メイド・オブ・レンゴク   作:鈴近

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幼少期2 約束

 あれだけ明るい月光が差していた空は、時間が経つにつれて次第に霞がかり、夜明けが近い頃には薄い雲が一面を覆っていた。

 柱の警備区域の範囲は広い。そのため、槇寿郎は一時的に夕映を近くにいた隠に預け、夜通し鬼殺を続けた。太陽が雲の向こうから薄い日差しを覗かせると同時に、彼は再び少女を懐に抱いたのである。

 

「ぐっすり眠っていましたよ。濡らした手拭いでふいてやりましたが、髪はいくらか固まってしまったようで」

「そうか……。帰ったら妻に整えさせる。君、ありがとう。助かった」

「いえいえ! 炎さんもお気をつけてお帰りください」

 

 頭を下げる隠に手を振り、槇寿郎は歩き出した。

 空気はじっとりと湿り、肌と髪にまとわりつく湿気が、雨雲が近づいていることを知らせてくれる。濃い土の匂いが鼻をくすぐる。

 煉獄邸からの篝家の距離は、子連れではいささか厳しいが、瑠火が頻繁に通う通り女性でも難なく行き来できるぐらい。大人の男──それも、極限まで鍛え上げられた柱であれば息を切らすことなく走っていける。なんなら足音を立てずに全速力で走って往復もできる。

 

「ん……おいちゃ……?」

「もう少し眠っていなさい」

 

 一度開きかけた瞼をその手のひらで覆ってやり、数時間前と同じように彼女の顔を自分の胸にもたれかけさせる。夕映は少しむずがって、額をぐりぐりと押しつけていたが、すぐに健やかな寝息を立て始めた。杏寿郎もこれくらいの年頃のときはこうだったな、とうっすら口許に笑みを浮かべ、槇寿郎は夕映を抱え直す。家までもう少しだ。揺らして起こさないよう気を遣いながら、歩き出した。

 夕映を保護したあと、すぐに鴉を家に飛ばした。瑠火にはもう連絡が行っているだろう。妹のようにかわいがっていたはとこ夫婦がむごたらしく殺されたと聞いては冷静でいられまい。せめて、彼女らの形見であるこの娘を早く届けてやらねば。槇寿郎はできる限りの早足で家路を急いだ。

 

 ごろごろと雷が遠くで鳴っている。

 

 煉獄邸の門前で、瑠火は夫と、妹分の一人娘を待っていた。鴉が知らせを持ってきたあとは一睡もすることができず、今も、夜明けまで夫は帰ってこないとわかっているのに落ち着かなくて、寝巻に羽織りものだけをして門の前に立っている。震える手を何度も握り込んだ。顔は強張りきって、あまりの硬さに面を張りつけているのかと錯覚してしまうほど。

 瑠火の足元で、槇寿郎の鎹鴉もそわそわと跳ねている。彼が帰還を伝えてくれたから、もうすぐ着くはずなのだが……。胸の底から湧いてくる不安を振り払うように、瑠火はかぶりを振った。

 今にも泣き出しそうだった空が、とうとう涙をこぼし始める。ぽつり、ぽつりと地面に点ができ、空気の重さが増していく。傘を取りに行くこともできず、瑠火はじっと前を見たまま立ち尽くしていた。

 次第に雨は勢いを増していく。

 

「槇寿郎様!」

 

 遠目でもわかる、炎を模した赤い羽織が目に入った瞬間はっとして、瑠火は駆け出す。雨が降っていることを気にかける余裕もない。もつれるように走ってくる瑠火を見てか、槇寿郎は足を速めてすぐに瑠火の前に表れた。

「あさは、鉄郎さんは」とこぼれ出てきそうな無為な問いを、ぐっと口をつぐむことで押し殺す。

 槇寿郎は幼い子供を抱いていた。見覚えのある子供だ。よく知っている子だ。つい先日、彼らの家に行って、根と土のついた花を瑠火にくれた女の子だ。彼女が生まれたときの頃から、瑠火は彼女を知っている。

 震えが止まらない指先で、彼の懐に抱かれた子供へ手を伸ばした。

 くせのついた長い髪は血がこびりついてあちこち固まっているし、着物は赤黒く染まっていない場所を探す方が難しい。染め上げられた衣とは裏腹に、いつも子供らしく赤い頬からは血の気が抜けて青白い。その柔らかな頬に触れて、あたたかさを感じることで、ようやく彼女がまだ生きていることを実感できた。

 気づけば奪うように槇寿郎から夕映を取り上げて、胸に掻き抱いていた。目の奥がかっと熱くなる。ぼろぼろと涙があとからあとからあふれて、雨粒と混ざる。嗚咽が喉を焼くようだった。もはや頬を濡らしているそれが涙なのか、雨なのか、この場にいる人間には誰にもわからないだろう。

 雨がひどくなる。ざあ、ざあと吹きつけるような風と共に、空から叩きつけられる水の勢いがさらに増す。

 たまらず槇寿郎は妻の肩を抱いた。

 

