メイド・オブ・レンゴク   作:鈴近

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なけなしロマンス要素と出張回


原作時間軸1 出稽古

 開いた障子の隙間から差し込む日差しで、杏寿郎の意識は覚醒した。目を開けた先にあるのは見慣れた天井だ。染みの位置も、木目の調子も見飽きるほど見た自分の部屋。腹筋に力を込めてがばっと起き上がり、てきぱき布団を畳む。

 長い夢を見ていたように思う。久しぶりに母と会った。あの人は今も自分たちを見守っていてくれるだろう。きっと。

 夜着を整えてから部屋を出て、空を見上げた杏寿郎はにっこりと笑った。今日も快晴だ! 太陽の位置は中天より低い。午後まで寝過ごすことがなくてなによりだ。うむうむと頷きながら、杏寿郎は廊下を歩き出す。すると、角から彼女の気配がした。そのすぐあとにひょっこりと少女が顔を出す。

 

「あらぁ、まだ寝ていらっしゃってもよろしかったのに」

 

 ととと、と近づいてきた夕映は口元に手を当てて眉を下げる。杏寿郎はそのぽむぽむと肩を叩いて首を振った。

 

「いや、充分休んだ! やはり自分の布団は違うな、よく眠れたぞ。千寿郎は?」

「今は学校の時間ですよぅ」

「む、そうだった、そうだった。いかんなあ、自分が行っていた頃が遠くなるとすぐに忘れてしまう」

「ふふ、坊ちゃんももう十八になられますからね。あんなに小さかった千寿郎坊ちゃんが立派に学校に行って、坊ちゃんは柱になられて……時の流れとは本当に早いものです」

「そうだな……君が来てから十年も経ったか。うん! 確かに早い!」

 

 十年の間にいろんなことが起きた。夕映が初めて水の呼吸の育手の元に出稽古に行ったときのことも、千寿郎の入学式も、自分が柱になったことも。

 不意に杏寿郎は、すっと冷たいものが喉を通り抜けるような感覚を味わう。この少女は十年も自分たちに、この家に尽くしてきてくれた。それに対し、己は──

 

「俺は、君に報いられているだろうか」

 

 ころりと、静かな声が落ちた。足が止まる。

 振り返った夕映がきょとんと目を丸くする。それから、ぷっと噴き出してけらけら笑った。なにを言っているのか、と言わんばかりに肩を震わせている。「ああおかしい」と呟いて、彼女は浮かんだ涙をぬぐった。

 

「坊ちゃんが健康で、五体満足で、ちゃんと帰ってきてくださるだけで夕映は満足ですよ!」

 その言葉に、柔らかく笑い返して。談笑に花を咲かせながら居間へ向かって歩いて。

 それでも杏寿郎は胸が詰まる思いだった。陽の下で頬を赤らめて笑う彼女は、美しく育った。そろそろ結婚の世話をしてやらなければならないのだろう。父が使い物にならない以上、他ならぬ杏寿郎自身が。

 

(ああ、でも)

 

 あばらの奥に収まった臓器に近いところがつきりと痛む。

 

(きみが頷いてさえくれれば、いつでも俺の妻にするというのに)

 

 柔らかな風が杏寿郎の頬を撫でた。

 十年。子供が結婚適齢期に差し掛かるほどの時間を、側で過ごしてきた。彼女が作る料理は母の味を継承した上で杏寿郎たちの好みに寄り添ったもので、千寿郎を育てたのもほとんど彼女で、もし彼女がいなくなったらこの家の男たちがろくに生活できるかも、とんと怪しいくらいなのに。それなのに杏寿郎は探したくもない彼女の結婚相手を探し、縁談を持ってこなければならないのだ。主人一家の長男として。そして夕映は間違いなく、「坊ちゃんが選んだ方なら」と嫁いでいってしまう。

 杏寿郎が二の足を踏んでいるのは、ひとえに彼女が自分をそういう対象として見ていないからだった。いつまでたっても「坊ちゃんはお仕えする方ですから」の一点張りで、そのくせ浮いた噂もない。どころか人の気も知らずに「坊ちゃんにお見合いの話をいただいたんですよぅ!」とにこにこ笑いかけてくるときた。いくら杏寿郎がズレているだとか、鈍いだとかさんざっぱらなことを同僚に言われていようが、ここまで来たら嫌でも気づく。夕映にとって自分は「男」ではないのだ。彼女は杏寿郎の性別に意味を見出していない。彼女が見ている杏寿郎という人間は「仕える相手」で、それ以上でも以下でもない、杏寿郎や柱たちにとってのお館様のように絶対的な存在であると。

 

(俺はきみ以外考えられないのに?)

