メイド・オブ・レンゴク   作:鈴近

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ダイジェスト乗車と葬式(時代考証は流してください)
葬式をしたくてこれを書いたとも言う


終 無限列車乗車

 これは現実ではない。そう杏寿郎が認識したのは、彼女が自分そっくりの赤ん坊を抱いていたからだ。

 

「どうされました?」

 

 知っている通りの顔で、知っている通りの仕草で、知っている笑みを浮かべ、知らない赤子を抱いている。ぶわっと全身から汗が噴き出た。身の毛がよだつ。

 

(なんだ? 鬼による攻撃か? なにが目的だ? ──いつから?)

 

 手が腰の刀に向かう。指先がかたかたと震えた。粘ついた感情が喉に張りつき、呼吸が乱れる。ヒュウヒュウと呼気が鳴く。

 

「君は誰だ」

 

 喘ぐように杏寿郎は言葉を発した。目の前にいる女は、きょとんと目を丸くして、不思議そうに己を見つめる。憎らしいことにそんなところまで同じだ。困ったように女は弟に話しかけた。

 

「これは異なことを仰る。三々九度の契りをお忘れに? あらぁ、なんて薄情な旦那さま。ねえ千寿郎さん」

「そうですよ兄上。夕映とやっと結ばれて、ついこの間この子が産まれたばかりなのに」

 

 ざあっと血の気が下がった。びきびきと青筋が立つ。柄を固く握りしめる。すぐにでも抜刀できるように。

 杏寿郎は吼えた。

 

「そんな馬鹿なことがあるか! 俺は想いを伝えることもできていないんだぞ!? 自分の意気地のなさにいつも腹を立てて、夕映の意図した鈍感が恨めしくて、それでも向けられる信頼を失うことを怖がるせいで今の関係を壊せない! こんなに矮小で臆病者の俺が、祝言を挙げて子を設けるなど天地がひっくり返っても──」

 

 怒りと狼狽が混ざった混沌が叫びになってあふれていく。千寿郎は困惑しきりで二人を見比べていたが、女は笑った。おっとりと笑った。何度も反芻した、杏寿郎が一番好きな笑顔で。

 

「まあよかった、ちゃんと自己分析ができていらっしゃる」

 

 花の嵐。花弁の一片一片が杏寿郎の目を覆い、そしてそれらはごおっと燃え上がる。焼け落ちるように景色が塗り替わった。声もなく千寿郎が、抱かれていた子供が掻き消える。

 杏寿郎はいよいよすらりと刀を抜き、構える。鬼の気配は四方からする。目の前の、愛しい女の顔をしたものからではない。ならば、今の己はなにを斬るべきか。厳しい目で、彼は女を見つめる。

 

「精神に作用する血鬼術なんて珍しいですよねぇ。この鬼はずいぶんと用心深いように見受けられます。ついでに陰湿。性格の悪さがにじんでるわぁ」

「思考を読むな」

「ごめんなさい、私はあなたと接続しているので、勝手に流れてきてしまうんですよ。再現体の悲しいところですね」

 

 杏寿郎は油断なく構えたまま、眉をひそめた。彼女は微笑みを携えたまま、彼の抱いた疑問に答える。

 

「ええ、ここはあなたの深層心理。望みが反映される場所。心の海とも言えるところ。だから私は、あなたの妻となった篝夕映を模して作られたわけです。ずいぶんご執心ですねぇ! こっちが照れてしまいますよぅ。十年熟成されたらみんなそんなものかしら? ふふ」

「……君、夕映よりも生意気じゃないか?」

「あなたが自覚していないだけで、気心知れた友達にはみーんなこうですよ。冨岡義勇と話しているところに居合わせて、強烈な嫉妬心を抱いたことをお忘れですか?」

 

 皮肉を言ったつもりが、ぐうっと黙り込む羽目になった。藪蛇をつついてしまった気がする。顔がカッカと熱くて仕方がないし、だらだら汗が流れてきた。反論しようにも夕映への独占欲をこじらせているのは事実だし、さらに言うと好いた女の顔と声で自分の心を説明されるのは──ものすごく恥ずかしい!! 杏寿郎は今、穴があったら入りたかった。ないなら掘る。掘って入って、気が済むまでうずくまっている。

 

「うーん、まあ、篝夕映はともかく冨岡義勇が彼女を憎からず思っているのは事実ですからねぇ。嫉妬するのはあながち見当外れというわけでもないのですよ? うかうかしていたらトンビに油揚げを、こう、ね?」

