【完結済み】沖矢×× 作:鈴近
僕は沖矢昴のはずだった……と、思う。
起きる前にはその自信は確かなものだった。この顔で、この声で、この身体で。全部沖矢昴の構成物だった。
目が覚めたとき、一番最初に感じたのは息苦しさだった。耳はよく聞こえなくて、身体も全然動かない。全身が泥のように重い。かろうじて、まばたきと眼球の運動はできたけれど、それすらもひどく億劫だった。
口には呼吸器がついている。腕には点滴の管。なんで病院にいるんだろう。呆然と彼は思った。点滴の中身がぴたぴた落ちてくる。カーテンはそよ風でゆらゆら揺れていて、日差しの強さでなんとなく夏かなと思った。彼がいるのは個室らしい。他に誰もいない。呼吸器が曇る。
考えても、考えても、どうして? なぜ? が頭から離れない。ここはどこ。僕は――。
考えるにしたって、あまりにも情報が少ないのだ。どれくらいそうしていただろうか。ものすごく長い時間が過ぎていった気がする。指一本まともに動かない状態だと、とても時間の流れが遅いのだと感じた。こんなこと知らなくてよかったと思う。
「おはようございますー。」
誰かが引き戸を開けて、部屋に入ってきた。やっと人に出会えたことに、いくらか安心する。どれだけ眼球を動かしても、なかなかその人が誰なのかはわからなかったが。ぺたぺたとサンダルを鳴らして、看護師は歩いてくる。その人は慣れた手つきで彼に繋がれた管やチューブを点検し終えると、ゆっくり彼に触れた。
濡れたタオル。温かい指先。
鈍化した感覚へ、それらが強烈に訴える。また、呼吸器が曇る。呼吸の音が全身に響くようだ。
「今日は天気がいいですね。」
そうですね、と言いたいのに、うめき声ひとつ出なかった。ぱちりと意識的にまばたきをする。瞬間、看護師は、はっとした様子で彼に顔を寄せた。ごくりと動く喉が見える。わななく唇で、その人は彼を呼んだ。
「……沖矢さん?」
はい、の代わりにもう一度、まばたきをひとつ。看護師がまろぶように病室を飛び出していった。そのあとはいろんな人が部屋に来た。医師はイエスノーで答えられる質問をしては、彼がまばたきで答えるのを書き留めていく。その日は途中で疲れて眠ってしまった。
翌日以降も忙しいままだ。なんだかややこしい検査のようなものも、たくさん受けた。矢のように一日一日が過ぎていく。検査が終われば、衰えた筋力を取り戻すためのリハビリだったり、発声練習だったりと、次から次へと様々な課題がやって来る。
最初のうちは寝ている時間が多かったけれど、次第に起きて過ごせるようになってきた。初めて鏡を見たときはとても驚いたものである。記憶にある自分より、ずっと痩せこけていて、なにより年を取っていた。知らないうちに二十六歳になっていたと知ったときには、気絶したくなったくらいだ。自分はまだ十代だったはずなのに、寝て起きたらアラサーである。びっくりどころじゃない。
それでも、毎日忙しくて、なにかを深く考える余裕は少しもないのだ。家族が誰も来ないことをいぶかしむことすらできなかった。
「浦島太郎みたいだなあ。」
回らない舌と、つっかえるような声で呆然と呟く。相変わらず身体からは管が取れない。
声が出るようになった頃、両親や、知っている親戚がみんな、すでにいないのだと知らされた。入院費は両親が残した遺産で賄われていたらしい。両親はすでに、彼の祖父母に当たる人々を亡くしていたし、兄弟も父の弟だけだった。その叔父も去年事故死したというのだから笑えない。沖矢の記憶に住んでいる彼らは、まだ生きているのに。どれだけ時間がたっても、実感できないままだ。墓を確認したって、理解しきることはできないのだろう。そう思わされる。
起きてから一年が経つだろうかという時期、唐突に自分の名前が読めないなにかになった。病室のプレートには沖矢××とある。誰かに呼ばれるときも、「××さん」と、呼ばれているのはわかるのだが、なんと発音しているのか聞き取れないようになった。僕は沖矢昴じゃなかったっけと何度も頭を疑ったが、誰もそれを肯定してくれる人はいない。やっぱり頭がおかしくなったのだろうか。不自然なくらい冷静に、自身の正気を疑った。