 

 当たり前のようにずっと好きだった。そうでもなければ、本人の意思を無視して無理矢理危険から遠ざけたりなどしない。杏寿郎は認めざるを得ない。己を突き動かすエゴには、愛情という名がふさわしいのだということを。

 熟成され過ぎた思いは燃える激情を通り越して、凪いだ湖面のように穏やかだ。そのくせ、少し掘り下げればぐつぐつ煮えたぎる独占欲が顔を覗かせる。だから「彼女が幸せならいい」などという薄っぺらな言葉を、うわべだけでも取り繕うことさえできないのだ。本当は俺のものだと宣言して独占したい。気づかないふりを続けているだけで、実際は顔も知らない彼女の文通相手すら憎らしいのだ。

 

 きみが初めて俺に向かって笑った日から、ずっときみに恋をしている。

「枯れない花を」と約束したのを覚えているのは俺だけだろうか。どうして、君は俺だけのものになってくれないのだろう。

 

 

 

 

 

 奥様、ああ、奥様。私、お料理もお裁縫もお習字も、みんなみんな奥様から習いました。私が作る料理はすっかり煉獄家の味です。ふふ、おかしな話ですね? 自分の親からなんにも受け継げなかったのに、私がこの家の歴史の一端を担うことになるなんて。奥様がいなくなっても、奥様からもらったものを、私は繋いでいきますからね。今の夢は覚えたたくさんのことを坊ちゃんのお嫁さんに伝授することです。夕映は立派な姑になりますよぅ? 

 奥様はよく坊ちゃんの妻にならないかと言ってくださいました、もったいないお言葉です。でも、夕映は坊ちゃんの妻にはなれません。だって命をそっくりそのまま捧げてしまえるから。それは、旦那様と奥様のような関係とは、違うかなと思うのです。夫婦に必要なのは自分を犠牲にすることじゃなくて、「ふたり」をずっと続けることだと夕映は考えています。

 ですから、ですから奥様。どうか旦那様と坊ちゃんたちを見守っていてくださいね。奥様の代わりになれる人なんて、この世のどこにもいないんですからね。夕映がいくら頑張ったところで奥様の代わりには決してなれないのですよ。忘れないでくださいね。奥様はこの家の光です。

 今だけは、こう呼んでもいいのかな。おねえちゃん。私、生きていくから。これからも。おねえちゃんのいない世界で。おねえちゃんの宝物を守るためなら、私、なんでもするわ。

 

 

 

 

 

 十五歳になった今も、夕映は年に一度、水の育手のところへ一か月の出稽古に行く。事の始まりは、瑠火が亡くなった一年後、夕映が七歳の時分に槇寿郎が言いだしたことだった。

 

「君は今の時点で平均より背が高いし、手足も大きいから、これからどんどん身長が伸びるだろう。身体が大きいのは筋肉量と比例するから非常に有利だ。しかしその柔軟性や平衡感覚を活かすには、炎の呼吸は“剛”の業、ありていに言って向いていない!」

「えっ」

「そういうことで別の呼吸の使い手のところに修行に出す! 俺の父上の代の水柱が狭霧山という場所で育手をしているからな、そこで一月ほど稽古をつけてもらいなさい」

「え、え、でも、一月も留守にして大丈夫ですか? 坊ちゃんたちはどうされるんですか?」

「杏寿郎と千寿郎は義母上たちに見てもらう。俺もしばらくは鬼狩りの警戒範囲を広くしようと思う! 君はよくやってくれている! たまには家のことから離れてもいいだろう」

「はあ、そういうことでしたら……」

 

 ずいっと迫られると夕映は断れない。勢いに呑まれるまま、彼女はこっくり頷いた。うむ! と笑って、うんうんと数度首を縦に振る槇寿郎は、いつか見た彼の息子と同じ表情を浮かべている。

 

(ほんと、坊ちゃんと旦那様は造形がそっくりだわぁ。そのまま大きさを変えたみたい)

 

 つられて、夕映もくすりと笑った。そして、こんな風に槇寿郎が笑えることに安心する。

 瑠火という大きな歯車が欠けて、一年。喪中の、火の消えたかまどのような空気は薄らいだが、それでも煉獄家の噛み合わせは少しずれてしまったように思う。槇寿郎が無理をしていないか杏寿郎と夕映は心配でならないが、最愛の妻に先立たれて、さらには忘れ形見の幼い子供たちがいて、悲しみに浸り続けるには毎晩無辜の人々を守るために駆け回らなければならないときたら、無理をするなと願う方が無理だろう。子供たちは父の、主人のもたらす庇護を信じていなければ生きていくことすらままならない。子供と大人を隔てる壁というものはそれだけ絶大だ。「あと五年早く生まれていれば、父上も俺のことをもっと頼ってくれていただろうか……」と漏らした、杏寿郎の寂しげな横顔を、夕映は忘れられない。

 あとから思えば、みんなほんの少しずつ無理をして、いつも通りの日常を組み立てていた。いつそれが破綻するとも知れぬ、薄氷の上で成り立つ安らぎを。砂上の楼閣のような日々を壊すまいと、できることは全部やっているけれど、限界は少しずつ近づいているに違いなかったのだ。

 

「夕映」

「はい?」

 

 槇寿郎が、真剣な声色で自分の名を呼ぶ。彼女はいつものように顔を上げて、息を呑んだ。癖で背筋がぴんと伸びる。

 

「君は、鬼殺隊に入るつもりはあるか」

 

 槇寿郎はじっと夕映を見下ろしていた。静かな眼差しは得も言われぬ迫力を醸し出していて、少女は怯んだ。はいと答えたらいいのか、いいえと答えたらいいのか、どちらを望まれているのか──どちらが正解なのか、咄嗟にわからなくて口ごもる。

 ひとつひとつ、彼女は整理をして、ゆっくり答えを組み立て始める。

 己の両親は鬼によって殺された。槇寿郎が助けてくれなければ、夕映も同じように死んでいたことだろう。しかし、鬼への明確な憎しみがあるかというと、少し迷ってしまう。父と母が殺されたことは、間違いなく夕映の人生というものを捻じ曲げた。その元凶は鬼であるから、鬼を恨み鬼殺を志すのが順当なのかもしれない。

