食べる。杏寿郎の弟子であり、今ぐんぐんと階級を上げている甘露寺蜜璃嬢などは、関取三人よりよく食べる。なので、先ほどまで用意していた食事では到底腹が満ちないことなど、夕映には織り込み済みだった。当然である。満腹になるまで食べさせるつもりなどなかったのだから。

 不満を漏らしつつも、食べ方や箸の持ち方は非常にきれいなので、両親からの厳しいしつけが垣間見られるところだ。夕映はにこにこと笑みを絶やさずに、ただ見守る。

 うまいうまいと言いながらもくもくと口を動かし続け、杏寿郎は二杯目の茶をすすりながら夕映に声をかけた。

 

「そうだ、留守の間なにか変わったことはあったか?」

「いいえ、いつも通りです。毎日千寿郎坊ちゃんと私で修行をして、旦那様は日がな一日お部屋に籠られて。蜜璃さんは暇を見てはいらっしゃって、それはもう目覚ましく成長なさっていますね。ああ、昨日蝶屋敷にお邪魔して働いてきたくらいでしょうか? なほちゃんたちがお菓子を分けてくださいましたよ。お八つ時に出しますね」

「うん、わかった! いつもありがとう、夕映」

「いえいえ! 皆さんのために働くのが夕映の仕事ですし、それが一番の幸せですから!」

 

 夕映は笑って言った。杏寿郎は眉を下げ、噛みしめるように苦く笑った。

 坊ちゃんのこういう表情を見ると、夕映はいつも困ってしまう。

 本当だ。嘘ではない。今言ったのは心からの言葉だ。いつだって夕映は杏寿郎たちに尽くすことを無上の喜びとしている。本当に、皆様のために動けるのなら、役に立てるのならばなんだっていいのだ。

 しかし、杏寿郎がなぜ苦々しい顔をするのかを、本当は夕映も理解していた。理解した上で、口をつぐんでいるのだ。

 目覚めた鳥たちが木の上でチィチィと鳴いている。柔らかな光が庭を照らしている。とても、静かだ。

 口を開いたのは夕映が先だった。

 

「……。坊ちゃん、先にお休みください。部屋は準備できていますから」

 

 一瞬杏寿郎は言葉に詰まったが、すぐに取り繕って微笑む。

 

「ああ、そうさせてもらう! ではまたあとで」

「はい」

 

 杏寿郎は腰を上げ、居間から出ていった。

 

 

 自室に戻った杏寿郎は、布団に身を横たえてため息を吐いた。瞼を片手で覆い、考えるのは先ほどの会話。夕映の表情。自分が犯した間違い。未だ改められずにいるそれについて。

 

「はあー……」

 

 もう一度、深いため息が口からこぼれた。

 現在夕映は十五だが、彼女は四つの頃から杏寿郎と一緒に槇寿郎から剣の指南を受けてきた。九のときに、鬼殺隊に入ってさらに杏寿郎の役に立ちたいと発起し、渋る杏寿郎を半年かけて説得して、最終選別を通過し無事に生き残っている。その程度の実力はある。順当にいけば、今頃夕映は鬼殺隊の隊士としてばっさばっさと鬼の頸を胴体から飛ばしているはずだ。

 杏寿郎の一存で、夕映に選別の合格を辞退させた。彼女は今も女中として屋敷の中で働いている。

「無傷で帰ってきたら隊に入れるか考える」と言った彼は、夕映を隊に入れるとは決して明言しなかった。その結果がこれだ。本当に考えるだけで、考えた結果、杏寿郎は夕映を隊士にしなかった。騙し討ちじゃないか! と夕映は大変立腹したが、結局最後は折れてくれた。

 弟の千寿郎は当時まだ四つ、さらに母の瑠火の喪が明けて半年経ったばかりで、家の労働力が必要だったのだ。母を亡くしてからすっかりふさぎ込んでしまった父には、千寿郎を育てることすら危ういだろう。杏寿郎は任務があるからなおさら厳しい。