「瑠火、ここにいては身体が冷える。中に入ろう」

「ええ、ええ……」

 

 慟哭を宥めようとしているのだろう。何度も深呼吸を繰り返し、二度三度目尻を拭う。最後にひときわ大きな息を吐いたあと、瑠火は槇寿郎の目をはっきり見つめ返した。

 

「湯を沸かしてあります。槇寿郎様も汗を流して、身体を休めてください。本日もお務めお疲れ様でした。無事のお帰りを、嬉しく思います」

「ああ、ありがとう」

 

 呼吸を整えて顔を上げた瑠火は、いつも通り凛としたたたずまいを取り戻していた。その目は痛々しく赤色に染まっていたが、槇寿郎は内心ほっと胸を撫で下ろす。そのまま、二人は夕映を連れて屋内に消えていった。雨は激しくなるばかり。太陽が大地を照らすのはもう少し先のことだろう。

 

 

 ここまで取り乱す瑠火を槇寿郎が見たのは、今日が初めてのことだった。二人は連れ合ってそれなりの年数を経ているけれども、彼女はいつも冷静かつ気丈で、よく槇寿郎を支えてくれていた。杏寿郎を産んでからも、子育てで頭を悩ませることは何度かあれど、涙を流す顔など一度も見たことがなかったのだ。

 槇寿郎とて、瑠火が懇意にしているはとこ夫妻が鬼に殺されたと聞けば彼女も普段の冷静さを保てまいとは思っていたが、いざ泣き崩れ嘆きをあらわにする瑠火を前にするとその予想がどれだけ浅はかだったのかを痛感したか! 

 この世の大多数の人間は、親しい人間を亡くすとしたらその原因は老衰、病気、不幸な事故のいずれかである。他人から殺されるとか、鬼に殺されて遺体を食い散らかされる死に方は全体から見れば少数なのだ。瑠火も今までは大多数の側だった。鬼狩りの家に嫁いでも、奇跡的に親しい人間を食われたことはなかった。

 しかしそれも昨夜までのことだ。瑠火は大切な妹分とその夫を失い、夕映は両親を失った。二人は、当たり前に明日のことを信じられた昨日から、理不尽はいつ大切なものを奪うかわからない今日へと、境界を越えてしまった。

 ああ、と槇寿郎は嘆きの吐息を口の端からこぼす。

 こんな思いをする人間が一人でも減れば、と願いを抱いて刃を振るい続けているというのに、よもや己が間に合わなかったせいで妻があんな顔をする羽目になるとは。これもまた己の不徳の致すところ。より一層修行に励み、より多くの鬼を殺さなければ。

 槇寿郎は固く誓う。いくら強くなっても、すべての人を守るなどという大言壮語は口が裂けようが言えまい。けれど、手中に収めた宝だけはなんとしてでも守ってみせなければ、なんのために身につけた強さだ? その瞬間が来たとき、槇寿郎が積み上げてきたすべてが槇寿郎に牙を剥き、自分は自分でいられなくなるだろう。しっかりと二本の足で立ち上がることが、できなくなるだろう。不思議とそういった確信があった。だから槇寿郎は今よりももっと強くならなければならない。守るべきものを守り、決して後悔しないために。

 この手がどんなにちっぽけだろうと、大切に握りしめた宝玉だけは、砂のようにこぼれ落ちていってくれるな。槇寿郎はそう願うばかりだ。そのために、さらなる強さへ手を伸ばす。

 

 煉獄邸の敷居を跨いでから三日間、夕映は懇々と眠り続けた。瑠火が風呂に入れても、返り血で固まった髪を切って整えても、両親から事情を説明された煉獄家長男・杏寿郎が足繁く様子を確認しに部屋に顔を出しても、あさと鉄郎のひっそりとした葬式が終わっても、目を覚まさなかった。終いには熱を出してうなされだしたものだから慌てて医者を呼ぶ始末。医者の診断は「心因性のもの」ということで、大した薬ももらえず瑠火が夜通し側についていた。

 そして四日目。とうとう彼女は目を覚ましたが、すっかり元の活発さを失っていた。

 

 近頃、杏寿郎は一人の時間が増えていた。

 朝家族揃って食事をしたあと学校へ行き、昼から夕方にかけて父から稽古を受ける。夕食をとったあとに父を見送り、母の仕事をいくらか手伝う。湯を浴びる前に少し自主修行をして、ほどよい疲れを感じる頃に就寝……という生活は、大半が変わっていない。

 変わったのは、篝夕映という母方筋の少女がこの家に来たから、彼女に関わる部分だけだ。母と過ごす時間は確実に減ったし、ひとつ習慣が追加された。

 

「おはよう! 夕映、朝だぞ! 起きているか!?」

 

