メイド・オブ・レンゴク   作:鈴近

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時代考証はクッソ雑なのでいい感じに流してください


幼少期3 慶事

 この家の子にはならない、でもこの家で恩を返したい。夕映からそれを聞いたとき、瑠火は傍目にはわからない程度に冷静さを取り繕っていたが、目玉がこぼれ落ちそうな衝撃を受けた。療養のために預かり、世話をしている間に、一家の間では彼女がこの家の一員となることは暗黙の了解のように浸透していたのである。杏寿郎も、無意識のうちに彼女が妹になると思っていたが故の世話の焼きようであろう。それとは別に、近々彼には兄弟が増えると思われるが。そのとき夕映にも姉という存在になってもらいたいと、少しばかり思っていたところがある。

 それがまさか本人に断られるとは。

 

(いえ、しかし)

 

 ふらっと傾きそうな身体を立て直し、瑠火は額に片手を当てた。

 

「……あさと鉄郎さんのためですか?」

「うん、じゃなくて、はい。おねえちゃ、るか、さんと、おじさまの子になったら、とうさまとかあさまのことを忘れてしまうかもしれない……それはやなの。……です」

「無理をしなくてもよいのですよ」

「だめ! です!! 夕映は立派に恩を返す! です!!」

 

 むん! と口を一文字に引き結んだ夕映は、拳を握りこんで脇を締めた。両目はしっかりと開かれ、瑠火を見据えている。意志が堅いと見て取れる。それに、彼女が決めたのならば瑠火はそれを尊重したいと思う。家の労働力になりたいと言うなら使用人の仕事をあてがい、主人としてきちんと学をつけさせようではないか。

 それでも寂しいものは寂しい。意地悪を言うようだが、と思いつつも、ほんの少し笑いをにじませて瑠火は言葉を紡いだ。

 

「もうお姉ちゃんとは呼んでくれないのですか?」

「う!? え、えと、えっと……」

「確かにこれからは夕映の要望通り、姉でもなく母でもなく、雇い主となりますが……雇い主たってのお願いですからね。そう、二人きりのときだけならどうです?」

「んん!? うー、うー、い、いいのかな……でも……」

 

 逡巡で、意志が堅かったはずの夕映の目がぐるぐる渦巻き始める。今にも頭を抱えそうだ。悪いとは思いつつ、こんな姿を見られるのはこれが最後になるだろう。瑠火はもうひと押しだと唇を開く。夕映は自分が間違っているのかとますます目を回した。ものの見事に乗せられている。

 

「瑠火、その程度にしてやれ。からかうにしても可哀想だ」

 

 障子の向こうで待機していた槇寿郎は、思わず口を挟んだ。ぴたりと二人の動きが止まり、片や残念そうに、片や愕然として、それぞれ表情を変える。

 

「からかわれていたです!?」

「槇寿郎様、もう少しだったのですよ!」

「それはすまないと思う。だがあまり遊んでやるものでもないだろう」

 

 真面目な顔で瑠火をたしなめ、槇寿郎が部屋に入る。そのまま洗練された所作ですたんと障子を閉めた。着流しの裾を捌いて瑠火の隣に着席する。自然、部屋の空気がぱりっと切り替わる。夕映の背筋は伸び、瑠火の雰囲気も普段と同じ静謐なものへ戻った。

「さて」と槇寿郎は口火を切り、夕映が女中として勤めることに許可を出した。約束事としていくつか条件が述べられていく。身体が出来上がり、力がつくまでできる範囲の仕事にとどめること。仕事は瑠火に習うこと、瑠火は夕映に厳しく仕事を教えること。衣食住を保証する代わりにかかる費用は給金から差し引くこと。きちんと学校へ行き、学業を修めること。

 

「とはいえ君はまだ四つだし、まだ心身ともに健康とは言えないだろう。まずは瑠火の手伝いをして、家事を学びながら回復に努めなさい。それから、この家に勤めると決めた以上私たちのことは主人一家と仰ぐこと」