「だから、夕映には家を守ってほしい。お願いだ」と頼まれてしまえば、坊ちゃんの「お願い」にことさら弱い夕映が断れるはずもない。ましてや己は正座して頭を下げようとまでしたので、恐縮して縮こまった夕映は慌ててぶんぶんと首を縦に振ったのだ。まったく、杏寿郎は夕映がなにに弱いか熟知している。

 卑怯な真似をした。自分でもそれがわかっていた。それでも、もっともらしい言葉を並べて彼女を戦いから遠ざけた。

 話は変わるが、鬼殺隊は常に人員不足だ。選別から帰ってきて晴れて隊士となる人間は平均二、三人だし、その三人も最低限しか育てられていないので、よほどの才能があると見込まれて、柱の内弟子こと継子に選ばれ、しっかりとした指導を受けられなければ三か月も生き残れない。継子になっても運が悪かったらすぐに死ぬ。柱になるために必要な期間が二年から五年という短さからも、その死亡率の高さは推して知るべし。

 夕映は現炎柱である杏寿郎の妹弟子だ。選別を受けたときにはすでに全集中の呼吸・常中は習得していたし、入隊を辞退させられたあとの今でも千寿郎を指導して、自分の修行も続けている。実質、杏寿郎の継子であると言っても過言ではない。

 本人には戦いへの覚悟と意志がある。隊に入りたての平均的な隊士よりは確実に強いという自負もある。杏寿郎も夕映の強さは保証する。そこまでわかっているのに、夕映を女中として家に縛りつけて隊に復帰させないのは、鬼殺隊への裏切りに等しかった。戦わせれば鬼に殺される人を減らせるとわかっていながら、強さを有した剣士を徒に遊ばせているのだ。裏切り以外のなんと言えばいいのか。

 これは杏寿郎の我儘であり、エゴイズムであり、傲慢であった。

 彼女が治らぬ傷を負うかもしれないと思うと手が震えた。自分を守ろうとして死んでいく彼女を夢に見た。彼女が死体になってこの家に帰ってくることを思うと身の毛がよだつ。

 杏寿郎は、夕映を失うことが恐ろしくて仕方がないのだ。篝夕映は煉獄杏寿郎が持つ弱みのひとつだった。

 彼女を想うときはいつも、己はこんなにも矮小で、愚かで、弱かっただろうかと胸が苛まれる。

 夕映がもっと弱くて、もっと彼女自身の命を優先するのならば、杏寿郎とていつものように「俺が守ればいいだけだな!」とうんうん頷いていただろう。しかし、悲しいかな、夕映には才能がそれなりにあり、努力し続ける根気強さがあり、煉獄家の人々を自分の命より大切なものだと認識していた。そうでなければ、いくら杏寿郎たちの役に立ちたいと主張するにしても命までは懸けないだろう。

 鬼殺隊への入隊を阻止したところで、彼女はスパッと頭を切り替えて「剣士でなければいいですよねぇ」と笑う。放っておけば隠になっていただろう。杏寿郎の伝手を使って蝶屋敷に出入りするようになり、彼への支援手段を医学に変えた。胡蝶姉妹と共に、町医者を相手にして勉強と実践を繰り返していたのは記憶に新しい。もちろん、「家を守ってくれ」という約束も果たすために日々あくせくと働いている。いったいいつ休んでいるのかと呆れたのは数度のことではなかった。

 そこまでしてなぜ、こんなにも自分たちに尽くすのか。夕映が盲目的なまでに煉獄家を慕う気持ちが杏寿郎にはわからない。杏寿郎はただ、夕映が自分の帰る場所で待っていてくれるだけで十分なのだ。愛しい女が安全な場所で自分の帰りを待っていること以上の幸福を、彼はうまく想像できない。

 だというのに肝心の本人は杏寿郎に見合いを勧めてくるし、苦肉の策で家に縛りつけても杏寿郎のためを思って間接的に鬼殺に関わる。後者は献身的とも受け取れるが、前者は杏寿郎にとって夕映が自分と結ばれることを一切考えていないという証左なので、毎度毎度腹の底が重たくなるばかりである。今日は改めて口に出されたので、ひっそり杏寿郎は落ち込んでいた。顔や態度には出ていなかったと思うけれども、堪えるものは堪える。

