【完結済み】沖矢×× 作:鈴近
少々お付き合いください。
血縁者が近くにいないことを確認してから沖矢の姓を借り、「沖矢昴」という人間を作ったはずだった。
沖矢昴は浮遊点である。家族はなく、大学院生という身分であるが同期というものもない。赤井秀一を覆い隠すための仮初め、嘘だ。だから、この顔にそっくりの人間がいるとすれば、有希子がモデルにした人物か、他人の空似であろう。それが存在すればの話。あくまでももしもの話。確率の低いif。
そのため、歩美が投げかけてきた問いは彼の目を丸めるのに十分だったのだ。
「ねえねえ、昴さん、この前、杯戸病院にいなかった? 怪我したの?」
「え? 僕は杯戸町へは長らく行っていませんが……。」
「うそー! だって、病院着を着て車椅子に座ってる昴さん、見たもん!」
住んでいたアパートが全焼し、工藤邸に転がり込んでから一か月は経っていた。火災の際に知り合った少年探偵団との関係は良好で、少年少女からの覚えもいい。慣れない料理や保護者の役などをこなしただけのリターンがあった。なにせ、沖矢の共犯者も、守りたい相手も小学生なのだから。近くで見守るなり、大人として協力するなり悪いことばかりではない。
そのうちの一人からの情報である。似ている人間を見かけた程度の語気ではない。歩美の記憶力はいい方だと沖矢は認めている。
表面上は眉を下げつつ、ふむと沖矢は、細めている目をさらに細める心地で考え込んだ。対して歩美は不安そうに眉を下げながら、沖矢の顔を見上げている。
「……信じてない……?」
「いえいえ、そういうわけでは。もしかしたら、親戚の方が入院していたのかもしれませんね。病院に電話して聞いてみます。」
「! うん!」
拳をぎゅっと握りしめ、絶対いたんだからね! と言い張る歩美の言葉を、間違いや嘘だと決めつけるのは早計である。病院着を着ていて車椅子に乗っていたとなると、おそらく入院患者。
沖矢昴の顔を作ったのは工藤有希子だ。まったくモデルがいない……というわけでもないだろうが、それにしてもこのタイミング。沖矢昴そっくりの人間が近くの街に現れるというのは、偶然にしてはできすぎている。なにか裏があるのではないか? 職業柄、そして現在の状況も考慮に入れて、疑い過ぎても困ることはない。
(……これは調べてもらう必要があるな……。)
沖矢昴としての行動は制限されがちである。せいぜい、隣の家の少女や、家主の親戚の子供が遭遇した事件に介入することで手いっぱいだ。情報絡みでは、特に。ただの大学院生ならば当たり前のことなのだが、FBI捜査官の身分に慣れるとどうしてもかゆいところに手が届かないわけで。
カコカコとスマートフォンを操作する。唯一真相を知る上司に電話を入れたのが昨晩のこと。迅速に、それらは洗いざらい調べ上げられた。
彼の存在を知って、沖矢は天を仰いだ。沖矢家の長男は、昏睡状態で長期間入院していた、と。それが一年前に目覚めたらしいという情報も伝えられ、沖矢は舌打ちしたい気持ちでいっぱいになった。なんて悪魔的なタイミング。こんな不確定要素が近くに潜んでいたとは。むしろなぜ気づかなかったのかと疑問に思うくらいだ。それほど致命的なミスである。
いっそそのまま死んでくれていたらよかったんだと、他人特有の無責任な思いが胸に巣食う。
が、すぐに頭を横に振った。ひとまず有希子に連絡を入れよう。放置しておくのは無理だ。却下。囲い込むにしても、設定をうまいこと作って、できたら近くで様子を見られるようにしなければいけない。
肺に詰まった黒いものを全部吐き出すように、ため息を吐きつくす。厄介ごとが曲がり角から突撃してきたような気分だった。当たり屋かなにかか? いつものように、月を見ながらバーボンを飲む気持ちにもなれないくらいである。もう一度、沖矢はため息を吐いた。
