【完結済み】沖矢××   作:鈴近

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いつか覚める悪夢

 安室との対峙からどれだけ経っただろうか。体感時間はあてにならない。ここはそういう(・・・・)場所だから。

 杖をつきながらなら、もう引きずる必要すらないくらい、××の足は回復していた。暇を見てはやっていた筋トレも実を結び始めたようで、ますます赤井と体格が似てきていたりもする。赤の他人なのに双子のようだ。内心で何度も××はおかしく思った。

 「そろそろ、一人で出歩いてもいいんじゃないか。」

 「えっ。それ、いろいろと大丈夫なんですか?」

 朝食の席で赤井は言った。小さな口が味噌汁をすする。××はぴたっと箸を止めた。

 赤井はまだ沖矢のメイクはしていないし、変声機もつけていない。完全なるプライベートである。気を許されているのか、××の目覚めが早かったせいで変装が間に合わなかったのか。どちらだろうが構わぬと、××の凡庸な頭は考えることを放棄する。もっとも、彼から気を許されているだなんて、空が降ってくるようなことを信じられるはずもない。

 赤井は野菜炒めを口に運んだ。

 「ああ。むしろ外に出てほしいくらいだ。生きていることがわかってから、仕事がいくつか回ってくるようになってな……。かと言って、沖矢昴があまりにも頻繁に留守になると、また安室くんに疑われるだろう? もちろん、外では君に昴として振る舞ってもらうことになるし、俺の預かり知らないところで自由に出歩かれても困るが。」

 「はあ。死人を叩き起こして働かせるんですか。FBIもなかなか鬼畜ですね。」

 「フ……。」

 冗談めかして言うと赤井もかすかに笑った。もちろん本気で言っているわけではない。そんなこと、互いにわかりきっている。彼の素顔やら簡単な経歴やらを知ってから、明らかに距離は縮まった。喜んでいいことなのかはいまいち判断がつかない。しかし、円滑なコミュニケーションは便利だ。それを特に必要だと思っていなかっただけで。

 けれども、芋づる式にコナンが危ないことに首を突っ込んでいることも知ってしまったのは不覚だった。利用してくれと言ったのは××だが、その果てにうっかり死ぬのはごめんだ。どうかこれ以上深入りしないで済みますようにと頭を抱えて祈るばかりである。ぽりぽりたくあんをかじって白米を頬張った。

 「まあ、昴として振る舞うのは別に構いません。苦じゃありませんし。第一、それは当然でしょう。打ち合わせだって必須ですよ。僕に自由を与えてどうするんです?」

 「……そうか。」

 間を置いて彼は目を伏せた。なんだ、そのリアクション。××は少しだけ眉を寄せる。

 だが、問う前に「ごちそうさま。」と赤井は食器類を持って席を立った。××の喉に引っかかった言葉は、そのまま露と消えた。

 「ボウヤには俺が伝えておく。」

 「はい。」

 それっきり外出の話はしばらく出てこなかったのだが、何日か経った頃にさっそく赤井から声がかかった。赤井が、赤井として行動だの暗躍だの――まあ、表立って口にするのがはばかられることで、留守にする日がやってきたのである。

 相変わらず詳しいことを聞いたりはしない。余計なことをしないでくれと言ったのは××だ。ならばこちらから余計な行動をとらないのも当然のことである。

 一日のうちに誰とどんな会話をしたのか、どこに行ったのか記録を残せと、口が酸っぱくなるほど××に言い聞かせてから、赤井は夜闇に消えていった。彼にとって××は幼い子供なのかもしれない。あながち間違っていないのだから、彼の観察眼に感嘆するばかりだ。

 ふうとリビングでため息を吐く。力の抜けた背中がソファーに沈んだ。近頃は××が台所に立つことも増えてきたものの、これからしばらくは一人で食事の用意や掃除などを行わなければいけない。多少の不安が彼の胸に影を差す。しかし、いつまでも「沖矢昴の弟」として在ることは不可能だ。沖矢昴は赤井秀一に戻らなければならないし、沖矢××は沖矢昴へ戻りたい。永遠などない。