 そして杏寿郎は、それにほんの少しだけ、ささやかな不満を抱いている。いけないことだと、わかっているけれど。

 問答無用でスパンと障子戸を開けると、布団の上に座り込んでいた少女の顔がのろのろとこちらを向いた。くせのついた黒髪はぼさぼさ。赤い瞳は光を失って久しく、返事をしないのもいつものことだ。彼女は部屋の外から声をかけたところで部屋から出てこないし、声を発することもしない。だから杏寿郎は兄弟でもない異性の部屋にずかずかと上がりこみ、自分のことはほとんど自分でできるはずだった四つの女の子の着替えも手伝う。本当は母の瑠火がやった方がいいのだが、彼女は槇寿郎の妻であり杏寿郎の母である以上、家のことを取り仕切らなければならない。ただでさえ朝はやることが多いのだ。夕映一人のために母の負担を増やすのは、杏寿郎は嫌だと思った。ただでさえ日中の夕映は母にべったり張りつくように側にいる。真実母がとられてしまうのではと思ったのは、本当にちょっぴりだけである。本当に本当だ。

 そういうわけで杏寿郎は夕映の世話を買って出ている。

 ところどころざんばらになった髪を櫛で梳いてやり、立たせてぱっぱと寝間着から着替えさせたら、布団を畳む。今まで自分より年下の人間を世話したことのなかった杏寿郎がここまでできるようになったのは、ここ二週間ほどのことだ。生まれたときから妹がいる兄には到底敵うまいが、自分でもそれなりに夕映の世話が上手くなったという自負がある。

 

「さあ、朝食を食べにいこう!」

 

 自分より一回り小さな手をぎゅっと握り、部屋を出る。

 母が言うには、夕映は元気で活発、少しお転婆な、愛されて育ったのならどこにでもいるような、そんな子だったそうだ。摘まれる花が痛いだろうと、根と土ごと花を持ってくるような、優しい子だったと。

 それがたった一晩で反転するように変貌したというのだから、なんて哀れな子だろうかと、杏寿郎は嘆息を禁じ得ない。そして父が自分に言い含めたように、彼女のような悲しい存在をできるだけ生み出さないよう、強くなって鬼を狩らなければと心が掻き立てられるのだ。それが、自分がこの家に生まれてきたために発生する使命だと、杏寿郎は考える。

 杏寿郎がそう思っている間にも、夕映は「立て」と言えば立ち、「座れ」と言えば座るだけ。自分の意志というものをすっかり忘れ去ってしまっている。一番困るのは彼女が一切しゃべらないことだ。今の夕映は首を振ってはい、いいえの返事をすることさえできない。声をかけたときに音のした方向を見るようになったのも、目覚めて四日経ってからようやくだ。しつこくそう教えてやらなければ、夕映はそれができなかった。

 それまでの三日間は本当に、ただ生きているだけの屍のようで、おぞましかった。「赤ん坊よりひどい」とは再び夕映を診た医者の談である。赤ん坊ならば本能に基づいて快不快を泣いて伝えてくれるから、親が気付けば餓死をすることはないし、排泄の世話が必要なときもわかる。最初の頃、夕映はその最低限さえできなかった。腹が減っても意思表示をしないから、いつまでたっても食べることはないし、食べないから排泄の必要もない。起きていても寝ていてもずっと布団の上に横たわっているだけで、ぴくりとも動かない。

 実のところ杏寿郎は、夕映が昏睡して生死の淵をさまよっている間よりもずっと、この頃が怖くて仕方がなかった。本当にこれは自分と同じ人間なのか? と、根源的な恐怖が、彼女を視界に入れるたびにぞわぞわと全身を駆け巡ったのである。

 悪夢のような三日間の最中、彼女は口に差し込まれた水差しから生命を繋ぎとめられるだけの水しか身体に取り込まず、目を開けているときはまばたきのひとつさえしなかった。

 瑠火はいつ夕映まで死んでしまうかと常に空気を張り詰めさせて戦々恐々としていたし、杏寿郎は夕映の人智を超越した姿に怯え、槇寿郎は妻と息子、そして少女の様子を心配していたがその間にも鬼殺の任務につかなければならず、家の中の空気は最悪だった。たった一人の少女によって、煉獄家は混沌の坩堝に叩き込まれたのである。

 三日。数えれば片手で足りる、ごく短い期間。けれど、杏寿郎は余裕のない母を見たのが初めてであったし、心が折れた人間を見たのもまた初めてのことであった。このまま、夕映がひっそりと息を引き取るまで、嫌な時間が永遠と続くのではと背筋が冷える未来を想像してしまっても已むを得まい。この悪い夢がずっと続いてしまうくらいなら、特に思い入れのない少女一人。夕映が死んでしまった方がまだましだ。ふと魔が差して、杏寿郎はそんなことを思った。

 あとからその思考がどれだけ人でなしであったかを思い返すと、顔から火が出そうになる。なんてひどいことを自分は考えたのだろう。自分自身が恐ろしくて、たまらなくなって、杏寿郎は父にこれを打ち明けたとき、ひっくひっくと泣きじゃくっていた。そんな息子を槇寿郎はぎゅうと抱きしめ、「お前には酷なことをした」と謝るものだから、「どうして父上が謝るのですか、俺の心が弱いからいけないのです、でなければこんなおぞましいことを考えるはずがないのです、煉獄家の子失格です」と言い連ね、ますます泣いた。

