【完結済み】沖矢×× 作:鈴近
時は凍っている。××はその中で、ただ、じっと待っている。
デウスエクスマキナが願ったか、名探偵がいまだ真実……あるいは真理をつかみきれずにいるからか。カレンダーの年数は進むことはなく、けれど季節は繰り返し変わっていく。
今は何度目の春だろう。彼らは何度目のキャンプに、海に、スキーに行くのだろう。子供たちの保護者をやるときはだいたい赤井が沖矢に扮して出ていくので、彼らと出かけたのは二割をいくかいかないかくらいだ。寂しいと思うことはない。下手な影響を与えて、知らないところにさざ波を起こすことの方がよほど怖い。
関係や状況は、緩やかに、よどむことなく流れ続けている。それでも、時は凍っているのだ。
どこかで蝶が羽を動かしている。そよ風が嵐の前触れになる。××は、それにそっと耳を澄ませて、待っている。「いつか」が来ることを。圧縮された一年が変わることを。彼らと自分が年を重ねていく未来を、待っているのだ。
できることなど限られていた。だからできることしかしなかった。××には命以外なにもない。本当のことなんて少しも持っていない。嘘と虚像と影だけ。築いた関係だって希薄だ。いくら、にいさんと呼んだって、本当のきょうだいにはなれない。近所のお兄さんにだってなれているかどうか。
××と昴は混同される。彼らの記憶にいる××も、××ではなく昴であるし、いつひとかけらだけ残っている××が残らず飲み込まれてしまってもおかしくなかった。元がひとつだったから。割り込んできたのは彼だったが、優先されるのも、また、彼なのだ。
すべてはただのごっこ遊び。だから「兄弟ごっこをしよう」と言った。そこに他意などない。ただ、あの、××よりも深く、深海を閉じ込めたような、不敵に輝く青い目が「ほんとうのこと」を見抜いてくれるのを、どこかで期待していたのだろう。
「すばるさん。」
視線の近くなった「彼」が、××の――昴の手を握って、微笑んでいる。彼の声帯が昴の名前を呼んでいる。
唇が震えた。唇だけではない、胸も、喉も、指先すら、すべてが震えている。認識されたことへの歓喜だったり、もう一年を繰り返さなくてもいいのだという安堵だったり、彼が本来の姿を取り戻したのだろうという、漠然とした確信。それらが混ざりに混ざって震えに変わる。わかるのは、これが悪いものではなくて、喜びだということくらい。
「やっとあなたの名前を呼べました。」
彼のあおい瞳を覆っていたレンズはもうない。ふっくらと丸みを帯びていた頬は、思春期らしく、しゅっと子供から青年へと変化を遂げている。柔らかいばかりだった手のひらも、大きく、骨ばってきていた。声だって、あの高いボーイソプラノではない。声変わりを終えた男の声だ。でも、いたずらっぽく細められる丸い目も、形のいい頭も、にやりと持ち上げられる口角でさえ。彼なのだなと気づかされる。
幕切れは、いつだって、唐突だ。
視界がかすかに潤み、景色は滲む。彼の顔がほんの少しだけぼやけた。××は眼鏡を外して、レンズを拭く。もう一度それをかけ直したとき、彼は柔らかくはにかんでいた。
「ありがとう、コナンくん。また会えて嬉しいよ。」
「ばれてたか……。でも、もう、コナンじゃないですって。改めまして、工藤新一です。初めまして。」
「はは、そうでしたね。初めまして。沖矢昴です。」
「知ってますよ。」
「それはどうかな……。」
くす。眼鏡の奥で開かれた目は、すぐに細められた。けれど、その目は確かにぱっちりとしていて、青くて、少しだけ緑の光が混ざっている。
新一は目ざとくそれに気づいて、ぱちりと、瞬きをひとつ。気のせいだったかもしれない。そう思うけれど、きっと、気のせいではないのだろうと考えを改める。そして気づくと確かめたくなるのが、探るのが大好きな探偵のさがである。玄関先にとどまったまま、新一は言った。
「昴さん、もう一回、目、開けて。」
きょとんと、ぱちぱち瞬きをした彼の目は、やはり、前と少しだけ違っていた。そこに新一はつながりを見た。この世にはよくわからないことだってある。自分が毒薬によって幼児化したこと、解毒薬で元に戻ったことを含めて。
それでいいのだと思えるくらいには、新一もあの頃のままではいられなかったのだ。みんな少しずつ変わっていく。それは決して悪いことではない。が。
「しかし、家主が帰ってきたということは、僕もそろそろ新居を探さなきゃいけませんね。」
「えっ。」
新一は目を剥いた。久しぶりの我が家は少しもよそよそしくなく、しかし新一がもてなされる側である。コナンのときはいつものことだったが、今となってはやや落ち着かないくらいだ。いつか安室に習ったのだというハンドドリップのコーヒーはとてもおいしかった。