 だが、夕映は三年前の……心が真っ黒に塗りつぶされて、なにもかもを拒絶していた頃のことをほとんど覚えていない。あのときの感情を引きずり続けていたら、なにもできなくなっていたに違いないから、忘れてしまったこと自体はいいのだ。ただ、両親が死んだ瞬間のことも遠くなってしまった。衝動のような恨み、憎しみは、この身体にもう残っていない。

 杏寿郎も、そんなものは味わったことがないだろう。彼はただ鬼狩りの家に生まれたから鬼狩りになる。もちろん、そこに義憤の類は持ち合わせているだろうが。

 

「鬼は、殺さなくてはなりません」

 

 噛みしめるように呟いた。

 仮に鬼へ抱く感情があるとするなら、「殺さなければならない」という義務感だろう。そこに憎しみや悲しみはない。人間として生きていて、隣人を愛し、鬼によってもたらされる死を痛ましく思うなら──鬼はすべて殺さなければならないだろう。

 異様なまでに静かだ。庭先からは鳥の鳴く音すらしない。屋敷のどこかで遊んでいるはずの兄弟たちの声も。なにも。水を打ったような静けさが部屋を覆っている。注がれる眼差しが刺さるようで、夕映はふいっと槇寿郎から目を逸らした。

 

「鬼によって大切な人を亡くす経験をする人が、いなくなればいいと思います。いつか鬼殺隊そのものが必要とされなくなるのが、きっと一番いいことです」

 

 ただ、たとえ鬼がいなくたって人は死んでいく。変わらずこの世のどこかで子殺しを働く親はいるし、逆に親を殺す子や、瑠火のように病を患って死んでいく人間はいて、呆気なく人の命というものは奪われ続けるのだ。だが、人の命を食い物にする化け物たちがいなくなれば……日々死んでいく人々のうちの何割かは、一日を生き延びられるのかもしれない。

 幸い夕映には剣の才能がそれなりにあって、環境にも恵まれている。勧められるがまま始めた修行だが、それによって人を守れる、救えるのなら、そうするのが正しい力の使い方なのだろう。病床の瑠火が杏寿郎に説いていたように。正しく力を振るうのが力あるものの義務のはずだ。本当はただ、そうすべきなのだ。

 

(でも)

 

 でも、夕映が守りたいのは不特定多数の、顔の見えない弱き人々ではない。今目の前にいる人たちだった。

 短い呼吸を二度三度繰り返して、夕映は顔をあげた。

 

「でも、私は命を煉獄家の皆様に捧げるつもりです。ですから、旦那様や坊ちゃんが剣を握れとおっしゃるなら粉骨砕身の覚悟で戦いますし、やめろと命じられるのでしたらそれに従います」

「……そうか。君は、そう答えるのだな」

 

 槇寿郎は顎に手を当て、ひとつ頷いた。穴が開きそうなほどにじっと注がれていた視線が逸らされる。

 それきり、問答は終わった。もう槇寿郎は「鬼を倒せ」などと言わない。どころか、柱になった長男に鬼殺隊を辞めろと言い放つし、次男を継子にするつもりもないのだろう。なにも言わない。期待をかけるようなことは、なにも。諦念の沼に足をとられて浮かび上がれなくなった。彼が柱を辞してからの暮らしぶりは自堕落と言うしかないだろう。毎日毎日、布団の上で横になって歴代炎柱の手記を徒に読み、酒に酔うことでなんとか眠りにつくような生活を送っている。

 一介の女中に過ぎない夕映にできるのは「布団にかびが生えてしまいますから」と外に行かせたり、将棋や碁に誘ってみたり、健康に配慮した献立を組むことくらいだ。当たり障りのないことしかできない。頻繁に兄弟の面倒を見てくれていた彼らの祖父母も今は亡く、まだ幼い千寿郎には埋まらない寂しさを抱かせていることだろう。

 できることを全部やっても、自分の力は全然足りていない。それを悲しく思ったところで現実はなにも変わらなくて、杏寿郎に鬼殺隊への入隊を却下されても未練たらしく年に一度の稽古に出かけ、千寿郎に稽古をつけ、屁理屈をこねて杏寿郎を支えようともがくばかりだ。まさに八方ふさがり。この家の空気は、停滞しきっている。あと少し、なにか嵐のようなきっかけさえあれば、現状の打破はできるだろうが……。そんな希望的観測に頼らざるを得ないほど、家族の間は閉塞感で満ちていた。

 

(私は家族の“ような”もので、家族にはなれないし。もし姓を煉獄にしていたって、きっとなにかを負い目にしていただろうし。ああ、なにも変わりやしないわぁ)

 

 登る山道は慣れた道のりで、考えごとをしていても迷うことはない。呼吸を意識しながら走る。徐々に空気が薄くなっていく。時折野生動物の気配を感じながら、踏み固められた道を彼女は疾走する。師範が住んでいる小屋が見えるまでもうすぐだ。自然、気持ちは上向いていく。季節の便りには新しい弟子を取ったと書いてあった。今度の子供はあの試練を抜けられるだろうか? 今は水柱となったかつての男の子を思い出しながら、ただ駆ける。

 気配がする。すれ違ってきた野生動物とも、点在する猟師たちとも異なる、特に強く存在を放つ師範の気配。そのすぐ近くにいるのが新しい弟子に違いない。組み手をしているようで、師範に斬りかかっては投げられているようだ。少し懐かしくなって、夕映の口許は緩んだ。

 

 

 

 炭治郎は不意に花の香りを嗅ぎ取って動きを止めた。

 

(誰かが近づいてきている……?)