「……なぜ俺の一部である君が、他人の心を知っているんだ」

「人の無意識とは繋がっているものなのですよ。私は意識と無意識の狭間にいる存在が形を持っているだけですから、あなたが無意識で感じ取ったものも言語化して話せる。要はもう一人のあなたということです。今は篝夕映の姿をしていますけどね。本来私は不定形です。あなたが認識した姿で、あなたの意識に映り込む」

 

 彼女は肩を竦め、ふわりと距離を詰めた。杏寿郎が握っていたはずの刀がない。どころか、間合いから絶妙に逃れていたはずの女が目の前にいて、自分の手を握っていた。ドッと心臓が跳ねる。

 女は愛しそうに杏寿郎の手を撫で、指先を絡めた。そして、熱が離れていく。

 

「さあ、そろそろお行きなさい。彼女が手ごわいのはわかっているでしょう。腹を括りなさい。想いを伝えるのなら、生きて帰らなくちゃ。あなたがこの程度の鬼に手こずるとは思っていませんが、ま、何事にも例外というものはありますからね。どうかご武運を」

 

 とん、と胸を軽く押されて。それだけの動作で杏寿郎の足は地面から離れた。そのまま身体が宙に浮き、天地が反転する。ぐいっと引っ張られていく感覚は、夢から覚めるときのそれとよく似ていた。目の前がにじむ。溶けていく。ぐるぐると渦を巻く。それでも、ひらひらと手を振る女が、焼き付いて消えなかった。

 

 

 

 どくどくとうるさいくらいに脈打つ心臓を抱えて、少女は身をひそめていた。

 早くこの男の無意識領域に入り、精神の核を壊さなければならない。そうしないと幸せな夢を見せてもらえない。それなのに、いくら行き止まりの壁を錐で裂いても核の元へたどり着けない! 焦りのあまり呼吸が荒れる。心臓が早鐘を打つ。汗が次から次へと吹き出てくる。

 夢の端が崩壊していっているのを感じる。まだ大丈夫のはずだ。まだ自分は間に合うはずだ。はっ、はっと犬のように短い呼吸を繰り返しながら、少女は走る。現実から逃げられるならなにをしたって構わなかった。

 崩壊していく。隠れる場所がなくなる。核にはたどり着けない。どうしてこんな、迷路のような空間が出来上がっているのだ? 

 

「あ、見つけた」

 

 天から降ってきた声に、ヒッと彼女は息を呑んだ。

 

「残念ですが時間切れです」

 

 襟首を猫のように摘み上げられて、じたばたと少女はもがく。青年に持たされていた錐はひょいと奪われてしまった。恐ろしさで脂汗がにじみ、ぼたぼたと涙が落ちてくる。

 

「無粋なお客様にはお帰りいただきます。私はこの人を守るためにここにいるので。わかるでしょう」

 

 血のように真っ赤な目が、自分を見下ろしていた。柔らかい、上品ぶった嫌味な声が降り注ぐ。その女が怒りに燃えているのはすぐにわかった。

 

「私欲で他人を殺そうとするなんて、ひどいひとですね? まさか、“自分はかわいそうだから人を傷つけてもいい”だとか、本気で思っているのかしら?」

 

 引っ張られた襟が首を絞める。苦しくて喉を掻いた。やめて。ゆるして。たすけて。どれを言おうとしたのだろう。きっと全部だ。

 ずるりと、底なし沼に沈む込む感触を少女は味わった。もがけばもがくほど沈んでいく。ぎゃあ。恐怖のあまり、引き攣れた声が喉から飛び出した。

 

「お前のような弱い人間が、鬼にそそのかされて、私の大切な人を殺すの。あんなに守られているくせに。許すわけないじゃない。ああ、凡愚の弱さが憎い。私の大切な人たちはみんなみーんな、お前みたいな存在のために命を張っているのに。人のために力を尽くせる人々のなんてうつくしいこと──そしてお前の、なんて醜いこと」

 

 涙が止まらない。身体が沈んでいく。もう顔も鼻から上しか出ていない。こわい。怖くて仕方がない。赤い瞳は自分を射殺さんばかりに見つめている。声は炎の熱を孕んで身体中を焼く。叫び声は粘着質な響きを伴ってぼごぼごと泡を立てるばかり。

 

「ゆるさないわ。これに懲りたら、もうこんなことはやめておくのね? “いい子にして”いなさい」

 

 呪いは、耳元で囁きと共に脳を揺らした。殺されると思った。悲観していた人生より、わけのわからない異能を使う青年より、目の前の女が怖い。少女は失神した。

 それと共に、杏寿郎の夢は終わる。夕映の姿をしていた彼の防衛本能もほどけて消えていく。

 

