メイド・オブ・レンゴク   作:鈴近

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幼少期4 翳り

 瑠火の産褥期はなかなかに大変であった。入院している最中に高熱が三日続き、やっと赤子を連れて家に戻ってきても、乳房の痛みやら、貧血、憂鬱の気など様々な症状が彼女を襲った。ろくに布団から起き上がれないのが現状である。もっぱら食事をし、赤子に乳をやるのが彼女の仕事だった。

 出産直前の頃と同じように、近隣の小母たちが手助けをしてくれるし、時折瑠火の母も煉獄邸を訪れるため、日常は日常として保たれている。夕映もきりきり働く毎日だ。杏寿郎は、父から留守を任されているため、より張り切って鍛錬をし、よく家の手伝いをしている。布団の中の瑠火だけが申し訳なさげだった。

 

「こんなになにもしなくて、本当にいいのかしら……食べて寝て、千寿郎にお乳をあげるだけなんて、罰が当たるんじゃ……」

「もう! 奥様のお仕事はちぃ坊ちゃんを育てるためにしっかり精をつけることだって何度も言ったじゃありませんかぁ! 退屈なのはわかりますけど、一生分休むつもりで休んでくださいっ!」

 

 赤ん坊を抱いた夕映がきっぱり言い切ると、瑠火は顔の下半分を掛け布団で隠して眉を下げる。少女の腕に抱かれた子はすぅすぅと健やかな寝息を立てていた。順調に肥え、大きくなっている。

 今やこの子がこの家の中心だ。

 

 

 赤子は「千寿郎」と名付けられた。伝令用鎹鴉を飛ばした翌朝に槇寿郎がとんぼ返りし、瑠火と次男に面会して、その足で役所に出生届を出してきたのである。

 長男であり、ゆくゆくは鬼殺隊に入ることが生まれたときから決定づけられている杏寿郎には、魔除けの願いを込めてあんずの字を当てた。第二子は次男であるため、兄をよく支え、そして万が一槇寿郎と杏寿郎が志半ばで斃れたときには、煉獄家の血筋と炎の呼吸を次の代に繋いでほしい。それこそ、この千年、人の想いが絶えなかったように。それゆえに槇寿郎は「千」の字を与えた。己が焚き木のように燃え尽きるとしても、子らが次の世代に繋いでいってくれることを願って。

 ……連綿と紡がれてきた鬼狩りたちの業を我が子に背負わせることに、思うことがないわけではない。歴代煉獄家当主たちも、きっと同じ思いであったことだろう。そしてどの柱も、「自分の代でこの戦いを終わらせよう」と誓ってきたはずだ。そうやって繋いできたのだ。守るものが増えた槇寿郎の技はさらなる冴えを見せ、心はより一層ごうごうと燃えている。

 今、間違いなく己は人生の最盛期にいる。自ずとそれを感じられるほど、槇寿郎は手応えを感じていた。

 

 

 さて、赤ん坊の成長とは著しいもので、槇寿郎がその時々の任務を終えて帰宅するたび、どんどん大きくなっている。瑠火と夕映が日記をつけていてくれるので、留守が多い槇寿郎でも千寿郎の成長を身近に感じられている。平均より小さく産まれてきたときには、ちゃんと育っていけるか心配していたのだが、よく泣き、よく食べ、よく眠ると伝え聞けば安心できるものだ。瑠火が言うには、杏寿郎のときより夜泣きが長いかもしれない、とのことだが、「しかし赤子は泣くのが仕事ですからね」というのも彼女の談だった。二人目の子育てであるし、なにより杏寿郎と夕映がよく支えてくれるのでとても楽だともはにかんで言っていた。それにまなじりを下げて槇寿郎もうなずいたものだ。一時はどうなるかと思われた少女も、元気に家の中でくるくる働いているし、長男には兄の自覚が順調にはぐくまれているという。

 妻の隣、眠る次男を膝に抱き、長男と少女が修行に励むさまを見守るというのは、とても穏やかで、この日常がどんなに尊いか、繰り返し槇寿郎に見せつけてくる。妻の肩を抱き、槇寿郎は囁いた。