 

 鱗滝の様子を窺ってみると、彼はもっと早くに気づいていたようだ。炭治郎が気づいたことを察知し、「お前の姉弟子だ。今日から一月逗留する」と言って構えを解いた。それに従い、炭治郎も刀を鞘に納める。ぼたりと汗が落ちて、土に染みを作った。

 投げられまくった身体中のそこかしこが痛い。筋肉の一本一本が悲鳴をあげるようだ。息を吸うごとにどこかが痛むので、教わった「呼吸」を実践するのがとても難しい。ともすれば息が上がる。その間にも、匂いは近づいてくる。

 

(いや、速くないか!?)

 

 その速度に炭治郎はおののいた。まるで崖を駆け下りる鹿のような軽快さと速さ。彼が香りに気づいたときは二十町ほど距離があったはずだが、猛然と駆けてくる彼女(姉弟子だというから、恐らく女性なのだろう)は今や三町先までたどり着いている。なんて速さだ! 炭治郎は舌を巻いた。弟子入りの際に試された通り、鱗滝の足の速さも大したものだが、この人はそれを上回るかもしれない。

 ドンッ!! 

 それが踏み込みの音だと気づいたのは、跳躍してくる女性がすぐ近くにひらりと着地したあとだった。深い紅色の小袖がふわりと膨らむ。同時に、梅の香りが広がるのを炭治郎の鼻は感じた。

 

「お久しぶりです師範! 不肖の弟子、ただいま到着しました! 今年もお世話になります~!」

 

 うむ、と鱗滝がひとつ頷く。

 

「健勝のようでなにより」

 

 炭治郎の嗅ぎとる匂いが優しいものになった。女性の方もにこにこと笑う。垂れ気味の目が一層垂れて、彼女の愛嬌をより深く表していた。

 

「あっ、この子が手紙に書いてあった新しいお弟子さんですねぇ!」

 

 彼女はすぐに炭治郎の存在に気づいて、ちょちょっと近づいてくる。正面に立たれると、目線が自分より少し上にあることに気づく。背の高い人だ。

 

「はっ! 初めまして! 竈門炭治郎といいます!」

 

 ペコーッ! と頭を下げると、「まあ礼儀正しい」と微笑まれた。とくり。小さく胸が高鳴る。顔がぽっと赤くなるのを感じて、あわあわと顔を伏せる。

 彼女は、篝夕映と名乗った。ふわふわ揺れる濡れ羽色の髪と、自分と同じ赤い目の、淡く梅の香りを纏う人だった。

 そのあとは彼女も炭治郎の修行に付き合ってくれることになって、鱗滝と交代した夕映に炭治郎はひたすら投げられた。若い女性が相手ならあるいは、と一瞬でも思った自分を炭治郎は強く恥じた。性別や年齢と強さは相関しない。どれだけ力を込めて強く踏み込んでも、頭から突っ込むつもりで斬りかかっても、気づけばふわりと自分の身体は宙に浮いていて、全身と地面が熱く接吻を交わしているのだ。もはやなにが起きているのか脳の理解が追いつかない。するりとその手が触れたかと思えば、炭治郎は転がっている。鱗滝の投げは炭治郎の飛距離がどこまで伸びるか試すようにぶん投げるものなのだが、彼女の投げは風にくるむようにぽんと炭治郎を飛ばす。彼女の動きはしなやかで、速く、やわらかい。力で叩きのめすのではなく受け流すことに長けた動きだ。

 身体が地面に触れたと認識したらすぐにと飛び起きて、また飛びかかっていくという、「受け」を肉体に叩き込む訓練ではあるが、「箸より重いものは持ったことがありませんよ~」と言われたら信じてしまいそうなほど洒脱で上品な人に軽々投げ飛ばされるのは頭が非常に混乱する。

 それを食事のときに本人の前で漏らすと、彼女はけらけらと軽妙に笑った。

 

「まあまあ、上品で洒脱! 炭治郎くんが思うほど、私、いいところの出じゃありませんよぅ」

「えっ! そうなんですか? 俺、てっきりどこかのお嬢さんだと……」

 

 だって、いい香りがするし。着物にはどこのほつれだってない。まとめられた髪は都会風でおしゃれだ。手は剣だことあかぎれが多いが、鬼殺の剣士を志しているなら前者は当然のことで、家事をしていたら嫌でも手が荒れる。女性ならなおさらそうだろう。

 母の手、妹の手を思い出して、炭治郎はぐっと胸が詰まる感触を飲みこんだ。夕映は変わらずおかしそうに笑っているので、気づかれなかったと思う。

 

「お嬢さんだなんて、うふふ! うちの家はただの町鍛冶でしたし、私はただの女中勤めですからねぇ。今の奉公先にはとてもよくしてもらっているので、行儀作法や所作はそれに見合ったものが身についているとは思うけれど。それにしてもお嬢さん……っふふふ……」

 

 ツボにはまってしまったらしい。彼女は箸を止め、肩を震わせている。

 

(よく笑う人だなぁ)

 