 

 

 

 炭治郎は涙が止まらなかった。なんで、どうして、と思う心が悲しみを生んで、涙になってぼたぼた落ちていく。横転による負傷者はいても、誰も死んでいないはずだし、下弦の壱は倒したのに。なんの脈絡もなく上弦の参が来たばかりに、炭治郎たちを守ったばかりに杏寿郎は死んでいく。左目は潰れてしまったし、右脇腹は血が止まらない。さらに鳩尾に開いた穴が貫通している。呼吸による止血を教えてもらったのはついさっきなのに、彼が言った「なんでもできるわけではない」状況が彼を襲っている。

 自分の弱さが憎かった。やっと前に進めたと思ったのに、前より強くなったと思ったのに、今なんの役にも立っていないのならそこに意味なんてないだろう。悔しい。悔しくてどうしようもない! 心が張り裂けそうだった。この短い期間で杏寿郎はその強さ、頼もしさを遺憾なく見せつけ、「俺の継子になるといい」とまで言ってくれたのに、死ぬ。死んでしまう。

 遺される側の感情とはあべこべに、穏やかな表情で杏寿郎は遺言を述べていく。弟には自分の信じる正しい道を進むように。父には身体を大切にしてくれと。そして、鬼の禰豆子を鬼殺隊の仲間と認め、炭治郎たちを信じる、と。

 

「夕映には──」

 

 少しの間を置いて、すらすらしゃべっていたさっきまでとは正反対に、歯切れ悪く杏寿郎は言う。

 

「ううん、手紙と日記を見るように言っておいてくれ。本当は直接伝えたかったが」

 

 そして彼は、虚空を見つめ、子供のように笑って、かくりと息絶えた。

 

 

 

 

 

「──────坊ちゃん?」

 

 

 

 

 杏寿郎の訃報が届いた。

 手紙の内容を理解すると同時に千寿郎は泣き崩れ、慟哭がうららかな日差しを切り裂いていく。槇寿郎はいつものように部屋から出てこない。夕映はうずくまって泣く千寿郎を抱き起こし、ぎゅうっと抱きしめた。

 

「ゆえ、ゆえ、どうしよう、兄上が……」

「…………。大丈夫です。大丈夫ではないですが大丈夫です。姉やに任せてください」

 

 身体を離し、強く肩をつかんだ。兄そっくりの目からぼろりと涙の粒が落ちる。激しい動揺に陥っているこの子供は、これからのことに碌に対処できないだろう。それは槇寿郎にも言えたことだ。ならば、自分がしっかりしなくては。

 夕映はきゅっと唇を引き結ぶと、屋敷を飛び出した。

 今回の任務の場所と、杏寿郎が死に至るほどの傷を推測する限り、埋葬ではなく火葬になるだろう。通夜はきっと無理だ。その間に彼の肉体が傷んでしまう。火葬場の算段をつけながら、彼女は近隣の親戚の家へ飛び込んだ。語られるままに地主の長男の死はあっという間に村中に広がっていき、多くの住民が葬式の手伝いを買って出てくれた。それに安堵しながら、喪主の代理として夕映は采配を振るっていく。役場への手配、火葬場への連絡、買い物、蒔銭の準備、住職へ経の依頼……と、準備は着々と進んでいく。

 葬列は、彼の生きざまに見合った豪勢なものにしなくては。その思いが夕映の背中を押す。走らせる。うずくまる暇も与えず、寝る間を惜しんで働き倒した。槇寿郎には葬列の位牌を持つことだけは最低限やってくださいと念押ししてある。お膳を持つのは千寿郎がやる。夕映はその後ろで、願掛けをほどくために彼の羽織を振って続く予定だ。

 隅から隅まで磨き上げられた屋敷に、鯨幕が垂らされる。

 葬式には多くの鬼殺隊士が参列してくれた。かつて杏寿郎の継子であったものから、彼に助けられたという一般隊士、さらには柱や、耀哉の名代として彼の妻・あまねまで、杏寿郎に別れを告げるために煉獄家の門をくぐった。

 みんな、泣いていた。悲しみに顔を伏せ、涙を流さない人々は鬼への怒りで顔を歪めている。柱の面々は焼香に向かうたび、煮える怒りを押し殺そうと努めていた。彼らの憤怒がありのままにまき散らされていたら、心臓の弱い年寄りが追加で死んでいてもおかしくなかった。気遣いに感謝する。