 

「どんなことからでも、守ってみせよう。君も、息子たちも、あの子も。絶対に、だ」

「……ふふ、ありがとうございます。でも、あまり無理はしないでくださいね」

「うーん、確約が難しいな!」

「そうだろうと思いました」

 

 おどけて見せると、妻がつんと顔を逸らす。その横顔が愛しかった。

 いつまでもいつまでも、こんな日々が続いていればいいのに。そう思わずにはいられない。人生には空模様があることを知っているから、なおさらに。

 季節は刻々と移り変わってゆく。子供たちはすくすくと育ち、瑠火も日に日に顔色がよくなっていく。あとは鬼さえいなければ、命の危機も減っただろうになあ。槇寿郎は心中、ため息を吐く。

 未だに鬼舞辻の尻尾すらつかめない。上弦とも出くわさない。お館様はそろそろお隠れになられるだろう。そして次の当主に輝哉様が就かれる。この堂々巡りの輪が切れるのはいったいいつになるのだろう? 自分の代ですべてを終わらせたい、先人たちと同じようにそう願ったところで、なかなか思うようにいかないのが、歯がゆくて仕方がないのだ。

 

「父上! 稽古をつけてください!」

「おお、いいぞ!」

 

 自分そっくりの獅子毛を撫でてやると、杏寿郎は頬を赤くしてはにかんだ。妻によく似た笑みだ。その一歩後ろで、木刀を抱えた夕映が二人を優しく見守っている。瑠火に千寿郎を任せ、槇寿郎は「着替えてくるから、少し待っていなさい」と鷹揚に口角を上げた。

 

 杏寿郎は、自分より圧倒的に弱いものと相対する術をよく知らない。つまり、赤ん坊のようにふにゃふにゃしていて、首が据わっていない生き物と関わるのが生まれて初めてだった。この村にわざわざ当主の子息に子守を頼む人間はいなかったし、杏寿郎の友人はたいていが同世代で、そのきょうだいと遊ぶことはそうそうなかった。当然と言えば当然である。実を言うと年下の異性と関わったのは夕映の件が初めてだった。

 そのせいか、杏寿郎はだっこが下手だ。千寿郎を抱き上げるたびに泣かせている。過言ではない。最初は大人しく抱かれていても、次第に不安を覚えて泣きながら母か妹分に手を伸ばすのが常である。そのたびに杏寿郎はひどく落ち込んだ。

 自分よりも著しく小さな生物と触れ合う機会は今までほとんどなく、さらに赤ん坊は言葉を話せないため、とにかく感情表現から読み取るしかない。それを意識して、とにかく杏寿郎は千寿郎の顔を見た。彼を不安にさせる材料を分析し、適宜改善していけば己のだっこ技術も上がるはずである。しかし、どうも杏寿郎の視線は千寿郎にとって怖いもののようだ。じい……っとそのふくふくした顔からなにかを読み取ろうと覗き込むと、数秒と経たずに泣かれてしまう。緊張してだっこをしている上、全集中して千寿郎の様子をうかがっているというのに、まったくもってだっこが上達しない! これはおおいに少年を悩ませた。

 そのくせ、母や夕映にひょいっと抱き上げられると、泣いた鴉がもう笑うような変わり身の早さで泣き止むか、子守歌で眠りに就く。思わず恨めしげな視線を向けてしまうのも致し方ないだろう。

 

「坊ちゃんは緊張しすぎですねぇ」

「そうだろうか!? ……そうかもしれないな!」

「変に力が入った腕で抱いてらっしゃるから、ちぃ坊ちゃんも安定しなくて不安になるのでしょう。それに加えて、いつちぃ坊ちゃんが泣き出すかと鬼気迫るお顔をされていますもの! 坊ちゃんたちは旦那様によく似て目力がありますし? 一生懸命なのは伝わってきますけどね」

 