「……?」

「そうだなぁ……敬語を覚えて、旦那様、奥様、坊ちゃんと呼べばひとまずはいい」

「はい!」

「それと、なににつけても体力は必要だ。君さえ良ければ一緒に鍛錬を……」

「槇寿郎様」

 

 まさか鬼殺の剣士に育てる気か、と言わんばかりに瑠火が尖った声を出したが、それよりも夕映が目を輝かせるほうが早かった。

 

「やります!」

 

 びっと元気よく挙手。ふんすと噴き出された鼻息。きらきら輝く瞳。なによりも雄弁なやる気だった。槇寿郎がにこにこ頷く一方、瑠火は若干の苦さを表情にたたえていたけれども。

 それから夕映はずっと、よく食べてよく眠り、よく働いてよく修行した。

 体力をつけるために野山を駆け回り、筋肉を鍛え、木刀を振り回そうとして夕映が振り回されたので、組み手に時間を費やした。投げられた数は百を超え、瑠火の前でだけ打ち身の痛みを明かして少しだけ泣いた。

 それだけ動けば腹も減るからよく食べるし、くたくたになってよく眠れる。子供の身体は疲労の回復が早くて、倒れるようにして眠った次の日にはすっきり目覚めることができた。朝早く起きて働く瑠火の手伝いをしていると、早起きにも慣れてくる。修行でぼろぼろになって帰ってきたとき、夕飯の途中でうつらうつらと舟をこいでいて、いつの間にやら布団の中で朝を迎えていたこともたびたびあった。

 月日は矢のように過ぎていく。夏の盛りを終える頃には、夕映が癇癪を起こして泣くことはほとんどなくなり、杏寿郎との組み手でまれに白星をあげられるようになった。村の空気にずいぶん馴染み、友達も増えたし、一年前とは比べられないほど掃除と洗濯がうまくなった。

 そうやって緑の葉は色づき、秋。

 

「うむ! やはりさつまいもは秋が一番いい! うまい! うまい!」

「……坊ちゃん、そんなに食べてはお腹が張ってしまいますよぅ……?」

 

 杏寿郎がわっしょいわっしょい声をあげてさつまいもを食べる姿に目を丸くしていた時期である。

 瑠火の第二子懐妊が判明した。

 当時のことを書き記すと、槇寿郎がわざわざ医者を呼んだので、杏寿郎と夕映はすわ病かと気が気でなかった。その頃の瑠火はやたらと眠そうでぼんやりとしていることが多く、気だるげにしていることも散見していたからだ。大いに心配していたところに喜ばしい報せが飛び込んできたものだから、杏寿郎はすっかり嬉しさを持て余して裏山のてっぺんまで走り出し、夕映は慌ててそれを追いかけた。彼が頂上で太陽に向かって、「弟でも妹でも一向に構わん! 俺が守ってやろう!!」と宣誓したのは、あとからすればいい思い出である。

 

(坊ちゃんたら、ものすごーく気が早いんだからァ……)

 

 当時の夕映はというと、杏寿郎のあまりの喜びように若干の苦笑いを浮かべていた。

 赤子が腹にいると判明してから生まれてくるまでに最低半年はかかることを彼女は知っていたし、出産は命懸けの行為で、母子共に無事の状態で子供が生まれてくるまで少しの油断もできないということを、ぼんやりとだが理解していた。そのせいで杏寿郎ほど無邪気には喜べない。夕映も夕映なりに瑠火の慶事を喜んではいたが、子供と一緒に家へ帰ってこられなかった母親を知っている以上、喜び半分憂い半分というところ。こればかりは経験と環境の違いであり、だからどちらの反応が正しいだとか、間違っているだとかではないのだ。きっと、瑠火が元気に赤ん坊を抱いて屋敷に戻り、産後の肥立ちを健やかに過ごし終えたときにしか、この不安は拭いきれないのだろう。

 

(でも、旦那様と奥様はとっくに覚悟されていらっしゃるだろうし、私が不安に思ったって仕方がないわ!)

