この空で、ただ一つだけ
もし私がこの空の世界を持っていたら、この空を全部あげちゃいたい。
そのくらい、あなたが好き。
「って、さっき読んだ本に出てくる女の子が、そんなこと言っててさ」
「何の話だいきなり」
小型の騎空艇。その甲板に設置された小さな操舵室。
やや狭いその部屋で舵を握るバザラガに、地べたに直接あぐらをかきながら、ゼタが声をかける。
「交代の時間を誤魔化そうとしても、そうはいかんぞ」
「わかってるわよ。あと15分くらいでしょ」
「12分と28秒だ」
「細かっ」
騎空艇を動かす程度の技術なら、この二人も『組織』の任務に必要なため持ち合わせている。
その腕は本職の操舵士ほどではないが、素人レベルのそれでもない。
「細かい男はモテないわよ」
「余計なお世話だ」
「まあいいわ。そんなことより」
と、ゼタが話を戻す。
「さっきまでさ。前に、ルリアちゃんに借りた小説読んでたのよ。暇だから」
「個室で何をしているのかと思えば、悠長に読書などしていたのか」
「いいじゃん。で、それに出てくる女の子がそんなこと言っちゃうのよ。この空全部あげちゃいたいくらいあなたが好き、って」
「だからなんだ」
「素敵なセリフだと、思わない?」
「知らん」
本当に知ったことではない。
と言わんばかりに、ゼタの方を見向きもせずに舵を微調整するバザラガ。
「ちょっと、ちゃんと聞きなさいよ」
むっとしながら、ゼタは座ったままバザラガの近くまでにじり寄ったかと思うと、
――ごんごん。
と、足の裏でバザラガの足を小突き始める。
彼の足は太腿の下半分の辺りまで甲冑で包まれており、またそうでなくとも彼の体は痛みを感じないのだが、
「やめろ、手元が狂う」
急な衝撃で一瞬舵を握る手が滑り、騎空艇が僅かにバランスを崩す。
すぐに体勢を立て直すも、
「じゃあちゃんと聞いてよ」
なおもごんごんとバザラガの足を小突くゼタ。
そして小突かれるたび、騎空艇がバランスを崩す。
「わかった、わかったからやめろ」
たまらずバザラガがそう言い、
「よろしい」
と、小突くのをやめるゼタ。
「危険な事をする。空の底に行くつもりかお前は」
艇のバランスを元に戻しながら、バザラガ。
「人の言う事を流そうとすんのが悪いんでしょ」
「……恐ろしい女だ」
「ふん」
「……ふぅ」
と、鎧兜越しのうんざりしたようなため息が、操舵室に響く。
「で、なんだ?どこぞの小説の、口にだすのも憚られるような告白の台詞が印象に残った、と?」
「そう」
「何の恋愛小説か知らんが、そんな話を俺に振られても困る。ベアトリクスにでも言ったらどうだ」
「あの子にこういう話はわかんない気がするのよねぇ……」
「なら、イルザはどうだ」
「あの人にこんな恋バナなんてしたら泣いちゃうって」
「なら……」
ユーステスは、とバザラガは言おうとしたが、やめた。
考えるまでもなく、彼がこんな話に付き合うわけがない。
「ていうか、そもそも今ここにはあたしとアンタしかいないじゃない」
とある任務の目的地に向かう、小型の騎空艇。
乗員はこの二人のみであり、追加で増える予定もない。
「だからと言って、俺に言わなくてもいいだろう」
「いいからいいから。ちょっとだけ、乙女の話を聞いてよ」
言いながら、ゼタは地べたに座った体勢から、両手を枕にし、地べたに仰向けに寝転ぶ体勢になる。
「乙女がする格好ではないな」
横目でちらりとその様を見ながら、バザラガが冷徹に言う。
「うっさい。……あのさ」
少し、ゼタが神妙な声を出す。
「ほんとに、素敵だと思わない?」
「なにがだ?」
「言ったでしょ。あたしがさっき読んだ、ルリアちゃんから借りた小説の……」
もし私がこの空の世界を持っていたら、この空を全部あげちゃいたい。
そのくらい、あなたが好き。
「恥ずかしい台詞だ」
バザラガが率直な感想を言う。
「そうね。あたしもそう思う」