 ××には、いつまでもこの家の中でぬくぬくとまどろんでいたいという気持ちも多少はある。けれど、ずっと庇護下にはいられない。どうやったって別れは来る。いつかは一人になるのだ。今回はその実験のようなものだろう。がんばろう、と××は胸を撫でた。

 早速冷蔵庫の中身を見ながら、買い足すものや献立について思いを馳せる。一人だと四分の一カット白菜すら食べきるのが大変だ。あれは二人でもきつい。日持ちのする食べ物をさらに加工すべきである。できれば冷凍できるものがいいだろう。そう思いつつ、きょろきょろと台所周りを見ていた。そんなときに目に入ったのが、純ココアである。使い道は、飲むか菓子作りくらい。ふむと××は顎に手のひらを当てた。子供たちの顔が思い浮かぶ。

 (久しぶりにお菓子作りしたいな……。)

 ここに来たばかりのことを思い出す。最初も確か、食べ物で彼らの警戒を解いたのだった。懐かしさに目を細める。元太は菓子よりもカレーやうなぎの方が喜ぶかもしれないが、××の中ではすでにむくむくと、バターを練りたい気持ちだったり、大量の砂糖を計ってすり混ぜたい気持ちが湧き上がっている。それを手土産に少年探偵団のところに顔を出しに行こうとも思い始めていた。赤井は糖分や脂質よりも(ひょっとしたら普通の食事より)たばこと酒を愛しているようなので、××が菓子を作りたくなったときに当てにするのはお隣の博士か、彼の元を訪れる少年探偵団たちなのである。哀やコナンはそこまで甘いものが大好き! というわけでもないようだが。いっそストレートティーかブラックコーヒーを添えてやろうかと、こっそり画策している。いくら子供らしくないとはいえ、味覚は子供寄りだと思うのだが、彼らなら平然とカップの中身を飲み干してしまいそうでやや怖い。

 砂糖の残量を確認しつつ、思考は巡る。食べてもらうにしてもなにがいいだろう? ケーキ? クッキー? 哀によって食事制限を受けている、肥満気味の阿笠博士にも食べてもらうなら、ローカロリー、もしくは野菜を使ったものがいいはずだ。生クリームは避けるべき。あれは糖分と脂肪の塊だ。

 (無難にクッキーか……? ニンジンかほうれん草を入れて。黒コショウでもいいかな。哀ちゃんが好きそう。)

 さらさらと買い物メモを作り、靴をつっかけた。片手にエコバッグ、片手に杖を持って街に出る。事前に近所のスーパーのネットチラシなどを見て、今日なにが安いのかもリサーチ済みだ。すっかり所帯じみてしまっている。さながら主婦のようである。実態はなんちゃって大学院生だけれども。

 それにしても、安い食材で献立を回し続けるというのもなかなか楽しいのだが、それも食べる相手がいないと張り合いがないような……。そこまで考えて、思っているよりも赤井の不在が寂しいのかと思い至る。内心苦笑が漏れた。一人になったときの練習だというのに、さっそく寂しがってどうするのだろう。なんとも言えない心地になる。あの人のことを、本当に兄のように思っている自分も、確かにいることに気づかされてしまった。

 (嘘だけあればいいって言ったのは僕のはずなのに。)

 少しだけ落ち込んだ。考え事をしながらでも、決まった道順に沿って行けば、迷うことはない。もう複数回通った道だ。大丈夫。言い聞かせつつ、数か月前よりもしっかりした足取りで××は歩き続ける。少しでも疲れたなと思ったら休憩をした。人よりゆっくりしたペースで移動する。道中鳩が後ろをついてきたり、ランドセルを背負った子供にあいさつされたりした。もうそんな時間かと戸惑ったけれど、そういえば一年生や二年生は午前だけで終わる日もあったと納得する。