「こんにちは。もしかして、あなたが僕の兄ですか?」
翌日、愛車のテントウムシをかっ飛ばして杯戸病院に向かえば、顔パスで病室に案内された。大いに戸惑った沖矢だが、彼の顔を見た瞬間、鏡を見ているような錯覚に陥った。同時に腑に落ちた。丸い椅子に腰かけて、内心舌を巻く。なるほど、これは顔だけで親類だと信じられるわけである。
にこにことベッドの上で笑うのは紛れもなく自分の顔。いや、沖矢昴よりもやや目がぱっちりしていて、同じように柔らかそうな髪も、後ろでゆるく束ねられていた。そして彼は柔らかく目を細めているものの、普段の沖矢のように糸目ではない。よく見れば目の色だって違う。まったくの同一人物というわけではないのだ。けれど、一発で血縁者だとわかる顔だった。パーツのひとつひとつ、そしてなにより雰囲気が似通っている。彼こそが沖矢昴のモデルだと言われれば、深く納得してしまいそうなほどだった。いっそクローンだと言われても信じられる。
驚き、そして感動すら沖矢の身体を駆け巡る。しかしそれら全部を覆い尽くすかのように笑みを刷いた。我ながら完璧に演技をできていると思う。赤井秀一のときのように端的で不愛想な言葉を吐くのではなくて、「初対面の兄弟」というひどくいびつな関係を、優しく肯定した。
「はい、そうです。昴といいます。」
「すばるさん。昴兄さん?」
「好きなように呼んでください。ええと。」
「××です。」
ジジ。不自然にノイズが走ったような。そんな違和感を数秒だけ抱いた。それはあっという間に霧散してしまったが。
ざっと彼の全身を見たところ、腕には点滴の痕が散見している上、手足は成人男性にあるまじき細さである。手首など、沖矢の半分ほどしかないのでは? と思うくらい細かった。つかんだだけで折れそうだ。おそらく足も同じような状態だろう。これなら、仮に囲ったところで逃げられる可能性は低い。身体を見られていることを察したのか、彼は恥ずかしそうに頬を掻く。指はしなやかで長い。
「いやあ少なくとも五年は昏睡していたので……起きたら二十六になってて、碌に動くこともできませんし。両親が他界していたのにはびっくりしましたね……。」
白すぎて気持ちの悪い肌だった。マスクの下の自分とて土気色と評される色をしているが、彼の場合は白すぎるのだ。とてもその皮膚の下に血管があるとは信じられないくらいに白い。本当に人間なのか疑わしいくらいだ。下半身を覆っているシーツの方が健康的な色である。
体感的にはまだ十代なんです。そう言って、彼はおくれ毛を耳にかけた。しぐさひとつ、視線の配り方からなにから、自分とはまったく違う。それらの行動を見て、彼が鏡像でも、精巧な人形でもなく、生きている人間なのだと理解が追い付く。ことさら柔和に沖矢は目尻を下げてみせた。細い目をなおさら細める。ついでに「心底申し訳ない」と言わんばかりに眉をへにょんと下げる。
「すみません、早く見つけられなくて。心細かったでしょう。」
「ふふ、実は、少しだけ。もう、僕のことを知っている人は誰もいないんだろうなって、思っていました。」
悲愴な言葉とは裏腹。彼も柔らかく笑った。人好きのする笑顔だった。
からりと引き戸が開く。無精ひげを生やした医師がやってきて、彼に声をかける。担当医だと紹介された。
「よかったねえ、沖矢さん。これで退院できるじゃない。」
「本当に。長い間病院の外には出ていませんから、社会に放り出されたらいいカモにされて死んでいたんじゃないかなあ。あはは。」
笑い事じゃない。笑い事じゃないはずなのだが、医師と一緒に彼が笑っているものだから、彼なりのジョークなのだと自分に言い聞かせる。ははは、と出てきた笑いは空々しいものだった。
「車椅子を使っていると聞きましたが。」