 だってこれはあまりにも正しくない。杏寿郎はひどく自分を責めた。

 

「そうだな、正しくない」

 

 父は身体を離して頷いた。けれども父は言うのだ。それは特段珍しいことではないのだと。

 

「人の心は弱い、追い詰められればすぐに簡単で残酷な方へ思考が転ぶ。どれだけ鍛えようと、時間を重ねようと、それは決して変わらない。だから人は己を律して、正しくあろうと自覚的でならなければならない」

 

 槇寿郎は杏寿郎の涙を指の腹で掬い、己と同じように広くて丸い額を優しく撫でる。

 

「お前は夕映の存在を疎むことを“正しくない”と判断できた。なおかつ己を恥じて責めている。だからまだ大丈夫だ。なにかを間違えたと思ったとき、大事なのは己を省みたあと、次にどうするか考えること。夕映のことは、夕映の生きる力を信じるしかない。だがあの子を手助けすることは杏寿郎にもできるぞ! 心が恐怖で怯え固まってしまったあの子に、ここは安全で優しいところだと教えてやればいい。あの子はかわいそうだからと憐れむのではなく、隣人を愛しなさい。どんなにみじめでも、悔しくても、恐ろしくても。生きている限り人は生きていくしかない。夕映も、心の奥底ではわかっているはずだ。それを受け止めきれないから、ああしてうずくまってしまっているだけで。──大丈夫! 直に夕映も元気になる! 俺は信じている!」

 

 槇寿郎は、父は、太陽のようににっこり笑った。杏寿郎は、父がそう言うのなら、もう少し夕映のことを信じて、歩み寄ろうと思った。父はいつも自分に正しい方向を教えてくれる。だから今度もそうだと思ったのだ。それに、自分が夕映を手助けしてやれば母の心労もいくらか軽減されるに違いない。杏寿郎は気合いを入れて、「はい!」と元気よく返事をした。

 

(でも、きっと、俺は死ぬまであのとき思ったことを忘れはしないのだろうなあ)

 

 夕映の手を引きながら、杏寿郎は朝の陽射しに目を細めた。

 

 

 それからまた一週間経った。夕映は以前と比べて意思表示ができるようになり、今まで一言もしゃべらなかったせいでかすれきった声だったけれど、簡単な受け答えをできるようになるまで回復した。食事も自発的に食べるようになり、排泄も一人でできる。ようやっと、肉を持つ人形から幼児返りした子供まで進化した、と言えるだろう。地道に回復していく夕映によって、彼女を見守る煉獄家の面々の張りつめていた空気も少しずつ緩んでいった。それでも未だ彼女の目は無感動なままでなにも映し出さないし、放っておくとぼんやりしたまま転がっているのだが。

 日中、杏寿郎が小学校に行っている間は瑠火が夕映についている。今は願掛けを兼ねて、瑠火は写経をしているそうだ。夕映には手習いを教えているとか。瑠火が家事をしている時間だけはつきっきりで見ていることができないため、夕映はもっぱら縁側でぼうっと日光を浴びている。杏寿郎が出ていったときとまったく変わらない位置でぼうっとしているのを目撃したときは、びっくりして毛を逆立てる猫のように飛び上がってしまった。あれは心臓に悪い。ぴくりともしない彼女は、最初よりずいぶん回復して、確かに生きているのに、それに反してあの悪夢のような三日間を思い出させる姿と重なり、どうしても気味が悪かった。

 

 

「ただいま帰りました!」

 

 ひょこっと母の部屋へ顔を出すと、瑠火が面差しを和らげて「おかえりなさい」と返事をくれる。夕映は瑠火の近くに座っており、杏寿郎の方向を見て、じいと彼の顔を見つめていた。それに近づいて、わしわしと頭を撫でる。

 

「夕映も、ただいま!」

 

 抵抗も反応もしないせいで、力の入っていない首ががくがくと揺れる。ただ、垂れ気味の眼窩に収まった赤い目が、にこやかに笑う杏寿郎を映していた。気が済むまでわしわしと彼女の丸い頭を撫で回して、うむ! と頷いてから、杏寿郎は「では稽古に行って参ります!」と部屋を出ていった。

 この三週間、ずっと続いているやりとりだ。瑠火は二人の様子を見守りながら、ふふと小さな笑みをこぼす。夕映の頭は好き勝手撫で回されて鳥の巣のようになってしまっていた。整えてやらなくては、と瑠火は腰を浮かせて手を伸ばす。正確には、伸ばそうとして、止めた。

 瑠火が近寄るより先に夕映が動いていた。ゆっくりと、膝で瑠火ににじり寄り、ちょんと彼女の袖をつまんで、頭を胸元にくっつけたのだ。甘えるようなそぶりだった。かつて彼女が母親にそうしていたように。