 頭を悩ませる杏寿郎は預かり知らぬところだが、もし夕映がこの思考を聞いていたら、間違いなく腹を抱えて笑っていた。

 

「あっはははは、ああおかしい。坊ちゃんが強きものの義務・天命と定めて弱く善良な衆生を守るために全力を尽くすように、私も煉獄家の皆様に尽くすことが使命だと思っているだけですよ。だからいつだって全力です。そのために身に付けた技術で、他の人のことまで助けられるのは僥倖ですねぇ。情けは人のためならずというのはこういうことかしら。え? 違う? ま、私のような目に遭う人々は少ないに越したことはありませんし。細かいことはいいじゃあありませんか、ねえ?」

 

 と、まろい頬を林檎のように真っ赤にして、夕映はころころ笑っていただろう。とはいえ、これは杏寿郎が苦々しい胸の内を打ち明けた上で彼女に尋ねなければ、決して明らかにならないことであったが。結婚云々はそもそも女中の自分とお仕えする坊ちゃんが結ばれるということを小指の爪の先ほども考えたことがないので論外である。笑うしかないほど脈がない。死体も同然であった。

 まったく、いつからこうなったのか。杏寿郎は、まどろみながら彼女がこの家にやってきた頃へ思いを馳せた。

 

 夕映が四つ、杏寿郎が七つの頃。もう十年近く前のこと。

 彼女は目の前で鬼に親を殺されて、槇寿郎によって煉獄家へ引き取られてきた。

 

 

 篝家はなんの変哲もない、平凡で平和で、その刺激のなさが退屈ともとられるような街で、細々と鍛冶屋を営みながら父、母、娘の三人で仲良く暮らしていた。特別金持ちというわけでなくとも雨漏りのない家に住み、飢えることなく、金に困窮することもない。父の鉄郎は日々鍬や鍬を直し、破れ鍋をちょいちょいと直していた。母のあさはいつもおっとり微笑んでいる人で、しつけ以外では滅多に怒ることがなかった。その二人の間に生まれた夕映は赤い目をしていたから、火の神に祝福された灼眼の子だ、縁起がいいと喜ばれたものだ。

 だから夕映は、自分の目の色を気に入っている。

 

「か──さま────!! 今日るかおねえちゃんきてるって本当──!?」

 

 ふわふわのくせ毛を振り乱し、ばたばたと着物の裾をはだけさせて、夕映はすぱんと障子戸を開けた。中には「あらあら」と小さく漏らした瑠火が微笑んでいて、対照的に母は垂れた目を三角に吊り上げている。「あっ」と夕映は亀のように首を引っ込めたが、それよりも早く母の叱責が飛んできた。

 

「こらっ夕映! またそんな大声を出して! それに廊下を走るんじゃありませんよ。姉さんが来ているのが嬉しいのはわかるけれど、もっとお行儀よくなさい」

「ごめんなさぁい!」

 

 ぴしゃりと叱られて、夕映は目に涙を溜めながら縮こまる。大好きなるかおねえちゃんの来訪が嬉しくって、はしゃぎすぎた。乱れた裾をごまかすように整え、膝をついて静かに戸を閉める。手についていた土があちこちにくっついた。それにも気づかず、夕映は正座をして、しょん……と塩を振られた青菜のようにしょぼくれている。

 乱れた髪を手櫛で整えてやりながら、瑠火が笑みを浮かべたまま母に語り掛けた。切れ長の目は優しく細められている。頭を撫でられた夕映は顔を赤くした。

 

「まあまあ。あさ、夕映もまだ四つなのだからあまり厳しくしなくても。元気なのはよいことではありませんか」

「そんなこと言って、姉さんは杏寿郎ちゃんのことを厳しくしつけているでしょう」

「あの子は煉獄家の長男だもの。いずれ家を背負う以上、家の名に恥じない人間に育て上げなければなりません」

「うちの子だって長女よぅ! 立派な大人になるよう育てたいのよぅ!」

 

