【完結済み】沖矢×× 作:鈴近
「じゃあその役、僕がやりましょうか。」
「弟」が放った言葉に、赤井はぎゅっと眉間のしわを寄せる。
「部屋にこもってろ。」
「使えるものは親でも使えって言うでしょう。なんとかと鋏は使いようともね。まあ僕使われる側なんですが。」
××はひょうひょうと笑みを深める。
もしかして、ばれてる? いやいやそんなはずは。言葉の綾のはず。内心、コナンは冷や汗をかいた。
起きてから何時間も経つのに、一向に兄が現れない。二度寝、三度寝と繰り返してもあの人が顔を出さないのだ。寝ることでごまかしていたが、そろそろ喉が渇いたし、先ほどから頭痛と吐き気がひどい。今すぐトイレに駆け込みたい。もっとも、××はまだ満足に走ることもできないが。ものの例えだ。
××は恨めしげにドアを見た。こんなことは初めてである。朝一番に兄が××を呼びに来るのが通常なのだから、来なかった場合なんて決めていない。そもそもあの人は何時に××が起きてもすぐにやってきた。常に見張っているようなタイミングで。それがないというのは、とても、すごく、不自然である。
部屋の外に出てもいいものか? 彼が来ないということは、なにかしら立て込んでいるとか、イレギュラーな事態が起きているとも取れる。ただの寝坊だとは考えづらい。そう考えるとますます部屋を出るべきではないだろう。約束、契約を破って追い出されるのは勘弁してほしい。ここ以外に行き場は、ないから。
食事は一日くらい抜いてもまったく平気なのだが、水分はそうはいかない。××はもそりとシーツから這い出た。ゆっくり時間をかけてベッドから降り、よたよたドアへ向かう。そっと開けた隙間からは、人の気配を感じられない。
(誰にも会わなければ、まだまし……だろうな……?)
不自由な手足を引きずりながら、壁伝いにトイレなどのスペースまで移動する。喉が張り付くように熱い。ぐらんぐらんと世界が揺れる。眩暈はひどく、歩くだけで吐き気は強まった。脱水だろう。
東京の水道水はカルキ臭いなんて言ってる場合じゃないな。
××は内心ひとりごちた。ずるずると重い身体を動かし、どうにか洗面所にたどり着く。蛇口を思いきり回し、立て続けにコップ三杯の水を飲んだ。ずくずく響く鈍痛がようやく和らいだ。
「はあ……。」
ようやく一息つける。首を回せば筋肉がぼきんぼきんと悲鳴をあげた。いつものことだ。これまたゆっくりトイレに入り、用を済ませる。そのあと、もう一杯水を飲んだ。さっきはものすごくおいしく感じたのに、やっぱり消毒剤の匂いがきつかった。
階下からは足音や声がする。それも複数。兄だけではない。一番自然なのは、家主の工藤夫妻が帰ってきているパターン。知らない人間ではないだろう。争う物音で目を覚ますことはなかったし、もし強盗だったら、××は寝ている間に殺されていたはずだ。警戒する必要はないと思われる。問題は、××が彼らの前に姿を現していいものか、ということだった。ちらりと一階に繋がる階段に視線をやる。
間の悪いことに、××の地獄耳は誰かが階段を上がってくる音を拾った。
「――、――――。――?」
とん、とん、とん。
ざっと血の気が下がった。
自分の部屋に逃げ込むには時間、体力ともに余裕がない。洗面スペースは階段の延長線上にある。トイレに引っ込むことすら今の××には困難だ。絶対に隠れなければいけないということはまったくないのだが、どうしようもなく嫌な予感がする。逃げなければと第六感が訴えるのだ。そうでなくとも、許可のない状態で客人との接触は避けた方がいい。本当にまったく知らない相手だった場合、自分のことをどう説明するのが正解なのか、少しもわからないのだ。
ぐるぐるぐるぐる。頭が回り続ける。しかしいい考えはさっぱり出てこない。信号機が点滅しているところを慌てて駆けだしたら、右折してきた車が突っ込んできたときのような、そんな一瞬の硬直が××の身体を縛り付ける。もはや軽度のパニックだった。