 

 ぎゅっと手を握りしめ、睨むように陽光を見つめた。

 杏寿郎が誓ったように、自分も誓おう。瑠火と、その胎に息づく子供が無事に出会うため、己にできることがあるのならばなんだってやる、と。

 絶対に支えてみせる。赤い瞳が炎のようにきらめいた。無論、村の煉獄家縁者の女衆や瑠火の実家、産科の医者、産婆など、挙げればきりがないが夕映より瑠火を支えられる人間はあまたいることだろう。それでも、幼い自分にできることがどんなに少なかろうが、気持ちで劣る理由などないのだ。煉獄家に仕えると決めた以上、彼らを影に日向に支えるのは自分の御役目である。

 

(なんだってやる、なんだってやるの。私にできることは全部)

 

 彼女は誓いを立てた。明日の自分が、今この瞬間の想いに恥じぬように。

 

「うん、俺は早くあの子に会いたい! 考えるだけでわくわくして、居ても立っても居られないぞ! 夕映もそう思わないか?」

 

 杏寿郎が満面の笑みで振り返る。夕映は目を細めて、ふにゃりと微笑んだ。

 

「はい、本当に。私は無事に生まれてきてくれるだけで十分ですよぅ。坊ちゃんかお嬢様か、楽しみですねぇ……」

 

 さ、そろそろ帰りましょう。いきなり飛び出してしまって、旦那様方も心配しているでしょうからね。

 そう言って、彼女はついと袖を引いた。杏寿郎は上機嫌のまま元気に頷く。そして元気いっぱいに、二人は走って帰っていった。

 翌日からはとにかく瑠火第一の生活である。屋敷にはしばしば村の母親たちが入れ替わりで出入りするようになり、瑠火の家事仕事を手伝ってくれるようになった。つわりによって食べられるものや耐えられる匂いが狭まるため、瑠火が自分の食事を作り、小母らが槇寿郎たちの食事を作るという寸法である。夕映は相変わらず洗濯と掃除だ。

 小母たちは瑠火に、まったく仕事をしないと難産になるが、働きすぎては流れてしまうから塩梅が難しいのだと常々話していた。瑠火も初産のときのことを思い出すようで、「でも、二人目だったら覚悟も決まります」と腹を撫でて笑う。

 暇さえあれば彼女は夕映と杏寿郎に腹を撫でてくれと頼むので、杏寿郎はおっかなびっくりと、夕映は念を込めて、現在進行形で人間が造られているそこをさすった。毎日そうしているうちに彼女の腹は膨らんでいく。

 

「俺もこの中に入っていたのですね……」

 

 しみじみと、杏寿郎が呟いた。今、夕映は外で仕事をしていてここにいない。槇寿郎は遠くの任務に出ていて同じく不在。帰ってくるのは来週になるだろう。

 母と子、二人きりだ。いや、腹の中の赤ん坊も含めれば三人か。

 瑠火はずいぶん大きくなった腹のせいで、以前通り正座をするのが難しく、文机にもたれかかるようにして身を起こしていた。

 

「ふふ、信じられないでしょう? 生まれてきたときは、杏寿郎も腕に収まるくらい小さかったのですよ。まあ、あなたは母のお腹にいたときから大きかったのだけれど。なかなか頭が出なくて大変でした」

「そうだったのですか!?」

 

 ぎょっと目を剥く。その拍子に、母の腹を撫でていた手が止まった。

 

「ええ。数年後に夕映を抱いたときは、あまりの軽さに驚きましたよ……病院で体重を測ったとき、あなたは平均より大きいと聞いてはいましたが、いざ育てていると自分のところが基準になりますからね」

「そういうものですか……」

 

 くすくすとかすかな笑みを漏らしながら、瑠火がこっくり頷いた。

 

「それに、あなたがあまりに槇寿郎様の写し身のようだから、あの方、呆れたように笑って。ほら、この家の、特に男児は皆そっくりでしょう?」

「はい! どの代も瓜二つだと!」

 

 杏寿郎が思い出すに、写真で見る祖父も父とよく似ていた。ということは、自分も祖父とそっくりだということである。瑠火はいっそう笑みを深めた。その瞳は遠い昔を懐かしんでゆるりと細められる。