だが、昴の呟きでカップを取り落としそうになったのだから、冗談ならやめてほしい。その意を込めてじっと彼の細目を見つめると、狙っているのかというくらい自然に首を傾げられた。
「『えっ』て、なんですか? そんなに変なことを言いました?」
聞き間違いじゃなかった。今度こそ新一は顔を覆った。そういえばこの人は一応、本当に一応、居候の身分であった。何年も住んでいるような貫禄があるし、近所にだって馴染んでいる。一年未満の付き合いだが、あまりにもなじんでいたせいで、昴が本来ここにいるような人間ではないことを失念していた。つまり、いなくなることをすっかり忘れていたのである。うめくような声が喉から出てきた。
「あ、ああー、そっか、一応オレの留守中に家を貸してるって名目だったっけ……。別にいてもいいのに。」
「いやいや、いつまでも居候をするわけには。」
本音である。本音なのだが、彼は社交辞令だと思っているようだった。いやいやと言いながら手を横に振っている。新一の目がじっとりと水平になる。あれ? と昴が思う頃には、その顔はにっこりと優しさすらにじむ笑顔になっていたけれども。人、それをイイ笑顔と言う。新一の舌は高速回転を始めた。言いくるめる態勢は万全である。
「目の届かないところに行かれる方が不安なんですよ。昴さん警戒心ないから危なっかしいし。」
「えっ。」
「勝手に引っ越されて探しに行くのも手間ですし。わかりますか? 居候が嫌だって言うならハウスキーパーとして雇いますから。父さんも母さんも昴さんのこと気に入ってるから大丈夫。オレもコナンの頃の居候生活に慣れ過ぎちゃって、今さら一人暮らしできるかなーって感じだし。それとも、高校生が四苦八苦しながら家の掃除して、外食続きになっても心配じゃないんですか、昴さんは。ひどいなあ。」
「えっと……はあ……。まず、僕を人でなしみたいに言わないでほしいです……。」
「じゃあ、ここにとどまってくれますよね! 少年探偵団のやつらも急にいろんな人が街から出ていったら悲しむだろうし! コナンも転校しちゃって、安室さんもポアロ辞めて、昴さんまでいなくなったら悲しむだろうなあ!! オレも知ってる人が近くにいてくれた方が心強いし!!」
ここまで来たら、もう袋小路まで追い詰められていることに嫌でも気づかされる。ウッと昴は言葉に詰まった。
イエスオアはい。選択肢はひとつっきり。にっこり細められる目には、どうしたって勝てない。本能レベルで降伏だ。昴にはもう首を縦に振る以外の行為は許されていないのである。
ふう、と肩を竦め、たっぷり反抗の沈黙を示してから、彼はこっくり頷いた。もうどうしようもない。全面降伏、白旗の嵐。
後日、詳しくは守秘義務があるから離せないが、と前置いて。彼は自身がとある犯罪組織によって身体を小さくされ、元に戻るためにその組織を追っていたのだと、大変ざっくりとした説明をした。ある種告白とも取れる。新一は緊張した面持ちで話をしていたけれども、昴はそれをあっさり受け止めた。あまりのあっさり具合に、ドキドキしながら打ち明けた新一の方が拍子抜けするくらいだ。彼が受け止めてくれたことに安心したのは本当なのだけれど。
ソファーに寄り掛かって、なんてことのないように夕飯を作っている昴を、ぼうっと見やる。
「信じてくれると思ってたけど、いざ信じられるとなんか、落ち着かねーなあ。」
くすりと、ダイニングで昴が笑うのがわかった。
「おや、勝手ですねえ。」
「だって、ねえ? なんでそんなに簡単に信じてくれたんです? 知りたいなあ。」
「はいはい。……コナンくんも新一くんも、親戚で済ませるには似すぎているんですよ。顔立ち、髪の癖、群を抜いた着眼と推理力。加えて、有希子さんもときどき名前を言いよどんでいましたから。ほら、『新……コナンくん』って。」
「母さん……。」
「ふふ、思い返すと、ほんの少しうかつだったかもしれませんね。気づく人は気づいていたんじゃないですか? あの人とか、安室さんとか、あと世良さんも。君の周りは探偵だったり、鋭い人がとても多いですし。」
「あー……赤井さんにはばれてたな……。全部終わってから話そうと思ってたから、ずっとごまかしてたけど。安室さんもうすうす? まあ、あっちはリアリストだから人が縮むなんてありえないーって考慮から抜いてくれたみたいだけど。それにしてもあの人たち、反則級に鋭くってよー。何回ひやひやさせられたことか。」
「鋭くないとやっていられないお仕事なんでしょう。僕もそのせいでここに閉じ込められていたようなものですから。」
「昴さん。」
咎めるように言うと、彼は肩を竦める。
「別に恨んでいるわけではないんですが……。むしろ利用させてもらいましたね。事件の頻発するこの街ではとても平和な生活でした。」
「ハハ……。」