 そうやって、何度か休憩を挟みながら、無事にスーパーまでたどり着いた。中に入るとさっそく安売り商品が出迎えてくれる。B級の、小さくて不揃いなニンジンが安い。きらりと閉じられた目が光る。迷わず買い物かごに入れた。キャロットラペにしよう。野菜コーナーは色とりどりに私を食べて! と主張してくる。値段も相まってつい目移りしてしまうほどだ。さっそく、新たな誘惑が現れる。よく熟れた真っ赤なトマトが二個で百円だった。買いである。トマトソースにして冷凍保存、決定。玉ねぎは家にあるから買わなくていい。さらにお一人様一パック限定のMサイズ百円の卵を確保。これだけでかなり満足だ。安いことはいいことである。最近まで死んでいた赤井には動かせる口座も、収入源もなかったので、自然と節約が求められるのだ。いや、まだ口座は止まっているかもしれない。そもそも彼は死亡届を出されているのだろうか。謎だ。少し眉間にしわを寄せたあと、僕が考えても仕方がないかと××はかぶりを振った。

 タンパク源はばっちり手に入れたので、今日は精肉コーナーには寄らない。あとはバターと低脂肪乳くらいだ。これくらいの重さなら、運動にもちょうどいいはず。買い物かごをひょいひょい上下に動かして重量を確かめてから、××はレジへ向かった。

 「ありがとうございまーす。」

 営業スマイルと愛想のいい声にぺこりと軽く頭を下げ、レジを通過したのちエコバッグに荷物を詰めていく。少し疲れただろうか。ふーと息を吐き、ふくらはぎを軽く叩いてみる。疲れと乳酸の生産を感じる。つまり疲れているわけだ。帰る最中、道端で座り込むのも、公園でぼーっとするのも今はあんまり気が進まない。ちょうどよくこのスーパーには休憩スペースがあるし、自販機でなにか買って休んでいこう。××の決断は早かった。すぐに手近な椅子にエコバッグを置き、場所を確保してから自販機の前で指をさまよわせる。コーヒー、紅茶、ココア、スープ。

 どれがいいかな。今は甘いものの気分ではない。カフェインは工藤邸に帰ってから淹れた方がおいしいものにありつける。候補をとんとんと消去していき、コンソメスープを買った。

 熱い紙コップをつかむと湯気で眼鏡が曇る。××はちょっと顔をしかめた。ろくに見えていない前がなおさら見えにくくなった。眼鏡を拭こうにも片手はふさがっているから移動を優先するしかない。細めた目をさらに細めながら、ゆっくり席に座った。カップをテーブルに置く。ほどよく冷めるまでぼーっと向かいの壁を見ていた。無である。血液が全身を流れていくことだったり、筋肉の収縮だったり、体温の移り代わりだったり。そういうものをぼうっと感じていた。生きてるなと思う。心臓が嫌な音を立てているときより、冷たい汗をかいているときよりも、ずっと生きていると思える。なにも考えていないときが一番疲労回復に向いているらしい。ふと思い出したことに深く納得した。スープが飲みやすい熱さになる頃には、少しだけ身体が軽くなっていた。

 紙コップを備えつけのゴミ箱に捨て、自動ドアをくぐる。半分くらい道を歩いただろうか? ××は空いている片手でこめかみを抑えた。いつもはかけていない眼鏡で、顔が少し重い。意識して目を細めたまま歩くのも、なかなか、きつい。ひとつ疲れたと思い始めると、どんと身体が重くなる。さっき回復した量も微々たるものだが、それももう底をついてしまったらしい。さんさんと降り注ぐ陽光で、うっすら汗が浮かんでくる。立ち止まるとため息が出そうだった。

 「あれ、××(すばる)さん? 珍しいね。」

 「おや、コナンくん。こんにちは。」

 かちりと万華鏡が回ったときのように、スイッチが切り替わった。泣き言は収まって、代わりに人のいい(うさんくさいとも言う)笑みが自然と口に浮かんでくる。わざとらしく小首をかしげながら、××は「やあ。」と言わんばかりに片手を小さくあげる。

 なにかが切り替わったのを、敏感な感覚は気づいてしまった。喉になにかが引っかかった顔をしている。コナンは小さな違和感を抱いたらしい。ちらりと、心なしか鋭くなった目つきで昴を見上げる。なにかを暴こうとしている顔だ。謎を見つけたような、好奇心に濡れた、鋭利なまなざしが昴を射抜いてくる。けれども、素知らぬ顔で昴は微笑み続けた。