 特に彼から剣術の基礎を習った蜜璃の泣きようはひどく、必死に声を我慢しながら大粒の涙をぼろぼろと流していた。感情表現が豊かな彼女のことだ、本当は大声をあげて泣きわめきたかっただろう。隣に座したしのぶが背をさすり、手を握っている。その彼女の顔にも、いつも浮かべられている姉そっくりの微笑みはなく、深い悲しみと燃える怒りが燻っているのを夕映は感じていた。それは柱の面々すべてに言えることだった。時透だけは相変わらずぼんやりしていて、感情は読みきれなかったけれど。そして、この場にいない義勇もそうだった。

 葬列の準備中に、しのぶは夕映に声をかけた。

 

「こんなときまで冨岡さんが来ないとは思いませんでした。夕映もひどいと思いませんか?」

 

 むすっとしてしのぶは柳眉を寄せる。夕映は頬を掻きながら、くたびれた様子で笑った。

 

「そうねぇ……義勇のことだから、『悲しみに浸っている暇があるなら素振りの一回でもしていろ』って、今頃修行しているんじゃないかしら。あの人、一度悲しみにはまると浮き上がってこられないのよぅ。上弦の参に怒ることで目を逸らしているのかも」

「本当にそうですかねぇ……」

 

 ひょい、と片方の眉だけ持ち上げるという器用な芸当をしのぶは見せた。かすれた吐息が相対している女の赤い唇から漏れる。

 

「ふふ、四十九日中に手を合わせには来るでしょう。来ないなら呼びつけに行くわ。そのとき数発殴ればチャラよ」

「……あなた、あの人には遠慮ってものがありませんね……」

「だって、義勇はお友だちだもの」

 

 彼は私のかみさまではないもの。寒々しい笑顔を浮かべるひとつ下の女に、しのぶは黙して目を伏せた。

 葬列が始まる。損傷の激しかった遺体はすでに焼かれ、輿に乗った棺には骨壺が入っている。

 ひどい傷だった。左目は潰され、右脇腹はえぐれ、鳩尾には穴が開いて内臓がでろりと垂れていた。それなのに、杏寿郎は幸せな夢を見るように、微笑みをその口元に刷いていた。それを焼いて、家族、縁者が箸で摘まんだ骨が、あの中に入っているのだ。

 喪主の槇寿郎を先頭にして、参列者を連れて屋敷を出発する。彼が旅立てるように、彼の茶碗を槇寿郎が割った。村の男衆が輿を運び、夕映は逆さにした羽織を振って、皆、ぞろぞろ歩く。槇寿郎の顔は紙のように白く、千寿郎の目は赤く腫れていた。

 こうして、煉獄杏寿郎は送り出された。生者と死者の断絶は為った。香典の数を数え、名簿をまとめ、親類一同で食事をして。葬式は、終わったのだ。

 それなのに夕映はまだ夜明けと共に起きて、朝食を用意している。杏寿郎が帰ってくるのを待っている。いつも通り割烹着を着て、包丁を握ったところで気づくのだ。「坊ちゃん、もう骨になっちゃったから、帰ってこないわ」、と。

 帰ってきたらお弁当の感想を聞かせてくれと言ったのに、返事は未来永劫聞けない。それを五日繰り返して、ようやく夕映は泣いた。

 

「う、うぅ、ぐうぅ……どうして……どうして……? うああぁぁあああ……! ぼっちゃん、ぼっちゃあん……!! これからだった、のに」

 

 何度も畳を殴った。拳が裂けて血が流れても構わなかった。

 三冊しかない指南書から型を覚えて。在りし日の父から受けた指導を反復して、子供だけでなんとか生活を回して。柱まで登り詰めて、新しい柱の師匠にまでなったのに、もう杏寿郎はどこにもいない。あんまりだ。あんまりだった。

 これから、夕映よりずっと素敵な女性を妻にもらって、その人と愛し合っていくはずだったのに。それを見届けてから、夕映は嫁に行くつもりだったのに。坊ちゃんが私を好きだと言うのは、私しか女の例を知らないからだとずっとごまかしてきたのに。全部、意味がなくなってしまった。

 鍔と羽織を抱いて、うずくまって泣いた。泣いても意味がないことはわかっている。この涙は全部自分のためだ。涙を流すと快楽物質が出る。そうやって人は立ち直る。かつて炭治郎の涙を止めず、そのまま流させた理由を思い出した。

 炎の意匠の羽織を抱くと、杏寿郎の香りがする。いつかこれも消えるだろう。忘れてしまうのだろう。枯れない花なんてどこにもない。そんなもの、この世のどこを探しても存在しない。永遠は都合のいい夢だ。

 

(これから、私に、なにができるだろうか)

 