 そう言いながら、夕映はゆらゆらと千寿郎を抱いた腕を揺らす。

 千寿郎は一度寝付くとなかなか起きないので、その間にもちもちのほっぺたをおっかなびっくり、つんつんつつくばかりである。夜泣きの主な理由は腹が減ったか、眠いのに寝付けなくてぐずっているかのどちらかだった。母がお乳をやると泣き声がぴたりと止むため、杏寿郎は千寿郎が家にやってきても今までと特に変わらぬ生活を送れている。

 

「しかし、君がいてくれてよかったなぁ」

「ええ? なんです、藪から棒に」

「いやな、母上が体調を崩されている間、君が家のことや千寿郎の面倒をよく見ていてくれるから、俺も父上もそう混乱せずに済んでいると思ったんだ! もちろんおばあさまや村のみんなも手助けをしてくれているが、みんなにもそれぞれ生活があるからな! 夕映がうちにいてくれて大助かりだ!!」

「……まあ、なんてもったいないお言葉……坊ちゃんは人を焚きつけるのがお上手ですねぇ……」

「ん!? どういう意味だ!?」

「立派な方になられるだろうなあと思っただけですよぅ。私、ますます励もうと思いました。ちぃ坊ちゃんも兄上が頼もしくて幸せですねぇ」

 

 夕映が煉獄家男児らしい立派な眉をこしょこしょくすぐると、眠る千寿郎はふにゃふにゃと口をゆるゆるにする。気持ちいいらしい。

 

(なるほど、そこがいいのか! 今度俺も撫でよう!)

 

 杏寿郎はうむ! と頷いた。

 この子も、猿の子のように真っ赤で、産毛しかなかった頃から、すっかり人が想像する赤ん坊らしい見た目になったものだ。生まれたときから目元が祖父、父、己にそっくりだったが、髪や眉が生えそろうほどその瓜二つ具合に舌を巻く日々である。夕映曰く、「旦那様や坊ちゃんは凛々しいお顔立ち、ちぃ坊ちゃんはどことなく優しいお顔立ちだ」とのことだが、当事者である杏寿郎はよくわからなかった。母のように柳眉と切れ長な目をしていたら凛々しい、夕映のようにたれ目で人好きのする顔をしていたら愛嬌がある、というのは理解できるが、いざ自分やそれそっくりの顔となるといまいち筆舌しがたいものだ。

 けれども、弟の顔を見ていると、心の底から湧き上がってくる思いがあった。この子が笑っていると嬉しく、この子が泣くと心配でてんやわんやになる。気持ちよさそうに眠る表情はなによりも愛らしく──きっと、これが愛しいということなのだろう。二年ほど前に、隣の少女が初めて笑ってくれたときも、同じことを思った。

 

(俺が守らなくてはな)

 

 あの山の頂上で誓ったように、指輪の約束をしたように。数秒彼は瞑目し、そしてすっくと立ちあがって、縁側に降りた。

 

「よし! なにはともあれ修行あるのみだ!!」

「坊ちゃぁん、そんな大声を出したら」

「……ぅ、ふうう……あ────!!」

 

 夕映の腕に抱かれた千寿郎が泣き出す。さっきまですやすや眠っていたのが嘘かと思うほど、火がついたような泣きっぷりだ。庭先の木に止まっていた鳥たちが一気にバサバサバサッと飛び立っていく。その音に驚いて、ますます千寿郎が泣く。

 

「ああ、ほらぁ、言わんこっちゃない」

「なんと!?」

 

 動転した杏寿郎の口からまた大声が飛び出す。彼の顔にはだらだらと冷や汗が浮かび、両手が忙しなくもちゃもちゃと動いている。ついでに目はぎょろぎょろだ。それを見て、千寿郎の泣き声がより一層ひどくなった。地獄絵図である。杏寿郎の頭は完全に動きを止めた。

 坊ちゃん二人の様子に夕映は苦笑いを浮かべ、腰を上げる。

 

「ちょっと、ちぃ坊ちゃんと一緒にお散歩に行ってきますね。日暮れ前に帰りますから」

「ああ……二人とも、すまない……」

「そんなに落ち込まなくったっていいんですよぅ! ちぃ坊ちゃんがおしゃべりできるようになる頃には笑い話になってますって。それではいってまいりますね~」

 