 そしてその笑顔はあたたかく、やさしい。お日様の光のようだ。知らず知らず、炭治郎の気持ちもほぐされて、気づいたら口元が緩んでしまう。それは鱗滝も同じなのだろう。面を外した彼は静かに食事を続けているが、彼がくつろいでいることが炭治郎には匂いでわかる。

 夕映の存在は潤滑油のようだった。人が一人増えるだけでこんなに違うのか、と炭治郎は驚かざるを得ない。ここに来て修業を始めてから三か月は経つが、食事の時間と団欒は結びつけられていなかった。鱗滝が課す修行についていくことで精いっぱいで、舟を漕ぎながら箸を動かすことはままあったし、鱗滝は寡黙な人だ。必要なことだけを話し、無駄なことは言わない。会話が弾むということはほとんどなかった。

 それなのに、夕映がそこにいるだけで場の空気がふわふわと和らぎ、あったかい気持ちが胸に満ちていく。まるで……。炭治郎は唇を噛んだ。

 

(家に、帰ってきたみたいだ)

 

 彼女の匂いは母のそれとよく似ていた。生活の香り、そして誰かを慈しむ匂いが染みついている。それに気づくと、ふいに目頭が熱くなった。

 

(母ちゃん、花子、竹雄、茂、六太……)

 

 炭治郎の箸が止まった。

 自分に帰る家はもうない。迎えてくれる家族は、上の妹以外みんな死んでしまった。血の惨劇が克明に頭に浮かび、手が震える。ここに来てから、あのときのことを思い出すことはなかった。修行でいっぱいいっぱいだったし、疲れ切った身体は泥のような眠りを与えるばかりで悪夢すら見せない。それに、炭治郎の手にはまだ希望があった。妹の禰豆子は、鬼になってしまっていても、生きているのだから。鬼を人間に戻す方法がいまだ明らかにされていなくても、これから探していけばいい。兄ちゃんが絶対に守ってやるから。そうやって炭治郎は必死に前を向いていた。

 

(あ、これ、だめだ)

 

 それなのに、ふと思い出してしまった。鼻の奥がツンとして、視界がほんの少しぼやける。たまらず、箸を下ろした。両手で目をこすり、あふれてきた涙をぬぐう。ぐうっと奥歯を噛みしめて耐える。そうでもしないと、悲しみに呑まれてどこまでも沈んでいきそうだった。今はそんな感情に浸っている場合ではないのに。

 それに、せっかく食事の時間を楽しんでいたのに、突然泣き出したんじゃあ台無しだ。二人を困らせてしまう。次から次へと頭は不安を書き連ねていって、いっそう瞳が潤む。炭治郎はバシバシ自分の頬を叩いた。

 

(しっかりしろ、俺はできる、俺はできる……)

「炭治郎くん」

 

 すい、とあたたかなてのひらが頬に触れた。皮の厚い指先がなぞるようにそっと顔を持ち上げていって、炭治郎はそれに逆らえない。頬を叩こうとする手を止め、隣に座っている彼女を見た。

 

「……は、い」

 

 喉がカラカラだ。ひりつくように痛む。声はひっくり返っていて情けない。

 しかし彼女はなにも気にしていないとばかりににこりと笑い、やわく炭治郎の頬を包み込んだ。それから数度、両手でもにもにと揉み、両肩を軽く叩いて、炭治郎の手をとる。

 

「こっちにおいで。師範、ちょっと席を離れますね」

「ああ」

 

 ぽかんとしている間に、彼女に促されて炭治郎は立ち上がり外へ連れ出されていた。呆然と開かれたまなこからぽたりと雫が伝い落ちる。繋がれた手はゆらゆらと揺れていた。ゆらゆら、ゆらゆら。血の通う手はあつい。

 小屋から少し離れた開けた場所で、彼女は足を止めた。ちょうどいい切株に座るよう促される。炭治郎は大人しく従い、二人は並んで座った。肩が触れ合いそうな距離だ。

 夕映は視線を上向けて夜空を見上げる。手は、まだ繋がれている。気づけば涙は止まっていた。

 

「ここは空気が薄いから星がはっきり見えますねぇ。炭治郎くんの住んでいたところではどうでしたか?」

「へっ? え、えっと……俺は山育ちなので、街の灯りにはなじみがなくて……夜明るいのは、星と月だけでした。うち、炭焼き小屋なので」

「まあ、炭焼き。それはその目を喜ばれたでしょう」

「目……? ですか?」

 

 夕映は自分の目を指差して笑った。

 

「火仕事をする家では、赤みがかった髪や目の子供が生まれると縁起がいいと喜ばれるのですよぅ。私の実家も鍛冶屋だったので、火の神に祝福された子だとよく寝物語に聞かされました。もうずいぶんと昔の話ですねぇ。思い出したのはいつぶりかしら?」

 

 ふふ、とこぼれた吐息が闇夜に溶けていった。

 聞き逃してしまいそうな一言だったけれど、炭治郎の鼻は彼女の哀愁をはっきりと感じとった。声音とは裏腹に、深い悲しみの匂いがする。それはどこからだろう、と違和感を手繰っていく。告げられた言葉がぐるぐると渦巻く。反芻される。

(鍛冶屋“だった”、のか。今、どこかのお屋敷で女中勤めをしているとしても、家族のことを思い出すのがとても久しぶりみたいな……)

 彼女が鬼殺の剣士を志して修行をしているのは、もしかして。ごくりと唾を飲みこむ。口が重い。でも、聞きたいと思った。

 