 涙に濡れながら、何度繰り返したかわからない問いを再び投げる。あの人の生きざまに報いるためには、殉じるためには、やはり鬼殺を志すべきなのだろう。想いを繋げていくとはそういうことだ。そうやって、鬼殺隊は壊滅の危機に陥りながらも決して滅ばず、今に繋がってきたのだから。

 それでも、遺された宝物を思うと走り出すことができない。ためらいを抱いてしまう。夕映が往く側へ行ったら、今度こそ千寿郎は取り残される。色の変わらない日輪刀を抱いて、ぐずぐずに腐った父を一人で支えなくてはいけなくなる。まだ十五にもなっていないあの子に、そんなことを背負わせたくない。

 槇寿郎はいっそう酒に浸るようになった。千寿郎と夕映は機械的に日常の動作を繰り返すだけだ。煉獄家にはまた暗雲が立ち込めている。杏寿郎の鴉は帰ってこない。産屋敷邸で休んでいるのだろう。

 今こそ、剣を執って戦いに身を投じるべきなのだ。己が上弦の参の首級をあげてやる、と気焔を吐くべきなのだ。葬式に顔を出さなかった水柱のように、一回でも多く刀を振り、一体でも多く鬼を屠ればいい。なんのために修行をしてきたのだ。力があるのに闘わないのか。いたずらに才能を腐らせるのか。種々様々な叱責が頭をめぐる。喉は慟哭を吐き続ける。

 ずっと目を逸らしてきた。彼は夕映に「家を守ってくれ」と願ったけれど、じゃあ、あなたのことは誰が守るのかと。選別のあとの通告に泣いて暴れて、「私に背中は任せられませんか」と口に出しかけて、結局彼の懇願に折れたのだ。

 しかし、約束は杏寿郎が生きていなければ無効だ。黎明、嵐のように泣きわめいたあと、素知らぬ顔で千寿郎を送り出す。そして、彼女は一通の手紙を書きあげた。いつでも出すことができる。けれど、喪失を喪失として認識した日から、それは未だ鴉に預けられてはいない。

 

 

 

 なにやら家の付近が騒がしいような……? そう首をかしげたとき、夕映は食材を包んだ風呂敷を抱えていた。買い出しの帰りだったのだ。食欲が減退している主人親子のために精のつく、食べやすいものを作ってやらなければと思って、ちょっと買いすぎてしまった。

 その「元気がない」はずの旦那様が、息子の頬を固く握り込んだ拳でぶって、弟弟子に襲いかかっているのを見てしまった。目の前が真っ赤になった。すぐさま夕映の身体は機能を切り替え、血が酸素を全力で取り込んでいく。シィィ……と鋭い呼吸音が空気を裂いた。風呂敷を放り投げて深く踏み込む。そして、弾丸のように彼女は飛びかかった。裾が豪快にはだける。

 殴り合う二人の間に滑り込み、水の型を応用した動きでまず炭治郎を投げる。ぽーんと放り投げられた彼は「えっ」と目と口を丸くし、空中で体勢を整えて着地した。ちゃんと鍛えられているようでないより。弟弟子の成長にふっと口許を緩め、すぐにきりりと引き締めた。

 

「ご無礼!」

 

 そう腹から叫んで、強かに拳を放った。槇寿郎の腹を殴り抜くことには成功したが、そこまで効いてはいないだろう。なにせ彼は柱だったのだから。しかし動きを止められれば充分である。尻もちをついた彼を前に、夕映は腰に手を当てて吼えた。

 

「なにをしているんですか!! 十も半ばの手負いの少年にむきになって! ちぃ坊ちゃんのことも殴ったのですか! 旦那様の武芸は人を傷つけるために身につけたものではないでしょう!! もうっ……ばか! ばか! 旦那様のばか!! 自分がどれだけ強いか知っているくせに!!」

 

 半泣きになりながら頬を連続で張った。ばか! のたびに一打撃。ばちんばちんと平手打ちの音が響く。終いには襟をつかんで乗り上げ、平手の速度が増していったので、炭治郎は青ざめながらはわわ……と口に手を当てていた。

 真っ先にはっ! と立ち直ったのは、頬を腫らして口の端を切った千寿郎である。がくがくと父の首根っこをつかんで揺さぶっている女中に駆け寄り、その肩をつかんだ。

 

「姉や! 姉や! 父上、もう目を回しています!!」

「……あら?」

 

 額に汗を浮かばせてふうふう息を荒げていた彼女が、構えた腕をぴたりと止めた。きれいにまとめられていた髪が乱れている。その下で槇寿郎は白目を剥いていた。おかめのように頬がおたふく状態になっている。持ち上げられていた槇寿郎の上半身がゆっくりと地面に横たえられ、夕映は千寿郎に向き直った。