どうしよう、どうしよう、どうしたら――
「げっ!?」
そうこうしているうちに、明らかに「やべっ!」という顔をした少年とかち合った。げっと顔を歪めたいのはこっちである。そうあからさまにまずい、という表情とリアクションをされては、自分が邪魔になるのだろうとか、関わらせたくないことなのだろうなとか、いろいろ察してしまう。××は片手で目元を覆い、ずるずる座り込んだ。
安室が仕掛けてくるのはおそらく今夜。あの切れ者の目をどうにか出し抜くため、コナンは学校を休み、ロスにいる両親のことも呼び寄せた。タイミングの悪いことに父はマカデミー賞授賞式の当日である。それでもすぐさま飛行機に飛び乗って日本まで来てくれたのだから、両親には頭が上がらない。
「父さんに昴さんの変装をしてもらって……。」
考えを巡らせるまま、二階に移動した。カメラや盗聴器の配線準備をしなければならない。情けないことだが、なぜだかこのときのコナンは××の存在をすっかり失念していた。
ごくりとコナンは唾を飲み込む。二階がしいんと静まった。先に沈黙を破ったのは、××だった。うつむいたまま、覇気のない声でもそもそ話す。
「……僕にできること、あります? 部屋でじっとしていろということでしたら、すぐ引っ込みますから。」
「ちょっと待って、ボク以外の人にも聞かないと。あと、部屋でじっとしてるのは、たぶん無理かな。」
「そうですよね、そうですよね……。」
ゆっくり立ち上がった彼はかわいそうなくらい真っ青だった。くつろげられた襟元から覗くのは白い首で、襟足はふわふわ長い。紛れもなく××である。こちらの都合だけで彼を巻き込むのは大変心苦しいが、なんにせよ今は猫の手も借りたい事態。××に一枚噛ませる方が不安なら、先ほど言った通り部屋にこもっていてもらえばいいのだ。多少の情報開示は必要だけれど。
もしかすると、彼が一番嫌がっていたのは、その情報開示だったのかもしれない。コナンが可能性に気づいたころにはもう後の祭りだった。
手を引っ張って杖代わりになってやれば、彼はゆっくり歩き出す。足取りは案外しっかりしていた。
××を連れていくと、あからさまに赤井は不機嫌になった。うっとコナンは首を竦めるが、腹を括ったのか××はどこ吹く風である。不確定要素が増えれば機嫌も悪くなるだろう。××は一人納得していた。誰だこいつと思わないでもないが、おおざっぱに話を聞いてしまえば覚悟も決まる。それを踏まえた上で、彼は沖矢昴役をやろうかと申し出たのだ。自分以上の適任はいないだろう。その確信を持っていた。
「兄さんの真似なら得意ですよ。顔はこの通りですから、ちょっと化粧すれば大丈夫でしょう。特殊メイクで作ったマスクを引っ張られるよりいいと思うんですが。」
「髪は?」
「いい機会だから切ってしまいましょうか。ウィッグだと剥がれたときが心配だ。有希子さん、お願いできますか?」
「えっ!? せっかくきれいな髪なのに!?」
「そこじゃないだろ、母さん……」
「だって新……コナンくん、昴さんと××さんの顔ってとっても好みなんだもの~! 髪の長さとか目元のちょっとの違いは大事よ! 似合ってるんだから。」
「ははは。」
「声は? 君は沖矢昴よりも少し声が高い。」
なんだ、そんなこと。
××はにこっと笑うと、数回咳払いをした。
「『カレーを作りすぎてしまったので……』」
赤井も、コナンも、工藤夫妻も、ぎょっと目を見開いた。露出した白い喉にはなにもついていない。変声機を使っていないのは明白だ。
「『おすそ分けに来ました』。……どうでしょう?」
真似どころで片付くことではない。こてんとかしげられた首、細められた目はどこからどう見ても「沖矢昴」。恐ろしいほど××と昴は似ていた。彼こそが沖矢昴だとでも言うように。