 ふぎゃあああ! と雄々しい泣き声をあげながら、千寿郎は夕映の胸に頭をぐりぐりと押しつけている。「よしよし、姉やがいますよ、大丈夫ですよ~」と千寿郎をあやす声が聞こえる。次第にそれらが遠ざかっていき、杏寿郎は一人、静かな庭に取り残された。

 

「ううん……やはり俺はまだ、父上のようにどっしり構えるということができんなあ……」

 

 手持無沙汰な左手がわしわしと後頭部を掻く。いつもはきりっと上を向いている眉も、すっかり困りきって情けなく下がっていることだろう。ひとつため息を吐いて、杏寿郎は修行のために移動を始めた。

 

 

 乳児の成長速度というものはとんとすさまじい。杏寿郎は日々、それを実感するばかりである。

 瑠火が回復していくにつれ、千寿郎はどんどん人間に近づいていく。喃語をよく話すようになり、きゃっきゃと笑うことも増えた。この頃には瑠火の妊娠がわかった日から一年ほど経っており、いやはやまさしく光陰矢の如し。次第に首が据わり、一日飲むか寝るかだったのが嘘のように周囲へ興味津々だ。槇寿郎が任務に当たっている間に寝返りをし、自力で座れるようにもなった。簡単な言葉を話せるようになり、さらにハイハイを覚えてからは、お気に入りの相手に突進していく。この風景が日常となって久しい。今のところお気に入りの一位が瑠火で、二位が夕映だ。兄と父が最下位争いをしているという現状は、なんとも言えない物悲しさを二人に味わわせた。

 さらには初めて話したはっきり意味のある言葉が「ね!」で、夕映の顔を見ての言葉だったため、男二人は眉を下げるやら、当の少女は恐縮して縮こまるやらで、楽しそうに笑っていたのは瑠火だけだった。

 自力で移動できるようになると行動範囲も増え、全体的な運動量が増えた結果体力もつく。要するに、気に入らないことに対して泣いて暴れるようになった。杏寿郎のだっこ技術は努力のすえ大きく向上し、寝ているのを抱き上げて運んでも起こさない領域まで届いていたが、問題は槇寿郎である。仕事柄毎日顔を合わせることができず、柱ゆえの担当区域の広さから家を空ける日も多い。そして駄目押しのように千寿郎の人見知りが始まった。結果、抱き上げれば海老反りをして大泣き、父上の「ち」の字もその口からは聞けず、それどころか顔を見せただけで誰かの後ろに隠れられる始末。

 これは、父親として認識されていないに違いない。槇寿郎は落ち込んだ。ものすごく落ち込んだ。寝室で二人きりのときに、妻に甘えるくらい落ち込んだ。

 自分が父だと千寿郎に教えるためにも、毎日一度は帰宅しなくてはなるまい。槇寿郎は腹を決めた。副次的に槇寿郎の技は冴えに冴え、彼が毎朝家に戻るために多くの鬼が露と消えたことをここに記しておく。足繁く顔を見せた甲斐あって、千寿郎は父に抱き上げられても泣かなくなったし、教えた呼び名で呼んでくれるようになった。これで皆一安心である。

 そうやって、季節の螺旋は上へ上へと伸びていく。

 半年後には千寿郎が二歳になる。その頃には夕映も七つだ。夫妻は小学校に通うよう勧めてくれた。今は予習と称して瑠火から手習いを教わっており、手本のいろは歌を写すのが日課である。時折槇寿郎が顔を出して、「心を落ち着けるのにちょうどいい」と杏寿郎を手招きすることがあるくらいだ。