 

「ああ坊ちゃん、大丈夫ですか? 歯は折れていませんか?」

「うん、大丈夫。ちょっと口の中は切ったかもしれないけれど……」

 

 ぺたぺたと頬を触られると口の中がひりひりと痛んだ。顔をしかめたくなるところを意地だけで我慢して、姉やを安心させようと千寿郎は微笑む。それに目を見開いた彼女が、片手で頭を抑えてため息を吐く。頭痛がするのだろう。

 女の人ってこういうときものすごく強いな。母ちゃんの頭突きも禰豆子の指弾もすごかったし。呆然と炭治郎は現実逃避していた。

 

「いらっしゃい、炭治郎くん。どうしたんですか? というか身体は大丈夫なんですか? 腹を刺されたと聞いていますよ? そもそも蝶屋敷を抜け出してきましたね?」

「えっ」

「うっ! その、いてもたってもいられなくて……」

 

 ぴきぴきと夕映のこめかみに青筋が浮いているのが見えた。笑っているのに怒っている。しのぶを前にしたときのようだ。炭治郎はばつが悪くて、もじもじと身体を縮こまらせる。赤い唇から、特大のため息が吐き出された。

 

「は~~~~……男の人ってみんな勝手だわぁ……しのぶが笑顔で激怒しているでしょうに。坊ちゃん、上がっていってもらってもよろしいですか?」

 

 千寿郎は朗らかにうなずいた。

 

「うん。お茶の用意は俺がやるよ」

「ま! ありがとうございます。じゃあ私は旦那様を戻してきますね~。寝かせておけばそのうち起きるでしょ」

「ははは……」

 

 花が咲くように笑った女性が、同じ顔で三十路をゆうに超えた男性を担いで屋敷の中へ消えていく。姉弟子がものすごく強い。炭治郎はほあ~……と感嘆のため息を吐いた。俺もああなりたい。そう思わずにはいられない。きらきらと目を輝かせる炭治郎を見て、千寿郎は苦笑が微笑みに変わるのを感じた。

 

 

「すみません、うちの女中が。あんなに怒っているのは久しぶりに見ました」

「いや、俺もあのままだと思いきり頭突きしていたと思うので……」

 

 茶を差し出すと彼はわたわたと両手を動かして否定する。頭突き、頭突きか! 千寿郎はこみあげてくる笑いを抑えきれない。剣士であるのに咄嗟に出てくるのが頭から突っ込む突貫というのは面白すぎる。くすくす肩を震わせていると、炭治郎は頬を赤らめて「俺、すごく石頭で……」と身体を小さくした。柱にも鬼にも頭突きをしたと聞いたら千寿郎の笑いは引っ込んでいたと思う。無謀が過ぎる。

 炭治郎が勧められるままに熱い茶をすすっていると、すとんと襖が開いた。夕映が顔を出している。

 

「お待たせしました! 同席してもよろしいですか?」

 

 千寿郎は鷹揚にうなずく。

 

「もちろん。父上は?」

「濡らした手拭いでお顔を冷やしてみたらすぐに起きられましたよ。お酒を買いに出ていかれました。体裁として止めてみましたが無駄でしたね……あんなに飲んでは身体に毒だと言ってもまるで聞きやしない。お酒がないと正気でいられないのはわかりますけどね」

「そう……姉や、まだ怒ってる?」

「当然でしょう! 忘れ形見に手をあげて、自分は自傷行為に浸るなんて言語道断ですよぅ!」

 

 ふん! と鼻息荒く、夕映は脇を締めて拳を固めた。これには炭治郎も千寿郎も苦笑するしかない。自分より怒っている人がいるとかえって冷静になるものである。

 しかしこのままではいつまでも本題に入れまい。すっと姿勢を正し、千寿郎は静かに口火を切った。

 

「それで、炭治郎さん。兄から言伝を預かっていると仰いましたが……兄は、どのような最期を迎えられましたか?」

 

 ぴりっと炭治郎の背に電流が走った。じいっと、兄の写し身のような金の目と、夕映の赤い瞳がこちらを見ている。思い出すだけで怒りと悲しみの渦に放り込まれそうなあの朝日を思い出す。炭治郎は一度目を閉じ、すぅーっと息を吸った。そして語るのだ。如何に杏寿郎が人のために戦ったかを。

 千寿郎は、兄の生きざまを聞いてぽろぽろと涙を流した。炭治郎は絞り出すような声で「力及ばず申し訳ない」と唇を噛んだが、二人が炭治郎を責めるわけがないのだ。千寿郎は彼の手を握って頭を上げてくれと頼んだし、夕映は炭治郎の涙を指の腹で拭った。