 ぷぅ! と頬を膨らませる母は少女のようだ。姉のように慕う瑠火を前にすると、どうしても妹としての振る舞いが抜けきらないらしい。一方で、その言葉は瑠火には柳に風だった。うちはうち、よそはよそという言葉が言外に聞こえる。あしらわれたことがわかって、なおさら母はへそを曲げるわけだ。それなのに、ぽんと話題を変えると瞬く間に機嫌が転がっていくのだから、本当に二人は仲がいい。

 かあさまこどもみたい。夕映は心の中でこっそり思いながら、口に両手を当ててくふくふ笑っていた。

 母のあさには実の姉妹のように仲のいいはとこがいた。それが瑠火だった。彼女らは頻繁に手紙を送り合っていたし、互いの結婚や妊娠の際は誰よりも喜び、励まし合っていたという。瑠火は涼やかな目元が美しい人で、夕映のことも娘のようにかわいがってくれていた。彼女には息子が一人いて、娘はいなかったから、なおさらそうやって慈しんでくれていたのだろう。

 夕映は彼女の息子に会ったことがないが、きっと瑠火のようにぴんと背筋を伸ばして、芯が一本通っているしっかりした男の子なのだろう。瑠火が嫁いだ煉獄家は剣術道場を営んでいるらしいから、剣が得意かもしれない。でもきっと、その男の子、きょうじゅろうくんは裏の良太よりずっと紳士的で瑠火に似た素敵な人に違いないのだ。裏の男の子は自分をいじめてくるので夕映は苦手だったが、大好きなおねえちゃんの子供がかっこよくないわけがないと彼女は信じ切っていた。

 

「あのねぇ、るかおねえちゃん、きーてきーて。今日ね、ゆえね、きれいなおはな見つけてきたのよぅ。おねえちゃんとかあさまにあげる」

「あら! ……根の土ごと持ってきたの?」

「おはなもちょんぎられるのは痛いとおもったの」

「まあまあ、優しい子に育ちましたね、あさ。夕映、ありがとう。手を洗っていらっしゃい」

「あらまあ……あなた、よく見たら着物にも戸にも土がついてるじゃない……。でも、ありがとうねぇ。姉さんが言う通り早く手を洗っておいでなさい、爪まできれいに洗うのよ。ちゃんと石鹸を使ってね」

「うふふ、はぁい!」

「そういえば、お父様の分はないの?」

「とうさまはおはなより、丸くてつるつるの石の方がよろこぶのよぅ! だからぴかぴかにみがいた石をあげるの」

 

 林檎のように頬を赤く染めて、夕映は笑った。笑ったまま、楽しそうに、井戸の方へ駆けて行った。

 

 

 夕映は父が大好きだった。母が大好きだった。瑠火が大好きだった。いつまでも、夕映が大人になってもみんな一緒に笑い合っていると、無邪気に信じていた。

「お嫁に行くときは私の婚礼衣装を使ってちょうだいね」と、頬を撫でてくれる瑠火を前に目を細め、夕映の将来の夢には「お嫁さん」が輝いていて。その隣では「お父様が聞いたら想像して泣いてしまうから話してはダメよ」と、母の、よく働くせいで荒れた指がつんと夕映の額を弾いていた。父は寡黙で多くを語りはしなかったが、小さな夕映に恐々と伸ばされる手はいつも愛情であふれていた。彼の、皮が分厚くなった大きな手で頭をわしわしと撫でられるのが、夕映は一番安心する。

 その幸せが、薄氷の上に作られたガラス細工だとは、知るはずもなかったのだ。

 繊細で優美な芸術品は、呆気なく、儚く、粉々に砕けていった。

 