特に怒るでもなく、ゼタもバザラガに同意する。
「見た時、ちょっと笑っちゃったし。こんな事言う人ほんとにいるんだ、って」
「小説の話だろう?なら、本当の事ではない」
「わかってるわよ。でもさ、これを書いた人は、この言葉を信じて、あの子にこの台詞を言わせたんでしょ?」
「あの子とやらがどの子を指すのか、読んでいない俺にはわからんが。……ふむ」
「なら、少なくともその書いた人にとっては、この言葉は本当なんじゃない?って思うんだけど」
その小説の物語は本当じゃなくても。
と、付け足すゼタ。
「虚構の中に真実がある……か」
バザラガは感心した様子で、
「成程、中々面白いことを言うじゃないか」
「ふふん。でしょ?」
仰向けで、両手を枕にしたまま、ゼタが得意げに鼻を鳴らす。
そして、
「まぁ、でもさ。やっぱりおかしいよねぇ」
と、おかしそうに笑いながら、
「そもそもこの空を持ってたらって前提がまずおかしいし、それをあげちゃうってのもよくわからないし。そしてあげたからって、それがなんの証明になるの?って感じだし……」
そこまで一息に言って、
「でも」
ふ、とゼタが目を細める。
「いいなぁ、って思った」
狭い操舵室の天井を見ながら、
「あたしはこんな事、絶対言えないから」
まるで独り言でもつぶやいているようだった。
「あたしをどうひっくり返しても、どう叩いても、こんなお馬鹿で幸せそうな言葉は、絶対出てこないから」
「……」
小型の騎空艇。
それが静かに風を切る音だけが、しばらくその場に流れた。
「ゼタ」
鎧兜越しに、くぐもった声が響く。
「……ん?」
「言ってみたいのか?」
と、バザラガが舵を握りながら問う。
「んー……」
曖昧な相槌を打つゼタ。
「お前は、今の恥ずかしい台詞をただ言ってみたいだけなのか?」
「……そんなんじゃないわ」
「何故だ?」
「何故って、相手もいないのにこんなん言ってたらただの危ない人でしょ」
「では相手がいたとしたら、お前は同じ台詞を言うのか?」
「……」
少し間があり、やがて、ふ、と寂しそうなため息をつくゼタ。
「さっき言ったでしょ。こんな言葉、何があってもあたしからは絶対出てこないって」
「なら、お前は何故さっきからそんな物憂げな顔をしているんだ?」
「……」
「聞け、ゼタ」
と、バザラガ。
「言葉など、意思を伝達する手段でしかない。そしてどんな言葉を使って意思を伝達するかという手段は、人の心によって違う」
前方から目をそらさず、淡々とバザラガが言う。
「他人の手段をいくら追いかけ求めても、そこに自分の心がなければ、ただ虚しいだけだ」
「ん……」
「件の少女には少女の、その小説の書き手には書き手の、そしてお前にはお前の、心と言葉がある」
それでいいのではないか?
と、やはり前方から目を切らずに、バザラガが言う。
「……だよね」
ぼんやりと、ゼタは天井を眺める。
「わかってるけどさ」
物憂げな表情は、その顔に張り付いたままである。
「虚構の中に真実がある。確かに一理あるが、あくまでも虚構は虚構だ。何をそこまで囚われている?」
お前らしくもない。
と、バザラガ。
「それは、多分ね」
ぼう、と仰向けに寝転がったままのゼタ。
「憧れちゃったんだよ」
自分には行くことができない。
自分はそこには行けない。
それはわかっているのに、何故か惹かれてしまい、そして頭から離れない。
そんな虚構の真実を、不意に突きつけられてしまった。
だからたかだか小説の、それも夢のような台詞を、ここまで気にしてしまっているのだろう。
「ただ、それだけだと思うんだけどね……」
「それだけだと思うのなら、それ以上の思考は不要だ」
「複雑な乙女心ってやつがあんのよ」
ふぅ、とため息を付くゼタ。
ごろり、と寝転がった姿勢を横にする。
(あの本、ルリアちゃんに返す時、顔に出さないようにしないとな……)
ぼんやりと、そんな事を考えていると、