 この子を産んでからもう七年。月日が経つのは本当に早い。昨日まで寝返りを打った、這い這いをした、と槇寿郎と一喜一憂していたような気がするのに、それが学校へ行く年齢になり、もう瑠火が片手で抱き上げることができないくらい大きくなった。槇寿郎が言うことには、剣術の腕も年々上達しているそうだ。男子三日会わざれば括目して見よと言うが、そうでなくとも子供という生物は夏の朝顔のように目まぐるしく、するする、すくすくと育っていく。その様子を近くで見守ることでこんなにも愛しく思い、幸せを感じるなんて。杏寿郎が生まれた直後には考える余裕すらなかったというのに、今ではすっかり自分は「母親」だった。

 腹の奥の胎動を感じながら、瑠火は話す。

 

「一回きりでしたが、『少しは君に似てくれていてもよかろうに』、と……ね。義父上も同じことを義母上に仰ったと聞きますから、この子もきっと、槇寿郎様やあなたにそっくりの顔をしていると思いますよ。賭けをしてみますか?」

「む……」

 

 ぴくぴくっと杏寿郎の立派な眉が動き、その眉尻が天井を向いた。

 

「ここで頷いては賭けになりません! 俺は母上似の子が産まれる方を選びます!」

「あ、今蹴りました」

「ええっ!?」

「ほら、触ってみなさい。あらまあ、元気だこと。あなたがいることにはしゃいでいるみたい」

 

 呼んであげて、と促されて、杏寿郎は腹にぴったり耳をくっつけた。どく、どく、と母の血流の音に混ざって、そこにあるはずの心臓に耳を澄ます。ぼこっと動いた。また蹴ったのだろうか。そう考えると、杏寿郎はたちまち笑顔になってしまって、顔のゆるみを抑えることが難しくてしょうがない。

 耳を離し、もう一度、ことさら優しく瑠火の腹を撫でる。

 

「……兄上だぞ! みんな、君を待っているから、安心して生まれてくるといい!」

「母も父も、兄も、姉やも待っていますよ。会える日が楽しみです」

 

 

 次第に臨月が近づき、瑠火は実家へ里帰りをすることになった。生家にいる方が彼女がくつろげるというのもあるし、かかりつけの病院はあちらの方が近い。通院のしやすさなども考慮しての決定である。陣痛や破水が始まってしまったなら、医者を呼んで実家で出産しても構わない。心構えはできるとのことだ。

 杏寿郎は一緒に行くかと誘われたが、その間に修行ができないことを理由に断った。「自分がいては母上の気が休まらず、出産に集中できないのではないか」とも思っていたので、遠慮をしたのだ。自分が着いていくと、槇寿郎が任務に出ている間、屋敷に夕映が一人きりになるというのも気にかかる。ならば、と夕映と杏寿郎を連れていこうとしたら、今度は槇寿郎が明かりの灯らない家に帰ることになり、元の木阿弥だ。というわけで、子供二人と主人は留守番となった。

 今日は瑠火の出立の日である。本当なら夕映が荷物持ちをするところだが、未だに小さな身体で抱えられるものは着替えくらいだ。それに、力がついたとはいえ、身重の瑠火が万が一でもつまずいたとき、夕映だけでは支えることすらできない。泣く泣くお供を断念し、代わりに杏寿郎が行くことになった。ついでに祖父母に顔を見せてくるつもりである。それが済めば、杏寿郎は一人で煉獄邸に戻ってくる。

 名残惜しさが尽きず、夕映は両手でぎゅっと瑠火の手を握った。

 

「元気な赤ちゃんと一緒に帰ってきてくださいね。入院されるのでしたら、生まれたとき伺いますから」

「ありがとう。そうですね、陣痛が始まったら、母上からあそこの工場の方に電話してもらいましょうか。二人ともわかるでしょう?」

「はい! 皆月さんのところですね!」

「ええ。電話がかかってきたら、杏寿郎はおばあさまのところへいらっしゃい。夕映はどうしますか?」

 