「だが……。」
「信用できません?」
ずばっと切りこめば、赤井は××の目を見たあと、そっと視線を逸らした。コナンは明らかにはらはらしている。優作は一人、面白がっているようだったが。
だろうな、と××は苦笑する。沖矢××はその辺にいくらでもいる一般人だ。変装の仕方、演技の方法、飛躍して人の殺し方。そんなこと、ひとつも知らない。けれど、「沖矢昴」にだけは、絶対になれる。それは人間が酸素を吸って二酸化炭素を吐くくらい、当たり前のことだ。××にとっては。どうやってこの確信を伝えればいいだろう。××は唇を湿らせ、言葉を選ぶ。
「僕はね、真実には微塵も興味がありません。僕にはもう、本当のことは、なにもない。あなたが誰だろうといい。沖矢昴が誰だっていいんです。それに、沖矢××は僕じゃないかもしれない。だってそうでしょう、沖矢昴なんていないんだから。でも、僕は沖矢××として存在していて、兄の沖矢昴がいることで、どうにか生きています。」
にっこりと。穏やかに。××は笑う。決して声を荒げることなく。懇願するように。言葉を連ねていく。
「体よく利用してください。うまく使ってください。『兄』のあなたには生活の多くを依存しています。工藤さんには住む場所を提供してもらっています。僕が行動することで、僕の生活が守れるなら、なにも過不足はありません。十分です。少なくとも僕にとってはそうなんです。」
少しためらったあと、彼は唇を湿らせた。
「ですからどうか、余計なことには気づかせないで。」
しんと部屋が静まり返る。細められた目から覗くのは、丸く青い瞳。唇が三日月のように弧を描く。
「さ、取引をしましょう、にいさん。」
笑っているのに泣きそうな顔をされて、利用してくれと言われては、もうなにも言いようがない。折れたのは赤井だった。
「ねえ、どうして××さんは、そんなに昴さんとそっくりなの?」
(沖矢昴はどこにもいないのに。)
鋏が入って短くなった襟足を××の指がくすぐる。彼はいつも通り、微笑みをたたえていた。わざわざしゃがんで、内緒話をするようにコナンの耳朶に唇を寄せてくる。コナンは若干の警戒を残しながらも、彼の柔らかな声に耳を傾けた。今から聞くのは、間違いなく本当のことだと勘が訴えてくるのだ。ごくりと唾を飲む。
真面目な口ぶりで彼は言った。
「それはね、コナンくん。僕が、沖矢『 』だからですよ。」
(沖矢昴はどこにもいないのに?)
いったいどういうことだ。けれど、嘘ではない。彼の口調ににじみ出た真剣さから、それだけは確かだった。
コナンは眉を寄せ、××は柔らかく微笑んだ。二人の心の声が重なる。
赤井秀一が赤井秀一として存在するとき。沖矢昴という人間は、この世のどこにもいないのだ。そのはずだ。それでも××は、この世の誰よりも、今、「沖矢昴」であった。
みっちり打ち合わせをして、××の耳にタコができるほど、コナンの口が酸っぱくなるほど様々なことを言い聞かせる。顔や髪の監修は有希子によって行われた。ますます××が沖矢昴に近づいた。境界がなくなるには、まだ足りないけれど。
サポートとして優作が残ると主張したことは、アメリカにとんぼ返りすることになってしまった有希子に対して本当に申し訳ない。本人は埋め合わせさせるからいいのと笑っていた。このために出国履歴までいじるのだから、彼らのコネクションには恐れ入る。なにがあったとしても彼らだけは敵に回したくないものだ。
「いい、××さん、言ったとおりにね? 頼んだよ!」
「わかっています。」
あの人の黒いハイネックを着る。借りた眼鏡をかけ、スピーカー付きマスクを耳にひっかけた。合図の咳払いは二回。あとは、彼が来るのを待つだけ。
『宅配便です!』
「こんばんは。初めまして。」
「はあ。」