 

「夕映──」

 

 呆然。そうとしか形容しがたい声が己の喉から出る。名前に反応して、夕映は瑠火の顔を見上げた。その目には、この家に連れてこられたときから変わらず光はなかったが、しっかりと瑠火の顔を映し出していた。

 言葉にならない感情が胸の内からあふれ出て、瑠火は夕映を引き寄せ、ぎゅうっと強く抱きしめる。腕の中の身体はあたたかくて、また泣いてしまいそうだった。すり、と己の胸に額をすり寄せた彼女は、夢見心地のような現実感のない顔をしていて、その唇がわななくように動く。

 

「ぉねえちゃ」

 

 かすれた小さな声は、聞き間違いだと言われてしまえばそれまでだったが、しっかりと瑠火の鼓膜を揺らした。瑠火はますます腕の力を強めた。唇を強く引き結ぶ。優しく聞こえるよう、目いっぱい気を張りながら、瑠火は声を発した。

 

「ええ、瑠火お姉ちゃんですよ。少しずつ、少しずつでいいですからね。あなたのことは、絶対に守ってみせますからね」

 

 よくわからない、と言いたげに夕映は眉をひそめた。その表情のなんと人間らしいことか! 気を抜けば緩みそうになる涙腺を必死に引き締めながら、瑠火は夕映の顔に頬ずりをする。絶望一色に染め上げられたあのときとは違う涙だとわかっていても、子供を不安にさせては敵わない。そう何度も泣くのははばかられる。母とは家庭の太陽なのだから、できる限り溌剌とした笑顔を湛えていなくては。そう思って、瑠火は涙を呑んだ。

 雨の気配は遠い。庭に、燦々と日が差して、小鳥たちがピィチィと戯れている。部屋の外から、杏寿郎が指導を受ける声が聞こえる。

 やっと日常が日常らしい姿を得た。指通りのよいふわふわの髪を梳くように撫でながら、瑠火は神仏に感謝した。

 

「よく頑張りました……本当によく頑張りましたね、夕映……」

「ぉねえちゃ?」

「はい、はい、ここにいますよ。ここにいます……」

 

 

 その日の夕飯時に、夕映が感情と言葉を取り戻そうとしていることは一家に共有された。それからはもう、杏寿郎が躍起になって自分の名前を呼ばせようとしているし、槇寿郎が午睡に夕映を抱えていくこともちらほら見受けられる。抱き枕かつ湯たんぽにちょうどいいそうだ。

 夕映自身、何事にもまったく興味を示さず死んだように眠るかぼんやりしているかだった状態から一転、周囲へ興味を示すようになり、大きく変化した。手習いで書く文字にも感情や個性が見て取れるようになった。人間性というものを着々と再獲得していっているのが見て取れる。元の彼女に戻るまであと少しだろう。

 そうしたら、彼女の意識がはっきりして、きちんと彼女の意志で選択できるまで回復したら、このままこの家の一員となるかを尋ねたい。瑠火はそう考えている。

 それにしても、杏寿郎の構いようはことさらすごかった。もう彼女は一人で難なく着替えをできるくらいに回復したというのに、彼が家にいて、予定がない時間は、ほとんどつきっきりで甲斐甲斐しく世話を焼いている。朝は起こしに行き、夜は布団に入るのを見守ってから自身も眠りにつくというありさまだ。その上稽古の様子も近くで見させている。暇さえあれば家の中を連れ回しているようで、この間は屋敷全部を使って隠れ鬼をしていた。

 初日はいきなり担ぎ込まれた見知らぬ少女に目を白黒させて戸惑っていたというのに、今やすっかりよき兄そのもので、一人息子で上げ膳据え膳だった状態から目立った不平不満も漏らさずに、よくひどい状況だった夕映へ接してくれたものだ。瑠火と槇寿郎は息子の姿勢に大変感服し、たいそう褒めた。

 もちろん、槇寿郎だけは打ち明けられた彼の苦しみを知っているけれど。内緒話で「父上が隣人を愛せよとおっしゃったので、夕映のことをたくさん知ったら好きになれるかもと思ったのです」とはにかんだ息子はとてもいとおしかった。これならば二人目が産まれてもなんの問題もなく家族は続いていくのだろう。夫婦は同じ感慨を味わい、こっそり二人で頷いた。

 今日も今日とて、小学校から帰ってきた杏寿郎が夕映の手を引いて連れ回している。

 

 

「見ろ、夕映! 昨日までつぼみだったしろつめくさが咲いているぞ!」

 

 屋敷の裏のところで急にはっとなった杏寿郎がててっと走り出したかと思うと、ばっとしゃがみこんでそれを指差した。夕映はなんとか転ばずに済んだ。同じように杏寿郎の隣でしゃがみこみ、花と杏寿郎の顔を交互に視線が行き来する。

 

「おはな」

「そうだお花だ! 整えられた庭もいいが、こういう野の花も素朴でいい! かわいらしいな!  そうだ、俺がもっと幼い頃母上に習ったのだが」

 