 五月の終わり。夜だった。当時のことについて、夕映は記憶がすっぽりと抜けているせいで覚えていることが極端に少ない。

 ただ、春先にしては夜が蒸し暑くて、寝苦しくて何度も寝返りを打っていた。子供だから眠くなるのが早くて、夕映は一人で布団に横になっていた。

 うとうととまどろんでいたとき、誰かが家の前にやってきて。とん、とん、と。かぁるく扉を叩いたから、母はご近所さんがいらっしゃったのかしら? 急ぎの用事? と考えたのだろう。「はいはい」と返事をして、夕映の枕元から立ち上がり、玄関に向かった。

 扉を開けてすぐに母は死んだ。首をポンと飛ばされて、胴体と泣き別れになった。その脳はちぎれた身体から痛みを感じる暇もなかっただろう。驚きも苦痛もなく、人当たりのいい穏やかな笑みを浮かべたまま、母の頭は玄関に落っこちた。ぼんぼんと跳ねた頭は、きっと鞠のようだっただろう。

 血の匂いに気づいた父は、不自然に途切れた妻の声と、次いで聞こえた物音にすぐさま異常を感じたようだった。夕映を家族全員分の掛け布団に埋めてから、仕事道具の槌を持って部屋を飛び出していった。

 急に息苦しくなったから、夕映は短い悪夢を見た。溺れる夢だ。顔を川に突っ込まれて、がぼがぼと口から息を吐き出しながらもがく。頭を押さえつけられているせいで手足をどれだけ動かしてもまともに息が吸えない。次第に水は粘着性を増し、目や顔に張りつく。

 ずる、ずる、ぺちゃぺちゃ。ぼり、ぼり。ばきばき。めきめきめき。ぐちゃぐちゃ! 

 異音。悲鳴。父が槌を振り下ろすときの音。濃厚な血の匂い。鉄臭くて、手や顔にべたべた張りつく赤い水。

 布団を引きはがされ、はっと目覚めた夕映の目の前にいたのは、口を真っ赤に染めて血を滴らせた大きな牙。そして、その牙の持ち主めがけて振るわれた真紅の太刀筋だった。

 びしゃりと、顔に、髪に血がかかる。首を落とされたそれはなにか、ぎゃあぎゃあとわめいていたが、夕映はその音をきっちり言語だと認識することができなかった。

 痙攣したように目がぐるぐると回る。

 父は? 母は? 二人はどこへ行った。なにが起きた。どこまでが夢でどこからが現実だ。顔をぬぐうこともできずに布団から這い出し、燃えるように赤い刀を持つ男から逃げる。鉄さびの匂いが強い。転んで膝を擦りむいたときの比ではない。顔にかかった水がべたついて鬱陶しい。いろいろな非日常が重なって、すっかり夕映は混乱していた。父と母さえいつも通りなら、二人でぎゅっと抱きしめてくれたら、ああ、自分は悪い夢を見ただけなのだと泣き出すこともできただろう。

 蹴破られた障子戸。一層濃くなる匂い。膝に力が入らない。濃すぎる匂いで頭がくらくらする。

 悪い予感ばかりが頭を支配する。

 赤ん坊に戻ったかのように腕だけで這って、闇夜にじっと目を凝らす。そこに二人がいると信じて。

 

「見るな」

 

 不意に足が床から浮いた。夕映は目を剥いて、ばたばたと手足を動かす。しかしその抵抗は抵抗らしいものにもならなかった。脇に差し込まれた手のひら二つがくるりと夕映を反転させ、尻が木の幹のようにたくましい腕に乗せられる。手拭いでごしごしと遠慮なく顔を拭かれ、「ぅぶ」だの「やぇて」だの抗議をしたが、手は止まらなかった。頬がひりひりする。

 そのまま、頭に布をかぶせられて、男の胸元に顔を押しつけられる。男はこのまま夕映をどこかに連れて行こうとしているらしい。我慢しきれず、全力で手足を動かしながら夕映は叫んだ。

 

「はなして! とうさまとかあさまは!? どこにいるの……!? どうしてへんじをしてくれないの!?」

 