「あの、夕映さんのご家族は……」

「十年ほど前に死にましたよ。鬼に殺されました。君と同じ」

 

 なんてことのないように彼女は言った。微笑みは保たれたまま。炭治郎は悲しくなった。彼女は、悲しみも怒りも感じていない。香るのは追憶と懐古を孕んだ郷愁だけだ。ひとりになってしまった寂しさだけが、彼女の心から感じられる。締めつけられる胸の痛みと共に、炭治郎の視線は下がっていった。

 ぎゅっ、と手に力を込められる。顔を上げると、夕映は眉を下げて自分を見つめている。赤い瞳が、深く自分を覗き込んでいる。惹きこまれるように、炭治郎はその眼差しを見つめ返した。薄紅色の唇が小さく開き、少しの逡巡をにじませてから、彼女は言葉を紡いでいく。

 

「家族のことを思い出してしまったのでしょう? お節介を焼きすぎてしまいましたね。ごめんなさい」

「夕映さんは悪くないです!」

 

 慌てて炭治郎は食って掛かった。鼻と鼻がくっつきそうなくらい顔を近づけて、はっと正気に返って謝罪する。赤くなる炭治郎とは反対に夕映はコロコロ笑った。面白がっているのがよくわかる。炭治郎は恥ずかしくなって汗をかいた。

 しかし、こういった彼女の気遣いや懐かしさを感じさせる空気は、確かに炭治郎の心にひとときの安寧を与えたのだ。狭霧山に来て以降、妹の禰豆子は眠り込んだまま目覚めない。鱗滝が手配してくれた医者がただ眠っているだけだと困惑しきりで首をひねっていても、それは炭治郎を安心させる材料にはならない。明日起きたら死んでしまっているのではないか、という不安から逃れようと日々の修行に打ち込んで身体を痛めつけ、修行・食事・排泄・睡眠という生活を繰り返しているのは事実なのだ。

 夕食の席で会話を楽しんだのは、家族が死んだあの日以来夕映とのそれが初めてで、涙が出てしまったのは緊張の糸がふつりと緩んだから。昨日までの状態が続いていても、自分はますます追い詰められていくばかりで、日に日にひどい焦燥感に掻き立てられていたことだろう。初対面の女性の前で涙を流したのは男として恥ずかしさを感じてしまうが、がちがちに力みきっていた身体と精神を自然体に近づけてもらった。感謝することはあれど怒る筋合いはない。

 炭治郎がきっぱり言い切ると、夕映はぱちぱちと瞳をしばたかせ、じいっと炭治郎の顔を覗き込んだ。裏になにが隠れているか探るように、なにひとつ見落とさないように、目を皿のようにして彼女は己を見る。

 

「悲しみやさみしさをきちんと受け止められるなんて、君はすごい。とても強い。弱さを抱えたまま強くあれる人というのは珍しいわ」

 

 呆然としたように呟かれた言葉に、炭治郎は目を剥いた。

 

「そんなことは」

「いいえ、すごいことなんですよ。家族を亡くして育手のところに来た子供はたいてい、ふさぎ込んで動けなくなります。最初から修行に打ち込める子は鬼やら、自分の無力さやらに対する怒りに支配されていて手に負えませんからねぇ。そういう子はみーんな、師範がぼこぼこに叩きのめしてきたんですよ。怒りの感情そのものは悪鬼滅殺への原動力になるけれど、冷静な判断力を失わせて、結果、無駄に命を散らせることになりますから」

 

 育手は基本的に剣士を育てる役だが、選ぶのは当事者の子供たちだ。剣を執る以外の道を選ぶなら繋ぎをとってどこにでも連れていってやれる。若い命をいたずらに終わらせたい人間などいるものか。鱗滝は特にそれが顕著だ。厳格さは優しさに裏打ちされている。子供たちはそれを知っているから彼を親のように慕うし、彼は丁寧に子供たちを育てる。愛しているから。死なせたくないから。

 夕映は言葉を続ける。彼女の脳はまぶたの裏に宍色の髪をした子供の像を結んでいた。

 

「鬼殺隊への入隊希望者というのは、たいていが親兄弟を鬼に殺されています。君を師範に繋いだ人も同じ。そして、その多くが『自分と同じ思いをする人がひとりでも減るように』と身体を極限までいじめ抜いて、それでも彼我の差を埋めきれずに志半ばで死んでいく。まあ、近年は口減らしで放り込まれるとか、高収入目当てに飛び込んでくる人間も増えているとかで、上は質が落ちていると嘆いているようですが。まったく、こんな割に合わない仕事をするくらいならやくざものなり炭鉱夫なりになった方が生き延びられますよ。鬼に負けたら身体を食われて、その鬼が余計に強くなってしまいますし……餌を増やすのは本末転倒が過ぎる」

 

 眉を寄せ、忌々しげに彼女は吐き捨てた。明確な怒りの匂い。それと共に、初めてその灼眼に怒りの炎が灯った。ちらりちらりと炎は揺れる。その苛烈さは大地を舐める業火を炭治郎に想起させた。これが彼女を突き動かす衝動だ。原点のひとつだ。膨らんだ怒気に炭治郎は為す術もなく飲みこまれたが、しかし、その焼けつく匂いはしゅるんと消えた。