「乙女か。そんなもの、ここにはいない」
と、低くくぐもった声が響く。
「ふん」
失礼な奴、とゼタはバザラガから顔を背ける。
(何よ、人が真剣に話してたのに)
そう思っていると、
「乙女はここにはいないが」
がちゃ、と鎧がこすれて金属音を立てる。
「『女』なら、ここにいる」
いつのまにか、艇が滞空状態になっている。
「え……?」
そしていつのまにか、バザラガが舵から手を離している。
そして、すぐ近くにいる。
「お前が憧れたのは『乙女』の言葉だ。『女』のお前には似つかわしくない」
「いや、ちょ」
慌てて上体を起こすゼタ。
そのゼタの顔をじっと覗き込むように、バザラガが膝を付き、同じ目線に立つ。
「憧れるのはいい。だが手の届かない世界を必要以上に想うのは、ただの妄想だ」
「バ、バザラガ?」
顔が、近い。
かつてこの男にこんな風に接近されたことがあっただろうか。
「妄想の先に、希望はない。お前は、お前自身の言葉を使え」
「え、あ」
心臓が高鳴る。
代わり映えのしないはずの鎧兜と低い声が、いつもと違うそれに感じる。
「ゼタ……」
「え、な、あの」
ごく、と生唾を飲み込むゼタ。
バザラガは、静かに、
「交代だ」
くい、と親指で後方の舵を指さした。
「……は?」
「だから、時間だ。早くしろ」
「いや、なにが?」
「12分と28秒。もうとっくに過ぎている」
「あー……」
ぼんやりと手近の槍を持って立ち上がるゼタ。
「そっかそっか」
そのまま、ゆっくりと舵の元へと歩く。
「いやー、そうだったそうだった。もうそんな時間かぁ」
「やはり忘れていたか」
仕方のない奴だ。
と、穏やかな口調で言うバザラガ。
「あはは。ごめんねー。何時間交代だっけ?」
明るい口調で、槍を持ちながらバザラガの方を向くゼタ。
「2時間だ」
「あーそうそう。そうだったわー」
てへ、と可愛い仕草で自分の頭をこつん、と槍を持っていない方の手でつつくゼタ。
「全く。では、俺は少し休ませてもらうぞ」
微笑しながらゼタに背中を向け、操舵室のドアノブを掴むバザラガ。
「うん、おやすみー」
ゼタはバザラガが完全に背中を向けたのを確認すると、
「アルベスの槍!」
待ち構えていたように、その背中をドアごと貫かんとせんばかりに、真紅の一閃が飛ぶ。
「……」
そしてそれを待ち構えていたように、素早くドアを開いて隠れ、その一閃を空に逃がすバザラガ。
「ちぃっ!」
舌打ちをしながら、勢いのまま操舵室から甲板に転がり出るゼタ。
「おい、この騎空艇は『組織』からの借り物だ。ドア一つ壊してもタダではすまんぞ」
そして、それを冷静に追いかけるバザラガ。
「うっさい!女心を踏みにじりやがって!」
「何の話だ」
「急に近くに来て、女ならここにいるとか、変なこと言って!紛らわしいのよ!」
「勝手に勘違いしたのはお前だろう」
「うっさいうっさい!」
顔を真っ赤にして怒るゼタ。
そんな怒り心頭の彼女の脳内に、ふと例の台詞が頭に浮かんだ。
もし私がこの空の世界を持っていたら、この空を全部あげちゃいたい。
そのくらい、あなたが好き。
(幸せものよねぇ!)
と、ゼタは思う。
やはり、自分からはこんな脳天気な台詞は絶対に出ない。
自分はあの少女ともあの小説の書き手とも違うのである。
だが、もしも。
自分が似たような台詞を言うとしたら。
もしあたしがこの空の世界を持っていたら、
「とりあえずこの空全部使って、アンタのことぶっ潰してやる!」
アルベスの槍を構え、高らかにゼタはそう叫んだ。
その瞳に、憂いも迷いもない。
芯から信ずる言葉の、魂の発露だった。
「そうか」
その勇ましい姿を見たバザラガは、ふ、と静かに笑った。
「何笑ってんのよ!」
「いや、すまん」
言いながら、なおもバザラガの笑みは止まない。
「それは楽しみだ、と思ってな」
「はぁ!?」
それは、かつての彼からすれば考えられない、心底楽しそうな笑いであった。