 腹を蹴ったし、ぼかぼかと肩を殴った。男の体幹はびくともしない。ますます夕映は泣きそうになった。

 この男はきっと人攫いだ。夜中に人の家に入り込んで、子供の自分を攫おうとしている。このままだと自分はどこかに売られてしまう。

 父と母は無事なのか。血の匂いだけが濃い。自分と男以外に生きているものの気配がしない。呼吸の音すら聞こえない。

 夕映を運ぶ男の足音だけが夜に響く。耐え切れないほど恐ろしく、血を吐くように夕映は絶叫する。

 

「たすけて! だれか! はなして!! るかおねえちゃん、るかおねえちゃん!!」

 

 誰も来てくれない。これだけ叫んでいるのに、近所の人すら来てくれない。縋れるのはもはや大好きなおねえちゃんだけだった。

 錯乱しきった夕映はぼろぼろと涙を流しながら瑠火の名前を呼ぶ。力の限り暴れても男にはまったく効いていない。それがますます夕映の精神を追いつめる。しかし、子供の体力はあっという間に使い果たされ、すすり泣くことしかできなくなったのはすぐだった。

 そこで、ようやく男が口を開いた。

 

「夕映、だったな。篝鉄郎と篝あさの娘の」

「……?」

「俺はまだ君に顔を見せることはできない。子供に見せるものではない光景が広がっている。君の精神衛生に関わるくらいの、ひどい光景だ」

「とうさまと、かあさまは……?」

「……。二人は死んだ。彼らを殺したものを、俺が殺した」

「しぬ? しぬって、なに? もう、あえない?」

「そうだ。──すまない。俺がもっと早く着いていれば、こんなことにはならなかったかもしれない」

 

 苦渋に満ちた声が頭の上から聞こえた。夕映は、見えもしない男の顔を見ようと顔を上げた。ぎゅっと痛いくらい抱きしめられる。ぎりり、と歯ぎしりの音。

 

「妻の親類をみすみす殺されるとは。屈辱だ……!」

 

 妻。親類。るかおねえちゃん。煉獄家。剣術道場をしている。きょうじゅろうくん。

 ぱちり、となにかが噛み合った。確信を持って、夕映は尋ねる。鼻をすすりながらも、不思議と自分が冷静さを取り戻しているのがわかった。

 

「るかおねえちゃんの、だんなさん? きょうじゅろうくんの、おとうさん?」

「──ああ。俺は煉獄槇寿郎。瑠火の夫で、杏寿郎の父だ。君を助けにきた。……今はおやすみ」

 

 締めつけるようだった腕の力が緩み、今度は優しく抱きしめられる。背中をさする手は、夕映の父そっくりだった。泣いて暴れていただけの疲れがどっと身体を襲い、寝ぼけ眼はとろとろと落ちていく。押しのけようと力を込めていた両手はだらりと落ち、たくましい胸板にもたれかかる。そのまま、彼女の意識は夢の底へと落ちていった。

 

 規則正しい寝息を立てるようになった幼い頭をもう一度撫で、槇寿郎は月を見上げる。

 憎たらしいほどに丸く、明るい満月だった。人々は今夜起きた惨劇に気づかぬまま、この月を見て幸せな気持ちに浸っているのだろう。

 あさと鉄郎の遺体は、これから隠たちによって隠蔽される。夕映の行方も同じように隠される。一家は忽然と姿を消すだろう。一晩のうちに。

 

(この娘が鬼を見てしまった以上、鬼殺隊の監視下に置いた方がいい。それはわかっている。しかし、これでは人攫いさながらだ、まったく笑えない)

 

 苦々しい気持ちを抱きながら、槇寿郎は眠ったことで少し重みを増した少女を抱え直す。

 

「──うちに来なさい、夕映。君がどんな選択をしても、俺は君を尊重しよう」

 

 無力を噛みしめながら吐き出された宣誓を、月と、槇寿郎の鎹鴉だけが聞いていた。

 夜は更ける。無慈悲な朝は平等にやってくる。

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