 すっと彼の手がしろつめくさの茎に向かったので、夕映はそれを凝視していた。

 

「……ちょんぎっちゃう?」

 

 小さな口が吐息のように小さく呟いた。その声がかすかに震えていて、杏寿郎はぴくっと手を止める。夕映の顔を見ると、ちょっと、本当にちょっとだけ、眉間に皺が寄っていて、眉が力なく下がっていた。

 

「む? ……ああ! 花も切られるのは痛いという話だな! ううむしかし、これをやるには根は邪魔になるからなあ」

 

 うーむ、と顎に手を当て、杏寿郎のぎょろりとした目が中空をさまよう。夕映は彼に倣って空を見た。雲が流れ、鳥が左から右へと横切っていく。杏寿郎が黙るととても静かになる。けれど、彼はすぐにぽんと手を打ち、夕映へ快活に笑いかけた。

 

「よし、ごめんなさいをしよう!」

 

 鳩が豆鉄砲を食ったようにきょとんとまばたきをする夕映を尻目に、杏寿郎は花に向き直った。そのまま、土に手をついて花に語り始める。

 

「お花殿! 君には痛いことをするが、どうか許していただきたい! 君を使って夕映に作ってやりたいものがあるんだ! ……これでどうだろうか」

「……。ゆるしてくれるかなあ」

 

 花に向いていた顔が夕映へ向けられる。彼女は相変わらず不安げに瞳を揺らしていたが、杏寿郎が「大丈夫だ! 誠意を込めて謝ればきっとお花殿も許してくれる! 俺を信じろ!」と背中を叩いたので、数秒逡巡してから夕映はそろりと頷いた。

 これだけ自信たっぷりに言われると否が応でも頷かされてしまう。杏寿郎のほとばしる熱意で説得されて反論を述べられる、もしくは提案を断ることができる人間は存在するのだろうか? 上手く言葉が出てこない頭でも、夕映の感覚は杏寿郎の勢いに押されている自分をしっかり把握していた。

 竹刀だこだらけで硬く、夕映よりも一回り大きな手のひらがそっとしろつめくさに添えられ、親指と人差し指が茎を挟んだ。ぷつりと爪が食い込み、呆気なく根と茎が離れる。先ほどまで裏庭の片隅に根差していた一輪の花は、あっという間に摘み取られて杏寿郎の手に収まっていった。

 夕映の赤い目は、吸い寄せられるようにそれを見ていた。彼が花を手折る姿。それに釘付けになって、まばたきもせずに見つめていた。

 夕映が彼の横顔を見つめたままぼうっと呆けている間にも、杏寿郎は「ここをこうして……こうだったかな?」と呟きながら、なにやら手をもにょもにょ動かして、花の茎を曲げたり輪を作ったりしている。作ってやりたいものがある、とは言っていたが、なにを作っているのだろう。夕映は杏寿郎をじいっと見ながら、胡乱げに首をかしげる。

 彼女は野の花で遊ぶということをしたことがない。母と一緒に遊ぶのは部屋遊びが多かった。おはじきやお手玉、手遊びはよくやったけれど、今の杏寿郎がしているような遊びは終ぞしないままだった。

 真剣に指先を動かしていた杏寿郎の表情がぱっと輝く。どうやらうまく事が運んだらしい。にこにこ笑いながら夕映の方を見て、視線がばちっとかち合った。杏寿郎が一瞬ぎょっと目を剥く。ずっと凝視されているとは思っていなかったようだ。彼の笑みの種類が苦笑いに変わった。

 

「ほら、できた。手を出すといい」

 

 夕映の返事を聞く前に杏寿郎が左手を引っ張り上げる。彼女は流されるままに従った。杏寿郎が自分にひどいことをしないということは、初めて会った日からわかっていた。

 煉獄家の人々は太陽のようだった。彼らが笑っているのを見ると、夕映の胸は、ぽっと火が灯るようにあたたかくなる。ぎゅっと抱きしめてもらったり、手を握ってもらえたりすると、彼らのやさしい体温が夕映にも移る。夕映を信じて見守ってくれる姿は植物を育てる日の光そのものだ。

 今も、杏寿郎に握られた手があたたかい。その熱が心地よくて夕映は目を細めた。そして、彼の手から夕映の指に、彼が作ってくれた「いいもの」が通された。

 

「うん、我ながらうまくできたな!」

 

 杏寿郎が夕映から手を離し、腕を組んでうんうん頷いている。あっさり離れてしまった体温を名残惜しく思いつつ、夕映は己の指先を見た。

 

「ゆびわ……?」

 

 左手の人差し指の根元。そこにしろつめくさの花が咲いていた。ぱちりぱちりと夕映はまばたきを繰り返す。手の角度を変えてみたり、顔に近づけてみたり、遠ざけてみたり。太陽に透かしてみたりして、何度も何度もそれを確かめている。

 黙ったままその動作を行うものだから、次第に杏寿郎の自信満々だった顔が怪訝なものへと変わり、少しずつ眉が下がっていった。

 