 

(責めてくれた方が楽だった。俺の弱さをなじってくれたら、俺は俺を許さなくて済んだのに)

 

 そんなことを考えながら、炭治郎は二人の血の通うあたたかさを享受した。

 ──しかし、そんな静寂とは別に夕映の眉がぴくりと跳ねあがった。

 

「……ちょっと待ちなさい。炭治郎くん、君、熱がありますね!?」

「ええ!?」

「へぇっ!?」

 

 ばっと押しつぶすような勢いで両手が頬を挟む。変な声が出た。その横では千寿郎が目を剥いている。炭治郎は慌てて取り繕った。

 

「いえ、そんなことは」

 

 確かに三人娘が体温計なるもので体温を測ったときに熱が出ているから安静にするようにと言っていたが、炭治郎は今貧血を起こしている感覚はあっても発熱は感じていない。だから大丈夫だしなにも問題ないはずだ。しかし、その理屈は夕映には通用しないようだった。

 ぴしゃりと小規模な雷が落ちる。

 

「馬鹿を仰い! 38度はあります! ああもう、しのぶには鴉を飛ばしますから、今夜は泊まっていってちょうだい! こんな状態で放り出すなんてありえないわ、無理よぅ!!」

 

 慌てきった彼女が「ええと客間の用意と、お布団干して、あと着替えね!」と指をぱぱぱ折り、「坊ちゃんたちはご歓談を続けてくださいねぇ!」と残して部屋を飛び出していった。炭治郎が口を挟む暇もない。取り残された当人は呆然と夕映の背中を見送っていた。はっとして千寿郎の方を向いても、彼ははにかんで女中の行動を肯定した。

 

「その、よければ泊まっていってください。ああなったら止めるのは無理ですし、それに、私はもっと炭治郎さんとお話したいです……姉やと一緒に修行していたときの話も、聞けるものなら聞きたかったので……」

 

 ご迷惑でしょうか? と、この世の愛されて育った弟すべてが有する甘え攻撃が炸裂する。長男であり兄である炭治郎にはものすごく効く。

 逃げられない!! 炭治郎は悟った。もう折れるしかなかった。うなだれながら、ぽそぽそと「一晩お世話になります……」と呟く。千寿郎は嬉しそうに笑った。

 

 

 夕飯をご馳走になり、千寿郎とたくさん話をした。父親の槇寿郎は終ぞ食卓に姿を現さなかったが、汗を飛ばす炭治郎とは正反対に二人は「まあ決まりが悪いでしょうからね」とどこ吹く風だ。家族ならではの信頼と無遠慮を垣間見て、少し前までは杏寿郎もここにいたのだろうなというのをぼんやり思った。

 

「炭治郎くん、まだ起きてます?」

「はい! どうしたんですか?」

 

 煉獄家の香りでいっぱいの布団の上に座って、月を見ていた頃だ。難しい顔をした夕映が訪ねてきた。頬は桃色に色づいていて、炭治郎よりも熱があるように見える。心配する言葉をかけると、彼女は困ったようにへにゃりと笑った。

 

「ちょっと吐き出させてほしくて……千寿郎坊ちゃんや旦那様にはとても言えないんだもの……」

 

 きょとんと目を丸くしている炭治郎のすぐ側に、彼女が座る。「坊ちゃんの遺言のこと」と付け加えられてようやく合点がいった。

 杏寿郎の「手紙と日記を読むように」という言葉通り、彼女は彼の部屋の机の引き出しから遺品となったそれらを読んだようだった。内容を尋ねるという野暮な真似をしなくても、ゆでだこのように赤く染まった夕映の顔を見たら、なにが書いてあったかはだいたい察せられる。簡潔に遺言を述べていった杏寿郎が、夕映に向けた言葉だけは言いよどんだのだ。遺されたものには、それはそれは、万感の思いが詰まっていたことだろう。

 眉をひそめて、夕映は火照る頬を両手で覆う。

 

「読んでいて恥ずかしくなるくらい、歯が浮くような言葉が大量に並んでいましたよぅ!! あれを直接食らっていたら勢いに呑まれて嫁入り確定でした、いやはや、坊ちゃんが私の気持ちを尊重してくれていたと思うべきか、意気地なしと責めるべきなのか。まったくもう。大事なことはなァんにも口にしてくれない男しか、私の周りにはいないのかしらぁ? やんなっちゃうわね! 炭治郎くんも苦労するわけだわ!」

 