 「みんなは?」

 リコーダーの刺さったランドセルからして、下校の途中だろう。探偵団の子供たちと一緒ではないのかと聞けば、「いつも一緒にいるわけじゃないって」と肩を竦められた。そういうものか。垂れてきた汗を手の甲で拭う。彼はいち早くそれに気づく。眉を下げて、いかにも心配しています! という顔だ。あざとい。なにも知らなかったらめちゃくちゃかわいがっていた。こういう顔に大人は弱いのだ。コナンのかわいくないところは、いくらか計算してこういう、子供らしい子供の表情を作っているところなのだが。それはともかく、彼が××のことを案じているのは本当のこと……だと、思いたい。××とコナンの関係に打算はないはずだ。そこまで警戒される理由がない。××が取るに足りないくらい弱いことには、彼も気づいているだろうから。

 「大丈夫? 疲れてない?」

 「うーん、実は少し。」

 相変わらず目ざとい子だ。

 内心ウッと思う。ばれてしまった。けれども心とは裏腹に、少し苦笑しながらも昴は頷く。嘘をついたところで無駄なのだ。どうせ見透かされて、大人顔負けの推理で論破される。そんな頭の切れる少年は、ちょっとだけ考え込んだあと、昴を見上げた。いいことを思いついたように口が笑っている。

 「じゃあ、ポアロに行こうよ。」

 「ポアロ? ですが寄り道は……。」

 「ボクが今住んでるお家の一階だから、全然問題ないよ。会っておいてほしい人もいるし。お金ならちょっと持ってるから、昴さんが気にしなくても平気だよ。」

 「いえ、そこは大人ですから出します。はい。」

 「え、そう? ありがとー。」

 やけに押しが強い。どういう意図なのかと目で問うてみても、シッと指を立てられた。外だとどこで誰が聞いているかわからないから? どんなことを話そうとしているんだ、この小学生は。聞かれたら困ることですね! 脳内でペカッと正直なコナンくんがいい笑顔で笑っている。逃げられない。逃げようとしたら「あれれ~?」が襲ってくる。じわじわ頭の後ろが痛んだ。

 「嫌な予感がするんですがそれは。」

 「大丈夫だって!!」

 「……あの人が怒るような相手じゃないですよね?」

 「……大丈夫だよ、たぶん、きっと。」

 正直なコナンくんは少しだけ目を逸らした。××はちょっと覚悟した。

 

 

 連れてこられた先は、一軒の喫茶店だった。二階の窓にはでかでかと「毛利探偵事務所」とある。

 ここが噂の。

 ××はほうと感嘆のため息を吐いた。それにしても探偵事務所の下に「ポアロ」とは、店主はよほどミステリーが好きなのかもしれない。チェーン店とは異なる様子の店は、一目見ただけで個人経営とわかる内装をしていた。こっちこっちとコナンに手を引かれる。

 気を遣わせてしまっただろうか。少しだけ××は申し訳なさを感じた。

 「あ、コナンくん、いらっしゃ……い……?」

 「帰っていいですか。」

 申し訳なさとか瞬時に消し飛んだ。理由は明らかである。小麦色の肌、ブロンドの髪、青く垂れた目。見覚えのある顔だ。というかつい最近会った。会いたいとも思っていなかった。

 「ダメ! 疲れてるんでしょ? 休んでいった方がいいよ?」

 「いやでもこれは……。」

 さすが怒られる、と言いそうになった瞬間、コナンがぎゅっと手を握る。静電気が流れたようにはっとさせられた。××は口をつぐんだ。

 危ない。余計なことを言うところだった。

 しかし、小さな名探偵に感謝すると同時に、深く恨めしい気持ちが湧き上がる。これで赤井に怒られないわけがあるか? いやない! つい力強く反語を使うくらいには現状を苦々しく思っていた。なんでって、目の前にいるのがあの「安室さん」だからに決まっている。一瞬で、このやろう! という気持ちに、心が染め上げられた。

 あのちょっとだけの邂逅で、確かに××は彼のことを興味深く思ったが、基本的に彼は恐ろしいほど鋭い。その冷酷な理性には寒気がするほどだ。繰り返して言うが、会いたいなんて少しも思っていなかった。遠くからときどき見る程度で十分だったのだ。嘘だらけの××が近づくには怖すぎる。容赦なく沖矢昴を推察で追い立ててきた彼の顔を思い出してぞわっと背筋が粟立った。