「嬉しくなかったか?」

 

 呟くような弱々しい声にはっとした。杏寿郎の明るい顔が曇るのは嫌だ。その気持ちだけはすぐさま頭に浮かんで、否定しなければと彼女は焦る。もつれる舌。それでも、夕映は小さいながらも声を張った。

 

「う、うれしい! ありがとう!」

 

 瞬間、顔が歪む。大声を出し慣れていない喉は適切な声量というものを覚えていない。喉がカッと熱くなってかゆくなる。俯いて、数回咳き込んだ。杏寿郎が慌てて背をさすってくれる。

 背中に触れた手のひらから伝わる熱は、どうしていつも、泣きそうになるくらいあたたかいのだろう。

「嬉しい」がどういう感情だったか、まだ夕映には思い出せていない。でも、それがほわほわしたあったかい気持ちの名前だとするのなら、きっと今、自分は「嬉しい」のだ。杏寿郎が夕映の心を尊重したうえで、手ずからこの花の指輪を作って、自分に与えてくれたことが「嬉しい」。杏寿郎たちが笑っているのを見ると「嬉しい」。抱きしめてもらえたときのことも。手を繋ぐことも。全部全部、きっと、「嬉しい」だけで表せる。この家は喜びと優しさでいっぱいだ。極楽のようだった。

 言葉で定義することで、より心の動きを実感する。それは世界が急に色鮮やかに見えるような、鮮烈な体験だった。

 叶うならこの瞬間を引きのばして永遠にしたいくらいなのに、時間というものはままならない。この指輪もいずれ花がしおれ、茎は腐り溶けていくだろう。記憶だって。どれだけ網膜に、耳に色と音を焼きつけたって忘れてしまう。

 

「うぅ……」

 

 それがどうしても悲しかった。切なかった。

 

「ややっ!? どうした夕映! なにが悲しい!? やはりさっきのは嘘で本当は嫌だったのか!?」

「ちが、ちがうぅ……」

 

 感情が入るいれものがいっぱいになって、決壊する。泣くのは弱い証拠で、疲れるから嫌いなのに、一度あふれた涙はそう簡単に止まってくれない。それがますます嫌で、自分が嫌いになる。

 目を何度もこすっていると、杏寿郎にがっと両腕をつかまれ、動きを封じられた。「こすると腫れるからな!」とのことらしい。でも、これで流れる涙を外から無理矢理落ち着けるのが余計難しくなった。また感情に波が立つ。涙が頬を濡らす。杏寿郎が見ている。夕映の唇から、また、うぅ……とうめきが漏れた。

 

「せ、かく、くれたッ、のにぃ、なくな、ちゃう、し、ひぐ……わすれ、ちゃう、から……やぁ、で……!」

 

 鼻をすする。目が溶けそうだ。涙が流れ落ちていった頬がかゆい。今すぐ顔をこすりたい。それなのに杏寿郎の腕の力が強い。視線が熱い。そんなに見つめられては、身体が燃えてしまう! 

 しゃくりあげながら夕映はか細い悲鳴を上げた。その間にも感情の嵐は彼女を千々に乱し、ばらばらにひきちぎっていく。杏寿郎がどんな表情をしているかさえ、にじむ視界では不明瞭だ。

 自分の荒れた呼吸音とどくどく刻まれる鼓動以外が遠い。彼は黙っている。呆れられてしまっただろうか。こんなことで身も世もなく泣く自分が嫌でしょうがなかった。泣き虫毛虫と夕映をからかった、近所の男の子たちを思い出す。

 こらえきれずに俯き、ぐうっと彼女は唇を噛んだ。ひときわ大粒の涙がぼろりと落ちた。

 感情が一定の境界を越えると、どんなに我慢しても泣き出してしまうところは、常日頃夕映が恥じる欠点のひとつだった。顔が赤いのは涙だけが理由ではない。今、夕映は猛烈に恥ずかしい。隠れられる場所があるなら隠れたいし、それが穴の中でも埃っぽい納戸でもいい。今すぐ透明になれるのなら、夕映は喜んでそうなっていただろう。

 それもこれもこの涙が止まらないのがいけないのだ。こんな醜態をさらして。早く止まれ! そう念じながら、気持ちとは裏腹に夕映は変わらずべそをかく。

 杏寿郎は驚くほど静かにうろたえていた。驚きすぎて声も出ないとはこのことである。まず夕映が泣き出したことにびっくりしていたし、目をこすってはいけない! と思って両腕を拘束したはいいものの、これからどうすればいいかてんでわからなかったのだ。