そう言われると新一はぐうの音も出ない。渦中にいた自覚がある。
「でも、あの人たち、本職はなんなんでしょうね。スパイかな。」
「……ん? 聞いてないんですか?」
「ええ。さんざん言っていたでしょう、余計なことは話さないでくれって。だから僕からはなにも聞いていません。安室さんとはお友達ですが、他の顔があったところで知ったことではありませんし。それは彼だって求めていなかったでしょう。あの人のことも、本当は名前や素顔も知らないままでいたかったんですけど。」
ははと乾いた笑みを漏らしながらも、徹底してるなァ、と新一はもはや呆れた心地だ。知りたがりの自分とはまったく違う。どっちが悪いとか、いいとか、そういう話ではない。スタンスの違いだ。昴は無知であることで自分を守っていたのである。なにもかもを知りたがって、無鉄砲に首を突っ込んでいった果てに痛い目を見た自分とは正反対だ。
「あ、でも、僕のにいさんはもうどこにもいないんですね。それはちょっと寂しいかもしれません。お友達の安室さんも、ポアロを辞めてどこかに行ってしまったし」
寂しそうどころか、刺々しさすら感じる言いぶりだ。すっとぼけているようにも聞こえる。素直にそう言うと、彼はごぼうのささがきをぴたっと止めて、ふっと笑った。
「だって中の人たちは生きてるんでしょう、名探偵。」
「……中の人かー……。」
「他にも言い方ありました? 僕の平凡な脳みそじゃ出てきません。さ、仕込みも終わりましたし、出来上がったら呼びますよ。今日は炊き込みご飯です。」
その「中の人」が、またこの家にやってくると言ったら、彼はどんな顔をするのだろう。驚く? 喜ぶ? 面倒そうに眉間をぎゅっと寄せる? どれもやりそうで判断が難しい。人間の感情は複雑怪奇で、名探偵にだってやすやすと解き明かせないのだ。それに、昴が彼のことをどう思っているのかはいまいちわからないままである。決して嫌ってはいないだろうけれども、好きかと言われても首をひねる感じだ。本人もよくわかっていないかもしれない。それもそうか、「沖矢××」の兄だったのは「沖矢昴」で、赤井秀一ではないのだから。もう一度ソファーにもたれかかり、新一は天井を数秒見つめた。
起き上がってから、昴に声をかける。とりあえず、近いうちに来客があるとだけ伝えた。泊まりだからベッドを整えて、食事の面倒も見てやってくれと雇い主らしいことをつらつら並べていく。新一は休学中の遅れを取り戻さなければならないので、日中はろくにもてなすこともできないだろう。それを昴もわかっている。だから、「わかりました。」と彼は頷いた。
キンコンとチャイムが鳴る。はいはいと、エプロンで手を拭きながら彼はドアを開けた。いつも通り、年がら年中黒いニット帽をかぶった長身の男が、たばこをくわえて立っている。髪は少し伸びたかもしれない。彼はじっと昴を見ていた。
ぱちり。瞬きを数回。
昴は片眉をひょいと持ち上げて、きょろきょろ彼の後ろを見回した。大きなバッグを背負っている彼一人っきりだ。
「客ってあなたですか。」
「ボウヤから聞いてないのか?」
「聞く必要もないかと思って。」
「君はいつもそうだな。」
「それでいいって思っているくせに。いらっしゃい? おかえりなさい? どっちでしょう。」
「……ただいま、昴。」
「はい、おかえりなさい。」
昴は笑った。赤井も薄く微笑んだ。
僕はドアをくぐった。この家にはあの人がいる。ずっと会いたかった人。鏡に映った虚像。霞のようにつかみどころのない、優しそうなくせにうさんくさい笑顔を浮かべている、彼が。ぱたぱたと玄関を抜けて、リビングへ。家の扉はすべて僕を拒むことはない。すんなりと迎え入れられる。
さて、お目当ての人物は。
僕は顔を上げた。しかし、おかしなことに部屋はしんとしている。誰もいない。どこへ行ったのだろう? 僕はきょろきょろ家の中を見回しながら、別の部屋へ足を向けた。
いた。そう思う頃には、僕はふうふうと息を荒げていた。くるりとこちらを向いた彼が、「探させてしまったかな。」と微笑む。相変わらず、柔らかくて、感情が読めない笑顔だ。「まったくだよ。」と僕は首を竦め、一歩ずつ彼に近づいていく。
「ただいま、すばる。」
「おかえり、すばる。」
そして僕たちは抱き合う。境界がなくなるくらい、ぎゅうっと互いの身体を引き寄せる。そのうち、本当に僕らの輪郭はあやふやになって、溶けていった。彼が僕の中に流れ込んでくる。それをじっと感じていた。おなかのあたりがふわふわあったかい。僕は、目を細めてうっとりとその熱に触れる。
ひとりだったふたりは、また、ひとりになる。分かれたふたつがひとつに戻る。昴は優しく腹を撫でた。
「これで元のひとりよ。」
これにて閉幕。お付き合いいただきありがとうございました。