舌は滑らかに回るようになったし、少しなら歩けるようにもなった。大量に刺さっていた管はほとんどなくなった。食事や排泄も一人で行える。まだ退院して、一人で暮らすのは無理だったが、順調に人間らしい生活に近づいている。病院内に知人も増えたし、なにかを考えるだけの余裕ができるようになったのだ。いつまでも病院の中にいられるはずがない。これからどうやって生きていけばいいのだろうと悩む頻度が増えた頃、あの人は彼の前に現れた。
「こんにちは。もしかして、あなたが僕の兄ですか?」
「はい、そうです。昴といいます。」
黒いハイネックと、眼鏡の奥の細い目が印象的だったように思う。ああ、確かに兄弟だな、と納得できる顔のパーツ、髪の癖、声の高さ。
すばる、と復唱して、兄さんと呼んでみた。あの人は彼とそっくりな表情で微笑んだ。
(僕は一人っ子だったはずなのに。)
弟ならまだしも。兄。兄である。寝ている間にそっくりな兄ができたとはこれ如何に。
そして、彼の名前が、いっそう沖矢××を混乱させる。昴は、慣れ親しんだ自分の名前だった……はずなのだ。いやになるくらい記憶があいまいだった。
誰かに乗っ取られたみたいに、台詞があるように口は回る。声は出る。取り戻すのに苦労したそれらは、あまりにも薄っぺらく唇から出ていった。
退院すること。兄が借りぐらしをしている家に住むこと。兄が、厄介者でしかない自分を、ここから連れ出してくれること。それらはとんとん拍子に決まっていく。始めから決まっていたみたいだった。
いきなり転がり込むなんて、家主の方は本当にいいと言ってくれたのだろうか? 何度も不安になったし、いざ顔を合わせた家主が藤峰有希子だったときはそれこそ魂が抜けそうだった。
「はじめまして! あなたが××さんね? きゃー! 昴さんが二人いるみたーい!! ああん、好みの顔が二つも並ぶなんて眼福ねっ。」
「ふ、ふ、ふじみねゆきこ……さん……?」
「おや、ご存知でしたか。」
「旧姓で呼ばれるとなんだか若返った気分だわ。もっと言って!」
「いやいやいやいや。」
自分の知っている彼女よりは年を取っていたが(もちろん口には出さなかった。)、目の前にいたのはかつての国民的女優。そういえば、電撃引退の理由は推理小説家との結婚だった。今は工藤有希子だと思い出すのに、時間がかかったくらいである。
しかも家は大きな洋館。これは家と言うより屋敷だ。どうやったらこんなコネクションができるのだと、今でもときどき胃がキリキリ痛む。しかし、これは、聞いてはいけないことだ。××の直感はずっと訴えている。絶対に触れてはいけないことが身近にあるのはなかなかにストレスだった。思考を放棄してようやく喉のつっかえが取れるような心地である。
なんとか新しい生活に慣れようと、心を騙しながら過ごして、何日たっただろう。ある夜、ふっと月が囁いた。さえざえと降り注ぐ青い月光が、身体に微弱な電流を流したかのようだった。
そして知ったのだ。意志など関係なく、暴力的なまでに頭が蹂躙される。強制的に思い知らされてしまう。僕は存在しているのに存在しない。ここにいるけど、同時にいない。形而上のなにかになっていたことを。名前が読めなくて、聞こえないのは、兄さんが沖矢昴として認識されているからで。沖矢さんちの誰か。誰でもない誰か。それが僕だった。
だから××、『 』。からっぽ。僕は地に足ついていない、宙ぶらりんの浮遊点だった。この世界にデバッガーがいなくてよかったと強く思った。もしいたら、僕みたいなバグはすぐに消されていただろう。
お月さまは語る。真理とか、この世の裏側の話とか、真実を暴く人のこと。それらをとつとつ話しかけてくる。いや、話しかけているというよりは一方的に僕の脳に情報を送っているのだ。いよいよ頭がおかしくなったのだと自覚させられる。頭の前に存在がしっちゃかめっちゃかの穴だらけだったけれど。なのに、伝えられることが本当のことだと納得してしまうのだから、自分が自分でないかのようだった。
脳みそをぐちゃぐちゃにかき回される。降り注ぐ光が僕の輪郭を歪ませる。これは、おかしくなってもしょうがない? 仕方のないこと?