 夕映は、槇寿郎が言っているのは建前で、子供たちや妻と交流するために瑠火の部屋を訪れているのではないか? と勘繰っていた。少しでも身体を休めたいはずの昼間にわざわざ足を運んでいるのだ、そう思うのも当然だろう。しかし殿方というものは好意の類をおおっぴらにされるのを恥ずかしがる傾向にある。槇寿郎も例に漏れずそうだった。だから夕映は知らんぷりを続けているのだ。もし坊ちゃんに教えたらすぐに顔に出てしまうだろう。いや、もしかしたら「父上は本当に母上が大好きですね! 俺も父上と母上が大好きです!」くらい言う。はきはきと話す声が聞こえるほど容易に想像できた。そのため、察したことはちょっとも伝えていない。秘するが花、沈黙は金。だって野暮ではないか! 夕映は、宝物は大事に隠す性質/たちである。

 

 日々の頁はめくられる。季節を跨いだら千寿郎は二足歩行を完璧に習得し、会話での意思疎通ができるようになった。瑠火の体調も大幅に改善し、今は夕映がこの家に来たときのように家を取り仕切っている。

 近頃夕映は彼女に料理を習っていた。と言っても包丁は触らせてもらえず、野菜を洗ったり、きれいな盛り付けの仕方を教わったり……あとはひたすら煉獄家の家庭の味を覚えることに専念している。いつも食べている彼女の作る食事が経験と歴史でできているというのは不思議な話だ。

 自分の母の味もこうやってできていたのだろうか。今の夕映は、もう母の作る味噌汁の味すら明瞭に思い出せなくなってしまった。こうやっていろんなことを忘れていくのだろう。とてもさみしいことだけれど、枯れない花とあしたの約束は夕映の手を引いて未来に連れていってくれる。千寿郎という新たな宝物が生まれてきたことも大きいのだろう。毎日成長して昨日を塗り替えていく子供を見守ることが楽しくて仕方がない。

 夕映が杏寿郎と行う修行も木刀を握ってのものが増え、今は彼のあとに続き槇寿郎から「呼吸」の指南を受けている。これがなかなか難しい。なにせ息を吸って吐くというのは人間が生きていくために必要不可欠なもので、無意識でも行われるものだ。それを意識して行い、制御して、体内の血管一本一本、筋肉の隅々までに力を巡らせるというのは言葉で述べる以上に難しい業である。しかしこれを少しでもやるかやらないかはとても大きなことだった。毎日呼吸の訓練を続けていたら、半月で打ち合いを続けられる時間が大幅に伸びたのだ。「呼吸は基礎だからな」と、槇寿郎は茶目っ気をにじませて笑った。

 

「しかし君は身体が柔らかいな! 関節の可動域も広いし、平衡感覚も優れている!」

「そ、そう、ハァ、でしょ、ッゲホゲホ、か?」

 

 夕映は木刀を杖のようにして身体を支え、咳き込む。その顔は熟れた林檎のように真っ赤で、額には大粒の汗が浮かんでいた。槇寿郎はにこっと子息そっくりの笑顔を浮かべ、少女の細い肩を上からぐっと押す。すぐに彼女は尻もちをついた。

 

「うん、ちゃんと話せるようになるまで“集中して”呼吸を整えるように。さて杏寿郎! 夕映に手本を見せるつもりでかかってこい! どこから打ち込んできてもいいぞ!」

「はい!!」

 

 いつまでも、この幸せが続けば。こんな風に一年を繰り返していけたら。──そう思ったときほど、別れは嘲笑うように顔を覗かせる。

 瑠火が病にかかった。夫妻は「少し重い風邪だ」「休んで栄養をたくさんとればすぐに元気になる」と明るく話していたけれど、それが一週間、二週間、一か月、二か月と終わりが見えない状況になれば嫌でも状況に気づく。日に日に瑠火が伏せる時間は長くなり、その喉からは重苦しい咳が吐き出され、髪と肌は色あせていく。処方された薬は気休めになっているかも怪しい。

 二人は嘘をついている。杏寿郎も夕映も、おのずとそのことに気づいた。気づいたからといってなにか特別なことができるわけではなくて、一日一日を惜しんでいるせいか日が過ぎるのがやけにのろく感じるのだ。それがかえって焦燥感をあぶる。爪先から冷え込んでいく冬の夜のように、ふと心細くなる。