「安室透です。でも……初めましてじゃ、ありませんよね?」
制服や荷物はどうした? 喉元まで出かかった言葉をぐっとこらえる。
怪しい。ものすごく怪しい。もう少し取り繕ってくれ。
事前に彼の容姿や特徴について知らされていなかったらすぐにドアを閉めていた。突っ込んではいけない。彼をこの家の中に誘い込まなければいけないのだ。無粋なことからは目を逸らそう。
「少し話をしたいんですが、中に入っても?」
「ええ、あなただけなら構いませんよ。」
言外に外のやつらは入れるなと伝え、××は意識的にゆるりと目尻を緩めた。話をしたいのなら、ますます宅配便を名乗るべきではなかった。××がただの沖矢昴だったら、彼が制服を着ていないこと、荷物を持っていないことを理由に門前払いしている。焦っているのか、自分の確信に絶対の自信を抱いているのか。どちらにせよ気が逸っているように見えた。「わかりました。」と答えた彼を、家に招き入れる。ひとまずソファーに座るよう勧めた。
「紅茶でいいですか。」
「お構いなく。」
「でも、長くなるんでしょう?」
「昴」は失礼、と断ってからダイニングへ向かう。湯はケトルで沸かしてある。自分の分と彼の分のカップ、茶葉の缶をプレートに乗せ、テーブルへ戻る。足を引きずらないように細心の注意を払った。リハビリの成果を出せ。にじみそうな汗は気合いでねじ伏せる。「沖矢昴」はどこも悪くない。ちょっと歩いた程度で汗をかいては不自然だ。
(僕は沖矢昴。僕は沖矢昴。僕が沖矢昴。今は。僕が。本当の――存在する――生きた――僕が……。)
がりがり壁をひっかくように、何回も頭に刻みつける。確実になにかを消耗し続けているのだが、顔だけはなんてことのないように平静を保った。
マカデミー賞の映像から、昴へ視線が映る。手の甲に顎を乗せた安室が挑戦的な目を向けていた。プレートを降ろし、座ると少しだけ楽になる。ふうと息を吐き、お茶の用意をした。トポトポとポットの中身をカップに注いでいると、安室が口を開く。
「ミステリーはお好きですか?」
「ええ、まあ。」
「ではまずその話から。……まあ、単純な死体すり替えトリックですが。」
「ホー。定番ですね。」
長い夜が始まる。
ある男が来葉峠で頭を拳銃で撃たれ、その男の車ごと焼き払われた。かろうじて焼け残った男の右手の指紋が、生前彼が手に取ったという、ある少年の携帯電話に付着していた指紋と一致した。これで死んだのはその男だと証明された……はずである。
「でも妙なんです。」
「妙?」
「その携帯に残っていた指紋ですよ。」
携帯に残っていた指紋は、右手の指紋だった。その男は左利きなのに。不自然だ、と安室は目を細める。
「そう言われれば、確かに。利き手がなにかで塞がっていたんでしょうか。」
「……もしくは右手で取らざるを得なかったか。」
「……。なぜ?」
「その男が携帯を拾う前に、別の男が拾っていたんです。そして先に拾った男は右利きだった。」
いきなり登場人物が増えたな。
別の男。彼の言葉を復唱した。
「ええ。実際には三人の男にその携帯を拾わせようとしていたようですが。……さてここでクエッション。」
安室はつらつらと事件の詳細、自分の推理を話していく。時折「昴」に意見を求めながら。その語り口はなにかの物語を聞いているようで、自然と、
探偵役のようだ。ようだ、ではなく、そうだったかもしれない。真実を暴けるのはあの子とマイクロフトくらいだという、理由のない事実を
「この近所にはMI6も顔負けの発明品を作っている博士がいるそうじゃないですか。」
(初めて聞いた。)
「彼に頼めば空砲に合わせてニット帽から血のりが噴き出す仕掛けぐらい簡単に作れそうだ。」
(いったい何者なんだ、阿笠博士……。それに空砲でも頭に突き付けて撃てば死ぬのでは……? 少なくとも火傷が。帽子の中になにか仕込んでいたんだろうか……。)