 ティーンエイジャーである××の精神はすでにべそをかきそうだ。ぎりぎり、沖矢昴に擬態することで、どうにかこうにか笑顔を作ったけれど。沖矢昴ならこうする、にいさんならこうする、と必死で念じて、計算して、なんとか表面を取り繕う。本当は今すぐ帰りたい。

 「……こんにちは。宅配業はアルバイトですか?」

 一瞬だけ、笑顔のまま安室は言葉に詰まった。××は見なかったことにした。

 「ええ、そうなんです! ときどき日雇いでアルバイトの掛け持ちをやってまして!」

 「そうなんですかー。」

 「はい! お席へご案内しますね。禁煙席でよろしいですか?」

 「はい。」

 あはは、うふふ。なんてことのない世間話のていを必死で装う。水面下のバタ足は悟らせない。表に出す奴は三流以下だ。腹芸をできないやつは去った方がいい。

 二人掛けの席に案内され、メニューを渡された。あとはお約束の「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください。」の文句。はいと××は頷いた。

 「コナンくん、なにを頼みます?」

 「えっとねー、ボク、オレンジジュース!」

 「じゃあ僕はブレンドコーヒーにしようかな……。」

 安室さんの前では、彼は子供ぶらなければならないらしい。決して心を許しているわけではないのだなと察せられる。××は緊張の糸を張り直した。

 それはそれとして、メニューにはハンドドリップのコーヒーと書かれている。少し楽しみだ。なにを隠そう××はカフェインが好きである。以前安室に出した紅茶の茶葉も手ずから選んだものだ。彼はろくに飲まなかったけれども、まあ仕方あるまい。警戒する人物の用意したものなんて食べるべきではないのだ。

 緊張感を残しつつ、××は片手を挙げて安室を呼ぶ。注文はつつがなく行われた。今シフトが入っているのは彼だけらしい。もう一人の、看板娘のお嬢さんは買い出し中だとか。アルバイトひとりに店を任せるなんて、安室が優秀な喫茶店員なのか、店主が大らかなのか判断に迷うところだ。慣れた手つきでドリンクを作る姿はとても堂に入っている。さっき思ったことは両方とも事実なのかもしれないと、××は思った。すーっと安室から目を逸らし、コナンのつむじを見つめる。にっこりと笑う目元が悪魔のようだ。

 改めて××は思考にふける。なんだって、わざわざ××をここに連れてきたのだろう。外だと誰が聞いているかわからないから言わなかった。これはわかる。ついでに、事前に言われていたら××はなんとしても逃げていた。退路を断つつもりでなにも言わなかったのか?

 (でも、僕をあの人に会わせてなんのメリットがあるって? さすがに嫌がらせではないだろうけど……。)

 一、顔合わせ。ない。即座に切り捨てる。二、単純に親切心。それなら言う。聞かれて困ることではない。三、四と、何パターンか考えて、一番信憑性が高そうなものを思い浮かべる。

 今の××はその辺の一般人である。多少の腹芸や含みのあるやりとりはできるけれど、それは絶対に変わらない。ある種潔白だ。赤井が沖矢に扮している状態だったら、間違ってもコナンはここに連れてこないだろう。ということは、××だから連れてこられたというわけで。

 ……もしかしてと、××はそっと、眼鏡越しにコナンを盗み見た。窺うように見つめれば頷かれる。アイコンタクトだけで考えていることがわかるとはさすが名探偵。この子供の頭も大概だ。本当はオレンジジュースを好んで飲むわけでもないのだろう。ミルクや砂糖なしでアイスコーヒーをすすっている方が似合うと思う。

 おそらく彼の狙いは、赤井秀一と並列的に存在する沖矢昴を安室に印象づけることによる、沖矢昴=赤井秀一という式の崩壊だ。とにかく安室に沖矢昴≠赤井秀一であればいい。そういうことだろう。