 えっ、と目を丸くして、夕映は少しまごついた。なんとか返事をひねり出す頃には、眉は下がり、困りきった表情が出来上がっていた。

 

「そのぅ、行ってもよろしいのでしたら、坊ちゃんを見送ってから、戸締りや火の始末をして……伺わせていただきます……」

 

 もじもじと両手の指先を絡めながら、上目遣いで瑠火を見上げる。そうすると、彼女はぴかぴか光るお日様のようにふわっと微笑んだ。それがまぶしくて、夕映はぽっと赤らんだ頬を手で隠しながら目を細める。杏寿郎もニコニコ快活に笑っているものだから肩身が狭い。夕映は少し小さくなった。

 

「奥様には敵わないわァ……まさか、知っていてわざと……?」

 

 遠ざかる二人の背中を見送りながら吐き出されたひとりごとは、口に含んだ砂糖のようにとろとろ溶けて、他の誰の耳に入ることもなく消えていった。

 

 

 それからしばらく。病院にて、とうとう陣痛が始まったと連絡が来た。この日を想定して何度も打ち合わせをしていた二人の行動は早い。まず、杏寿郎が「先に行っているぞ!」と断って弾丸のように屋敷を飛び出していった。その一方で夕映は近隣の女性に洗濯ものの取り込みを手伝ってもらい、屋敷中の戸という戸をすべて閉め、電灯類と火の元を確認してから、彼のあとを追う。

 

(難産じゃありませんように! 赤ちゃんがちゃんと生きて生まれてきますように! それから奥様があんまり疲れませんように! あと、あと、えーと)

 

 心配事が多すぎて、頭の中がしっちゃかめっちゃかこんがらがってしまう。さらに一度しか行ったことのない家を目指して走っているものだから、途中で曲がる道を一本間違えて、ちょっとだけ迷子になった。通りがかった顔見知りのおかげで無事に到着することができたので、道に迷ったことはこのまま秘密にしておこうと思う。

 家の中、彼の祖母と一緒に待っていた杏寿郎は、思わず笑ってしまいそうなくらいカチコチに固まっていた。正座した膝の上で両手の拳がきつく握りこまれ、眼力がありあまるばかりにどこを見ているかわからないと称される目玉はせわしなく、うろうろと空中をさまよっている。ついでに、今にも脂汗が額に浮かびそうだ。口角だけがいびつにきゅっと上がっていてなおさらおかしい。一目でわかるほど、彼は緊張のあまり強く動転している。

 ちらりと傍らに座す彼の祖母に目をやると、すっかり目が笑っていた。さもありなん。袖で隠されている口元も弧を描いているに違いない。夕映は小さなため息を吐き、杏寿郎の一歩後ろに座ってから、彼の背中をつんとつついた。ぎょるんと彼の首が回る。その様子をみて、笑いを通り越し呆れてしまった。もう一度ため息を吐く。

 

「もぉ~、坊ちゃんがそんなに変になったってどうにもなりませんよぅ。ほら、深呼吸してください。旦那様が教えてくださった息の仕方をすると緊張がほぐれますから」

「だが、だがな夕映! 俺がこうして手をこまねいている間にも母上は!」

「腹を決めてくださいな。坊ちゃんって本番に弱かったんですねぇ……旦那様がご覧になったらお腹が引きつるくらい笑われるんじゃあないですかぁ?」

「そうだろうか!? そんなに俺は変か!?」

 

 いつものからかうようなやりとりをしていたら、みるみるうちに杏寿郎が調子を取り戻していく。夕映は内心ほっと安堵し、視線を大奥様にやった。釣られて彼の目も自身の祖母へ向く。瑠火よりもいくらか面差しの柔らかいこなれた女性は、柔らかく微笑んでいた。

 

「ごめんなさいね、杏寿郎。その子が察していた通り、私、結構笑っていたわ」

「なんとっ!?」

「ほらぁ。大奥様が淑女の鑑でいらっしゃるから、声を立てられなかったのでしょ? もう、坊ちゃん、気配を読み取る暇がないくらい慌ててらっしゃったのね」

 