「じゃあ、そのグルの女に頼んでいたんですね? 頭に向けて空砲を撃ってくれと。」
「いえ。頭を撃てと命じたのは、おそらく監視役の男……。予想していたんですよ。監視役の男が拳銃でとどめを刺す際に必ずそうすると。」
「ふふ。スパイ映画の主人公のようですね。とても現実のこととは思えない。」
マスクの下でくすりと笑えば、安室はぴくっと片眉を上げた。一瞬の沈黙が落ちる。
「……。だがこの計画を企てたのは別の人物。その証拠に、男は撃たれる瞬間にこう呟いてる――『まさかここまでとはな……』ってね。」
頬杖を突き、彼はチェックをかけるように告げる。
「『まさかここまで、読んでいたとはな』と。この計画を企てたある少年を称賛する言葉だったんですよ。」
そこから先は簡単だったと彼は言う。来葉峠からの一件後、その少年の周りに現れた不審人物を探せばいいだけのこと。それでここにたどり着いたというわけだ、と。
彼はコトンとスマートフォンをテーブルに置いた。
「連絡待ちです。現在、私の連れがあなたのお仲間を拘束すべく追跡中。」
(誰のことだ……。)
「さすがのあなたもお仲間の生死がかかれば、素直になってくれると思いまして……。」
(まあ、あの人、懐に入れた人間には多少甘いような……そうでもないような……うん、よくわからない。)
「でもできれば、連絡が来る前に……そのマスクを取ってくれませんかねえ? 沖矢昴さん。いや……FBI捜査官、赤井秀一――!」
(誰、……ああ、あの人はそんな名前だったのか。)
言われたとおり、
「そもそも赤井秀一という男……。僕と似ているんですか? 顔とか声とか。」
風邪だからと断って、再びマスクをつけた。
「フン。顔は変装、声は変声機。今日の昼間、この近辺でリサーチしたんです。隣人である阿笠博士の発明品で評判が良かったのに、急に販売をやめたものはないかってね。」
安室がすっと立ち上がる。
「それはチョーカー型変声機……。首に巻けば喉の振動を利用して自在に声が変えられる。ストーカーの迷惑電話にお役立ち……。」
こんなにも彼は理性的で、知恵者で、無慈悲なまでに冷静なのに。最後の最後であの子とあの人に出し抜かれてしまうのは、それほど憎しみが強いのだろうか。彼の目が曇ってしまうくらいに。
「その大きさは――ちょうどこのハイネックで隠れるくらいなんだよ!」
(だめだな。)
咳を二回。マスクの向こうでコナンがしゃべっている。
(興味深いと思ってしまった。)
言葉に合わせて、
(彼と僕はまったく違うのに。)
スマートフォンが鳴る。相手はきっとあの人だ。
一方で、安室には急展開が訪れたようだ。「貴様……」とか、ぎりりと歯噛みする音が聞こえてくる。しかし、ふっと彼は冷静さを取り戻した。
ピッ。通話が切られる。今度こそ、まっさらな目で彼は「昴」を見た。
「あ、すみません。なにか勘違いだったようで……帰りますね。紅茶、ごちそうさまでした。」
「ええ。お気をつけて。」
ようやく帰ってくれると
「でも……どうして僕のような怪しい人間を家に入れたりしたんです? 普通入れないでしょ?」
(自覚はあったのか……。)
××はこっそり苦笑した。
「そうですね……あなたが切羽詰まった顔をされていたので。」
きょとんと目を丸くされる。ベビーフェイスがいっそう幼くなった。
窓から、数台の車が走り去っていくのを見送る。計器の反応はなし。家の中に盗聴器などは仕掛けられていないようだ。よろよろと、××は階段を上がった。目的の部屋の前でノックを数回。開いたドアから、茶目っ気たっぷりの優作が顔を出した。
「お疲れさま、××くん! いや、素晴らしい出来だったよ。助演男優賞をあげたいくらいだ!」
「ありがとうございます……。コナンくんもお疲れさま。」
「うん……。あー、疲れた。××さんも……あれ、顔色悪いよ?」