 ぷんぷんといっそう顔を赤くする夕映を前にして、炭治郎の頭にはすぐ兄弟子の顔が浮かんだ。鱗滝も口下手だし、錆兎の言葉の足りなさもどっこいどっこいだ。否定できない。

 そうかもしれない……。彼は深く夕映に同情した。

 はあー……っと重いため息が唇から落ちる。

 

「きみが生きていて、本当によかったと思うの。坊ちゃんが乗客の皆さんを守り切ったことを誇りにも思うの。でも、それでも、坊ちゃんが死んでしまったことが悲しくって仕方がないのよぅ。お葬式から一週間以上経って、やっと受け止められたのだけど」

 

 横髪を耳にかけながら、彼女は続ける。その目は欠けた月を見ていた。

 

「坊ちゃんは、坊ちゃんの命だけは天秤に乗せてくれなかったわ。私に戦うなってわがままは言うのに、自分のことはポンと犠牲に差し出してしまうんだもの。やさしくって、そのやさしさがどうしようもなくひどいひと。あの人は私をひどいと言ったけど、どっちもどっちよねぇ……」

 

 溶けるような独白が宙に舞う。炭治郎は、その彫像のような横顔から目を離せなかった。胸が締めつけられる。しかし、その痛みは悲しみとは違う形をしている気がした。

 

「でも、もう約束を守る相手がいないのだから、あれは無効だわ」

「え」

 

 ぽかんと炭治郎は口を開けた。その反面、夕映はたいそう美しく微笑む。

 

「私、鬼殺隊に復帰することに決めたの。力があるのだから、有効に使わなくちゃ。千寿郎坊ちゃんが剣への未練を捨てられるなら、私が拾うまでよ。だって私は戦えますからね。なら、戦うしかないじゃない?」

 

 そんなことは。そう言おうとして、炭治郎はぐっと口をつぐんだ。これは相談ではない。宣誓だ。そもそも炭治郎には止める権利などないのだ。どうしてか、それを歯がゆいと思う。

 ふっと、吐息が空気を揺らした。彼女は眉を下げて、炭治郎を見つめている。

 

「ごめんね、ずるいことを言ったわ。君なら否定しないでくれるってわかっていて言いに来たんだから、私も卑怯よねぇ」

 

 一拍、間を置いて、彼女の両手が炭治郎の手を握る。赤い双眸がやっと彼を正面から見つめた。

 

「だけど──ようやく決心がついたの。……坊ちゃんに負けないくらい強い柱になるって言ってくれて、嬉しかったわ。それでも頭突きはやめておきなさいね。君の立場が悪くなってしまうでしょう」

「うっ!」

 

 ぽんぽんと肩を叩かれると顔を赤くするほかない。炭治郎は少しだけ、自分の導火線の短さを恥じた。少年らしい年相応の顔を見ることができたからか、夕映はコロコロ笑う。

 

「話を聞いてくれてありがとう。それじゃあ、ゆっくりお眠り。明日も熱があったら、禰豆子ちゃんごとおんぶしていってあげるからねぇ」

「え、いや、さすがにそれはっ……!」

「ふふ、冗談冗談! ──またね。次は同じ志を抱くものとして会いましょう」

 

 そう言い残して、彼女は部屋を去っていった。梅の香りは変わらずに炭治郎の近くを漂っていた。

 

 

 

 真新しい隊服に袖を通す。採寸通りに作られたそれに大きさの過不足はない。洋服の類を着るのは初めてだから、おかしくないだろうかと何度も姿見を確認した。ボタンを留めるという行為が案外難しいものだということも、初めて知った。平隊士の藤色のボタンを見ていると、今まで死んでいった柱たちの金に輝くボタンを思い出す。

 

(遠いわねぇ……)

 

 ひとつため息を吐き、そのままベルトと脚絆を整えた。最後に刀を差し、“滅”の文字を羽織で隠す。

 やっと、己も同じ開始地点に立った。何年も前に入隊を辞退した女を拾い上げてくれたお館様には頭が上がらない。よりいっそう精進し、産屋敷家に尽くすことを改めて彼女は誓った。

 

「それでは、坊ちゃん、行って参ります!」

 女は笑い、修羅の道へと身を投げる。




お付き合いいただきありがとうございました。これで終わりです。
オリ主は這ってでも帰ってくることを改めて千寿郎くんに誓ったので手足がもげても帰ってくることでしょう。

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印刷版があります。紙でほしい方はぜひどうぞ。作ったのがかなり前なのでうっかり誤字が印刷されている部分あると思います。印刷版おまけは作者の自我が滲んでいるあとがきです。
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