 困ったように彼女は笑っている。そこに嘘はない。外面を取り繕っているのではなくて、正しく彼女は感情を制御していた。優しい声音が耳をくすぐる。

 

「私も私で未練がましく修行を続けている愚か者ですが、君に教えられることは全部教えましょう。応援していますよ。そして、君のやわらかいところが余人に踏みにじられないことを祈っています」

 

 繋がれたままのてのひらは、彼女が「自分はここにいる」と伝えてくれるようだった。ふ、と愉快な気持ちが込み上げてくる。

 

「夕映さん、俺の姉ちゃんみたいだ」

「あらぁ、こんなかわいい弟ができるなら大歓迎ですよぅ? おまけにとっても強くなりそう。鍛え甲斐があるわぁ!」

 ぽんと優しく背を叩かれ、炭治郎はまた少し泣いた。家族を想って泣く少年の肩を彼女は抱いて、ただ側にいた。

 

 

 帰ってきた弟子たちは二人ともすっきりした顔をしていたので、鱗滝は黙って迎え入れた。弟弟子の方は目を赤くしていたが、わざわざ指摘するほど野暮ではない。彼は冷めてしまった食事をぺろりと平らげ、日課の日記を書いたあとすこんと眠った。

 その一方で、姉弟子の方は話があると鱗滝のところへやってくる。だいたいなんの話かは察していた。前置きとして展開される彼女の周囲の近況に耳を傾けつつ、鱗滝はただ待った。彼女が決定的なことを口にするまでは自分から話すことはなにもない。なにも、だ。気づかいのなら、それまでの話。すっかり一人前の女となった目の前の彼女もわかっているのだろう。頭痛をこらえるように頭を抑え、ため息を吐いた。

 

「師範。鬼を匿っていますね?」

「ああ。しかし事情がある。義勇から炭治郎と共に預けられた」

「はあ、義勇から? 確かにちょっと妙な気配ですが……だからと言ってよりによって柱が? どういうおつもりです?」

 

 するりと後ろ手が握っているものが明らかにされる。鱗滝の肝はちょっと冷えた。

 

「なにを考えていらっしゃるのか、一から十まできっかり説明してもらわないと……お館様には当然報告されていますよねぇ?」

 

 据わった目、きらりと輝く出刃包丁。彼には正直に話すという選択肢だけが提示されていたのだった。

 

 

 

 翌日から、夕映は自分の修行をしつつ鱗滝の補佐に入った。弟子が師匠の世話をするのは当然のことだ。人手が増えれば薪割りや炊事、洗濯などを任せて自分は指導に集中できる。それが巡り巡って炭治郎を強くし、彼を生き残らせるのだから、喜んで彼女は引き受けた。それに、夕映は家事を職業としているため、普段一人で暮らしている老人の鱗滝よりも、若い子供が好む味をよくわかっている。炭治郎はさらによく食べるようになった。

 瓶の水を移すように、とはいかないが彼は着実に技術を身につけていっている。投げられたときに飛び起きる速度はだんだん早くなってきているし、刀が手からすっぽ抜けることはなくなった。なにがなんでも刀を手にして敵に向かっていく基礎が、しっかりついてきていると言えるだろう。夕映が帰る頃には型や呼吸の指導に移行するはずだ。

 固く絞った着物の皺をぱんぱんと伸ばす。もう滞在期間の半分を過ぎてしまった。この山は今日も霧が深い。

 炭治郎の妹のことは、産屋敷家現当主である産屋敷耀哉が様子を見ると決めた以上、正式な鬼殺隊関係者ですらない夕映に言えることはなにもない。ただ、もし禰豆子が人を傷つけたら即刻炭治郎が腹を切り、彼らを鬼殺隊へ手引きした鱗滝と義勇も連座で死ぬというのは、感情の面でとても納得できなかった。彼らが死んだところで失われた命は返ってこないではないかという冷静な自分と、師範に加えて数少ない今も生きている兄弟弟子を一度に失いかねない可能性に耐えられない自分がいる。

 そもそも柱となれば五十人、百人単位で鬼から人を守る力を有している。十二鬼月との戦いでの戦死以外でその命が失われるというのは、鬼殺隊に多大な損失を与えこそすれなにも得をさせない。要は脅迫だ。義勇は頭領を脅しているのだ。それだけ炭治郎と禰豆子に特別なものを感じ取ったのだろうが、柱がそんな命の懸け方をするなと腹を立てても許されるはずだ。

 なにを考えているのかわからない仏頂面と深い色の目を思い浮かべると、つい夕映はため息を吐いてしまう。今すぐ胸ぐらをつかんで文句を言いたい。怒りの手紙を飛ばす準備をするとしようか。返事は端から期待していない、これは自分を落ち着けるための自己満足だ。

 

(昔はあんなにかわいかったのに、錆兎が死んでからすっかり唐変木になってしまって……いえ、笑顔が極端になくなっただけで言葉足らずで報告が極端にできないのはなにも変わってないのだけれど……)

 

 考えれば考えるほど気が重くなる。どうか禰豆子が人を食わない鬼になりますように。そんな白い鴉のような矛盾の権化が誕生するとはとても思えないが、炭治郎の人柄がすっかり好きになってしまった夕映は一縷の望みに縋ることしかできない。