笑みを取り繕う暇もなく、疲れ切った声が××の喉からこぼれ出た。ごぼりと最後の砦の酸素が抜ける。
「――すみません、キャパシティーオーバーです。」
ばたーん。言い残して、××はぶっ倒れた。慌てきったコナンの声が聞こえる。吐かなかったから誉めてほしい。うっすらとそんなことを思っていた。
◆◆◆◆◆
『すばるは?』
「寝てるよ……。」
真夜中、かかってきた電話に、目頭を揉みながらコナンは言った。あの人の名前がすっと頭に入って、馴染む。染みわたっていく。不思議な感覚だ。そよ風が頬をくすぐるような、そんな優しい触れ方。
誘われたのか、コナンの口からも、ふああと大きなあくびが出る。一気に眠さが増した。
「そうか。」と赤井は呟く。安心しているようにも、どうでもいいと思っているようにも聞こえた。探偵のさが、違和感でぴくりとコナンの眉が動くが、どちらにせよ、疲れ切った頭は碌に動かない。凝った首回りをぐいっと回す。子供に似つかわしくない、関節のずれる音が響いた。
「ジョディ先生たちは?」
『ホテルに帰した。今そっちに来られても困るだろう。』
「まあね。赤井さんもそのままの状態であんまり出歩きすぎないでよ。どこに組織の目があるかわからないし、ただでさえ外国人の集団は目立つんだからさ……。」
『……そうだな。』
「他になにかある?」
『いいや。――夜更かしだな、探偵さん?』
「今から寝るつもりだったんだよ……。じゃ、切るね? おやすみなさい。」
『ああ、おやすみ。』
通話を切り、ぐっと肩と首周りをほぐす。アラームをセットして、マナーモードに切り替えた。今はものすごく眠い。博士の家に泊まるとは言ってあるが、わざわざ今から隣の家に移動するのは面倒だ。客間に引っ込んでそのまま寝よう。そう思って、疲れ切った身体をどうにか動かした。
しばらく使っていないだろうに、シーツは清潔で、部屋の隅にはほこりひとつなかった。ぼすんとベッドに突っ伏す。携帯は適当なところに置いた。ベッドメイクや掃除をしているのは赤井だろうか、××だろうか。
枕に顔をうずめると、顔を真っ青にしてぶっ倒れた青年のことを思い出す。優作がアメリカに戻る前に、彼の使っている部屋まで運んでもらい、ざっくりと化粧も落としてやったが、彼は死んだようにぴくりともしなかった。ファンデーションをふき取ったらその蒼白さは尋常でなく、無理をさせてしまったと心が痛む。鼻に手をかざしてようやく呼気を感じられるような状態である。寝ているというより気絶、卒倒。体温まで低かったら、死体と錯覚していたかもしれない。
十七歳にあるまじき度胸をつけているコナンだって、頭の切れる安室の相手には緊張したし、疲労を感じたのだ。両親に協力を仰がなければここまでうまくいかなかっただろう。ただでさえあの男は、コナンに有希子やKIDというジョーカーを切らせている。それほどまでに優秀な男だ。味方に付いてくれるなら百人力だろう。そううまくいくと思えないのが、悩みの種だが。
一方で××はどうだろう? 赤井や自分の監視に囲われることになってしまっただけで、彼自身は善良な一般市民である。間違っても殺人事件に遭遇したことはないだろうし、ミステリーは外から見る側の人間だ。彼は探偵でも犯人でもない。殺すことも、殺されることも無縁な、穏やかさがそのまま人になったような青年。それにしては察しが良すぎるかもしれない。けれど、巻き込まれただけの、ふつうのひと。多大なストレスと重圧があのほっそりとした身体にかかっただろう。
じわりと後悔が爪先まで広がった。優しくしてくれる、まだまだ満足に動けないような、弱いお兄さんを秘密の渦中に引き込んでしまったのだと。改めて恐ろしくなった。唇から抜けていく重い吐息が全身の力を根こそぎ奪っていきそうだ。