 だったらなおさら事前に言ってくれと××は無音の悲鳴をあげた。心臓に悪いことこの上ない。なんの気構えもなしであの人の前に出てこなければならないのは、とても、怖いことだ。いくら××の沖矢昴への擬態が完璧だろうと、ああいう頭のいい人とどんな会話を交わしたかを全部記憶して、さらに頭のいい赤井に報告するのは骨が折れる。もし××が迂闊な真似をしたときに危機に陥るのは赤井やコナンなのだが、その辺りコナンはわかっているのだろうか。××の能力や性格を過信しすぎである。

 はあと小さくため息を吐いた。信用されていると言えば聞こえはいいが、無理難題を吹っ掛けるのは勘弁願いたい。眼鏡をかけたまま眉間を揉んでいると、安室が飲み物を運んできた。おや、と言わんばかりに眉を上げている。

 「お待たせしました。……あれ、お疲れですか?」

 「ああ、ありがとうございます。久しぶりに外に出たので、体力が落ちているかもしれませんね。情けないですが。」

 「昴さん、研究もいいけど外に出ないとダメだよ? ボク、心配になっちゃう。」

 きゃるっとコナンが丸い目で上目遣いをした。悔しいけどかわいい。すごく無害な子供みたい。普段の全然かわいこぶっていない姿を思い出すとものすごくわざとらしいけれども。コナンくんの演技力はどういった経緯で磨かれていったのだろう。いや、気になるけれど知りたくない。知ってしまうとまた深みにはまる気がする。

 そういうどうでもいい思考はおくびにも出さず、××はひょいと肩を竦める。

 「気分転換でコナンくんたちと遊んでいるでしょう。前ほど籠りきりではありませんよ、これでも。」

 「ええー、嘘だ~。」

 なんだ、この茶番。苦笑しつつ、前に置かれたコーヒーカップに手を伸ばす。××はすんとコーヒーの香りで鼻腔を満たした。嗅覚で楽しんだら、そっとカップを持ち上げ、口に傾ける。ぱちりとまばたきをしたい気持ちをどうにか抑え込む。ふっと緊張がほどけていった。

 口角がゆっくり上がっていく。リラックスしているらしい。安室はその様子をつぶさに観察していた。

 「おいしいですね……。」

 「本当ですか?」

 「はい。豆もここで挽いているんですか? それに、ドリップもお上手ですね。香りがとてもいい……。」

 「豆はマスターがこだわってますから。……その、ありがとうございます」

 ほう、と昴が吐息を漏らす。温和な印象を受ける目元がさらに緩んでいた。ぽっと安室の胸があったかくなる。

 コーヒーの淹れ方は、マスターや梓が研修の中で一番熱を入れていたところだ。誉められると素直に嬉しい。彼が本気で言っていると、指の先からまつげまで、自身の観察眼がしっかり伝えてくるから、ことさら信じられるのだ。自分の顔が緩むのがよくわかった。

 同時に、あのときは悪いことをしたなあと少し気が重くなる。どう見たってこの青年は一般人だ。軽くさらったところによると、長期間昏睡していた上に天涯孤独という、現代日本人にしてはなかなかしんどい経歴の持ち主でもある。いかにも怪しい男だった安室を「あなたの顔が切羽詰まっていたから」と家に上げ、その話を最後まで聞いてくれたのだから、元来優しい人なのだろう。加えて言うと、ちょっと天然なのかもしれない。少し心配になるくらいだ。安室が彼を心配する義理も理由も、本当はないのだけれど。でも、彼は愛すべき国民だ。降谷が守っている平和な現代日本で生きていて、国家公務員の降谷零が、守りたいと感じる、一市民だ。一番に優先するのは国家の存続だけれど、この国に生きる人を守りたいという気持ちだって、降谷は持ち合わせているのである。そうでもなければ国家公務員になんてなっていない。

 そっとその場を離れて、カウンターに戻る。コナンがちらりとこっちを見たあと、昴に話しかけた。

 「そういえば昴さん、今日はなにで出かけてたの? いつも全然外に出ないでしょ。」

 「だから出てますって。人を引きこもりみたいに……。」

 昴がもう、と額を小突いたと思ったら、コナンは首を竦めたあと、にやっといたずらっぽく笑った。この顔は絶対昴が言ったことを信じていない。

 「えー、間違ってないよね~?」

 そら来た。カップを磨きながら、安室はそっと耳をそばだてる。もしかして、沖矢さん、舐められているのだろうか。毛利探偵や蘭の前で見せるよりも、ずいぶんコナンが子供っぽいというか。いや、年相応というべきだった。安室は思い直す。彼は小学一年生、六歳から七歳のはずである。大人をからかって遊びたい盛りだろう。