「ああ、まだ落ちた筋肉が戻りきっていなくて。リハビリも続けていますが……。」
「去年は呼吸器が外せなかったんですから、まだまだかかりますよ。お兄さんにはあとで介助や治療に関する資料をお渡ししますので。」
「通院は減らせるんでしたっけ?」
「うん。でもサボったらだめだよ。お兄さんのお住まいから近い病院があれば、そちらに通えるように紹介状を書くし。」
「あなた、サボるつもりだったんですか。」
語尾を上げずに言うと、彼はわざとらしいくらいに目を逸らした。計算されたかのようなわかりやすさだ。「こら。」と二方向から言われれば、ぴゃっと肩を竦める。反応は親に叱られる子供そのものだ。感覚的には十代というのは本当らしい。嘘をつけない性分なのだろう。沖矢はそう結論付けた。
退院手続きはスムーズに行われた。彼を監視下に置くこと、有希子やコナンとの打ち合わせ、近所への説明など、つつがなく問題は片付いていく。
少年探偵団の子供たちは、「弟」によく懐いた。「弟」の方も子供たちがかまってくる状況を楽しんでいるらしい。一緒に出掛けたり、外遊びをすることはままならないが、彼らと話しているときはいつも柔らかい微笑みがますますふわふわになる。ときどき菓子を作っては振る舞うくらい、彼らのことを気に入っているようだった。「子供は好きです。」と微笑む彼は、線の細さや髪の長さも手伝って、ひどく女性的に見える。
「哀ちゃんもどうぞ。そっちのは甘さ控えめで作ってみたんです。」
「そうなの。いただくわ。」
「よければ博士にも持っていってあげてくださいね。」
警戒心をあらわにしていた隣人の少女までが、沖矢に対してより、ずっと柔らかい当たりをしている。小さな探偵は、しばしば探るように彼を見つめていたが。
それを見て苦笑を浮かべるだけだった自分に気づいたとき。寒気がした。彼は始めからそこにいたように、なんの軋轢もなく「沖矢昴の弟」になった。おそろしい普遍性を以て。あたかも当たり前なのだという顔をして。彼がただの一般人だと言い切るにはまだ材料が足りない。なのに、ほだされかけている。その事実は、かえって沖矢の警戒心を強めた。
真夜中、二人きり。何度目になるかわからない問いを投げる。
「あなたは誰ですか?」
「沖矢××ですよ。あなたこそ、誰ですか?」
「沖矢昴です。あなたの兄だ。少なくとも、今は。」
「ならばそれでいいじゃありませんか。別にあなたが本当の血縁だなんて思ってませんよ。僕はそこまでおめでたい思考じゃありませんし、人の善意も信じていません。なにかあるんですよね。知りたくないですけど。深く踏み込んだらいけないことのようだ。そもそも、両親が死んでから数年たっていたのに、突然そっくりな兄が現れるのは不自然すぎるんですよ。あなた二十七歳なんでしょう? それが本当なら、僕ら、双子だってことになってしまいます。変な話ですね。」
ロッキングチェアに座ったまま、月光を全身に浴びる彼は、自分とは違ういきものだった。ゆるりと薄い唇が弧を描く。
「でも、現状は、僕にとってとても都合がいいので。それを踏まえた上で、兄弟ごっこをしましょう、にいさん。相互利用ってやつですよ。できれば僕がひとりで生きられるようになるまで、捨てないでくれるとうれしいです。」
「…………。そう、ですね。」
本当のことはいらない。必要ない。全身ですべてを拒絶しながらも、穏やかに笑う彼は、沖矢昴の「弟」だ。今はそうだ。誰がどう言ったって。赤井秀一が沖矢昴であるためには、彼を野放しにしてはおけない。不気味でも不可思議でも、この男を囲って飼う以外の道などもう存在しないのだ。
自由を奪い、規則で縛り付けてもどこか不安なのはどうしてなのか。割り切れない思いからは目を逸らして、兄弟ごっこをしよう。きっとそれが望ましい最適解。