 楽しみだったはずの明日が急に怖くなった。明日になったら、瑠火がいないかもしれないから。

 杏寿郎も、槇寿郎も、瑠火と二人きりになりたがることが増えた。そういうとき夕映は千寿郎を連れて街まで出かけるのだ。瑠火が喜ぶようなきれいなものを探して、甘い飴を買って、家に戻ったら、お土産を渡す任務を託された小さな千寿郎は母親のところにすっ飛んでいく。そのあとをゆっくり追いかけて、夕映は熱いお茶を用意する。四人分の湯呑を盆にのせて襖を開けたら、はしゃぐ千寿郎のおしゃべり。それを二人が楽しそうに聞いている。三人が笑っているのを目で見て、耳で聞くと、ようやく夕映も安心して笑うことができた。

 だが、この麻酔のような日々もいずれ増していく痛みに追いつかなくなるだろう。誤魔化しが効かないくらい、瑠火は儚く弱っていった。夕暮れのヒグラシが切なく鳴くように。名残の雪が土に染みていくように。その玉の緒が途切れてしまう日は近い。

 みんな気づいている。気づいていて、何人がそれを覚悟できているだろうか? 認められているだろうか? 夕映はいまだに受け入れられないままだ。まだ瑠火から教わりたいことはたくさんある。まだ彼女に生きていてほしい。別れたくない。置いていかないでほしい。泣いて縋って駄々をこねて言えるならましだったのだろう。言えないからこんなに苦しい。

 

(坊ちゃん方や旦那様を差し置いてそんなこと言えない。奥様を心配させることはできない)

 

 その日も彼女は丁寧に茶を淹れて、瑠火の部屋へ運んでいった。

 

 

 これから話すことをよく考えなさいと前置いてから、彼女はじっと杏寿郎を見つめる。

 布団の足元で千寿郎がすっかり寝入っている。当分起きないだろう。母が自分に大切なことを話すのなら、都合がよかった。きっと彼女も時を見計らっていたのだろう。杏寿郎は一言一句を聞き洩らさないよう、背筋を伸ばしてぎゅっと拳を握り込んだ。

 

「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか」

 

 杏寿郎は即答できなかった。考えてもわからない。答えられない。だから素直にわからないと返す。

 弱き人を助けるためだと、厳かに母は言い切った。

 強く生まれた者はその力を正しいことに使わなければならない。人を守ること、助けることはその最たるものである。それは責任をもって果たさなければならない、天より与えられた使命なのだ。煉獄の家に生まれた以上、鬼殺隊の柱となることは決定事項。たとえ血反吐をまき散らそうが、命を懸けて人を食う鬼と戦い続けなければならない。どんなに強い相手であろうともだ。上弦を倒せば百人単位で人が助けられる。

 わかりますか、と瑠火が重ねて問う。杏寿郎は唾を飲みこんで、力いっぱい返事をした。自分の本気が伝わるように、はっきりと。

 瑠火は瞑目し、ふうと息を吸う。そして目を開いて、杏寿郎を手招きした。きょとんとしつつも杏寿郎は膝でにじり寄って瑠火の正面に移動する。

 ふわり、と。白檀の香りが杏寿郎を抱きしめた。母の手は少しかさかさしていて、ひんやりと冷たい。このかいなに抱かれるのはいつぶりだろうか。煉獄家に子供が増えるのに比例して杏寿郎が母に甘えることは減っていた。近頃は夕映が気を利かせて母と二人にしてくれることが多かったけれど、それでもこんな風に触れ合うこともしてこなかった。いつもより少しだけ長い時間を過ごすことで、自分は別れの準備をしようとしていたのだ。母の些細な仕草、涼やかで柔らかい声音、着物に焚き染められた香りを焼きつけて、いつまでも覚えていられるように。千寿郎が大きくなったときに母の話をたくさんしてやれるように。いっぱいいっぱい考えて、そう決めた。

 頭を撫でる母の手。胸がぎゅっと締めつけられる。

 

「強く優しい子の母になれて幸せでした」

 