 「まあそうですね~! 今日は買い物ですよ、食材が切れそうだったので。」

 「ふーん。中身、見てもいい?」

 実際、安室が子供のときはそうだった。容姿のことでからかわれては喧嘩を吹っ掛け、毎日大暴れ。今ほど口も達者ではなかったから、いつも生傷だらけで大人を困らせていた。扱いづらい子と嫌厭されたことも多々あったけれど、それでも優しく接してくれる人はいたし、その人の前にいる自分はことさら子供っぽかったように思う。口答えも言い訳もたくさんした。今となっては、思い出すたび、ちくりと胸の奥がうずくけれど。

 まだ平日の昼間だ、忙しいわけでもない。だからこそアルバイトの身分である自分が一人で店を任せられている。コーヒーの香り、食器を磨く音、ひそやかなおしゃべり。穏やかな時間が流れている。今だけは自分がただの喫茶店アルバイトになったような気持ちだ。降谷零でもバーボンでもなくて、ごく普通の青年、安室透だと感じる。少しの打算と計算を残しつつ、安室は肩から力を抜いた。ゆったりとした時間を感じながら、安室は彼らの会話に耳を傾けていた。

 「いいですけど、君の好奇心をくすぐるようなものはないんじゃないですか?」

 「気になったことは全部自分の目で確かめたいんだよね、ボク。」

 きらっとコナンの眼鏡が逆光で光る。自然、口から吐息が落ちた。これはなにを言っても引き下がらない。

 監視かな? そう思いつつ、観念して××は隣に置いていたエコバッグを手渡した。小さな手がファスナーを開き、手を突っ込む。しげしげと食べ物を取り出しては観察しているさまはなんだか不思議だ。七歳で男の子なら、台所に立ったこともないだろうし、野菜や肉が調理されていく様子も間近で見たことはないのではなかろうか。台所には火、包丁など危険がいっぱいだ。蘭も小五郎もこの小さな男の子を近づけるまい。

 コナンはもの珍しげに××の戦利品を見ていた。本当に食べ物しかない。そんなことを思っていそうな顔をしている。くすりと××は小さく笑った。

 「料理ってリセットできるんですよ。」

 「リセット?」

 きょとんとコナンが目を瞬かせる。あ、こういう顔だったら年相応だな。そうひとりごちた。

 「はい。気分転換というか、無心に手を動かしているとすっきりするんです。人によってはパッチワークとか読書とかがそれに相当するのかな。料理をして、おいしくできると気分がよくなって、おなかを満たすとちょっと元気になるんですよ。ちなみにそのバターは今度クッキーにします。コナンくんも食べてくれますか?」

 「いいよー!」

 安室の耳が空を飛べる象のように大きくなった、気がした。

 (わかる……。)

 一方で安室は打ち震えていた。わかる。とてもよくわかる。

 安室透にとって、降谷零にとって料理とは精神安定の儀式である。食べたいから作ると言うより作りたいから作る。そして、その欲求を満たすために切る、焼く、煮るなどの工程を経て作品とも言える料理を作り上げるわけだが、それには目に見える成果というものがある。仕事に詰まっているとき、無性にイライラしているとき。料理というものは、単純作業から来る成功体験を与えてくれるのだ。ついでに腹も膨らむし、自分好みの味で舌も満足するうえ、自炊は外食よりよほど安く済む。

 パンチングマシーンを殴るようにうどんをこね、切れないカボチャを駐車場に叩きつけ、ごまをすり潰すわけだ。あと延々インゲンの筋を取ったりとか。作ったものは基本的に無駄にならない。全部安室の胃袋に収まり、肉体に吸収される。潜入中はものを食べることにも神経を使う。当然人の作った料理さえ食べるのをためらう。どこに異物が混入しているかわかったものではないからだ。そのため、家で食べる自分で作った食事というものは、安室にとってオアシスのようなものだった。