 ぽくぽくちん。空でカアーッと鴉が鳴いた。池の鯉がぱしゃりと飛沫を跳ねさせる。

 ボンッ! と音を立てて杏寿郎の顔が朱に染まった。

 

「よもやよもやだ! 俺もまだまだ修行が足りんな……!」

 

 いつも通りの快活な表情のまま、顔色だけが真っ赤である。あらわになっている額や、耳殻、そして首元。そのすべてが赤みがかっていて、先ほどとは異なる汗をかいているようだった。それでも口をつぐんで俯くのではなく笑い飛ばすところがらしいというか、なんというか。大奥様が優しく目を細めて彼を見つめる姿を視界に収めつつ、夕映も頬を緩めた。

 

 

 太陽が空の中央に来て、昼食をごちそうになる。まだ連絡は来ない。

 腹ごなしに袴を穿いて組み手をする。今日は夕映の猛攻が通るばかりだ。八つ時に熱い茶とまんじゅうを頂いた。まだ連絡は来ない。

 日が暮れていく。影は伸び、鳥たちが巣へ帰っていく。……まだ連絡は来ない。さすがにみんな口数が減ってきて、表情は心配の色が濃くなってきた。振り子時計の歯車の音が嫌に耳につく。

 杏寿郎は何度も立ったり座ったりを繰り返していて、外に目を向けるたびにぎゅっと唇を噛みしめている。いつも緩やかな眉間には深い渓谷ができていた。片や夕映はと言えば、到着したときの杏寿郎を笑えないほどカチカチになっていて、縋れるもの全部に片っ端から祈りを捧げていた。組んだ両手は力が強すぎて、手の甲にくっきりと指のあとがついてしまっている。けれども、家にいるもの全員が不安におかされていたので、誰一人として、他人に気を配る余裕は残っていなかった。ともすれば些細なことに苛立って、八つ当たりをしてしまいそうでもあったので、自分の不安と向き合い続けるのはある種賢明とも言える。

 

(父上がいてくださったら、俺もまた落ち着いていられたのだろうか……)

 

 難しい顔をしながら、部屋の中をうろうろと動き回る。じっとしていると、頭がどんどん悪い方へ転がっていきそうで怖かった。

 

「夕映、夕食の前にもう一度組み手に──」

「おおい! 生まれたぞ!」

 

 耐え切れず、また集中できないとわかっていて夕映に誘いをかけたとき、祖父──瑠火の父が、部屋に転がり込んできた。ばっと部屋中の視線が彼に集中する。病院から全速力で走ってきたのだろう、額に汗を浮かべて肩で息をしている。

 老いてなお矍鑠としていて、健脚、強心臓を誇る祖父がこうも慌てるとは珍しいなあ。杏寿郎はまるで他人事のように考えていた。考えていた以上に現実感がなかったのである。生まれたって、誰が。誰を? そんなことを言い出してもおかしくないくらい、呆けていた。

 

「瑠火と赤子は無事ですか!?」

「私、旦那様の鴉に伝えてきます!」

 

 祖母がつかみかかるようにずいっと祖父に近づき、夕映は風のように部屋を飛び出していく。

 いやはや、人間は女性の方が肝が据わっていると巷で頻繁に言われることであるが、杏寿郎はこのとき、つくづくこれを痛感した。ぽかんと口を開けて間抜け面を晒し、ふわふわしたことを考えていた自分より、なんと立ち直りの早いこと。その様子を見ていたら嫌でもはっとさせられる。杏寿郎もあとに続き、祖父のところへ駆け寄った。

 必死の形相を浮かべた妻を前にして、少しだけ老人の顔が曇る。

 

「……難産だったからな、瑠火は少し衰弱している。赤ん坊の方も平均より小さいみたいでなあ、ありゃあ少しの間入院だ」

「っ、そうですか……」

 