罪を犯したわけでもなく。江戸川コナン、ひいては工藤新一の周囲に危害を加えたわけでもなく。自分自身を守る力すら、ない。そんな人を。コナンは固く目を瞑った。守れなければ後悔する人が、また、増えてしまった。
沖矢昴になった赤井が、ジョディやキャメルを連れて戻ってきたときはひくりと顔が引きつった。昨日なんて言ったかもう忘れたんだろうか。舌の根も乾かぬうちに、再びコナンの口がじわりと酸っぱくなった。口実としては、「コナンに会いに行く際、彼との共通の知人である沖矢と出会ったので、行き先は同じだからと一緒に来た」ということらしいが。
じっとり沖矢をにらみ上げれば、彼はひょいと肩を竦めた。後ろではジョディたちが洗いざらい吐いてもらおうか、と言わんばかりに腕を組んで仁王立ちしている。討ち入りのようだ。コナンの口からは乾いた笑いしか出てこない。
「あら、おかえりなさい、昴さん!」
彼らを出迎えたのは有希子だった。昨夜一番働かされたのは彼女ではなかろうか。アメリカと日本の往復を数回こなしたというのに、彼女のはつらつとした雰囲気にはまったく陰りがない。すぐさま沖矢の顔や生え際などを素早く検分したあと、彼女はにっこり快活に笑う。ぐっと立てられた親指は、完璧! とのことらしい。ぴょこんとコナンは有希子の後ろから顔を出した。
「ジョディ先生、キャメルさん、いらっしゃい。昴さんもおかえり。上がって上がって。」
この場で全員を繋ぐ点は江戸川コナンひとつだけ。彼が招いたということにした方が自然である。一瞬で下された判断と機転に、改めて沖矢は内心舌を巻いた。
すっかりなじんだ家の中に入れば、やっと肩から力が抜ける。ウィッグや化粧品を持ち歩けるようにしておいて本当によかったと沖矢は息をついた。赤井秀一のまま工藤邸周辺に現れるのはあまりに危険である。せっかく一番厄介な安室の目を逸らすことができたのに、再び疑われるようなことを自ら率先して行うのは馬鹿のすることだ。彼は同じものを敵とするが、決して味方というわけでもないのだから。いつ寝首を掻かれるかわかったものではない。……味方につければ頼もしい人物、組織であるのは確かだが。
思考の海に浸かろうとしたとき、ピンポーンとチャイムが鳴った。ひょいと片眉を持ち上げたコナンが玄関へ向かう。何度もチャイムを鳴らしていたのは、掃除に来ると言っていた幼馴染ではなく、少年探偵団のメンバーだった。「なんでここにいるんだ?」とかの質問を軽く切り抜けて、用件を尋ねてみれば、博士が超能力を使った……らしい。絶対にトリックがあるはずだが自分たちには分からない。沖矢ならわかるのではないか? ということで、揃ってやってきたのだと言う。
灰原がいないのは、もう答えがわかっているからなのか、それとも沖矢を警戒してか。彼女には昨日の顛末を一切知らせていないし、仮に勘付いていたとしてもわざわざこっちに来たりはしないだろう。灰原哀という少女は、どこかの誰かさんとは違って好奇心を満たすために命を賭けるタイプではないからだ。
沖矢は温厚に彼らを招いた。
「立ち話もなんですし、中に入ってもらって……」
「やったー!」
「お邪魔しまーす!」
わっと騒々しく、子供たちは屋内に駆け込んでくる。すぐさまコナンはぴしゃりと言いつけた。
「あんまり騒がしくするなって。あと、二階には上がるなよ。××さん、まだ寝てんだから。」
「えー! もう十時は回ってますよ!?」
「寝坊してんのかあ?」
「疲れてるんだ。寝かせてやれ。」
「そっか……。今日も髪の毛編ませてもらおうと思ってたのにな。」
歩美が残念そうに眉を下げる。そういえば、彼女は××の髪をふわふわだー! と気に入っていたか。鎖骨につくくらいだった髪がばっさり切られてしまったことを知れば、嘆くのは確実だろう。そのときのことを考えて、コナンは少しだけ憂鬱な気分になった。