 私はもう長く生きられないと母は一筋、涙を流す。杏寿郎も泣きたくなった。鼻の奥がツンとして、今すぐにでも泣きわめいてしまいたかった。けれど杏寿郎は我慢する。今ここで泣いてしまったら、母が心配してしまうからだ。

 

「あとは頼みます」

 

 歯を食いしばり、顔を真っ赤にして、杏寿郎はコクンと頷いた。

 

 

 この言葉はこれから彼を導く光であり、明日の彼の血肉と骨子を形作る言葉であり、そして未来の彼を縛る呪いになる。

 杏寿郎は長く生きられまい。襖越しに夕映はそう直感した。

 強く生まれてきたのは人を救うため、人を助けるために生きろ、なんて。それは本当に人間がやるべきことだろうか。神や仏が見せる所業ではないのだろうか。

 鬼はいともたやすく人を殺してその血肉をすする。夕映の父母があっけなく死んでいったように、昨日食われた人がいてもおかしくないし、明日食われる人もきっといる。そのときにならなければわからないだけで。しかしその可能性を潰すために槇寿郎は戦い、彼の背中を追うべく杏寿郎も修行をしているのだ。

 そして瑠火は鬼とはまったく関係ないことで三途の川に足を浸している。なんて歯がゆいのか。

 

(私に、なにができるだろう)

 

 杏寿郎はこれから多くの人を救うだろう。夕映の心を照らしたときのように、太陽のごとく輝いていくのだろう。その手伝いがしたかった。杏寿郎には味方がいっぱいいるから、その中の一人になれるだけでいい。

 気配と音を殺して夕映は立ち上がる。用意した茶はすっかり冷めてしまった。新しいものを淹れてこなくては。細心の注意を払って、彼女は台所へ急いだ。

 その間にも、頭はくるくる回った。自分にできることがあるとするなら、今までと同じように家を整え、彼ら親子が帰ってくる場所を守るか──もしくはいっそ、夕映自身が鬼殺の隊士になってしまうか、だろう。

 どちらを選ぶにしても、より一層真剣に打ち込んでいかなければなるまい。もうすぐ瑠火はいなくなってしまう。しばらくは近隣の親類が手伝ってくれるだろうが、いずれは夕映が一人で家のことを切り盛りしていかなくてはならない。槇寿郎が後妻をとるか、杏寿郎が成人して結婚するまでは、夕映は一家のために身を捧げるつもりだ。

 もっとも、前者は空が落ちてくるくらいありえないことだろうが……。夫妻は強く愛し合っている。二人を引き裂けるものは男も女もいないに違いない。夕映は、二人の愛をなにより信じていた。

 新しく淹れた茶を持って、夕映は襖を開けた。ぺかっとわざとらしいくらいに明るく笑ってみせる。

 

「奥様、坊ちゃん! お茶が入りましたよぅ!」

 

 二人は、溌剌と笑む夕映につられるようにほんのりと微笑んだ。

 

(本当につらいときは、人の笑い声も、お天気のよさすら鬱陶しくなってしまいますからね。でも夕映は明るいままでいますよ。どんなにさみしくたって。だって、奥様を不安にさせたくないのですもの……)

 

 瑠火が逝ったのはその五日後だった。あまりにも短い人生だった。

 発見したのは、朝方に帰宅した槇寿郎だ。彼の妻は、眠るように冷たくなっていた。通夜と葬式は淡々と、粛々と進む。もっとも取り乱したのは、瑠火の母だった。「親の私より先に死ぬなんて」「なんて親不孝をするんだ」「私が替わってやれたら」「どうして」──彼女が堰き止められない涙を流す一方で、千寿郎は事が理解できていないようだったし、槇寿郎はぎりぎりの綱渡りをするような緊張感を全身に纏っている。

 杏寿郎と夕映は、お互いの目を見てしっかり頷いた。自分たちがしっかりしなくては。

 その誓いはまだ続いている。ある日、糸がぷっつり切れた槇寿郎がすっかりふさぎ込んでしまったあとも。炎柱が槇寿郎の後任から杏寿郎へ代替わりした今も、なお。

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