 それにしても、鬼が眠るとは変な話だ。あれらには切り落とされた手足を一瞬で回復させるだけの蘇生能力があり、無限の体力を有しているのだから“疲労を回復させるために眠る”という行為は必要ないはずなのだ。おそらく禰豆子から普通の鬼とは違う気配がするのも、彼女が「眠る鬼」だからだろう。今この瞬間にも、彼女は変質して進化しているのかもしれない。それが吉と出るか凶と出るかまったく読めないのが恐ろしくて、お館様の決断は博打に過ぎると渋面を作ってしまうのだが。

 夕映はすっかり炭治郎の人柄を好きになってしまったから、彼が死んでしまうようなことがなければいいのにと願わずにはいられない。たとえ心の優しい人から食い物にされて死んでいってしまうような法則がこの世にあったとしても。だから夕映は熱心に炭治郎を鍛えるのだ。少しでも彼が生き残れるように経験を積ませる。

 これで炭治郎が最終選別を超えられなかったら、きっと、鱗滝はもう立ち続けられない。育手を引退して、鬼殺隊からも遠ざかるだろう。そして好い人と一緒に余生を過ごすのだ。今まで送り出してきた子供たちは、一人を除いてみんな死んでしまった。あれから鱗滝は弟子を取っていなかったのだ。かつての自分と同じように水柱まで登り詰めた義勇が「越えられるかもしれない」と寄越さなければ、炭治郎のことを弟子に迎えなかったかもしれない。

 自分が斬った岩を前に、夕映はうつむく。

 

(私、のうのうと生き延びてしまっているわ)

 

 杏寿郎が彼女を戦わせないと固く誓っている限り、いくら修行をしたところでそれが結果を出すことはない。種のない植木鉢に水をやり続けたって花は咲かず、実を結ぶこともないのだから。

 大切な人に死んでほしくないのはみんな同じだ。だから杏寿郎は、頑なに夕映を家に閉じ込めようとする。隠の真似事をするのも、未だに修行をしようと鱗滝のところへ通うのも、蝶屋敷で行う傷ついた隊士への看護も、本当は全部やめさせたいのだろう。だが、優しい杏寿郎は横暴になりきれない。彼が夕映に強制した命令は、この十年の中でたったひとつ。最終選別を生き残って帰った夕映に対し、まったく笑っていない目を伴った底冷えのする笑顔で「辞退しなさい」と迫ったあのときだけだ。

 自分が正しく剣を握り、荒れ狂う死の暴風へ飛び込んでいくのがいつになるか、夕映は理解している。杏寿郎が死んだあとだ。それが明日ではありませんように。いつもそう願って、夕映は眠りに就く。物言わぬ亡骸となった杏寿郎が帰ってくる夢を見た回数は、両手の指の数では到底足りない。朝目覚めて、鴉の伝令を待っているとき、不安は常につきまとっている。隊士が下弦を斬って柱になり、柱が上弦に殺されるという歴史を繰り返している以上、どれだけ杏寿郎が強くなっても真に夕映が安心できる日は来ない。

「待っていてくれ」「家を守ってくれ」と彼は太陽のように笑うけれど。待つ側の歯がゆさ、自己嫌悪、苦しさを、彼は理解できないに違いない。今までも、これからも。彼が前線で戦い続ける限りは。そしていつか、戦場で散るときが来たとしても。彼は本質的に「置いていく」人間なのだ。彼を愛する人々がいくら懇願しても、止めようとしても、絶対に杏寿郎は止まらない。「そうすべきことをするだけ」だからだ。自分が丈夫な身体に生まれ、剣技の才能を有し、鬼狩りの家の長男として誕生した以上、その力を正しく使い、大衆を守る道に殉じるのがすべてだと、本気で思っている。母の遺言によるところもあるだろうが、あの駄目押しがなくても、彼はいずれその境地に至っていただろう。

 彼は太陽だ。人を照らす光だ。己の命を燃やし尽くして衆生を守ろうとする姿に、明王を重ねる人物は多いはずだ。

 彼は英雄の器だ。人を助け、悪を滅すために今日も刃を振るい続ける。そして、英雄の物語はいつも、非業の死で終わるのだ。そうやって鬼殺の剣士たちの大半は死んでいった。

 はあ、とため息を吐いて夕映は座り込む。

 

「できることを全部やっているつもりでも、坊ちゃんは私が盾になることを許してくださらないから、結局なにもできていないんじゃないかって思うわぁ」

 

 ぺたり。触れた岩は冷たい。霧の湿気が髪のうねりを強くする。

 

「ねえ、錆兎。君、まだここにいるの?」

 

 年上の友達のことを思い浮かべる。彼の年齢を追い越して、まだ夕映は生きている。もう、あの子は大人になれない。何度も夢枕に立つ子供のつむじを見下ろせるようになったと気づいたとき、夕映は悲しくてしょうがなかった。

 

「どうしたらいいって聞いても、君のことだから、『知るか、自分で考えろ』ってそっぽ向くのよねぇ」

 

 かすかに風が吹く。霧の向こうに目を凝らしたら、そこにみんながいるのではないかと夢想する。だって、明らかに気配はあるのだ。網膜には映らないのに、誰かがそこにいる。

 

「炭治郎くんのこと、お願いね。師範、きっと死なせたくないがために、無理難題吹っ掛けるから」

 

 でも、あの子、強くなるわ。溶けるように呟いて、夕映は立ち上がった。

 明日にはこの山を去らなければならない。そうしたら、また来年だ。どれだけ未練がましかろうが、通例となった年に一度の滞在をやめる気はさらさらなかった。


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