コナンの知っている××が削り取られたような、気味の悪い錯覚。それを振り払うように彼はかぶりを振った。
「××さん? ……起きてる?」
キイ。ドアが軋む。静かに半身を滑り込ませた部屋では、××がぼうっと座っていた。ベッドや衣服の乱れは少なく、不自然な汗などはない。昨晩よりもずっと血色のいい肌をしている。ちゃんと生きている。ひとまずコナンはほっと息を吐いた。
「ああ、コナンくん……。うん、起きているよ。なにかあった?」
「ううん、なにも。様子見に来たんだ。喉乾いてない? 水持ってきたよ。」
「……ありがとう。」
ペットボトルを手渡せば、ふっと××は目尻を和らげた。ふわりと風がカーテンを巻き上げる。彼は目を細めた。そのときのことだ。影ではなくて、彼の涙袋のところにうっすらと存在する隈に気づいたのは。
「××さん、それ……。」
コナンの口からあふれ出た小さな声を、彼はしっかり拾ったようだった。コナンが自分の目元をなぞれば、困ったように丸い目を細くする。
パキリ。ペットボトルの封を切り、一口だけ水を飲み込んだ。そのまま、視線は窓の外へ。
ばれちゃった。彼は叱られた子供のような声を出した。二十も半ばを過ぎた男が出すような声音ではない。本当に子供のようだった。
「実は寝るのが怖くてね。」
ぽつりと呟く。西日が窓から差し込んで、彼の影が長く伸びる。
「眠るともう起きないんじゃないか、そのまま死んでしまうんじゃないかって……あの日からいつも不安で仕方がない。」
黄昏がぐにゃりと歪んだ。部屋が急に暗くなる。耳鳴りがうるさい。どくりどくりと、心臓は肥大化したように鼓動のスピードを上げる。
慣れ親しんだ家のはずだ。よく知っている内装だ。それなのに、どこか果てしない遠くに来てしまったような錯覚がコナンを襲った。カラスの声が遠い。すぐ近くで鳴いているはずなのに。けれど、××の声は四方から響くよう。ぐわんぐわんと脳みそを直接揺さぶってくるような、声だ。感情なんて少しも含んでいない。人間じゃないみたいな。ぞーっと血の気が下がるのを感じた。
「本当は全部夢なんじゃないのか? 僕が見ている、都合のいい……。父さんも母さんも死んでいた、兄さんなんていない……。」
彼の声がかすかに震える。
「夢だから……僕を呼ぶ声が聞こえないのかもしれないな……。」
なんてね、と付け加えて、振り向いた彼は笑った。青く丸い両目にはコナンが映っている。
さっきのはなんだったんだ? 腕や首には鳥肌が立っている。背中の汗がじっとり張り付くようで気持ち悪い。心臓は全力で走ったときみたいに早鐘を打っている。とてつもなく恐ろしいものに触れた気がする。するのに。
(わがままを言ったところで、助けてと願ったって、無条件で僕を救ってくれる人はもういない。自分で自分を助けるしかない。他に方法はあるか? ないと思う。ならばすべては仕方なし。答えはもう出ている。)
彼の目が、表情が、声が。寂しそうで、ひとりぼっちみたいで、ぎゅうっとコナンの胸を締めつける。心の柔らかい部分をわしづかみされたような心地だ。いつもはとても早く回る頭が全然回らない。なにか言わなければならないと思うのに、なにも出てこない。
ふと、××が軽く口の端を持ち上げた。あまりにも弱々しい顔だった。
そうだ、弱いのだ。はっとさせられる。コナンは、たった今、彼がひた隠しにしてきた、弱さや不安に触れたのだ。「兄」である沖矢昴、赤井秀一よりも先に。
にこりと、沖矢昴よりもぱっちりした青い目が細められる。どこも恐ろしくなんてない。いつも通り、優しい「××さん」だ。
「そろそろ帰りなさい。蘭さんや毛利さんが心配するよ。」
コナンは眉を下げつつも、こくりと頷いた。××の部屋を出ていく前に、無言で彼の手のひらをぎゅっと握る。××は不思議そうにしながら、きゅうと優しくコナンの小さな手を握り返した。