 祖母の顔に苦み走った感情が浮かぶ。なんてことだ、変わってやれるものなら変わってやりたい。そう思っていることが、子供の自分にも手に取るようにわかった。しかし彼女はすぐに渋面をきりっとしたものへ切り替え、質問を重ねる。男子か女子かとか、必要なものはなにかとか、家から持っていけるものかとか。

 どうやら、杏寿郎には弟ができたようだ。それを理解する頃には、祖父の呼吸は整い、額できらきら光っていた汗も消えていた。「兄としてよく導いてやりなさい」と、祖父の骨ばった手が頭を撫でてくれる。杏寿郎は甘んじてそれを享受した。そして内心、首をかしげて唸り声を上げたのだ。

 

(ううん、困った。あんなに早く会いたいと思っていたのに、まるで実感が湧かないぞ! 俺は本当に兄になったのだろうか……)

 

 それから、報告を済ませた夕映が戻ってきても、「もう遅いから」と母の実家に急遽泊まることになっても、暗い部屋で布団に潜り込んで目を閉じても。杏寿郎は雲の上を歩くようにふわふわと覚束ない心地で、ずっと夢現だった。現実を現実だとなかなか認識できなかったのは、過度な緊張から急に解き放たれた反動もあったのだろう。スコンと落ちるように入眠し、ぱっちり目覚めてもまだ、彼は「本当に弟は生まれたのかな?」と、相変わらず地に足つかない心情であった。

 しかしながら、翌日病院で母に抱かれたその子に対面したとき、それらは一気に吹っ飛んで、「現実」は濁流のように杏寿郎を飲みこんだ。

 頭の、父や己と同じ色の金色の産毛。うっすらと生えた、けれども主張の強い眉毛。よく磨かれた林檎のようにつやつやとあかいほっぺた。ちょんとついて、むにむに動く小さなくちびる。杏寿郎の手のひらで覆ってしまえるような大きさなのに、生真面目に揃った薄桃色の爪。

 一目でわかる。寸分の間違いもなく、この小さないきものは、自分と血を分けた弟なのだと。

 理解した瞬間、様々な感覚が杏寿郎を襲った。落雷に打たれたような、びりびり震える衝撃。ふわりと花が開くような多幸感。目の前でちかちか光る火花。そして──燃えさかるようにずきずき熱い心の臓。

 

「お、おや? これはおかしいな、少しも悲しくなどないのに……むしろ、とても、とても……」

 

 気づけば、杏寿郎はぽろぽろと涙をこぼしていた。手のひらでぐしぐし拭ってみても止まる気配がない。なんで? 頭が疑問符でいっぱいになる。男児たるもの、易々と涙を見せるな! と叱責する父を思い出して、「はい!」と力いっぱい返事をしてみても、てんでだめだ。全然止まらない。困り果てて母の方を見ても、彼女はすべてを理解しているようにやわく微笑んでいるし、妹分は「あらァ」とだけ漏らしてそれ以上なにも言わない。ますます杏寿郎は困ってしまう。その間にも、ぽろぽろ、ぽろぽろ。終いには鼻が垂れそうだった。

 

「母上! 俺は、俺はなにかおかしくなってしまったのでしょうか!?」

「っふふふ! なにもおかしくなどありませんよ。この子も、こんなに祝福されて果報者ですね」

 

 すとん、と腑に落ちる。

 

(そうか。俺は、嬉しくて泣いているのか……)

 

 母の笑顔で、驚くほど簡単に気づかされた。自覚したら、止まらなくて困っていた涙がぴたりと止まる。そして、むずむずが全身に広がって、これ以上ないくらい笑顔でいっぱいになる。ずびっと鼻をすすり、杏寿郎は赤子の頬をそぉっとつついた。ふに、と柔らかいそれは、どんな細工より繊細で、神聖な宝に見えた。にっかりと杏寿郎は笑う。

 

「──やっと会えた! 兄だぞ!」

 

 

 

「そういえば、槇寿郎様とあなたによく似た男の子ですから、賭けは母の勝ちですね」

「はっ!!」

「え、なんの話ですか……?」

 

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