 杏寿郎は小学生であるから、級友が泣いている場面に出くわしたことくらいある。たいていは何々くんが自分の鉛筆を取った、意地悪をする、だとか、転んだ痛みで泣いてしまった、だとかだ。それらは原因を取り除くことで対処できるということを、杏寿郎は短い人生の中で学習してきた。鉛筆を取られたのなら取り返して相手を反省させればいいし、転んでけがをしたのなら消毒して絆創膏を貼ればよい。自分だって、うんと幼い頃に転んで泣いたことがある。母は己の身体を抱き上げて、足をさすりながら慰めてくれた。杏寿郎が抱っこしてもらっていたのは四歳くらいまでの話である。温かい母の手のひらの感触も、着物に焚き染められた甘い香の匂いも、大事な思い出だ。

 

(うむ、夕映にもああしてやればいいのだろう)

 

 ここでかつて父に叱責されたように「男児たるもの容易く涙を見せるな」と檄を飛ばしたところで、夕映は泣きたくて泣いているのでもないし、そもそも彼女は女の子だ。その対応は見当違いもいいところだろう。それに、怒られたらその衝撃でますますびっくりして気持ちの混乱が激しくなるかもしれない。そもそも自分でも制御できなくて困っていることで怒られるのは悲しい。杏寿郎は自分の経験と今目の前にいる夕映の気持ちを重ねながら、彼女の感情を推測する。

 鼻と目を真っ赤にして、先ほどよりもやや落ち着いた嗚咽を漏らす彼女。その姿をうろたえながらも観察した結果、杏寿郎の明晰な頭脳は判断を下した。

 そうと決まれば行動あるのみだ。何事も迅速果断。巧遅より拙速を尊ぶべしとは父の言である。

 杏寿郎は、夕映の両手首をつかんでいた手をぱっと離した。目を瞬く彼女のまなじりからぽろぽろと涙の粒が落ちる。その手首にくっきりと残った自分の指の痕に眉を下げ、今度はことさら気を付けて、そっと彼女の手を引き寄せた。

 

「え」

 

 引っ張られて、重心の均衡を崩した夕映が杏寿郎の胸に飛び込んでくる。そのまま、彼は自分より一回り小さい背にぎゅっと腕を回した。大丈夫だ、と言う代わりに、背中を優しく叩いてやる。小さく震える背。肩に乗った頭は驚いているようで、ずっと続いていた嗚咽が止まった。

 母がかつて自分にそうしてくれたように、きっと夕映の母が彼女にそうしてくれたように。ぎゅうっと少し痛いくらいの強さで抱きしめて、熱を分け合う。そうしているうちに、少しだけ肩口は湿っぽくなったものの、彼女は泣き止んだ。

 ゆっくり身を離して、杏寿郎はにっこりと笑う。

 

「俺が何度でも作ってやろう! この指輪が枯れたら次の花を、しろつめくさが咲かない頃になったらまた別の花を探して! そしていつかは枯れない指輪をあげよう! うん、それで解決だ!」

 

 夕映は真っ赤になった目を見開く。鼻も頬もまだ赤みが引いておらず痛々しさが残っていたが、鳩が豆鉄砲を食ったように呆けている姿には先ほどのような悲愴さはどこにもない。杏寿郎はにこにこと笑みを絶やさずに続ける。

 

「ワハハ、それにしても泣いている顔は初めて見た! 夕映もずいぶん人間らしくなったなあ、よいことだ! よしよし! 俺は君の笑った顔の方が好きだが!!」

「……す、き?」

「ああ! 夕映の笑顔が大好きだ! だから泣き止んでくれてよかった! 実は結構困っていた……」

「……ありがとぉ……」

 

 ゆえも、きょうじゅろうくん、すき。れんごくさんたちのこと、みんな、だいすきよ。

 ここに来てから約一月。初めて夕映は笑った。青く頑なだった蕾が、ようやく綻んだ。

 

 

 後年、篝夕映はこう語る。

 ともしびをもらった。燻り、灰になって腐り果てるだけだった自分が、再び生まれるためのやさしいほむらを。

 あの瞬間、自分は寸分の違いもなく救われてしまった。槇寿郎によって助けられた命、瑠火によって癒された心が、最後の最後、ダメ押しのように杏寿郎に救われた。人生を救われたとき、返礼として夕映が杏寿郎たちに捧げられるものもまた、人生しかあるまい。いや、一生懸けても返せないかもしれない。けれど、それに報いなければならない。幼心にもそれはわかっていた。その思いの触り心地しか知らず、それを明らかにする言葉がはっきりとわからなくても、夕映には理解できていたのだ。

 彼らに報いることができるのならば立場、役目はなんでもよかった。そのとき、これが最適だと感じたのが女中という役職だった。だから夕映は女中になることを決意する。一生を、煉獄家の皆様に尽くすことに使うつもりで、その選択をした。

 たとえ命を投げ捨てることがあっても、惜しくはなかったのだ。この屋敷は夕映にとって極楽同然であり、そこに住まう彼らはかみさまだった。彼らに向ける好意は大切な人への愛情を飛び越えて、畏れ敬う信仰へと変わる。強烈な体験だった。それまでの想いを初恋とするなら、夕映が再び産声を上げたとき恋は死んだのだ。

 だって、かみさまとは愛し合えない。それは夕映が抱く真理だった。

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