でも、普通に生きるには、狂気は邪魔だった。認めよう、長い年月のうちに僕は狂っていたのだ。その上で、静かに平和に暮らしたいのだと。普通の人の皮をかぶって普通の人のふりをしたい。「にいさん」の前で弟として振る舞っていたい。彼から提供される日常の中でぬくぬくとまどろんでいたい。だから、生きていくためだったら、どんな要望でも飲み込もうと、そう思った。僕にできることはそれくらいしか、考えつかなかった。あなたの弟でなければ、僕は存在できないんじゃないかとさえ、思ったのだ。
のろのろベッドから降りる。まだよたよたとおぼつかない足に四苦八苦しながら、クローゼットに近づき、服を着替えた。先月よりボタンを留める手が思うように動く。仕上げに、太い髪ゴムで伸びた髪を束ねた。そろそろ切ってしまいたいのだが、髪を切りに出かけることもままならないため、ほったらかしのままである。
窓の外から鳥のさえずりが聞こえた。ぼうっと外を眺めながら、兄がやって来るのを待つ。今日は昨日より少し早く起きたかもしれない。兄が来るまでの時間がいつもより少しだけ長く感じた。ほんの少しだけ、だけれど。
「おはよう、××。」
コンコン。ノックのあとににっこり笑った兄が顔を出す。××もにこりと微笑んだ。鏡合わせの笑顔が並ぶ。
「おはよう、兄さん。」
兄との共同生活にはいくつかのルールがある。朝、兄が呼びに来るまでは部屋から出ないこと。隣人や、家主の親戚の子供以外、家の中に他人を入れないこと。家の外に出るときは連絡を入れること。兄がいいと言った人以外が家にいるときは、部屋から極力出ないこと……など。
いまだに日常生活を行うには他者の補助が必要なのは変わらない。階段を下りるのだって一苦労だ。一人だと生きていけないのはどうやったって事実なのだから、××はそれらのルールを否やも疑問も挟まずに受け入れた。兄がとても頭のいい人で、秘密をたくさん抱えていることくらいは、十代のまま止まっていた××の頭でもわかることだったので。そしてそれを不用意に暴くことは、××の立場を悪くするだろう。これは予想ではなく確信だ。自身の好奇心があまり強くなくて助かった。
兄の補助で一階に降り、食卓に着く。今日の朝食も煮込み料理だ。いつかのように生煮えじゃないだろうなと少しだけ警戒しておく。二人分の量がわからなくてたくさん作ってしまうのは料理初心者にはよくあることだ。そのたびにおすそわけに付き合わせることになってしまう、隣家の初老男性と少女には頭が上がらない。××は嘆息した。
「そろそろ煮込み料理以外の調理も覚えませんか?」
「そうですね、追々。」
「僕が作った方が早いかも。」
「料理、できるんですか?」
「母曰く手際がいいと。兄さんみたいに凝ったものはできませんが、レシピさえあればなんとかなりますよ。手先は器用なので。」
「ホォー……。では、次の土曜日に手伝ってもらいましょうか。」
「喜んで。」
沖矢××に兄はいないし、沖矢昴に弟はいない。沖矢昴はもうひとりぼっちだったから。じゃあ、この人は誰だろう。僕は誰だったのだろう。得体の知れなさが恐ろしい。でも、当面を生きていくためには、秘密も真実も、ひとかけらだって必要ないのである。ぬるい嘘だけあればいい。下手につついて、猫のようにうっかり死んでしまうのは××だけだった。
有希子仕込みのカレーをスプーンに掬って、ぱくりと口に運んだ。穏やかに微笑み合う兄弟は、過不足ないようで大きく偏り、整っているようでどうしようもなく歪なまま、そこにある。