 沖矢の言うものは、彼がよほどの潔癖症でない限りは安室ほど深刻なものではないだろう。しかし、二十九歳の成人男性として、自炊、調理に重きを置く人物というものは……とても……お近づきになりたい人だった……。年上の部下たちは大半が結婚している。上司は言わずもがな。一人で食べる食事ってさみしくないですか? 宴会のときに聞いた言葉がエコーする。うるさい安心して食べられるのが自分で作った食事だけなんだよ。勝手にさみしいやつと決めつけられたことにムカついて、内心荒れ狂いながらそれを言った相手を酔い潰したことが今でも思い出せる。

 どこの野菜が安いとか、あそこの肉はおいしいとか、調理器具のブランドとか。そういう、語るには人を選ぶけれどなんてことのない会話をしてみたかった。ついでに得意料理のレシピを教えてほしい。どうせ食べるならおいしいものがいい。安室の舌と胃袋は欲望に忠実である。ごくりと喉が動いた。

 あのときの会話内容からして、頭が回る人は確かなのだし、多少の興味もある。今の会話からして趣味も合いそうだ。近所に住んでいるのならかかわりがあっても問題ないだろうし? 街の人のうわさ話というものは意外に侮れなかったりするし? 理論武装完了。言い訳は万全。

 似たような世代の一般男性とはしばらく交流していない。自分と同じレベルで会話できる相手に飢えている節もある。まだ沖矢昴が赤井秀一であるという疑いは捨てきってない、でも。「安室透」のオトモダチとして、彼は優良物件なのではないか? いくらかの打算を含みながら、安室は優しげに笑った。そして、「サービスです。」と、こっそりコーヒーのお代わりを注いだのである。

 「その話、僕も詳しく聞きたいですね。」

 わざとらしく小首をかしげながら、笑顔でそう添えてみると、沖矢の笑顔が一瞬固まった。おや、と心の中で眉を上げる。すぐに「あっはい。」と返事が返ってきたが、安室の観察眼は一瞬のこわばりを見逃さなかった。……怖がられている? いやそんなまさか。「安室透」はいつも笑顔で、優しくて、人に囲まれているというキャラクター設定である。そういう、得体の知れないものを見るようなリアクションは心外かつ予想外だった。めらっとなにかが安室の心に火をつけた。それは反抗心かもしれないし、負けず嫌いが燃え上がった印かもしれない。とにかく、さっきの反応が気に食わなかったのである。

 ぐっと安室は拳を握りしめた。絶対にこいつと仲良くなってやる。あわよくば顔を引っ張ってやる、ハイネックをめくってやると誓った。それで赤井秀一じゃなければ、普通にオトモダチになってしまえばいいだけなのだ。なんとしてでもその警戒心を突き崩して陥落させてみせる、と安室の野心はめらめら燃えていた。

 (……失敗した!! いや僕はなにも悪くないないけれど失敗した……!!)

 今にも頭を抱えたい気持ちだった。ここでやっては今までの苦労が水の泡、台無しになってしまうからかろうじて耐えているだけで。沖矢昴の下の××の心はもう、涙、涙である。ちょっとだけ目頭が熱いような気もするけれど眼鏡を拭き直す素振りでごまかした。

 コナンが上機嫌でオレンジジュースを飲んでいる。彼の目的は達成されたが、××の首は別の意味で絞まった。親しくなったらなったで、彼と頻繁に会うことになる。つまり、気を緩められる時間が減る。外に出る頻度も上がるだろう。できるだけ安全な家の中にいたい××としてはなかなかに悩ましい。何度目かになるため息をぐっとこらえ、おいしいコーヒーをもう一度飲んだ。疲労はしっかりと胃に居座っている。

 「僕も安室さんのことが気になっていたんです。もっと知りたいな……まずはこのコーヒーの淹れ方や、おいしいと評判のハムサンドのことを。」

 けれど嘘つきなこの口は、いけしゃあしゃあと言葉を吐くのである。ああーと××は内心で嘆息しつつか細い悲鳴をあげた。

 

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